HOME > 事項 >

精神な関西

精神障害/精神医療

Tweet
last update: 20230623

だいやまーく高木 俊介 i2022 インタビュー 2022年12月19日 聞き手: 篠原史生・舘澤謙蔵・立岩真也 於: 高木クリニック
だいやまーく末安 民生・吉浜 文洋 i2021a インタビュー・1 2021年08月04日 聞き手:阿部あかね桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵長谷川唯・三宅美智 於:キャンパスプラザ京都 6階演習室
だいやまーく―――― i2021a インタビュー・2 2021年08月04日 聞き手:阿部あかね桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵長谷川唯・三宅美智 於:キャンパスプラザ京都 6階演習室

しかくメモ(202304〜)

(注記)古いことを掘り返そうということではないです(そういうのが好きな人はやればよいですが)。「大阪精神医療人権センター」の活動の推移あたりからというのがよいのではと。

精神病院不祥事件
http://www.arsvi.com/d/m-s.htm
十全会闘争/十全会双岡病院(京都)事件
http://www.arsvi.com/d/m01h1967.htm
岩倉病院問題(K氏問題、1974)
http://www.arsvi.com/d/m01h1974i.htm
鈴木國男虐殺糾弾闘争(S闘争/S支闘、1976)
http://www.arsvi.com/d/skt.htm
......

京大関係、書籍としては
http://www.arsvi.com/b2000/0312ks.htm

高木 隆郎(1929〜、京都大学)
http://www.arsvi.com/w/tr03.htm
木村敏(1931〜、京都大学)
http://www.arsvi.com/w/kb01.htm
小池清廉(1933〜、元洛南病医院院長)
http://www.arsvi.com/w/kk22.htm
松本 雅彦(1937〜2015、京都大学、いわくら病院)
http://www.arsvi.com/w/mm21.htm
中山 宏太郎(1937〜)
http://www.arsvi.com/w/nk14.htm
小澤勲(1938〜2008)
http://www.arsvi.com/w/oi02.htm
岡江晃(1946〜2013、元洛南病院院長)
http://www.arsvi.com/w/oa03.htm
木田 孝太郎(1947〜)
http://www.arsvi.com/w/kk23.htm
高木俊介
http://www.arsvi.com/w/ts15.htm
三脇 康生(1963〜)
http://www.arsvi.com/w/my16.htm

洛南病院
岩倉病院
光愛病院
・大野萌子 インタビュー 2011年10月01日 於:障害学会大会会員控室 聞き手:桐原・立岩・七瀬
http://www.arsvi.com/ts/20111001.htm
「大野:ああもちろんもちろん。一ぺんに10人なりって。皆をしきっていたのは石山君なんだわ。石山君。デカちゃんに刺された人。
大阪の光愛病院の中に患者会があって「ともしび会」というのがあるんです。それがあの1970年に出来た大阪の一番古い患者会と言われているんです。その人がその代表者ですわ。1970年。その人が皆見てくれたの。」
・田原 明夫(昭和42年卒) 「「環境療法」ということ」
「青医連運動・大学闘争を経て精神医療に足を踏み入れた私にとって、単科精神病院は、まさに課題の塊であった。広い窓に格子のない2階建ての開放病棟を持つ光愛病院は当時では開放的な病院であった。烏山病院に習い機能別4単位制を導大していた。しかし、...」
・物江克男,20040210,「光愛病院の変化からみる〈開放〉への問いかけ」『精神医療』33: 55-61.
http://www.arsvi.com/m/p4033.htm

精神科医全国共闘会議(プシ共闘)
http://www.arsvi.com/o/pk.htm

◇大阪精神医療人権センター
http://www.arsvi.com/o/om.htm
http://www.arsvi.com/ts/2001002.htm
◇兵庫県精神医療人権センター
https://rpphyogo.org/
◇いこいの場ひょうご
https://navihyogo.com/0798-36-6586/

◇全国「精神病」者集団
http://www.arsvi.com/o/zss.htm

◇吉田 おさみ(1931〜1984)
http://www.arsvi.com/w/yo01.htm
◇大野 萌子(1936年01月11日〜2013年08月27日、全国「精神病」者集団)
http://www.arsvi.com/w/om16.htm

◇山本 深雪(大阪精神医療人権センター)
http://www.arsvi.com/w/ym04.htm
◇原昌平(1959〜、元読売新聞社、大阪精神医療人権センター)
http://www.arsvi.com/w/hs06.htm
◇高瀬 建三(いこいの場ひょうご)
◇高橋 亮也(兵庫県精神医療人権センター)
◇吉田 明彦(兵庫県精神医療人権センター)
https://kp-jinken.org/2021/05/13/%e3%80%8c%e5%bd%93%e4%ba%8b%e8%80%85%e6%8a%9c%e3%81%8d%e3%81%a7%e9%80%b2%e3%82%80%e6%94%af%e6%8f%b4%e3%80%8d%e3%81%ab%e5%96%9d%ef%bc%81%ef%bc%8f%e5%85%b5%e5%ba%ab%e7%9c%8c%e7%b2%be%e7%a5%9e%e5%8c%bb/
・2022年06月15日 「どうすればこの「悪」を終わらせられるのか――立岩真也さんを迎えて」
リメンバー 7.26 神戸アクション オンラインアクション
https://www.facebook.com/remember726kobeaction/videos/347914394128591
聞き手:吉田 明彦・石地 かおる
cf.石地 かおる i2020a インタビュー・1 2020年12月18日 聞き手:立岩真也,兵庫・石地さん宅 Skype for Business使用
石地 かおる i2020b インタビュー・2 2020年12月18日 聞き手:立岩真也,兵庫・石地さん宅 Skype for Business使用

......

