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益留俊樹氏インタビュー・3

20220519 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所

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益留 俊樹
×ばつ社会アーカイブの構築

◇文字起こし:ココペリ121 20220519益留1034_
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【しろまるしろまる】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。

(注記)記録を幾つかに分けました。この頁はその3です。
だいやまーく益留 俊樹 i2022a インタビュー・1 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
だいやまーく益留 俊樹 i2022b インタビュー・2――――宇都宮辰範のこと等 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
だいやまーく益留 俊樹 i2022c インタビュー・3 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所(本頁)
だいやまーく益留 俊樹 i2022d インタビュー・4 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所


立岩:そんなことがあった、80年代のまんなかぐらいですよね。それでその在障会やって、92年の自立生活企画っていうふうになってくのが、今日電車のなかで復習したとこだと、やっぱり在障会での要求運動、制度は獲得されるはされるけれども、実際にサービスっていうか、そういうものが来るのは待ってなきゃいけないっていう。それは嫌だよねって書いてあった。

益留:そうですね。だから最初は荒木さんと交渉行って、で、その後に新田さんたちと高橋さんとかとね、東京都のそういう交渉に行って。当時はね、やっぱり脳性麻痺者介護人派遣事業だったんで。これ、自分ら受けられなかったんですよね。私とか高橋さんは。

立岩:そうなんだ。

益留:そう。ようするに、脳性麻痺者限定だったから。何人かいたんですよ。世田谷にタナアミさんっていう、やっぱり骨形成の人がいて。宇都宮さん入ってたかどうかはちょっとよく覚えてない。三人ぐらい脳性麻痺以外の人で受けてた人がいたんですよ。だから「益留くんも入(はい)れるんじゃない?」って。「じゃあ一緒に交渉してそこでやろうよ」って言ってやったんだけど、けっきょく私を入れるっていうのはやっぱり、ちょっとやっぱり、影響が大きいっていうかね。ようするに、頚椎損傷で入ったら、もうそりゃあね、もう

立岩:いっぱいいるからね。

益留:いっぱいいるから。たぶんそれもあって入れてくれなかったんだろうなって。それがすごく...。けっきょくね、ようするに「制度は受けらんないけど司会はやれ」みたいな感じでいいように使われて(笑)。それで83、4年ぐらいからずーっと、86、7年ぐらいまでかな、そういう交渉をやるなかで、その...。まあちょうどそのころ東京とも、「脳性麻痺者介護人派遣事業の対象を脳性麻痺に限るのは、やっぱり制度的な不具合がある」っていうので全身性に広げるっていうのが87年かな、たしかそのくらいにあったんですよね。
で、ちょうど私ね、85年から2年ぐらいちょっと運動から遠ざかって。ちょっと家...あの、自分で喫茶店やって。お店やってそこでちょっと生計立てていこうかなとちょっと思ったことがあって。

立岩:お店? 何売る店なんですか?

益留:喫茶店です。コーヒー。で、まあやったんだけど、それはまあすぐだめになって。で、「もう一回来い」って言われて。ちょうどその当時なんですね、対象が広がったっていうのが。私とか、それこそ高橋さんとか、そういう全身性の人を対象にするっていうので。で、広がったのは広がったんだけど、けっきょく今度それが、いわゆる「毎日保障」っていうの。ずっとそれは求めてた、求めていたわけですよ。
当時ね、73年かな。始まった時に月に4回ぐらいだったのが、ちょうど私が関わり始めた時に9回か10回ぐらいだったんですね。で、87年の時に、たぶん10回からか何かが、もうそれ以上が対象を広げたときに、その、何つうのかな...。あれ? 対象を広げたのは87年ですよね。6年からですかね? 87年かな。で、その後にけっきょく「回数を増やす」っていうふうに運動をシフトしたんですよね。そのときに、回数を増やしていくのに、ちょうどむこうの、東京都の課長・係長で、名前なんつったかな? かなり力になってくれた担当者がいたんですよ。一番覚えてるのは山下さん★っていうかたで、今はもう、今どうなのか。福島聡さんなんかと盲ろう協会の事務局か理事か何かやってらっしゃるんじゃないかな。

立岩:山下さん。

益留:何年か前まではそういう肩書でやってたらしたと思うんですけど。

立岩:そうですか。今度ね、盲ろう協会で通訳とかやってた人がうちの大学院生になったんですよ。ちょっと盲ろう協会のことを調べて書いたらいいよね、みたいな。ちょっと彼女にも聞いてみよう。そういう人もいて、

益留:そういう人がいて、で、ちょうどその「回数を増やしていく」っていうふうになった時に、十何回まできたときかな、ちょっと資料があるんで、その年表見ながら。自分で作った年表があってね、それ見ながらもうちょっと詳しく。あとで差し上げますけど。

