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益留俊樹氏インタビュー・1

20220519 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所

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益留 俊樹
×ばつ社会アーカイブの構築

◇文字起こし:ココペリ121 20220519益留1034_
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【しろまるしろまる】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。

(注記)4つに分けてみました。
だいやまーく益留 俊樹 i2022a インタビュー 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所(本頁)
だいやまーく益留 俊樹 i2022b インタビュー・2――――宇都宮辰範のこと等 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
だいやまーく益留 俊樹 i2022c インタビュー・3 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所(本頁)
だいやまーく益留 俊樹 i2022d インタビュー・4 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所

しかく

益留:体力的な問題とか。こないだ蜂窩織炎ってなっちゃって。炎症おこしちゃって、それでけっきょく、切開して手術をしなきゃいけないっていって。手術して、入院したんですよ。

立岩:手術はしたんだ、じゃあ。

益留:三月に。

立岩:何したって?

益留:蜂窩織炎。いわゆるこの皮膚の、皮膚と筋肉の間に膜があるんですね。蜂の巣みたいな感じの膜があるらしくて、そこに毛穴とか、けがとか、そういうところから細菌が入って炎症を起こしちゃうっていうので。けっこう高熱が出て。一週間点滴とかやったんですけど、そういう抗生剤の。でもぜんぜん治らなくて。で、もうちょっと手術して切開したほうが治りが早いからって。

立岩:じゃあ、抗生剤じゃ終わんなくて。

益留:そうですね、もう間に合わないっていうか、時間がかかるから。

立岩:そりゃそりゃ、災難でした。

益留:ええ、もう...。もう以前に、もう十何年前に一回右腕はやったことがあったんですけど、その時は薬だけで治ったんですよ。で、まあちょっと高を括ってたら、ちょっととんでもないことになって。左腕が利き腕なんで、ちょっとどうなるかなってすごい不安だったんですけど、なんとか無事に生還はしたんですけど、そりゃあやっぱりね、体力がむちゃくちゃ落ちちゃって。もうだから、かなり以前にできてたことの半分以下になってるかな。

立岩:そうですか。

益留:そうですね。もう体力的には、車の運転とかしたら首にすぐきちゃうし。

立岩:首にくる。

益留:ええ。もうちょっと動けなくなっちゃうふうになって。

立岩:そうですか。やれやれですね。

益留:まあいろいろと...。
あ、何か必要な、【提言】(00:02:25)とかあったら。

立岩:わかりました。だんだん録らせてもらうかもしれません。
ほんとは「ますどめ」って読むんですよね?

益留:そうですね。

立岩:みんな「ますとめ」って言うよね。そんなことないか。

益留:こちらさあ、なんか濁らないみたいですね。

立岩:私の記憶正しければ、宮崎? ちがう?

益留:そうですね。

立岩:当たった。

立岩:そうかそうか。ちなみにその「年だな」っていう益留さん、生年月日は?

益留:◇1961年の4月15なんで61ですね。

立岩:じゃあちょうど学年的には1年。ぼく、60年の8月なんですよ。だから次の学年っていうことですね、4月で変わって。
あ、ちょっと録音させていただいて。あとで嫌なとこっていうか、さしさわりがあるとことか。

益留:ぜんぜん大丈夫ですから。それより私がしゃべったことで「これは出せないな」っていうのがあったらどうぞどんどん切ってください。

立岩:わかりました。61年4月か。ほぼ同じような歳ですね。

益留:そうですね。

立岩:で、宮崎で、鉄棒? ちがう?

益留:ラグビーですね。

立岩:ラグビーか。そこもなんか誰かとごっちゃになってるな(笑)。高校の時とか?

益留:そうですね。17の時に。

立岩:じゃあ宮崎で生まれて育って、宮崎の高校行ってた時にラグビー部で、

益留:そうです、そうです。タックルいって。

立岩:タックルいってボキッ! みたいな。

益留:そうですね。

立岩:じゃあ高二とか?

益留:えっとね...ちょっと一年浪人したんで、一年生だったんですけどね。

立岩:そうか。17の一年生だった時にラグビー部で。へえー。ラグビーとかアメフトとかまあまあいますよね。

益留:多いですね。なんか私のけがした年で、4人とか7人死んでるとかって言ってましたね。

立岩:全国で?