・院生(2023年度)
◇宇津木 三徳/大矢(2023後期)/篠田 紀一郎/寺田 准子(2020後期)/舘澤 謙蔵(後期)/中田 喜一/

......

森 泰一郎(〜2008/03)
http://www.arsvi.com/w/mt21.htm
中島直(東京大学、多摩あおば病院)
http://www.arsvi.com/w/nn05.htm
http://www.arsvi.com/b2000/0609at.htm


>TOP

だいやまーく京都大学精神医学教室 編 20031225 『精神医学京都学派の100年』,ナカニシヤ出版,121p. 3150 ISBN-10: 4888488347 ISBN-13: 978-4888488341 [amazon]/[kinokuniya] (注記) m.
だいやまーく立岩 真也 2013年12月10日 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon]/[kinokuniya] (注記) m.
しかく第2章 造反:挿話と補遺(4・6↓)
しかく4 関西から
しかく6 京大評議会
だいやまーく立岩 真也 2015年11月13日 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社,433p. ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 2800+ [amazon]/[kinokuniya] (注記) m.
十全会病院(京都)

だいやまーく精神病院不祥事件
安田系列三病院/大和川病院(大阪府柏原市大字高井田)
だいやまーく1974- 岩倉病院問題(K氏問題)

しかく

だいやまーく吉田 おさみ(1931〜1984)

>TOP

しろいしかく精神保健・医療・福祉/臨床心理専門職

だいやまーく安 克昌(精神科医,1960〜2000)
だいやまーく岡江 晃(精神科医)
だいやまーく岡庭 武
だいやまーく小澤 勲(精神科医,1938〜2008)
だいやまーく木田 孝太郎(精神科医,1947〜)
だいやまーく木村 敏(精神科医,1931〜)
だいやまーく熊木 徹夫(精神科医)
だいやまーく小池 清廉(精神科医,1933〜)
だいやまーく末安 民生(精神科看護)
だいやまーく高木 俊介(精神科医,1957〜)
だいやまーく高木 隆郎(精神科医,1929〜)
だいやまーく中井 久夫(精神科医,1934〜)
だいやまーく長岡 和(精神科医,1968〜)
だいやまーく中山 宏太郎(精神科医,1937〜)
だいやまーく野田 正彰(精神科医,1944〜)
だいやまーく松本 雅彦(精神科医,1937〜)
だいやまーく水野 昭夫(精神科医,1943〜)
だいやまーく三脇 康生(精神科医/美術批評家,1963〜)
だいやまーく横山 博(精神科医,1945〜)

だいやまーく大阪精神医療人権センター [外部リンク]公式HP
→cf. [外部リンク]公式ブログ

だいやまーく兵庫県こころのケアセンター サイコロジカル・ファーストエイド実施の手引き
[外部リンク]http://www.j-hits.org/psychological/index.html

しろいしかく先端総合学術研究科およびGCOE(2007-2011年度)関係者

だいやまーく阿部 あかね English
だいやまーく片山 知哉(精神科医) English Page cf. 自閉症
だいやまーく末安 民生(精神科看護)
だいやまーく杉原 努 English
だいやまーく田中 慶子 English
だいやまーく仲 アサヨ English
だいやまーく中田 喜一 English
だいやまーく堀 智久 English Korean
だいやまーく松枝 亜希子 English
だいやまーく三野 宏治 English Korean
だいやまーく樋澤 吉彦 English
だいやまーく藤原 信行 English Korean
だいやまーく山口 真紀 English
だいやまーく吉田 幸恵 English
だいやまーく吉村 夕里 English
だいやまーく渡邉 あい子 English
→cf. 「精神保健・医療と社会」研究会



しかく4 関西から
東京大学で一九六八年一〇月に精神科医局が解散され、「東大精神科医師連合」が結成され、翌月臺主任教授不信任、教授会総辞職要求がなされ、その後に、「赤レンガ病棟」の「占拠」、「臺人体実験」の告発と続くできごとがあったこと、そのことはいくらかの人には知られている。それよりさらに知られていないのだが、関西の人たち・組織の関与・活躍があった。小澤勲たちがその中心にいたとされる。松本雅彦・中山宏太郎もそこに――以下に引用するようにその(現在における)了解には差があるのだが――いて、金沢大会の前に藤沢に会いに行ったりしている(→註10・376頁)。
その松本・中山も加わった座談会の記録が「精神医療の一九六八年」を特集した『精神医療』第4次60号に掲載されている。広田は東京にいた人として語っている。小澤・藤沢はこの時既に没している。

