1933(昭和8)年 夜更けに帰寮
生 活
■しかく習学寮
1889(明治22)年11月、教室本館の北側に南北2寮で開設した。当初全寮制度が目指されたが、1901(明治34)年度から1年生が入寮することになった。1913(大正2)年の伝染病流行により一時寮が閉鎖され、取り壊されたが、1915(大正4)年に新築され、再開した。
習学寮では、生徒による自治が行われており、惣代・委員には2・3年生が残寮し、運営にあたった。炊事記念日・阿蘇登山、球磨川下り、金峰山登山などの行事が行われた。
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寮生誓詞1935(昭和10)年
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■しかく部活動
龍南会」は、第五高等学校の校友会の名称。1891(明治24)年11月3日に発足した。 「龍南」は龍田山の南という意味で、生徒の相談を受けた秋月胤永教授が名付けた。文化・体育関係の各部を統轄し、運営は生徒の自治で行われていた。毎年、総務委員が選挙で選ばれ、予算の分配・運営、五高七高対抗戦・文科理科対抗ボートレースなどを主催した。
生徒はこの諸活動を通して自由に自主的に教養と訓練を積み、自己の意志に基づいて人間形成を行った。高等学校や帝国大学の部活動は、早くから野球・テニス・ボート等の欧米のスポーツや文芸・音楽等の新しい文化を紹介し、当時の日本が欧米の文化をとりいれる役割を果たしている。
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1924(大正13)年 ボートレース
■しかく龍南会雑誌
『龍南会雑誌』(後に『龍南』)は1891(明治24)年11月26日に創刊され、1948(昭和23)年3月25日の最終号まで255号を発行した。 教員や生徒・卒業生が寄稿・投稿した論文・小説・俳句・和歌・漢文等、思想研究・文芸創作など、多彩な作品が発表された。また、龍南会運営委員会の議題、委員・部長の交代、予算・決算、各部の活動や、学校行事などを具体的に記した記事も掲載されている。
龍南会雑誌を編集していたのは龍南会の雑誌部委員であり、村川堅固、後藤文夫、下村湖人、梅崎春生、木下順二など、のちに文筆家や研究者として活躍した人物が多くいた。
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1930(昭和5)年 立田山
五高生と熊本の街
五高生は、五高から約2kmほど離れた中心街によく出かけた。本屋、喫茶店、映画館、おでん屋など、行きつけの店が多く軒を連ねていた。マントに帽子の姿で寮歌を歌いながら逍遥し、店の看板をひっくり返すといういたずらもあったが、街の人々は五高生を寛容に見守った。