益留:全国で。そうですね。

立岩:死ぬ人は死ぬんだね。[00:05:00]

益留:まあそうですね、死ぬ...。私も看護師に言わせると、ちょうどけがして2か月、3か月ぐらい経って、初めて車いすに乗ってちょっと散歩に出た時に、「いやー、看護師さん、私もう棺桶に片脚突っ込んでましたよね」ってなにげに言ったら、「何言ってんのよ、片脚出てたのよ」みたいな感じのことも言われて(笑)。ああ、かなりやばかったんだなって思いましたね。

立岩:事故った時のあとしばらく意識がない的な状態?

益留:いや、意識はもうまったく最初っからずっとありましたね。

立岩:意識はずっとあったけど、体はとにかく動かない的な。

益留:まったく動かなかったですね。

立岩:「もう動かない」っていう実感っていうか。

益留:いや、うん、そうですね。「何で動かないんだろう」って。

立岩:まあ、「動かねえな」っていう。事故が起こったってことはわかって、それで体がってこともずっとわかってたけど、動かないのは、

益留:つながってはいなかったですね。

立岩:動かないのは動かないと。

益留:いわゆる脳震盪みたいな、そういうその一時的なものだろうってちょっと思ってたこともあって。

立岩:一番最初は?

益留:最初はですね。で、朝になって、

立岩:それは担ぎ込まれたの?

益留:そうです。病院に。

立岩:じゃあその事故った瞬間のあとは病院みたいな?

益留:そうですね。ちょうど山の中の合宿所だったんで、近くのいわゆる総合病院っていっても、個人病院にちょっと毛の生えたような、とりあえず入院施設あるよみたいなところで。そこで一晩寝かされたんですけど、けっきょく「動かない」っていうので翌朝レントゲン撮ったら、「あ、ちょっと首が折れてる」っていうので、そのまま救急車で。

立岩:ちがう大きい病院。

益留:そうですね。市内の病院に救急車で搬送されて。

立岩:その高校なり合宿所があったあたりっていうのは宮崎市内なんですか?

益留:いや、それはね、またぜんぜんちがうところで。どっちかって言ったらうちの生まれたところ、都城の近く。

立岩:都城か。そっちのほうの。

益留:そうですね。だけど病院はそこから宮崎市内の、◇宮崎県立病院って、当時大きな病院だったんですよね。

立岩:益留さんってYAH!DO(やっど)の人たちと付き合いあったりしますか?

益留:どこですか?

立岩:自立生活センターの。

益留:YAH!DOはね、一度ちょっと行ったことあります。もう十何年前ですけど。

立岩:ぼくね、5年ぐらい前かな、もうちょっと、3、4年前か。一回行ってインタビューしてきた。山之内さんって★、彼も事故った、彼はなんか海水浴らしいですけど。

★山之内 俊夫 i2018 インタビュー 2018年09月26日 聞き手:立岩真也 於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所

益留:そうですね。

立岩:うん。っていうことあります。だからその時かな、宮崎行って、それが二度目かな、宮崎。で、出戻ってきたんです。インタビューしてきたんですけどね。いいとこだなと思って。そっかそっか。
それで何、その宮崎市に運ばれた病院のほうは長居したんですか?

益留:いやそこはだから、ちょうど約一年。11か月ぐらいそこに入院してて、で、なかなかその病院のリハビリがあんまり機能してなくて。まあちょっと、まあ当時はね、まだこう歩いて、「歩きたい」「治りたい」っていうのがあって。で、そういうリハビリの施設に転院したいっていうふうに思ったけど、けっきょく市内っていうか、どこにもなくて。で、やっぱり山の中の温泉病院みたいなとこに一度連れていかれたんですけど、そこはもうほんとに、あれですよ。あの『ポツンと一軒家』の、がらがらがらがらって崖が崩れていくような、そういう山奥で。で、もうここに入(い)れられたら一生出られないなと思って、「ちょっとここはやめてくれ、勘弁してくれ」って。

立岩:そこは行かなかったの?