立岩:ありがとうございます。

益留:それで、増やしていこうとした時に、けっきょくやっぱり東京都単独の事業でやってきたんで、単独で金出すとなるとちょっと無理だと。もうこれ以上対象も広がって、回数を増やしていくのは無理だというので、ちょうどその1年か2年ぐらい前に大阪が介護人派遣事業っていうのを始めたんだけど、それをヘルパーさんを使ってやったんですよ。それすごい画期的っていうか。当時はね。当時はちょっとそれには。だからそのヘルパーの予算を使うとやっぱり国の思惑が入って対象が広がらないんじゃないかっていうふうに言ってたんだけど、けっきょくそれが逆に、なんか施設の障害者もそれで外出支援ができるっていう、なんかそういうのを大阪市が始めて。それで、そういうのちょっと勉強しましょうって一緒に勉強会やって。それで、国のそのヘルパー事業の予算を使えば東京都も回数を増やしていけるっていうふうになったんですよね。
なったんだけど、こんど逆にこっち側、当事者側がそれに反発しちゃって。ようするに、今までは東京都が100パーセント出してたから市は首を「うん」って振れば制度が使えたわけですよ。ところがこれからは、ようするに市も4分の1負担しなきゃいけないから、そうなるとやっぱりちょっと思惑が入ってきて。首を振る、横に振ることだってあるから、「いや、やっぱり東京都100パーセントでやれ」みたいな。三井さん★たちがそれを言い出して。

(注記)このへんは知らなかった。重要なところかと。(立岩)

立岩:三井さんたちはそういうふうに言ってたんだ。

益留:そうですね。新田さんはどっちかつったら「制度を拡大しよう」っていうその方向でっていうふうになってて、私とか高橋さんとかがどっちに入るかっていうのがすごく微妙だったわけですよ。で、あの横山さんとかね、そのへんがどっちに...ようするに、ヘルパーでいくのか単独でいくのかっていうのですごくせめぎ合いがあって。高橋さんはどっちかっていったら「三井さんたちとうまくやっていかなきゃ」っていうふうなところもあったんで最初はそっちだったんだけど、最終的にあそこ仲たがいしたんで、高橋さんもこっちに来たっていうのもあって。それでもめたわけですよ。
ようするに、「ヘルパーの予算を使って拡大するのはいいけど、だけどそれで市が反対したりとかしたときにどうすんだ」と。それじゃあ、ようするに「重度障害者の生活ができなくなるじゃないか!」ってガーってこう言った人、言ってたっていったときに、さっきの山下さんって人が、「いやもうそんなことさせません」と。「東京都っていうか、私が自分の首賭して行政を、自治体を説得します」っていうふうに言っちゃったわけですよ。そしたらね、ほんとに、しーん...って。あの外でわーわーわーわー言ってた障害者たちが、もうほんとにものの見事に黙って。それで、通ったんですね。

立岩:そっちの方角に?

益留:そっちの方角に。それはね、すごい、いまだにやっぱり印象的な出来事でしたね。行政側の人がそこまで言うことってないじゃないですか。

立岩:その話って誰も詳しく書いてないんじゃないですか? 誰か書いてますか?

益留:一回ね、山下さんを講演で呼んだ時に、ちょっとテープ起こしはして、たぶんどっか資料に残ってると思うんですけどね。

立岩:そっか。そこにも何かこう、少なくともその時までは、分かれるっていうか対立っていうかが、あったわけですね。それも知らなかったし、その前の大阪がある種のきっかけになったっていうのも頭に入ってなかったから、ああなるほどって思いましたけどね。

益留:それはね、けっこう大きな出来事だったんですよ。最初は「えー! ヘルパーの予算使ってるの? 大阪は」みたいな感じで。「それで大丈夫なの?」って言ったら、「いやねえ、これね、施設のそういう外出にも使えるんだよ」みたいなことで、「あ、そうなんだー」っていうふうなことで。ただ、どっちかって言ったら大阪ってやっぱり、人よりも...金よりも人っていう流れがあって。ボランティアとかゴリラとか、そういうのの流れがあって、やっぱりすごく介護派遣の歴史としては浅かったんですよね。そのぶんが、たぶんまあ...何だろ。軽かったのかな、やっぱり。飛び越えるのが。そういう「国の予算を使う」っていうところのハードルがたぶん低かったんだと思うんですよね。東京だと、やっぱりすごい、[01:05:40]