中山宏太郎(一九三七〜)。京都大学医学部卒、京都大学精神科、後に京都市に中山医院を開業。一九七一年七月、日本精神神経学会「保安処分に反対する委員会」委員長、同八月反対する意見書発表。九〇年代に入って「処遇困難者専門病棟」を是認する見解を発表(cf.中島[2002])。これが富田[2000:216-279]等で批判されることにもなる。共編書に『精神医療と法』(大谷・中山編[1980])。
松本雅彦(一九三七〜)。一九六四年京都大学医学部卒業。阪本病院、京都大学精神科勤務を経て、京都大学医療技術短期大学部教授、京都府立洛南病院院長、京都光華女子大学教授を歴任した後いわくら病院。著書に『精神病理学とは何だろうか』(松本[1987]、第二版[1989]、増補改訂版[1996])、共著書に『発達障害という記号』(松本・高岡[2008])。翻訳書多数。金沢学会他についての述懐が、座談会等の他、著書(松本[1996:354-355])にある。しろさんかく093

「松本 京大評議会の位置づけは、大学の中の闘争というよりも、一九六八年から六九年にかけて結しろさんかく093 成される関西精神科医共闘会議というのがありまして、その一端でしか位置づけられないと思います。
当時の精神病院の乱立問題も含めて、他の科の先生たちが精神病院をつくる、たとえば婦人科の先生が精神病院をつくって経営するという、転科医の問題もありましたし、しかも関西ではいろいろな病院で不祥事件が起きていました。ですから、大学の問題というよりも、民間病院に赴任した人たちや、一度大学から散ってしまった人たちがまた再結集して、関西精神科医共闘会議をつくって活動したのです。それが、大きな運動の発火点だったのではなかったかと思いますね。
ですから、私たちが関西にいて、東大の自主管理闘争を見ていると、やはり大学の中での争いという感じが非常に強いという印象を受けましたね。関西の方は、もっと精神科医療の問題に真っ正面から向き合わされて、そこにのめり込まれされたといった感じがします。
広田 東京から見ていると、関西の方は日本全体の精神医療をどうするのか、ということを考えていた。東大は、自主管理闘争という、大学の中の改革にのめり込んでいたという感じがします。
松本 同じような感じを受けましたね。
中山 そういえば近畿各県から集まっていました。[...]和歌山も、徳島も、神戸はもちろんですし、大阪はかなりの数でした。来なかったのは奈良ぐらいかな。
佐原 敵を撃ったら自分たちに返ってきたため、自分たちの現場を再点検するのだという意見が出てきた。それは、そういうことなのですね。
中山 そうだと思いますね。」(広田他[2010:20-21])

「京大評議会」については『精神医学京都学派の一〇〇年』(京都大学精神医学教室編[2003])他にいしろさんかく094 くつかの文章がある。第7節で紹介する。その京都大学での動きもありつつ、関西のより広い範域に運動があったということだ。「関西精神科医師会議」は一九六九年に発足している(吉田[1982]、小池[1989]等に言及がある、右の松本発言の「関西精神科医共闘会議」は別組織なのか、確認できていない)。関東の動きが合わさり、一九七〇年六月に「精神科医全国共闘会議(プシ共闘)」が結成される(編書に精神科医全国共闘会議編[1972])。
他方に野田正彰木田孝太郎といった名があげられる「全関西精神医療研究会連合会(精医研)」(「精神医療研究会」と記されているものもある)」があり、主導権をとっていた前者の側の了解では、後者が暴力的に介入し、改革に負の影響を与えたことが幾つかの文献で触れられているが、それらの記述はすべてまったく断片的なものであり、それがどんなことであったのか、ほとんどわからない。対立のための対立のようなことはよくあることだから、無視してよいことなのかもしれないが、その後の保安処分に関わり日弁連の要請で提出された所謂「野田レポート」との関わりも含め、わかっておいた方がよいようには思う★12。そして前者の側の人たちは後者の集団を強く批判するのだが、初期の『精神医療』には野

小澤勲(一九三八〜二〇〇八)一九六三年に京都大学医学部を卒業。十全会ピネル病院(での臨床・闘争→282頁)を経て、一九七〇年から京都府立洛南病院に勤務。同病院副院長の後、介護老人保健施設「桃源の郷」施設長、種智院大学教授、同大学名誉教授、同大学客員教授を歴任。一九七〇年の著作に、『反精神医学への道標』(小澤[1974b])、『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』(小澤編[1975])。『幼児自閉症論の再検討』(小澤[1974c])、二〇〇七年に再刊された大著に『自閉症とは何か』(小澤[1984→2007])。九〇年代に入って『痴呆老人からみた世界』(小澤[1998])、岩波新書の『痴呆を生きるということ』(小澤[2003])、『認知症とは何か』(小澤[2005])が広く読まれ、その領域の実践者・著作家として知られるようになる。他に『物語としての痴呆ケア』(小澤・土本[2004])、『認知症と診断されたあなたへ』(小澤・黒川編[2006])、『ケアってなんだろう』(小澤編[2006])。小澤編[2006]について短文を書いたことがある(立岩[2006])。しろさんかく095

田[1971]、群馬大学精神医療研究会[1974](ここには「京大精医研、木田孝太郎氏の的を射た批判と助言があったことを、同氏への謝意とともに付記しておきたい」と記されてもいる)、他の文章も掲載されており、そこにはもっともに思えることも記されている。

