高木盛之輔
高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、1854年(安政1年) - 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の武士、検察官。会津藩 藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ[1] [* 1] 。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である[2] 。
生涯
[編集 ]戊辰戦争・西南戦争
[編集 ]会津藩高士、家禄300石の高木家に生まれる。高木家は藩大目付を務める家柄であった。会津戦争の当初は伝令を務め、松平容保、定敬兄弟が出陣していた滝沢本陣に危急を報告した[3] 。その後年少者で組織された護衛隊[* 2] に属して篭城戦を戦った。藩降伏後は猪苗代で謹慎生活を送る。この際軍事方水島純の命で同年輩の山川健次郎、赤羽四郎、柴四朗ら五人で謹慎所を脱出し、若松で土佐藩の伴中吉[* 3] に主君容保、喜徳父子への寛大な措置を嘆願した。処刑もあり得ることを覚悟の上の行動であった[4] 。その後東京へ赴き、西南戦争では山川浩 陸軍 中佐の元で転戦する。戦の最中
嗚呼足れり 深き恨みは はるゝよの 月影清し 苅萱の関
と詠んだ[5] 。
その後
[編集 ]戦後は各地の地方裁判所で検察官として勤務し、1911年(明治44年)に検事正で退官する。勤務の傍ら郷里に中学校(旧制)を創設すべく私財を提供し、また会津地方の各地でその必要性を訴え[5] 、私立会津中学の開校に結実する。明治の末年には加藤寛六郎と共に見禰山義会の結成を主導[6] し、加藤と共に『正之公政教要録』を校閲している。1913年(大正2年)には会津藩戦死者が埋葬された阿弥陀寺の整備に資金を提供した[7] 。
著述に山川浩の伝記『櫻山集』、戊辰戦争時に自刃した伯母沼澤道子[* 4] の伝記『沼澤道子傳』、『佐川官兵衛父子傳』のほか、戊辰戦争の体験記である『会津籠城中 護衛隊記』がある[5] 。会津会会員[5] 。墓所は会津若松の善龍寺 [5] 。
関連作品
[編集 ]- テレビドラマ
脚注
[編集 ]- 注釈
- ^ 斎藤は高嶺秀夫の斡旋で東京高等師範学校に勤務したが、その仲介をしたのが高木であった(『新選組・斎藤一の謎』129-130頁)
- ^ 隊員の一人に池上三郎がいた。
- ^ 伴は水島純と旧知の間柄であった。
- ^ 会津藩重臣沼澤家(1000石)に嫁ぐ。沼澤家は蘆名氏時代からの会津地方の豪族であり、伊達政宗の会津攻めによって衰退したが、保科正之が召し出した。当主は代々出雲を名乗る。道子は87歳の高齢であった姑らと入城を図ったが叶わず、侍女らを退去させたのち沼澤家の女子四人で自決した(会津殉節婦人の事蹟)。
- 出典
- ^ 『新選組・斎藤一の謎』14-15頁
- ^ "福島県立会津高等学校 学校案内". 2014年2月26日閲覧。
- ^ 平石弁蔵『会津戊辰戦争』173頁
- ^ 花見朔巳編『男爵山川先生伝』35-37頁
- ^ a b c d e 「会津会会報第十四号 高木盛之輔氏の逝去」
- ^ 相田泰三『保科正之公傳』(保科正之公三百年祭奉賛会)286頁
- ^ 『新選組・斎藤一の謎』161頁