立岩:東京はそれなりに東京都に作らせて、それをちょっとずつちょっとずつ育てていくみたいなのがあったから、

益留:そう。東京都に作らせてきたっていう、そうそうそう。

立岩:むしろそれに対するこだわりというか。

益留:こだわりがすごく強かったんだと思う。

立岩:ある人はあったっていうことか。大阪はそういう土壌というか、

益留:そうそうそう、たぶんそう。私なりの分析は。

立岩:「ないから、まあええやん」みたいな感じだったのかな。

益留:そうそうそうそう。

立岩:へえー、なるほど。

益留:と、思う。ちょっと当事者の人しかわからないとこだけど、私はそういうふうに思ってるところがあって。

立岩:それが80年代のもう後半。

益留:そうですね。あれ、大阪が作ったの86年とか7年ぐらいじゃないかなあ、たしか。

立岩:私はもうできないけど、誰かそのへんも詳しく調べて研究者がやったらいいと思うけどね。

しかく

益留:そうですね、うん。で、その87年のね、ヘルパーの予算を使うっていうのはやっぱり大きなきっかけだったかな。それで回数が15回とか17回に増えて、で、脳性麻痺はいまだだに10回か11回かな。それはまだ残ってるんですよね。
で、増えてったんだけど、でもけっきょく頭打ちになったんですね。15か17で一回頭打ちになって。それまで月に2回、3回、年間にとんとんとんって、11回から12、15みたいな感じでとんとんとんときたんだけど、どっかで頭打ちになっちゃって、2年ぐらいで据え置きになったんですよ。で、その時に東京都の都庁っていうか知事室に押しかけたりとか。まだ当時鈴木知事だったんだけど。新宿のね、あそこにあったけど、自由にそのへんは動けてたんで、みんなで押しかけてって、知事室でシュプレヒコールをしたりとか、まあさんざんなことをやって。で、その交渉の最中に、そんなことやるから役人は大慌てになるから、それでなんとか「5年間で毎日保障にします」っていう確約を取って。それでその、2回とか3回とかで増えていったんだけど、最終年に5回ぐらい残して26ぐらいまでで、あと来年で...「今年26だけど来年で5回も増えんのかよ」みたいな感じのやり取りをした覚えがあるんだけど、その時は「やります」っていうことで、最終的にはその5年計画で「365日保障」っていうのができた。だから、「1日8時間の365日」っていうのができたのが91年か92年じゃないかな。91年かな。
まあそれもあって、ある程度その...。88年にだから、その要求者組合の新田さんたちと高橋さんと「全国組織を作ろう」っていう。三多摩在障会で東京都のいち自治体でやっててもしょうがないから、大阪のそういうヘルパーの事業とかもあるし、埼玉とかも始まったし、札幌でも始まってたのかな、その当時は。まあそういうのもあるんで、全国組織を作ってやっぱり厚労省に、厚生省にやっぱりそういう介護保障っていうのを認めさせていこうというので、「要求者組合」★っていうのを作って。最初のその発足っていうかね、発会式が中野サンプラザでやって。で、始まったんですけどね。こないだ事務所の棚を片づけたらなんか、第三回のパネル。高橋さんと私と新田勲と荒木さんと、あともう一人芝光司っていううちの事務局やってたやつがいたんだけど★。あと、掛貝淳子さんっていう、[01:10:32]

★立岩の自立生活企画発足当時?の記録では事務局長

立岩:はいはい。

益留:あ、ご存知ですか?

立岩:ええ。ぼくもインタビューさせいただきました★。

掛貝 淳子 i1986 インタビュー 1986年07月25日 聞き手:安積遊歩・石川准・尾中文哉・立岩真也・好井裕明 於:掛貝氏宅

益留:彼女ってまだご存命なんですか?

立岩:だと思いますけど。

益留:わかんないねえ。その一列に並んだ写真が、なんかちょっと思い出深いっていうか、あって。棚に飾ってますけどね。あとでご覧ください。

立岩:なんか掛貝さんもインパクトある人だったな。

益留:あの人、田無の人なんですよ。最初に在障会やった人で。

立岩:そうなんですか。

益留:そうそうそう。最初それで、まあがちゃがちゃもめたんだけど。それこそ「一人暮らし」と「親と生活」っていうので。非常にボランティア受けがいいんですよ、彼女は。

立岩:うん、そうかもしんないね。

益留:そう。ボランティア受けがよくて。私はがちゃがちゃ介護者ともやってたもんだから、みんな在障会のボランティアの人たちが掛貝派になっちゃって(笑)。そしたらね、いきなりね、彼女もね、なんかちょっと飛んじゃうけど、なーんかでね、その三井さんたちと旅行に行ったんですよ。でね、それを行ってね、2、3か月でね、「私自立する」って国立行っちゃったんですよね。それはね、びっくりして。「えー! あんな、それまでなんか『在宅で親と暮らしてどうこう』ってなんかボランティア受けの良かった人が、いきなりこっちのボランティア捨てて...、捨ててはいないんだけど、国立行っちゃうの?」みたいな。あれはびっくりしちゃいましたよね。

立岩:私らが話うかがったのは国立だったはずなんですよ。そういう出来事のあとってことですね。知らなかった。

益留:そうですね。

立岩:知らなかった、そんな。

益留:田無の出来事を彼女がどう思ってるかっていうのは、よく覚えて...話したことがないからわからないけど、まあ一緒に要求者組合やってね。88年の***(01:12:40)からずっとこう。

立岩:おおざっぱに言って、「東京にあったものを全国」っていう、そういう流れだって、大きな流れはそれなりにわかったつもりなんですけど、それにいたる経緯というかっていうのは、「ああ、なるほどね」って、うかがってて思いましたね。そっかそっか、なるほどね。
組合は組合でそのあとまたいろいろあるわけだけれども、88年か、作って90年越えていくわけじゃないですか。それはそれで、制度獲得うんぬんですよね。それはもうそれからもずっと続くんだけれども、それと同時にというか、益留さんたちが田無に「自立生活企画」〔1992年設立〕っていう、その流れっていうのは。

益留:これはね、やっぱり高橋さんの影響が大きいですよね。当時在障会でね、東京都とか国とこうがちゃがちゃやりながら、「24時間介護保障」っていうのをずっと市ともやりあうなかで、そのさっき言った芝光司っていうのが筋ジスの青年、まだその当時二十歳ぐらいだったのかな、「自立する」っていうふうになって。で、彼がここで初めて生保の他人介護料、大臣承認をとったんですよね。92年か、91年かの時にとって。で、まだその時に...彼が出たの88年か98年かな、89年ぐらいだったのかな。その時はまだ大臣承認と脳性麻痺者...重度訪問...あとその、全身性の介護人派遣事業とヘルパーがあって。で、これはまだその当時週2回か3回ぐらいのヘルパー派遣だったと。



立岩:ヘルパーのほうはね。

益留:そうそう。で、「これでなんとか夜間の介護者を確保できる」っていうので一人暮らし始めたんですよね。で、彼がその、ようするに、あるぶん運動の象徴になったわけです。私はその、何ていうかな、そんなに夜間の介護とかっていうのはなくてもよかったわけですし、ある程度やっぱり介護者がいないと彼は生活できないっていうので、あるぶんの運動の象徴になって。[01:15:30]

立岩:なるほど。そのかたのフルネームが、何つったっけ?