「高岡 一九六八年から六九年五月の金沢学会までの期間には、水面下でさまざまな動きがあったのでしょうか。
佐原 小澤さんとパンフレットをつくったりとか、いろいろやったのでしょう。
中山 自分たちで何とかしなければならないというのがありました。
教授に頼んでどうなるものでもないし、行政に頼んでもどうなるものでもなし、ある意味では孤立感みたいなものがあった。松本さんは、非常に達筆なものですから、僕らが原稿書いたら、その文章を一所懸命直しながら、ガリ版を切ってくれるわけです。それを刷って、いろいろなところに配る。それは、とにかく自分たちでどうにかしないといけないという意識があったからだと思います。
松本 確かにありましたね。
広田 あの頃は、全国誌を出して、それを全国にばらまいたりしていました。岡田靖雄さんや吉田哲雄さん、そして僕など、医局連合のメンバーがやったのです。
中山 僕らは、医局連合ということ自体がちょっと自分たちと違うな、という感じだったですね。大体、医局連合というのはおかしいのではないかというのが当時の感覚です。
岩尾 でも、医局という言葉はとれたのでしょう。
高岡 全国精神神経科連合になった。
佐原 関西と関東で大分落差があったのですね。金沢学会を周到に準備したのは、関西、なかでも京都あたりだと言われていますが、それはどのように準備されたのでしょうか。
松本 あの頃はよくガリ版切りをさせられていましたからね。最後は別れますけども、やはり金沢彰論文による認定医批判がはじまりでしょうね。さきほど話があったように、長崎学会で日本精神神経学会の理事会が何とか認定医を通そうとした。
そこには何ら現状に対する批判的な視野がなく、ただ優れた精神科医を育成するための制度だという感じでしたから、それはおかしいではないかということを、金沢先生が指摘されたのです。
大きな批判の焦点は、学会の教授連からなる理事会に対する異議申し立てでしょう。彼らが認定医制度を通そうとするのは、医局講座制の強化にすぎないのではないか、という批判に展開したのです。
中山 何度も言いますが、そこのところは僕の評価と違うわけです。僕自身は、よくわからない主

野田正彰(一九四四〜)。六九年北海道大学医学部卒業、七七年長浜赤十字病院精神科部長、八七年神戸市外国語大学国際関係学科教授、九一年京都造形芸術大学芸術学部教授、二〇〇〇年京都女子大学現代社会学部教授、二〇〇四年関西学院大学教授。著書多数。「精神医療研究会(精医研)」の中心人物として「全国精神科医師共闘会議(プシ共闘)」と対立し、また保安処分に関する所謂「野田レポート」で原則的な保安処分反対派から批判されることにもなった人でもある。一九七三年について次のように回想する。「私は琵琶湖の北、長浜赤十字病院精神科(一五〇病床)での病院精神医学の臨床が軌道に乗るとすぐ、七三年夏より、地域での精神科医療の啓発講義と医療相談に着手した。小学校区単位で民生委員、学校教師、事業主、役場職員に集まってもらい、公民館や役場で講義と相談を行った。二年間、ほとんど毎週二回、集中的に出かけて行って語った。/各市町村長と教員委員会や校長を説得しての会合だったが、その効果はすばらしかった。自分の役割を、困り果てた家族のために患者を病院へ送る者としてしか認識していなかった民生委員たちは、その後、病院への電話による相談、入院させた患者への面会、連れ立っての外出、家族援助、退院時の職さがしなどを行ってくれるようになった。遠くにあった精神科医の地域の人々への「顔づけ」が成功したのである。」(野田[2003:178-179])しろさんかく097

張を根気よく聞いてくれるのはなぜだろうと、ずっと考えていた。だから、そのときも計画を立てて行ったわけではなく新井(清)君が、「先生、自動車で行くから乗ってください」と言って来たので、それで、僕は何となく、乗っただけなのですよ。そんな感じでしたね。情勢分析ができていないですから、あまり目的意識をもってということではなかったのです。
佐原 でも、京都の多くの人は、目的意識をもってやっていたわけでしょう。
松本 金沢では、「精神科医にとって学問とは何か」というビラを書いたのです。やはり、それなりの目標みたいなものをもっていたのではないかと思います。[...]★13
広田 やはり精神神経学会のあり方はおかしいということを、東京でも言っていましたね。
中山 それは言っていました。
広田 それを、金沢学会の中で明確にしようとした。薬屋から金をもらって学会をやっていいのかということもありました。学会というのは、もう少しつつましくやるものだという考え方が強かったですよ。」(広田他[2010:22-23])★14