益留:そこは行かなかったですね。見には行ったんですけどね。

立岩:これね、けっこう九州の人に話聞くと、別府とかそういう温泉のあるところの施設に実際行っちゃったとか行きかけたとかって人、何人もいて。

益留:別府のその、太陽の家★に一度打診はしたんですけど、ただそこはやっぱりかなり自分でできないと受け入れてくれないってことで。リハビリが目的ではないって。

立岩:そうだよね。まあまあ動ける人の働く場所だよね。

益留:そうですね。で、ちょうど私の兄がポリオの後遺症がある、障害があって。左腕の麻痺なんですけど。で、東京の大学に来てて、その話を、「けがしたんだ」みたいな話を父親がしたら、なんか「むこうでじゃあちょっとそういうリハビリの病院探すわ」って言ってくれて。それでいろいろ探してくれて、ちょうど当時、山田真さんっていう小児科の先生がいらして、そのかたと知り合いで。で、そのつてで、[00:10:12]

立岩:えー、それはお兄さんが?

益留:そうです。

立岩:ええー。

益留:で、ちょうどその、このへんに住んでたんですよ。あの、保谷・田無みたいなところに。

立岩:ぼく山田さんちにインタビュー行ったら★、益留さんって名前出してらした。だから、「ああ、何か知り合いなんだなあ」と思って。

★山田 真 i2019 インタビュー 2019年05月03日 聞き手:立岩 真也 於:東京・山田氏宅

益留:そうです、そうです。
で、ちょうどその、兄がその、仕事を辞めたのかな。前に中央郵便局に勤めてて。郵政省、郵便局のね。で、その仕事を辞めて、いろいろなんか、本人的には、養護学校義務化の時に記念切手を郵政省が出したっつうので、それで反発して売らなかったらなんか居づらくなったのかよくわかんないけど(笑)、まあ辞めて。で、こっちの山田さん、梅村さんっていうご夫婦なんですけど、そのかたたちがにんじん保育園っていうのを、共同保育園っていうのをやってて、その共同保育園の保父さんで働くっていうので、

立岩:そういうことなんだ。

益留:そう。それでこのへんに住んでいて。で、その山田さんの紹介で、関東労災病院っていう川?アにある、なかはら? どこだっけ? あのへんの。武蔵小杉ですね。あのへんの病院で紹介してくれて。

立岩:ってことは、宮崎の病院から関東っていう感じ?

益留:そうです。関東労災病院に転院していくっていう。

立岩:そうするとですよ、7...? それは義務化の時あたり? もっと、ちょっとあとか。

益留:いやー、ちょうどその頃は、☆78年に私けがしてるんで。

立岩:けがして、一年ぐらい宮崎にいて。ってことは、70...、

益留:☆79年にこっちに。関東労災病院に来て。

立岩:そういうことだったの。

益留:そうですね。で、ちょうどその、先生が整形外科の先生だったのかな。ちょっとやっぱり手術したほうがいいだろうと。やっぱりちょっと不安定な頸の状態だったので、くの字に曲がってて。それで固定の手術をして、一般病棟っていうかその整形外科の病棟に3か月ぐらいいて、その後にリハビリの、そこはもう専門のリハビリのリハビリ棟っていうのがあって。

立岩:病院の中にね。

益留:労災病院なんで、すごい施設がしっかりしてて。で、そこに行ったんだけど、やっぱり現実を見るわけですね。自分の障害がどの程度の障害なのかっていうのが。で、「あ、これはちょっとやっぱもう歩くのは無理だな、自分の障害では」で、まあとりあえずその何とかリハビリをして、自分である程度生活ができるくらいのリハビリっていうかな、回復はしないといけないなあと思って。で、ある程度自分で、たとえば起きるとか、着替えるとか、トイレに行くとか、そういうことまでできるようにはなったんで。
で、一回、名古屋のリハビリテーションに免許を取りに行こうっていうふうに思って。で、友だちと免許を取りに、

立岩:車の免許ってことですか?

益留:そうですね。行こうとしたんだけど、やっぱりかなり障害が重くて、ちょっと無理だっていうふうに言われて。で、そんな話を兄としてたら、ちょうどこの東久留米に「あずまえん」っていう無認可の教習所があったんです。
今はもうあっちの新座のほうに、ちゃんとコースを持った公認の教習所になってるんですけど、そこがあるからって紹介してくれて。なんとか免許は取りたいからと思って。で、じゃあこっちでアパート借りて生活したらどうかって、まあそんな話を。[00:15:08]
その時に私の兄がその、荒木さん。荒木さん★とか村田実さん★とか、そのへんの介護とか、当時ちょっと全障連の創立っていうか設立に関わってたらしくて。

立岩:お兄さんが?