益留:芝光司さん。彼がだから、田無市にそういう24時間介護保障を求めて、かなりがちゃがちゃ運動をやって。で、要求者組合も88年の設立から一緒に入って、で、彼が一人暮らしを始めて、で、そのさっき言った生保と介護派遣人事業とヘルパーを使ってなんとか24時間の介護をやって。で、だけどやっぱり「それでも介護者がいない」っていうのがすごく現実的な問題として。

立岩:制度的に時間はとったけど、その時間に見合うっていうか、入る介護者がいない。

益留:そうそうそう。私と彼との共同介護者みたいなのが何人かいて。専従っていうかたちでやってたけど、それでも週4日しかようするにお金が払えないわけですよ、その専従の介護者。しかも2万とか3万だから、一枠10万にもいかないんですよね。だからけっきょくバイトしなきゃいけなくて、これはもうちょっとほんとになんとかしないとだめだと。で、なんとかする金は出てきたけど、けっきょくそれを手立てする方策がないっていうのでどうしようかっていう話をしている時に、まずはその、「うーん、作業所やるか」みたいな。そんな話を当時ね、在障会の中で話をしているときに、その要求者組合の会議で、当時練馬で介護人派遣センター★を始めるっていうので、「え、練馬でやるの?」みたいな。そこからこうあって、で、まあちょうどその練馬の荒木さんとか何人か脳性麻痺の人たちがいて。
で、榎本〔こづ江〕さんっていう脊髄小脳変性症の女性の障害者がいて、その、あっちの学生運動の、学芸大の学生たちが何人か専従で入ってて。で、その、そういう介護人派遣センターっていうのを作るというのが一方であって。
もう一方で高橋さんたちが、中西さんとのやり取りで「自立生活センター」っていうのを高橋さんが勉強しに行って。それで、高橋さんも派遣センターとはちょっとちがう自立生活センター、いわゆる「派遣センター」と「当事者」がある程度そういう運動の主体になる自立生活センターっていうのを始めると。
その時に「どうするか」ってみんなでこう話して。うちでもほら、末永とかと一緒にそんな話をしてて、「ちょっと高橋さんとこの勉強に行きましょうよ」っていうふうに言って、それで「じゃあ行こうか」ってみんなで高橋さんとこへ勉強しに行って。で、その自立生活センターの仕組みとか成り立ちとかそういうのを勉強して、「あ、これはいいな」。それこそその、「自分で選んで自分で決めて自分で責任をとるって、これこそが自立生活じゃないか」っていうので傾倒していったっていうんですかね。それが、自立生活企画を作るきっかけになったっていうことですね。

練馬区介護人派遣センターは1991年発足。

立岩:そのへんでもけっこうばたばたですよね。たぶん、自立生活センター立川の設立は91年ですよ。だから翌年ってことじゃないですか。だからそんなに何年も経ってるんじゃなくて、けっこう1年ぐらいの間にこういろいろ。

益留:そうですね。

立岩:ぼくもあの、練馬の派遣センターの機関誌は最初から送ってもらったり、それからさっきおっしゃった、学生運動あがりだったのかな、のかたと三鷹か何かで話したことはかすかな記憶に。[01:20:10]

益留:佐々木くんとか薄羽くんとかですよね。

立岩:そうそう。あるんですけど、まあ練馬のモデルじゃなくて、その立川のやり方っていうのは今聞いて、ずっと追ったらわかったんですけど、あえてその練馬のモデルじゃないほうに行ったよっていうのは何かあるんですか?

益留:やっぱりそこにこう何ていうかな、やっぱり具体的な関りが障害者ができるっていうんですかね。障害者がやっぱり運動の中心になれるっていうので、やっぱりそこに大きな魅力があったっていうのでしょうね。やっぱり派遣センターってどうしても介護者がある程度中心になるっていような、なんかそういうイメージしか。ちょっと言葉の問題なのかもしれないけど、そういうのがあって。

立岩:で、92年。でも92年だから、02年。30年。30周年みたいなことですか?

益留:ああ、そうですね。

立岩:それはまあ、それを30でもひと言で言えっていうのも無理な話ですけども、それなりにずっとやれてきたかなっていうまとめ方でいいんですか?

益留:うーん、いやあー。かなりの変遷きてると思いますよ。今どっちかっていったらね、反自立生活センター派だから。ああ、ちがうか(笑)。

しかく

益留:うーん、いやあー。かなりの変遷きてると思いますよ。今どっちかっていったらね、反自立生活センター派だから。ああ、ちがうか(笑)。

立岩:いやいや、その話も聞きたいのよ。ちょっと順番飛ばすみたいになるけど、けっこう益留さんってそういうとこあるじゃないですか。自立センター主流派に対して食ってかかる的なさ、あるじゃないですか。前からなんか見てて。
だからそこはちょっと、学者ってちょっとずるいとこがあってね。どっちもこうやって見てて、なんか、横にいるみたいなスタンスがとれちゃってるとこもあるからずるいんだけど。「なんか元気だな」とか「益留さん、あいかわらずだな」と思いながらいたんだけど、そこの肝っていうのかな、そういうスタンスをある意味ずっととりつづけてるっていうとこもあるじゃないですか、そこは自分的にはどうです?