関西精神科医師会議の「学会を告発する」(一九六九)より。

「今年の学会は、全国の大学闘争、とりわけ医学部における医局講座制と医療の帝国主義的再編に対する闘争を背景として開催されるのであり、この文脈に学会を位置づけるとき、なんらの批判を経ることなく、学会の恒例的セレモニーとして今回の学会がもたれることは許されない。
健保抜本改悪を通じて、医療を受ける勤労大衆からの医療経費の収奪が行われようとしている。さらに基幹病院構想により報告医制度および指定病院によって若年医師を基幹病院に低賃金で釘付けしろさんかく098 にし、また中堅医師をも医局講座制のかくれみのから引きずり出し、直接国家の支配下に置いて、効率よく基幹病院に配置しようとしている。看護婦に対しても職階制の導入と労働強化を強要し、医療労働者に対する労働強化収奪が図られようとしているのである。この場合、医療は、高度産業社会の労働力の維持・再生産として規定されるのであって、労働力として期待されることの少ない精神病者は、およそ政府厚生省の考える医療の対象に該当しないのは、この体制のもつ効率原理からいって至極当然である。」(関西精神科医師会議[1969])

日本精神神経学会大会決議(一九六九、小澤勲会員提案)

「第六六回日本精神神経学会は製薬資本、関連病院の寄付や金沢大学医学部神経精神医学教室員の犠牲の上に立っておこなわれてきた。このような従来の慣習は精神医療、精神医学のあり方を歪めるものであったことを反省し、今後は学会員の負担によって運営していくことを決議する。」(山口[2003]・高岡[2010:38-39]に引用)

昔語りの中において、ということもあるにせよ、一九六九年の日本精神神経学会第六九回大会は期を画するものであったとされ、それはその「改革」から距離をとっていた人においても、そのように記憶

木田孝太郎(一九四七〜)。一九七二年京都大学医学部卒業、七三年長浜赤十字病院精神神経科勤務、八〇年木田クリニック開設、八〇年湖南病院開設・院長に就任、八九年、医療法人周行会設立・理事長に就任、九四年グループホーム、二〇〇〇年には訪問看護ステーション、老人保健施設を開設、〇一年精神障害者地域生活支援センター・援護寮を開設。著書に『心をみまもる人のために――精神の看護学』(木田[1998])。しろさんかく099

されている。そしてそれにはいくらかは前史がある。起こってしまったために広がり、しばらく続いたという側面と、準備された側面とがある。例えば藤沢敏雄(→だいやまーく頁)は、「この反乱は、周到に準備されていた部分と、参加した普通の精神科医の多数の共鳴による拡がりとによって、熱気に満ち、改革への希望を参加者に感じさせる高揚をもたらした」と記し、「この反乱の周到な準備者の一人、当時の関西精神科医師会議の小澤勲の論文に基づいて振り返っておく」(藤沢[2010:18])と続け、その論文(小澤[1989])から引用しつつ、この学会を振り返っている。

しかく5 「赤レンガ病棟」・広瀬裁判報告集・宇都宮病院事件
[...]

しかく6 京大評議会
精神病院について幾つかの「開放」の動きがあったこと、そして一時期一部で騒がれた東大附属病院の「赤レンガ病棟(占拠)」のことを書いた。あのけっして明るくない病棟で、どれだけのことができたかと批判されるのだが、そしてそれはそれとして当たっていなくもないのだが、それでも様々なことや人に関わった。その一つに、宇都宮病院を脱出した後、その病院を相手に訴訟を起こし、赤レンガの医師も関わりながら、「地域」で暮らし、しかしシンナー依存から抜けられず、結局自らの失火で死んでしまった人のこと、その人を支援してやはり死んでしまった人のことを書いた。そうして亡くなったのだから、成功だったと言えないだろう。他にやりようはなかったのか。より強い「介入」は正当化されるのか、されないのか。この領域ではそんな問題をいつまでも抱えていて、それらに関わってきた人たちがいた。人事や組織を巡る騒動であり、騒動でしかない部分とともに、それなりのことがなされた。時には争いが争い以上のものを誘起することもあった。本書で行なっているのは、その記録ではなく、記録されるべきことの呼びかけであり、そのためのいくらかの素材を示し、そして私には大まかにこう見えるというものを示そうとしている(cf.立岩・天田[2011])。しろさんかく112
大学に関わるところでは、東北大学について浅野弘毅の浅野[2010b]、群馬大学についてはさきにすこし言及した「生活臨床」を批判し否定する側とそれを推進した側他の対立について黒川洋治[1998]、岐阜大学における「反精神医学」勢力の「人体実験批判」を批判する淵[2003]があるが、他にはあまり見あたらない。また関西の動きが一九六九年五月の第六六回日本精神神経学会総会(金沢大会)とその後の動きに大きな役割を果たしたことを第5節でも述べたが、そこには京都大学に関わる人たちが多くいた。その京都大学では、「京大精神科評議会」が一九六九年に発足する。その動きは、マスメディアや国会でも取り上げられた(取り上げられてしまった)東大・赤レンガの動きより、精神科全体の大学院をなくしてしまうといったことを長く続けたのだから、強い動きであったとも言えるのだが、それは京都大学精神医学教室編[2003]に収録されている短文の幾つかで触れられている他に、今のところ書かれたものを見つけることができていない★17。

「[...]成立過程を振り返ってみれば、七〇年を中心とした京大医学部斗争や精神神経学会斗争を斗ってきた精神科医が、大学斗争の終息していく中で、京大精神科を活動の場として確保していくための要請として成立したものである。成立時点では、過渡的なものとして、医者だけで構成するが、将来的には京大精神科で活動しているすべての従業員で構成すべく発展させるというものでもあった。