益留:ええ。

立岩:そのお兄さんの話初めて聞いてさ、さっきからちょっとびっくりしてるんだけど。郵便局勤めてて養護学校義務化なんとかって、普通あんまりないパターンじゃないですか。大学とか、そういう時からわりとそういうのに首突っ込んでたみたいな。

益留:そうなんじゃないですか。ちょっと私も詳しいあれはわからないけど。

立岩:いくつちがうお兄さんなんですか?

益留:五つですね。

立岩:まあまあ上だ。上っちゃ上だ。

益留:そうですね。

立岩:じゃあわりとそういう運動に関わってた、お兄さん?

益留:そうですね。だから最初は全障連から入って、で、そういった「解放運動」っていうのかな、そういうところから、いわゆる就学問題とか、共同保育とか、そういった多方面でなんか加わってたらしくって。で、当時はその荒木義昭さんとか、村田さんの介護をしていたと。で、たぶん入院中に「じゃあ、ちょっと荒木さんに会いに行ってみるか」って言ってくれて、それで入院中に会いに行ったのがその練馬の団地だったんですよ。都営の住宅ね。で、その時にちょうど二人目のお子さんが生まれたばっかりだったのかな、で、まあちょっと...びっくりしましたよね、やっぱ。

立岩:荒木さんとこ行って。

益留:荒木さんと会って、「え、こんな重度の人が。しかも、結婚して子どもがいて。で、一般のアパートに暮らして」、みたいな。やっぱりその事実というか、ほんとに愕然としたって言ったらいいのかな。それまではね、やっぱりずっと、いわゆる一般的な障害者、中途障害者ですよね。そういった「なんとか頑張って自分でできるようになって、人に迷惑かけないように生きていかなきゃいけない」。それこそ、なんでこっちで暮らそうっていうふうに思ったかっていったら、やっぱりちょうど祖父が、私がけがするちょっと前に脳溢血で倒れて片麻痺の状態。で、当時はまだ介護が必要じゃなかったんだけど、やっぱり私がけがしたぐらいからちょっと介護が必要になってきて。で、ちょっとこう私がその...けっきょくそこの関東労災に2年半ぐらい入院してたんですよ。当時はまだ長く入院できてたんで。それこそ、退院する、転院するか施設に行くか、みたいなそんな話が出てて、「いやあ、ちょっとそれは」みたいなふうに思ってたところに、兄が「こういう生活があるよ。荒木さんっていう重度の障害者がね、一人暮らしをしててね」っていうのを聞かされて。その「ジュウドノショウガイシャ?」っていう、その「ヒトリグラシ?」みたいな、「ジリツセイカツ?」っていう。もう漢字じゃないんですよ、カタカナなんですよね。イメージがわかない。

立岩:言葉として入ってこないっていうか。

益留:言葉として入ってこない。

立岩:音は入るけれどもって。

益留:そうそうそう。音は入るけど、ほんとに言葉として入ってこなくて。「ジリツセイカツ?」っていう感じのニュアンスで。で、会ったときに「あ、自立生活なんだ」っていう、その、「一人暮らし」っていうのが現実化してきたっていうのかな。

立岩:何年だろうね、荒木さんに会ったのって。

益留:会ったのは、79年にこっちに出てきて、手術して。だから、80年ですね。

立岩:80年。

益留:そうですね。で、81年の11月に退院したんですよね。荒木さんと会ったのは80年か81年。81年かな。

立岩:どっちかな。81年かもしれない?

益留:うん。

立岩:じゃあ、荒木さんが最初のあれか。第一...、

益留:いや、その前にね、村田さんと会ってるの?

立岩:ぼくね、村田さん生きている間に会うことできなかったんですよ。

益留:そうですか。村田さんはね、独特の脳性麻痺でしたね。言葉はね、言語障害はないんですよ、ほとんど。

立岩:あ、そうなんですか。

益留:かなり流暢にしゃべれてて。ただもう体はもうまったく。こう...棒状っていうんですかね。棒状で。もうほんとにストレッチャーの、何ていうの、ベビーカーみたいな。ベビーカーみたいな車いすでしたね。で、タバコを吸うときに、自分じゃもちろん吸えないじゃないですか。で、吸って、こうくわえて、で、「うん」って言うんですよ。と、介助者が灰皿持ってきて。で、こうやって弾いてたばこの灰を落とすみたいな。それがね、それもけっこう衝撃的でしたね。要するに、自分で手でこう、自分で吸えないのにタバコを吸わせてもらえるっていうのかな。吸わせ...吸うっていうのがけっこう衝撃的で。「あ、こういう人がいるんだ」っていうのは、まだ当時はものめずらしさというか、「あ、障害者ってこういう人がいるんだ」っていうのが。