益留:いや、わかんないですけどね。そこはわかんないけど、やっぱり何かね、やっぱり出会った親が脳性麻痺だったっていうところなのかな(笑)。にわとりじゃないけど、卵から孵ったときに目の前にいた人が親になるっていう、そういうのがすごく自分なりにはあるのかなって思いますよね。やっぱり、出会ったのが荒木さん、村田さんっていう脳性麻痺のインパクトっていうんですかね。やっぱりあの重度の障害者が自立生活をするっていうことに対するインパクトは、やっぱりものすごく大きかったですよね。で、そのあとの、やっぱり「じゃあ、自立とは?」っていうふうになったときに、宇都宮さんと出会ったことで培われた自立感っていうんですかね。「自立」っていうことに対する思いっていうところに、やっぱりどうしてもそこに「重度障害者」っていうのが根底にあるんですよね。
で、そこからこう派生してったときに、また高橋さんとの出会いで、そういう「当事者運動」っていうかな、その自立運動ももちろん、解放運動っていうかね、介護料運動っていうのも当事者運動なんだけど、またそれとは別に、いわゆる「要求運動」っていうのは、ある意味行政との交渉とかそういうところに集約しちゃうんですね。で、それが、自立生活センターってのはやっぱり社会っていうのかな、社会に対してどう自分たちがアプローチしていくか。で、そこでの当事者の主体性っていうのをどう持っていくか、というのがやっぱりすごくあって。で、そこでやっぱり、自己選択・自己決定・自己責任っていうこのやっぱり「自立」っていう理念っていうかな、それがやっぱり確立されたわけですけど。[01:25:03]

しかく「もとに戻る」

ただやっぱりその後に出会ったあとに、やっぱり元に戻るわけですよ。石田義明★っていうグッドライフの彼との出会いっていうんですかね、やっぱり彼が一緒にね、自立生活企画を一緒にやりながら、彼もまた「東久留米でやりたい」って言ってグッドライフを始めたんだけど、その時にうちの末永とか中村さんっていう人とかが一緒にグッドライフを始めて。で、その...何ていうかな、そのきっかけっていうのが。あそこはウエキイサオくんっていう自閉症の障害者が、もともと田無で生活してたわけですよ。その時に、その時っていうか、小学校のようするに就学運動から中村さんっていうのが関わってて。で、小学校、中学校って行くんだけど、けっきょく学校に入ったはいいけど学校でのケアっていうのはまったくなくて。で、家庭の事情とかで、ちょっと離婚とかそういうのがあって、彼自身がネグレクト状態になって。で、いわゆる放置されてる日中に近所の子どもたち、女の子にちょっと手出したりとか、まあ...、[01:26:35]

(中断)