浅野弘毅(一九四六〜)。七一年東北大学医学部卒、七一〜八二年東北大学精神医学教室、八三年〜仙台市デイケアセンター、九三年仙台市立病院神経精神科部長兼老人性痴呆疾患センター室長、二〇〇四年東北福祉大学総合福祉学部教授兼認知症介護研究・研修仙台センター副センター長。著書に「生活療法」「生活臨床」等を批判的に検証した『精神医療論争史――わが国における「社会復帰」論争批判』(浅野[2000])等。

以上の経過で成立した精神科評議会であるが、理念らしきものとして、評議会入会の条件としてあげられたのが、
1反教授会権力/2臨床、教育、研究を一人一票制による合議で運営していく
ということであった。」(川合[2003:74])

そして、学位・大学院を拒否する。それで二〇年余を維持するのだが、一九九二年十二月、「大学院再開にあたって」という文書を出し、九四年に大学院が再開される(岡江[2003]、扇谷[2003])。扇谷明は、木村敏(→309頁)が京都大学の教授でいた一九八六年から九四年までのこと、その後のことを、評議会のメンバーでもあり助教授(一九九一〜二〇〇一、その後開業)でもあった人として回顧している。木村は、評議会との対立を回避し、病棟の方は評議会の方にまかせそれはそれで機能していたこと、しかし助手を決めようといったことになると評議会の一人一票という仕組みのもとでなかなか決まらないといったことがあったという。そして基本的に教授会は評議会の解体を求め続けた。
評議会を支持する力は弱くなっていく。大学院を出ず学位をもたないままでは大学にせよ病院にせよ就職が困難になるという事情もある。そして国立大学の独立行政法人化、それら(のいくつか)における学部より大学院を中心とする制度改革が全国に起こってもくる。そうした中で、評議会は大学院が再開された一九九四年で実質的には終わった――――「精神科評議会が大学院を認め、学位を認めたとき、評議会は実質的に終焉したといえよう[...]この時点で、精神科評議会はその存在を自ら否定し、求心力を失った。」(林[2003:112])――という記述も、「今から振り返ってみれば、大学院再開とは、理念においては医局解体闘争を継承する組織であった評議会から、理念においても現実的にも、他大学の精神科医局に比して、より「民主的な運営」であり、より「臨床を重視」する評議会へと大きく舵を切っしろさんかく114 た節目であったのは間違いないように思う。」(岡江[2003:96])という回顧もある。
また高木俊介は次のように記す。

「私が辞める直前のことであるが、教授を交えた人事委員会が設置された[...]/宇都宮病院事件から精神保健法の成立の頃を境として、評議会運動の内実が大学内の医局講座制解体闘争から大学の外の精神科医療改革の実践へと変わってきたために、運動体としての評議会が大学にあることの必然性は薄れていった。人事委員会の設置は、教授からの人事権の奪取を軸としていた大学内での評議会運動の実質的な終焉を意味した。」(高木[2003:102])

そして二〇〇二年、評議会はなくなり、「精神科医局」という名称のものに変わる★18。
こうして、詳しくはわからないのだが、大学内で起こったこともいくらかは記されている。そして、『一〇〇年史』に文章を寄せた多くの人たちは、そこで「研究」が進まなかったことについては認め(『精神医学京都学派の一〇〇年』編集部[2003:7]、川合[2003:75-76]、林[2003:111]等)、忙しくてそこまで手がまわらなかったのだと述べたり(川合)、将来に期待したりしている★19。
そんなこんなで、その「改革」については相当に苦いものとして回想されもする。ただ、すくなくとも自らの附属病院のことについては熱心に取り組んだのだとは述べる。またさきに紹介した東大の病棟・組織がそうであったように、保安処分を巡る活動にも関わっていく。

高木俊介(一九五一〜)。一九九二年から二〇〇二年まで京大病院。現在は京都で精神医療の「宅配」の活動をしている人で、著作として高木[2008] [2010]高木俊介監修/福山・岡田編[2013]しろさんかく115

そしてさらに、たしかに存在したらしいが、よくわからないのは、彼らが、地域での活動を様々に行ない、幾つかの病院の改革に関わったことである。その幾つかが困難なものであり頓挫したこともあったこと、これらについての記述はさらに断片的であり、この本だけでは知りようがない。岩倉病院の開放化、反十全会斗争(小澤[1972]、榎本[1975]、川合[2003:75])、山崎光夫による一九五〇年代からの七山病院の開放化の継続(横山[2003:93])、光愛病院(高槻市)の開放化(物江[2004])、横山博による田原診療所の設立。最後のものにしても次のような記述ぐらいしかなく――「反精神医学」の語が見える――いくらかでも具体的なことはほとんどわからない★20。

「当時の私たちにとって反精神医学から引きずる、医師としての存在論的根拠性は絶えず議論の中心にあったし、大阪の田原診療所では境界性心性の人たちを巡って、運動のなかでそれが直接問われていた。病者としてレッテルを貼られ排除されていく患者のルサンチマンに医師としてどう応えるのか、差別された人たちの解放に医師はどう関わるのかと問われ、精神科医としての専門性との問で、田原先生と私は当事者として大海の中の小舟のように揺れていた。[...]
月日を重ね、田原診療所は何者かに襲われ閉鎖を余儀なくされた。悲しい出来事であった。」(横山[2003:93-94]、横山編[2003]にもいくらかの記述がある)しろさんかく116

[...]