立岩:村田さんもお兄さんの紹介みたいな感じで。

益留:そうです。兄が介護で村田さんと一緒に来てくれて。

立岩:介護に入って。

益留:会いに来てくれたんですね。

立岩:そうなんだ。村田さん、ほんとに遺稿集★みたいなものでしか知らなくて。そうか、しゃべるけど体はどこも動かない、みたいな感じ。

益留:まったく動かない。うん。

立岩:そうか。それ最初に会って、79きて80とか?

益留:そうですね。村田さんと会ったのはたぶん80年ぐらいだと思うんですね。まだ一般病棟にいたから。

立岩:じゃあ、荒木さんが、もしかしたら次の年ぐらいかなみたいな。

益留:そうですね。

立岩:じゃあ、村田、荒木みたいな。

益留:そうですね。典型的な。

立岩:その流れのつわものたちに会っちゃったわけですね。

益留:そうそうそう。最初にそういうこう、ファーストインパクトがものすごく強かったっていうかね。それがすごく印象的でしたね。

立岩:その時にそれがあって、で、2年半いて「さあ退院だ」となった時にっちゅう話か。そういうふうな流れか。

益留:そうそうそう。

立岩:その時に、どうすんの? っていう。普通のコースだと、もう一回福祉施設に行ったり家に帰ったり。

益留:家に帰るか。ただもうやっぱり、家にはほんと帰れないっていうのは、もうちょっと現実的に思ってたんで。かと言ってほんとにね、施設にはぜったい行きたくない。ちょうどその当時ね、40ぐらいのおじさんだったのかな。独り者でね、脊損なんですよ。だから、腕は、ぜんぜん手は何にも問題もなくて。高知の人でね、なんか高知からお父さんお母さんが出てこられて。80ぐらいの人ですよ。で、けっきょくもうね、「自分らももう子どもに面倒みられてるから引き取れないわ」って、「もう施設に行ってくれ」みたいな。それで本人的には「うん、うん」みたいな感じでなってたんですけど、次、明日施設に行く日っていう日の晩にその人いなくなっちゃって。で、「ちょっとこれは...」みたいな。かなり大騒ぎで探したんだけど、見つからなくて。それでもう9時、消灯の時間だからってぼくらもベッドに入って横になってた10時、11時ぐらいかな、「とめちゃん、とめちゃん」って声が聞こえるわけですよ。「うおーっ」って思って目が覚めたら、その人が枕元に来てて。「えー」とかって、そしたら(笑)。まあ、生きてたんですけどね、生きてるんだけど、ひと言ね、「わしゃ、施設行きたくないよ」って言って。もうほんとたぶん、泣いてたと思うんですけどね。

立岩:いなくなった時はどこ行ってたんでしょうね。

益留:わかんない。それは聞かなかった。

立岩:わかんないけどいなくなって、消灯のあとになんか起こされてっていう感じ?

益留:そうそう。

立岩:起こされたらその人がいた。

益留:そうそうそうそう。おじさんがね、こう、目の前にいてね。それで、「わしゃ、行きたくないんじゃ」って言ってね。それで次の日ほんとに行っちゃったんですけどね。でもそれ、けっこうやっぱり衝撃。それも衝撃で。「やっぱり施設行きたくないよなあ、当然だよなあ」っていうのはなんとなくその時思ったんですよね。[00:25:11]

立岩:そのかた、親が80ぐらいのおじさんというか。

益留:たぶんそのぐらいだと思う。

立岩:ところでその病院って、部屋的には。

益留:6人部屋でしたね。

立岩:そのかたは部屋が同じだった、そんなことはない?

益留:部屋はちょっと別な部屋だったけど、なんとなくけっこう親しく話をしてくれてて。

立岩:6人部屋でしたか。そうかそうか。まあそんなこんなもあって、「じゃあ2年半でどうしよう」って時に、どうしたんですか?

益留:それで、兄がね、そうやって、「いや、こういう生活があるんだよ」っていうのを教えてくれて。で、介護者が来てくれて、で、そういう「自立生活っていうのがあるんだよ」っていうふうに教えてくれて。「はあー」と思いながらも、まあとにかく、まずとにかく免許が取りにいきたい。東久留米の、通うには、田無ってすごい近いと思って、それで「行こう」って思って退院してきたっていうのが、いちばんそれが。まあほんとに、なんとかなるだろって。

立岩:東久留米のとこで免許を取ろうって。で、近いところだと田無。

益留:そうそうそうそう。それである程度自分で動けたっていうか、車いすに乗るのも自分でできたし、トイレも自分でなんとか設備を整えればできたし。

立岩:その、下半身っていうか、脚っていうかっていうのは、事故って病院行って、リハビリっていうか、その関東の間(かん)、おおむねそんなに変わんないって感じですか? 上体の動かし方を練習っていうか、そういう感じだったんですかね。

益留:まあそうですね。とりあえずその、何だろ...。とにかく、自分で動けないなりの。たとえば、右手では物が持てないけど、左手ではこう持てる。で、ある程度自分で着替えることも、ようするに普通には伸ばせないけど別な筋肉を使えばこう伸ばせるっていうのを教わってっていうか、リハビリして。それで何ていうのかな、ある程度【けいせい】(00:27:49)を利用して起きるとか、【けいせい】(00:27:53)を利用して車いすに移動するとか、まあそういうのをこう。

立岩:そういう技はちょっと身につけて、みたいな感じだった。

益留:だからそういう意味でいえば、リハビリはものすごくやりました。ようするに、とにかく一人でできるようになるためにっていうので、ある程度なんとかなるだろうっていう自信もあって出てきたっていうのはありますよね。

立岩:田無でアパート借りたりしたんですか?

益留:いや。その時はね、たまたまボランティアの人が都営アパートで一人暮らしをしてるっていうんで、3DKのアパートの中のひと部屋貸してくれるって。トイレもすのこを付けて入(はい)れるように改造っていうか、そういうのいいよって言ってくれて。で、昼間はその人仕事に行ってたんで、昼間は自分でそうやって、ボランティアとか、そういうのを探して。外出とか食事の介助とか。あとは兄がその近くに、にんじん分校っていうか、にんじん保育園に勤めてたんで、そこからお昼を運んでくれたりとか。そういうのをやりくりしながら、出前とったりとかね、そういうので一人暮らしを。一人暮らしというか、居候ですね。それをだいたい8か月ぐらいしてたのかな。

立岩:田無に移ったの、何年何月か覚えてらっしゃいますか?

益留:それはね、☆1981年の11月だったと思うんですけどね。。で、☆82年の8月には一人暮らししたのかな。アパートを借りて。

立岩:やっぱ田無で。

益留:そうそうそうそう、田無で。

立岩:そういう意味じゃ、田無めちゃめちゃ長いですか? それからずっと?

益留:そうそうそうそう。82年からだから、もう40年ぐらい。

立岩:40年田無か。

益留:40年過ぎた。あ、40年過ぎましたね。

立岩:そんなもんだよね。じゃあもう、

益留:うん。ちょうど二十歳で来たから、41年ですね。

立岩:81、2でしょ。

益留:うん。

立岩:それから、さっきちょっと振り返ってみたら、☆自立生活企画は92年なのかな。

益留:そうですね、92年です。

立岩:ちょうどまあ10年ぐらい間があるわけじゃないですか。その間って、まあ...そうか、在障会の活動っていうのは、

益留:最初はね、それこそ荒木さんの石神井まで電車で通って。学習会だとか、区の交渉だとか、たまに東京都にちょっとよくわかんないまま連れていかれて、よくわかんないまま「お前しゃべれるから司会やれ」みたいな。まだ二十歳やそこらでそんな矢面に立たされて、大変な思いしましたけどね(笑)。
まあだから、けっきょくみんな脳性麻痺の人ばっかりだから、「しゃべれるやつ、当事者はお前しかいないからお前しゃべれ」みたいな感じで。

立岩:ありがちだよね。DPIだと尾上さん★。

益留:あ、そうそうそう、ああ、そうかもしれない。

立岩:尾上さん書記やらされたって。パソコン打つの速いし。

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