益留:それでその、一緒にやってた中村さんたちが、ウエキくんの自立をやっぱりグッドライフ...。で、その時に言われたんです。「田無なんだから【企画】(01:27:39)でやってほしいと」っていうふうに言われた時に私は断ったんですよ。それはようするに、ここはもう身体障害の施設だから。知的障害の親の会でしょ、親の会で、しかもその、いわゆる「自己決定が知的障害者はできないから、ようするにそれをその支援者っていうか親がやるっていうのはそれはおかしい、だからうちじゃあできません」と。ようするに、「やっててもけっきょく親が口出してきたり、介護者が口出してきたりっていうのがあるんだったらば、【企画】(01:28:20)ではやりません」っていうふうに言って。言ったから、その中村さんはそのウエキくんと一緒にグッドライフに来たわけですよ。で、そこで石田さんは受け入れてくれたわけです。で、ウエキくんは東久留米で自立生活を始めた。
やっぱりそこの大きな違いっていうのは、やっぱりその何ていうのかな...やっぱり自立の概念が違うっていうんですか。何回か石田さんと話しててもやっぱり噛み合わないっていうかな...っていうので。一回ね、それで、「グッドライフとじゃあ共同で、合同で自立生活プログラムをやりましょう」って、それで開催したわけ。その時に石田さんに、「益留くんが言うその自立では、ぼくは自立できないよ」っていうふうに言われたんですね。その時、「え? 何言ってんのこの人」っていうふうに思ったんだけど、やっぱりね、重度脳性麻痺の彼の生きてきた過程っていうんですかね、その中で、いわゆるその自立...ようするに、自己選択・自己決定・自己責任っていうのは、いわゆる健常者が受け入れられる自立感なわけですよね。ようするに、それ以外の人に自立という概念を構成しているキーワードとしたら、それはあくまでも、ようするに障害を持った人が、ようするに健常者に受け入れられる、「障害者が自立するよ」、じゃあ、「なんで自立するの? 一人で何にもできないくせに」「いや、自己決定も大切なものなんだよ。だから、自己選択をしなきゃいけないんだ、自己決定をしなきゃいけないんだ。でも、自己責任もしなきゃいけないんだよ」っていうふうに言うと、「ああ、そうか」と。っていうふうに、ようするに、健常者が受け入れられる自立感なんですよね。
それが、ようするに、脳性麻痺者には当てはまらないわけですよね。それは何でか? それは経験がない。じゃあ経験すればいいじゃないか。経験すれば経験が積めるものじゃないわけですね。しかも、やっぱり子どもっていうかね、生まれた時からわれわれはやっぱり、十円玉握りしめてさ、駄菓子屋行ってさ、おばちゃんとのさ、攻防戦あるわけじゃないですか。おばちゃんの目盗んで当りこうやってね、めくってみたりとかさ、そういうことをやりながら金銭のそういう駆け引きだとか人との駆け引きだとか、そういうのをやってきたわれわれの自立感と、やっぱりそういう経験がないなかで「自立」っていうのを概念的に言葉で言ったとしても、それはまったくニュアンスが違うわけですよ。さっきのそのね、言葉のニュアンスが違うっていうのとほんとにこう、そこに当てはまると思うんだけど、やっぱりね、自己選択・自己責任なんていうのは、それはほんとに健常者が、健常者だった障害者が考えた自立感なんです。やっぱり、ようするに社会に受け入れられるために構成された言葉っていうのは、やっぱり脳性麻痺の人、で、とくに知的障害の人もそうです。やっぱり当てはまらないと。だから石田さんが言ってるのはもう、もっともなことなわけですね。[01:32:34]
これのすごいエピソードがあって。やっぱり足立のほうでそういうセンターを作りたいっていうふうにいって、支援に行って、足立のダウン症の青年がいて、やっぱり一人暮らしをしたいって、***(01:32:58)がすごい積極的に自立を支援している人で。で、ずっとそのボランティアを入れて一人暮らしの準備をしてきたわけね。で、じゃあその制度も使えます、ある程度その設備、設備っていうかね、アパートも見つかりました、じゃあ自立しましょうっていった、まだ在宅にいた時かな。で、それまでボランティアで来てた人に、「仕事何してんの?」「いやあ、ちょっと親の手伝いしてて」「じゃあヘルパーやればいいじゃん。それこそお金払えるし」「ああ、そうですか」って言って、今までボランティアだった人をヘルパーで雇ったわけですよ。で、ある日お母さんが帰ってきたら、その、その当日ですよ、ヘルパーになった当日にその息子、ダウン症の息子が家の中にいたわけですね。「え、今日どうしたの? どっか行かなかったの?」。やっぱしゃべれないから、それで「今日どこも行かなかったんだ」「あ、そうなんだ。何してたの?」って言ってもなんかすごい元気がなくって、「どうしたの?」って言ったら、なんかお腹...「お腹どうしたの?」「ごはん食べてないの? え、夕方なのに何も食べてないの?」って。隣りにヘルパーいるわけですよ。それで「どうしたんですか? 今日どこにも行かないで、ごはんも食べてないんですか?」「ええ、本人が行きたいって言わないし、ごはん食べたいって言わないんで、どこにも行ってないし、ごはんも食べてません」。昨日までボランティアで一緒に出かけて一緒にごはん食べてた人が、ヘルパーになったとたんに出かけらんない、ごはん食べない、何でですか? 「いや、本人が言わないから」。[01:35:03]
もうね、私愕然としましたよ。われわれが言ってた、ようするに「指示に基づく介護」とか、自己選択・自己責任なんていうのはほんとに抽象的なもので、その言葉ひとつでそれまで動けてた人が動けなくなるし、一緒に生活が営んでいたことができなくなるっていうのが、まさしくこれなんだなっていうので。やっぱりね、私この二つの出来事が自立生活の自己選択・自己決定・自己責任の、やっぱりまやかしというか、言葉でただ使ってるだけで、これに囚われた人たちっていうのは、まさしくその「健常者に受け入れられる自立をしている人」。で、そこでやっぱり知的障害の人の自立っていうのは受け入れられない原因になってる。自立生活センターほんとできないんですよね。知的障害者の、とくに自立、一人暮らしに対してものすごい拒否感っていうか、受け入れないんですよね。それが原因なんだと私は思ってるんですけどね。
これね、やっぱり立川で学んだことですよ。あの彼らの、彼らとその当事者と職員との対立関係っていうんですかね、あれはほんとにすごかったじゃないですか。まあどのように最後決着したのか私もよくわからん。もうあとで辞めちゃったから。

立岩:私も引っ越しちゃって立川行けなくなったんですよね。だから決着っていうか、どうなったっていうのはわかんないんですよね。

益留:けっきょくはね、あそこは職員がみんな辞めて...みんなっていうか半分ぐらい辞めて、自分たちがセンターを作って、事業所作って、それで引き連れてったんだけど、けっきょくその当事者も引き連れてかれたけど、けっきょくそこでも介護が受けらんなくなって、また辞めちゃう。加藤さん★っていう立川のかたでね。

立岩:女性のかたで、眼見えなくてっていう人?