◇横山博(一九四五〜)。一九七〇年に京都大学医学部卒業。ユング派分析家の資格を取得、横山分析心理研究所を主宰、甲南大学文学部人間科学科教授。
◇物江克男 滋賀大学卒業。検索すると赤軍派(日本共産主義者同盟赤軍派)元幹部として出てくる。光愛病院事務局長を務める。後に栄仁会「けあほうむぴあ」(京都市宇治市)所長。しろさんかく117

★12 以下は野田本人の述懐。「保安処分の是非の論議から、精神科救急を軸とする精神医療の充実へ、マスコミの論点が移った背景には、その年の三月、法務省と日本弁護士連合会による第六回刑法問題意見交換会に提出された、私の論文「精神病による犯罪の実証的研究」がある。この論文は同年秋、『クライシス・コール――精神病者の事件は突発するか』(毎日新聞社)として出版され、ジャーナリスト、法学者、精神医療関係者などに読まれてきた。そして二〇年をへて、『犯罪と精神医療』の題で岩波現代文庫の一冊として再版されている。二〇年前の論文が、そのまま現状への批判として通じるとは、どういうことか。何も改善されていないのである。/おそらく今国会で成立することはないだろうが、今、保安処分の名称を変えた「心神喪失者医療観察法案」が衆議院に上程されている。この二〇年間、あるいはこの半世紀、どれだけ多くの不幸に政治が不作為であったか、責任を問われることなく、八二年七月以前の認識にもどろうとしている。(〔二〇〇二年〕六月一二日)」(野田正彰[2003:217-218]、『クライシス・コール』は野田[1982→2002])
★13 以下が略した部分だがその意味することをよく読み取れない。
「中山 [...]金沢学会闘争は、少なくとも京都大学の精神科医が中心になってやったわけではないのですよ。
松本 そうではないと思いますね。やはり関西精神科医共闘会議ですよね。
中山 関西精神科医師会議という組織があって、現状認識に関しては一致していたのですが、立て看板をつくったりするのが上手な人がいて、勝手にやっていたのではないかと思いますね。」
★14 続く部分は以下。
「中山 そういう意識はあったと思いますが、それでは周到に計画されて、目標を持って、戦術を立ててやったかというと、必ずしもそうではない。理事会側にしても、理事会の周りの先生方、つまり教授層にしても、精神医療の悲惨さという共通の認識があったというのが僕の結論なのです。ですから、精神医療の悲惨さということに対する共通した認識が、旧体制の中でも、極右的な人とそうではない人を分離させたように僕は思います。
広田 金沢学会が始まる前は、そういう共通した認識はなかったと思います。
中山 そうですね。なかったのです。
広田 そういうものが浮き彫りにされたという意味で、僕は金沢学会を評価しています。
中山 やはり、現状の悲惨さという言葉で言いあらわされているものは、一部の先生方を除いて共有できていたのではないか。にもかかわらず、必ずしも目標や戦術を立てずに突っ込んだ部隊が、あれよあれよという間に学会を支配するようになってしまった。しろさんかく378
広田 学会で討議を重ねているうちに、変な部分がどんどん出てきたということですね。
中山 そういう感じですね。
広田 そこの中で学会の方針というのが少し変わっていったと思いますね。
松本 僕は、そうとは思わないですよ。わかっていながら、それに対して何もしようとしない、しかも、認定医制度という体裁のいい制度をつくって、ますます権威づけようとしていくことに我々は怒ったのですよ。」(広田他[2010:23-24?])