益留:そうです。彼女なんかもそっちに行ったんだけど、けっきょくそこでも介護受けられなくなって。今どうなってるかちょっとわかんないですけどね。
あれもね、やっぱり当事者の当事者性みたいなところで。いわゆる当事者主権っていうのは、当事者権力になってたと思うんですよ。それこそその、やっぱり介護者の閉塞感っていうんですかね、介護として働いていくうえでの閉塞感みたいなものが解消されないままに、ようするに当事者性だけが優先されることで、やっぱり当事者とその介護者との行きちがいっていうんですかね、それが生まれたんじゃないかなと、私なりにはそう思って。けっきょく最後にはね、介護者側も歩み寄りをもうしなくなったんで、それで私も辞めたんですけど。

立岩:大きなところでいうとね、私自身も「決定・選択・責任」っていう三つ繋がりみたいな話を少なくとも鵜呑みにしちゃいけないよっていうことはずっと思ってはいて、それなりに30年とか、そういうようなことを書いてきたつもりでもあるので、そこはほぼわかるんです。で、そうですね、今でもわりと鵜呑みにしてるっていう。ぼくね、話半分ぐらいだったらいい話だと思うんですよ。「そういうストーリーもあるよね」「そういう筋の話もいちおうわかるよね」っていうぐらいのスタンスだったら、それはそれで、そんなにみんな真面目に信じちゃいないよねっていうのなら、ちょっと安心みたいな。
だけど、やっぱり益留さんおっしゃったように、そういう違うタイプな人と会ったりしてないと真面目にそれを受けとっちゃう、よくできる真面目な障害者みたいなのもいて。で、なんかかえって苦しいというか、自分が苦しいことになってきちゃって、それはよくないなと思って。★

★立岩 真也 20210310 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房
第8章「へんな穴に落ちない」:「自己決定主義について・1」「自己決定主義について・2」...

益留:まつりあげられちゃうんですよね。健常者のスタッフのなかで評価が上がっちゃうわけですね。ようするに、「だめな障害者」と「できる障害者」っていうところに。

立岩:そこはそうだと思うし、いろんなこと割り引いたり、それ言い過ぎだっていうことはいちいちチェックしていかないと妙な話になるよっていうのは、それは、ほぼっていうか、まあその通りだと思いますね。そこはその東久留米のこととかも多少は横から見聞きしてて思うんですよ。
で、その話とね、「そこはまあでも、うん、そう。わかるよね。私はそういうつもりです」っていう話でいったん終わるんですけど、ちょっと別系統というか、話として、88年に始まった組合、べつに終ってるわけじゃなくてまだやってるわけなんだけども、97年ですか、「協議会」(「全国障害者介護保障協議会」)と「組合」ってなってくじゃないですか。ぼくはその時も松本に引っ越しちゃったせいかな、そんなリアルにはわかんないですけど、多少見聞きはしてて、何だったんだろうなってね。私は私で見立てがないことはないんですけど、リアルにわかってはないかなっていうところで。そこの中で、益留さんがどういう、何を見聞きしてたのかとか、どういうふうに見立ててるのかっていうのは、もう一つお聞きしたいなと思っていますけど。

益留:そのへんはね、深田さんのね、えっと、何でしたっけ?

立岩:『福祉と贈与』★ですか。

益留:『福祉と贈与』ですね。あれにインタビュー受けた時にだいたい話はしてるんですけど、最終的にあそこでやっぱり、その当時のいわゆる自立生活センターの可能性っていうんですかね、そこにちょっと傾倒しすぎてたっていうところで、やっぱり新田さんの泥臭さっていうんですかね、まどろっこさっていうんですかね、なんかちょっとやっぱり急ぎ過ぎたっていうのは、私なりの結論ではあるんですよね。
ようするにその、要求者組合っていう非常にこうやっぱり、泥臭いじゃないですか。ようするに「組合」っていう名前自体が非常に泥臭くて。やっぱりとくに地方にとっては組合運動ってものすごい拒否感っていうかね。共産党と結びつく言葉でもあったりとかして。そのへんが大野くんとかがね、やっぱり地方の人の感覚としては、やっぱり「組合」っていう言葉が受けがよくないというので、いわゆる「情報センター」っていうところで、別団体を。それはその、単純に東京都の財団のお金をもらうために情報センターっていうのを作っただけなんですけど、それがいつしかちょっと中心になっていった。
いわゆる情報提供っていうのがやっぱり、当時ね、あれ何年でしたっけ? 90...92年か? 93年かその時に...94年かな? ヘルパーのゴールドプランが始まった時に、10万人でしたっけ? 20万人でしたっけ? ヘルパー確保するっていうふうにいって華々しく始まったけど、けっきょく一年目で確保できたのって、3万とか4万ぐらいだったんですね。何であんなに大々的にやったのに、予算もつけたのに、何で増えないんだっていう話が、けっきょくその厚労省っていうか厚生省が分析したのは、これはもういわゆる、上限をつけてるっていうのが大きな部分。ようするに週18時間っていう上限をつけてることや、まさに公務員の、いわゆる9時5時の働く間のヘルパー派遣でしかなくて、しかもその中の10時12時、2時4時っていうような、一番ヘルパー、人の活動としては停滞するところにヘルパーが行ったとしても役に立たないんだと。もうまさに8、たとえば7時から9時の間とか、夜の7時から9時の間、この一番必要とするところに派遣できない制度っていうのはだめなんだと。[01:45:24]
それをこうなし崩し...けっきょく出したのが。あの通知がありましたよね、ヘルパー制度を改革するっていうのかな。時間かなんか書いたやつがあったんです。それを情報センターで、なんであれが入ったのかよくわかんない、情報が入ってきて。で、その通知があったんですね。その通知を私たちね、売ったんですよ。配るんじゃなくて、売ったんですよ。なんで売ったかっていったら、やっぱり情報ってのはお金なんだと。やっぱりお金を払ってまで情報を持たないと、ただで入ってきたら、それこそ積読になるわけですね。何も活用しないと。でもお金を払って、「せっかくお金払ったんだから」って、見る。やっぱそこから自分たちの要求っていうのが出てくるっていうところで、売ったわけですよ。「ヘルパー制度の手引き」か何かって。それが全国にやっぱり波及、普及していってね、各地で。
だからそこはへルパーの、何ていうかな、上限問題が解消されたわけですね。東京都でも解消されたし、全国各地で解消されてったってのは大きくて。それがようするに、西東京でも介護人派遣事業が1日8時間、その生活保護の他人介護料が4時間、じゃあ残りの12時間をどうするかっていうところで、ヘルパーで12時間出しましょうって。これが24時間の根幹になったわけですね。
それができるようになって、情報センターとしてはそれをやっぱりどんどんやっていきたいっていうところと、新田さんとしては「組合」っていう名前をやっぱり残したいと。だけど、ようするに地方では組合っていう名前で受け入れられないというのがちょっとあって。で、情報センターでようするにその、べつに組合潰そうとかっていう話じゃなかったんですけど、ようするに新田さんのままだと、なかなかやっぱりそこの決定権が。ようするに新田さんが決定、代表だと決定が遅くなっちゃうので、高橋さん代表にしてそれでこうやりましょうっていうふうになって。で、いわゆる乗っ取りにあったわけですよ、情報センター。それに三井さんとか新田さんが反発してこっちに乗り込んできて、「そんなことはさせない」みたいな。もう私もそういうの嫌気がさしちゃって。それで、じゃあもう情報センターも切り離しましょう、要求者組合とは切り離しましょう。で、その東京都の補助金とかも、じゃあもう組合で持ってってくださいと。で、情報センターは独自の障害者雇用の助成金とかそういうのを使ってやりましょうっていうので、分かれたわけ。簡単にいうとそういう話の流れがあって。で、組合派と情報センター派とで分かれたんだけど。
けっきょくその情報センターも最終的には私も干されちゃったんですよ。あそこの武蔵境に事務所があって、そっちにもって。それでその、川元さん★とか、大野くん★とか、まあそのへんがむこうに詰めることになって、私もなかなか行き来できなくなって。あの時NPOだったんで、理事改選っていう時に、私も何を思ったのか手続きをしなかったんですよ。とうぜん事務局が手続きはするだろうって何となく思い込みがあって。で、最終的に締め切りがあった時に私の立候補ができてなくて、川本さんが事務局長で、横山さんが代表っていうのが決定されちゃったわけですね。で、まあ私も、ああそうなんだ、ようするに干されたのかっていうところで、もうそっから手を引いたっていうかたちですね。
大野としても、たぶん川元さんのほうがやっぱりやりやすかったんだろうとは思うんだけどね。彼は事務局なのに、「立候補しないんですか?」っていうひと言もなかったですからね。「手続きこのままだとできませんよ」っていうこともなく、ようするに川元さんしか立候補しなかったんで、とうぜん川元さんが事務局長になるわけですね。

★ 川元 恭子:2014年02月01日逝去
大野 直之:

立岩:その90年代の半ばぐらいからの、その制度、情報、月刊みたいなのでなんか毎月毎月制度情報流してたじゃないですか。ちょうどぼくがホームページとか始めたの96年とかで、それで最初、数年ですけどわりと...、わりとじゃなくてまめにホームページに貼り直したりとかそういうことをやって、それ以来なのでね。そこんとこは、益留さんと私の評価は分かれるでしょう。僕はそっちのほうを支持して情報提供のお手伝い、になったかどうかわかりませんけど、やってました。
そのさっきの、「選択・決定・責任」か。その件に関してはほぼ同意なんですけどね。ぼく、他方では新田さん的というか、ずぶずぶっていうかどろどろっていうか、こうのりっていうののある種のグルーブ感っていうか、気持ちよさみたいなものもわかるんですよ。わかるんですけど。
まあ、東京で始まったもんを、そういう、ある種のいろんな感覚を持っている地方に移していくってか広げていくときの戦術っていうかな、戦略というよりは戦術だと思うんですけどね、そこのところでいうと、そうやってこうわりとシステマティックにっていうか、どろどろした感じでなく広げてきた側にぼくは与してきたんで。

益留:そうですね。それはそれなりに、やっぱり自立生活センターが増えてきたっていうのはやっぱり、それは評価すべきだと思うんですよね。私はそこは評価してるんですよ。ただだから、けっきょくそこにようするに落ちついちゃうと、そこまでの事実という...なんですよね。けっきょくそこから、ようするに、「できる障害者はできるけど、できない障害者はできない」っていうところがやっぱり依然と変わり映えがしない。昔ね、それこそ「益留くんはしゃべれるから自立できるのよ」みたいな言い方で分けられてきたけど、けっきょくそれがまず合わない。

立岩:益留さん的には最初のっていうか、さっきの話に戻るっていうか、戻るわけだな。

しかく

益留:そうですね。やっぱりね、そこで改めて、それこそその...。で、あとね、いわゆる支援費騒動っていうんですかね、支援費騒動の中西★・三澤〔了〕★の裏切りというかね。私は裏切りだと思ってるんだけど。あの出来事がやっぱり主流的な、そこに与していけないなあっていうかね。一緒にはやっていけないなあ。



UP:20220819 REV:
益留 俊樹声の記録(インタビュー記録他)×ばつ社会アーカイブの構築病者障害者運動史研究
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