★17 おそらく印刷されて残されているものはわずかで、そうしたものに書かれることのないことが多くある。勤しろさんかく380 め先の大学院生が、美馬達哉氏(現在京都大学)の紹介で、後出の川合仁氏に一度聞き取りをさせていただいた。そんな機会が他にも得られればわかることがあるかもしれない。そしてわずかであっても、引用など連ねていけば、増えていってしまう。こちらのHP(→「生存学」で検索)「内」を、「精神医療」 「反精神医学」といった語で検索すると、より多くの情報が得られる。
なお、京都大学での出来事にしても、「学会改革」にしても、その大きな部分として、組織、職業人の養成のあり方を巡る議論・争いがあった。たしかにそれは大きな主題・争点だったのだが、ここでは取り上げない。
★18 「確かに、精神科評議会はその三〇数年に及ぶ運動の歴史の中で一定の成果を挙げ得たが、さらなる新しい目標を見出すことはできなかった。その上、学位を認めながら、なお「反教授会」の旗を掲げるという矛盾した方針をとり続けたために、教授会も苦慮していた。しかし、平成十三年一月に満田の学問的流れを汲む林拓二(愛知医科大学)が客員教授となり、九月には正式な教授として赴任した。そこで、精神科評議会は新しい教授とともに教室の発展をはかるために「発展的解消」をし、新しく精神科医局として発足した。」(『精神医学京都学派の一〇〇年』編集部[2003:8])
「三好教授が無事退官された後、教授選考に入りましたが、次の教授はなかなか決まらず、林教授の正式着任まで二年半かかりました。こういう長い教授不在の時期に私が教室の責任をもたねばならず、また自ら教授に立候補していましたので、非常につらい立場に立たされました。当時の評議会は実質名前のみで、大学院、博士号も認められているのに、それでも教授会の評議会アレルギーは根強いもので、教授選考委員会との面接では、いかに評議会をつぶすのかとの質問がなされ、閉口しました。林教授が赴任され、まず評議会の名称を変えることに腐心されたのも、現在の京大教授会の意向から考えれば納得されます。私は林教授が着任され、事務的申し送りをし、開業しました。開業は自分のことだけを考えておればいいので、大学と違ってストレスはほとんどありません。」(扇谷[2003:98])
★19 次のような見方もある。
「往々にして誤解されてきたことだが、評議会は大学院に象徴される研究機能を否定してきたわけではなく、医局講座制に支配されて医療現場から遊離していた研究至上主義を批判してきたのである。大学院大学となった大学医局に求められている研究は、一個人の思いつきや臨床の片手間の時間でできるものではないだろう。旧来京大精神科の特色として賞揚されてきた一匹オオカミ的気風は、大学の枠に縛られない学会や研究グループが大学の外に数多く育っている現在、大学院大学にとっては足枷にすぎない。大学院大学としての存在意義を教室員に示すような意義のある研究を生むには、そのための組織づくりから始めなくてはならないだろう。今後、大学の研究テーマをどのような方向に見定めて、どのような研究チームをつくっていくのか、外から見守りたい。」(高木[2003:102])
★17 おそらく印刷されて残されているものはわずかで、そうしたものに書かれることのないことが多くある。勤しろさんかく380 め先の大学院生が、美馬達哉氏(現在京都大学)の紹介で、後出の川合仁氏に一度聞き取りをさせていただいた。そんな機会が他にも得られればわかることがあるかもしれない。そしてわずかであっても、引用など連ねていけば、増えていってしまう。こちらのHP(→「生存学」で検索)「内」を、「精神医療」 「反精神医学」といった語で検索すると、より多くの情報が得られる。
なお、京都大学での出来事にしても、「学会改革」にしても、その大きな部分として、組織、職業人の養成のあり方を巡る議論・争いがあった。たしかにそれは大きな主題・争点だったのだが、ここでは取り上げない。
★18 「確かに、精神科評議会はその三〇数年に及ぶ運動の歴史の中で一定の成果を挙げ得たが、さらなる新しい目標を見出すことはできなかった。その上、学位を認めながら、なお「反教授会」の旗を掲げるという矛盾した方針をとり続けたために、教授会も苦慮していた。しかし、平成十三年一月に満田の学問的流れを汲む林拓二(愛知医科大学)が客員教授となり、九月には正式な教授として赴任した。そこで、精神科評議会は新しい教授とともに教室の発展をはかるために「発展的解消」をし、新しく精神科医局として発足した。」(『精神医学京都学派の一〇〇年』編集部[2003:8])
「三好教授が無事退官された後、教授選考に入りましたが、次の教授はなかなか決まらず、林教授の正式着任まで二年半かかりました。こういう長い教授不在の時期に私が教室の責任をもたねばならず、また自ら教授に立候補していましたので、非常につらい立場に立たされました。当時の評議会は実質名前のみで、大学院、博士号も認められているのに、それでも教授会の評議会アレルギーは根強いもので、教授選考委員会との面接では、いかに評議会をつぶすのかとの質問がなされ、閉口しました。林教授が赴任され、まず評議会の名称を変えることに腐心されたのも、現在の京大教授会の意向から考えれば納得されます。私は林教授が着任され、事務的申し送りをし、開業しました。開業は自分のことだけを考えておればいいので、大学と違ってストレスはほとんどありません。」(扇谷[2003:98])
★19 次のような見方もある。
「往々にして誤解されてきたことだが、評議会は大学院に象徴される研究機能を否定してきたわけではなく、医局講座制に支配されて医療現場から遊離していた研究至上主義を批判してきたのである。大学院大学となった大学医局に求められている研究は、一個人の思いつきや臨床の片手間の時間でできるものではないだろう。旧来京大精神科の特色として賞揚されてきた一匹オオカミ的気風は、大学の枠に縛られない学会や研究グループが大学の外に数多く育っている現在、大学院大学にとっては足枷にすぎない。大学院大学としての存在意義を教室員に示すような意義のある研究を生むには、そのための組織づくりから始めなくてはならないだろう。今後、大学の研究テーマをどのような方向に見定めて、どのような研究チームをつくっていくのか、外から見守りたい。」(高木[2003:102])
★20 それでわかることは限られているが、それでも例えしろさんかく380 ば『精神医療』第四次三三号(通巻一〇八)の特集が「開放化運動を超えて」で、物江[2004]、陽和病院(→73頁)について服部[2004]等が収録されている。


UP: 20230622 REV: 20230623
精神障害/精神医療医療/病・障害と社会障害学歴史
TOP HOME (http://www.arsvi.com)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /