益留俊樹氏インタビュー・2――宇都宮辰範のこと等
20220519 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
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益留 俊樹
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×ばつ社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 20220519益留1034_
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【
○しろまる○しろまる】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。
※(注記)4つに分けてみました。
◆だいやまーく益留 俊樹 i2022a
インタビュー・1 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所(本頁)
◆だいやまーく益留 俊樹 i2022b
インタビュー・2――――宇都宮辰範のこと等 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所(本頁)
◆だいやまーく益留 俊樹 i2022c
インタビュー・3――――宇都宮辰範のこと等 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
◆だいやまーく益留 俊樹 i2022d
インタビュー・4――――宇都宮辰範のこと等 2022年05月19日 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所
益留:当時ね、だから、石神井庁舎とか、あと、都庁、まだ有楽町の時、行ってね。そこで新田さんと会ったのか。その前にやっぱ兄貴の紹介で、新田さん、三井絹子さんとかに出会って、それで、「学習会やるからちょっと来たら?」みたいなふうに。82年の夏かな、そのくらい。82年か83年だと思うけど、夏にね、武蔵関のなんとか神学校。キリスト教系の学校なのかな、学院なのかちょっとよくわからないけど。
立岩:どこの駅なの?
益留:武蔵関って、このとなりのとなり。そこの学院で合宿をやるっていうんで。2泊3日か何かで。で、ほんとに見たこともない脳性麻痺の人たちが来て。で、その時にね、私、宇都宮さん★と会ってるんですよ。
★
宇都宮 辰範(1953年06月04日〜1984年02月20日),
・東京都中野区新井2-3-20おおくら荘 *骨形成不全1.1
・19530604 愛媛生 就学免除 1978に四国宇和島から東京に出てきて一人暮らし 生活のほとんどに介助を要する 1984年2月20日死去 (立岩が1987あたりにとったメモ)
立岩:会ってんだ。
益留:そこで会ってるんですよ。それで、いわゆる制度学習っていうのかな、生活保護の勉強だとか、ヘルパーの勉強会だとか、運動のそういうのをやって、ほいで夜中までぐだぐた話をして、朝5時とかそんくらいかな、体育館にごろ寝してたわけですよ。そしたらね、ばたばたばたばた走り回ってる人がいるわけ。それで「うるせーな、誰だ」と思って見たら、
新田勲(1940年09月26日〜2013年01月02日)★が走ってる(笑)。
立岩:何? 新田が走ってた?
益留:新田勲は走れる。『愛雪』★にも書いてるけど、彼は朝の1時間だけしゃべれて、走れたんですよね。で、ランニングしてたの。毎朝ジョギングで走ってたりしたので、その時「うおー、何だこの人は」って感じで。あんなよだれ垂らしてしゃべれなくて「うー」とか言ってる人がなんで走ってんだとかってびっくりしたっていうのは、すごく印象に残ってますね。
立岩:いろんな意味で不思議な人でしたよね。
益留:いやいやいやまあちょっとね、インパクトのある人でしたよ。そこでだから、そういう重度障害者の運動っていうかな、お歴々にその時会ってましたね。高橋修★とかね。
立岩:修さんなんかももうその時あたりに関わっていらしたのかな。
益留:それはちょっともうちょっとあとかな。その時にね、たぶん三多摩在障会っていうのを作ったんですよ。で、ちょうど私たちも荒木さんとこに行って、田無でも在障会を作ろうっていうので何人かの障害者の人たちと在障会っていうのを始めて。で、学習会してる時に兄は新田さんとか三井さんとか紹介してくれて。それで、じゃあ在障会やってるんだったらば合宿やろうっていうので、武蔵関でたぶん合宿したんだろうと思うんですよね。
立岩:それって何年頃なんだろうね?
益留:何年でしょうね。たぶん83年、84年ぐらいだと思うなあ。三多摩在障会★を作った年がたぶん出会った年ですね。
立岩:宇都宮さんって84年に亡くなってんだよね〔1984年02月20日逝去〕。
益留:そうですね。
立岩:じゃあその前はその前か。
益留:そうですね。宇都宮さんとは、だからね、それもすごい不思議な出会いで。宇都宮さんとは最初に出会ったのは◇82年かな。ちょうどその頃、軍拡っていうんですかね、レーガンがソ連に対抗して軍拡やって、中曽根が不沈空母発言★みたいな、日本列島を不沈空母にするみたいな、そういう発言とかがあって、ものすごく核戦争の恐怖っていうのが世相的にもすごくあって。で、代々木で反戦集会、反核集会っていうのをやるっていうので、ちょうどボランティアで来てた市民運動の人とか何人かいたんですよ。主婦の人とか、学生運動崩れのおっさんとか、そういう人たちがいて。「じゃあ一緒に代々木行こうか」って言って、その時に初めて田無の駅を使ったんだけど。
★1983年1月。
発言全文
https://ja.wikipedia.org/wiki/不沈空母
「1983年(昭和58年)、日本の内閣総理大臣であった中曽根康弘は、アメリカ合衆国を訪問した際にワシントン・ポスト社主との朝食会に臨み、ソビエト連邦からの爆撃機による攻撃の脅威に対抗し、アメリカ合衆国連邦政府を支援するため、日本は太平洋における「不沈空母」にすると発言した[8][9]。」
立岩:代々木に行くために。
益留:行くために。その時に行こうとしたら...もちろん階段で行くんだけど、改札がね。通ろうとしたら、改札通れなくて。
立岩:幅的にってことですか?
益留:幅的に通れなくて。「じゃあ」ってこう、お神輿。改札口を乗り越えて。
立岩:あ、こう。
益留:そうそうそうそう。階段はまだここに人が立ってるからいいんだけど、改札。もうここに人がいないわけです、お神輿だから。ほんとに「落ちたら死ぬ」的な。ベルトもなんにもしてないし。そういう恐怖もありながらも、でも、あの時は行きましたね。で、代々木公園行って。フェンスもそれで乗り越えて(笑)。そうそうそうそう。
それでその時にね、ちょうど私の介護者っていうかボランティアが、宇都宮さんの介護者募集のちらしを拾...もらって。なんかそのかた、当時野方に住んでて、新宿線沿いなんですよ。
立岩:集会で拾ったってこと?
益留:そうそうそうそう。集会でそのちらしをもらって。で、「宇都宮さんっていう人がいて、こういう人が一人暮らししてるよ。行ってみたら?」っていうふうに紹介してくれて。
立岩:集会に宇都宮さんが来てたのか。支援者で。
益留:来てたんですよね。
立岩:本人もいたのかな。
益留:うん、そうですね。
立岩:それで支援者のビラまいたりなんかしてたっていうのを拾っていうか。
益留:そうですね。
立岩:そしたらそういう人がどうやらいると。それまでぜんぜん知らんかって。
益留:いやあもうまったくまったく。そんな、誰がどこに住んでるかなんてまったく知らないし。それで、電話して。そしたら、言語障害ないから、健常者だと思ったみたいで。最初は普通に話してくれてたんですけど、途中で「いや、障害者で」って言ったら、「え、障害者?」みたいな感じで。「え! 頚椎損傷? 中途障害?」みたいな、声色が変わってきちゃって。それで、「ちょっとお話聞きたいんですけど」みたいな、まあそんなことで「じゃあ、おいで」みたいな。本人が言ってくれて。
それで介護者をね、なかなか見つかんないから、「いないんですけど」ってな話をしたら、「それじゃあとりあえず駅までおいで。駅まで来たら、介護者こっちで用意しとくから、野方の駅までおいで」っていうふうに言われて。で、介護者に、ボランティアの人に野方まで送ってもらったのかな。ちょっとよく覚えてないけど、それで何とか野方の駅まで行って。当時はね、もう改札も通れるようになってたんで、大勢で行かなくても普通に通れて。とりあえず駅の階段だけちょっと手伝ってもらって。通りがかりの人にね。それで野方まで行って。そしたらそこに来てたボランティアっていうのが大沢〔豊〕さん★ですよ。[00:40:54]
★ 大沢豊。立川市市議会議員等を務める。(高橋修さんへのインタビューに同席)
立岩:大沢豊さん? 立川の。
益留:立川の。もちろんぜんぜん知らないけど。それで「あ、益留です」みたいな。「宇都宮さんのとこに来たんだけど」って言って、野方のアパートまで大沢さんが送ってくれて。それで、ちょうど話をしてて。で、もうそれも「何時までいられるの?」「ちょっと介護の都合で4時まで」「じゃあ介護者探してあげるから、ごはん食べていきなよ」って言われて、「ええー」みたいな感じで。それで「ああ、わかりました」みたいな。で、ごはん食べさせてもらって、いろいろ話して。その中で、「益留くんはなんで靴履いてるんだ」みたいな話になって。
立岩:靴?
益留:靴。「なんで靴履いてんだ」とかって言われて、「なんでって、いやまあ飾りですよ」みたいな感じで今みたいに言ったら、「えー、飾りなんだ。飾りだったら頭にかぶったらいいのに」みたいな(笑)。あの独特の嫌味を言われて。
会ったことあるんですか?
立岩:ないんですよ。
益留:あ、ないんだ。
立岩:ぼくがインタビュー調査やら始めたのは1985年で、その時には宇都宮さん亡くなられてました。
益留:そうかそうか。もうむちゃくちゃ頭のいい人でね、もう返しがすごいわけですよ。もうそうやって、嫌味でね。それで最初の電話の時も「中途障害かー」みたいなふうに、「なんなのこの人?」みたいなふうに思いながらも、会って。それで、「ねえ、中途障害はねえ、ほんとねえ、頑張るよねえ」みたいな。「ほんとえらいよねえ」みたいなふうに言われて。さんざんそうやって嫌味なことをね、嫌味だって最初わかんないわけ。「頑張ってる」って言われてるんだろうなって思って、「いやまあ、自分でやるのが当たり前だから」「やっぱりねえ、できないよりできるほうがいいから」みたいなふうにこう答えてたら、「そうだよねえ、ほんとえらいよねえ」みたいな、こうぼくが言ってる時に、そうやってね、「なんで靴履いてんの?」みたいなこと言われて。そうやって嫌味言う人だから、私も「飾りですよ」みたいなふうに言ったら、もう即、すぐに「頭にかぶったほうがいいのに」って返されて。
立岩:そういう感じの人だったのね。
益留:もう、すごいねえ、あの...まあ返しがすごくできる頭のいい人。
立岩:イラスト描いたりもしたんですよね?
益留:彼はイラストレーターですよ。最初東京に出てきた動機っていうのは、最初にだから、たぶん
牧口〔一二〕さん★とこに「仕事がないか」ってたぶん行って、それで、ちょっと仕事ないっていうので、そこから東京に出てきたっていうのはたぶん出だしだと思うんですよね。
立岩:牧口さんって大阪の牧口さんですよね?
益留:大阪の牧口さん。
★牧口が宇都宮について。
・牧口 一二 1995
『何が不自由で、どちらが自由か――ちがうことこそばんざい』,河合文化教育研究所,河合ブックレット26
宇都宮について。
・
牧口 一二・新谷 知子・多比良 建夫 20011220
『風の旅人』,解放出版社
立岩:そういうことなのか。ぼくは
本間康二っていう、
『月刊障害者問題』っていうのをやってた人、彼にもインタビューしたんだけど★、彼にイラスト描いてもらったって言ってたな。
★本間 康二 i2017
インタビュー 2017年09月15日 聞き手:立岩真也 於:東京・蔵前
益留:ああ、そうそうそうそう。そうです、そうです、それで、
立岩:それは何? 骨形成不全もいろいろっちゃいろいろいるじゃないですか。口は達者なわけだよね、だから。
益留:そうそうそう。
立岩:体は? ストレッチャーで東京まで来たっていう話を。
益留:まったく。まったく左手のここだけ。こうやって寝て、こうやってイラスト描くの。こうやって、こう、ほんとに。[00:45:02]
立岩:左手、
益留:そうそうそう。ようするに、
立岩:片っぽの手が、
益留:こういうふうにして、こうやって、
立岩:手首の上ぐらいから動くわけ?
益留:そうそうそう。これでイラストを描いてる。
立岩:ふーん、そういう人だったんだ。
益留:そうそう。それでけっこう、散文っていうかね、文章うまくて。なかなか面白い文章を書いてる人で。
立岩:33になる前に亡くなってるんじゃないかな。32とかだよね。若いですよね。
益留:そうですねえ、そう。若い。
立岩:体調崩されたんですか?
■しかく島田療育園・脱走事件
益留:けっきょくあの時はね、あれ知ってますかね? 島田療育園の女性障害者が「外に出たい」って言って、
立岩:脱走事件っていうやつ。
益留:そう。職員が何人か手伝って、脱走だの家出だの誘拐だのってすごい大騒ぎになって。
立岩:誘拐だのって裁判になったやつですね。
益留:裁判になったんだけど、その時にその島田療育園に支援に行ってるんですよ、真冬に。それでこう外から、あの、
立岩:七人委員会★とかってのがあった。その七人のうちの一人だよね。
益留:そうそう。それで【トラメガ】(00:46:30)で支援に行って。で、けっきょくその時に風邪ひいてそれが肺炎起こしちゃって。彼の肺が、ようするに普通、肺が横にこう...横にっていうかこうね、なってんだけど、それがずっと寝た状態だから、肺が下にくぼんだ状態に変形してたらしくて、そこにどうも水が溜まって肺炎起こして。それがけっきょく、致命傷だったんですね。
立岩:そうか。たしか〔1982年の〕12月の末とかですよ、その島田にみんなそうやって。
益留:そうです、そうです。亡くなったのが〔1984年〕1月かな、2月かな。
立岩:そういうことなのか。
益留:そうです。それが一番の原因で。
★立岩真也 2017年09月05日
「もらったものについて・17」,
『そよ風のように街に出よう』91:60-67
「島田療育園での脱走事件
「拝啓」と座談会の約二〇年後(八二年一月)、その水上が公的な支援を訴えた島田療育園で、そこにいた斉藤秀子という人の「脱走事件」が起こった。とくに重症心身障害児施設の初期には、知的と身体の重度障害の重複する子どもが重症心身障害児という定義とは異なった人たちがかなりいた。斉藤は脳性まひの人で、発話に障害はあったが、作文を園の文章に載せたりしていた。サリドマイド児がかなりの数暮らしていたこともある。そしてかつて子どもだった人も、成人しても他に行くところもなく、施設にとどまっていた。斉藤は当時三二歳だった。その「脱走」を支援した施設職員は懲戒解雇された。その撤回を求めて裁判が闘われた。その中で施設側は、斉藤には知的な判断能力がないから施設を出る出ないの決定を本人がなすことはできない、勝手に職員たちが連れ出したのだといったことを主張した。島田療育園に連れ戻された斉藤には面会もままならないことになった。それに抗議した人たちがいた。
本間康二(『月刊障害者問題』)、
三井絹子(府中療育センター→かたつむりの家)らが八二年十二月、施設の前で泊まりこみ、呼びかけた。そこまでのことは、『季刊福祉労働』(現代書館)と荘田智彦
『同行者たち』(現代書館、八三年)に書かれているから、ある程度のことはわかる。そして
尾上浩二からもらった資料の中にそのときの抗議書、ビラが見つかった。そしてそこらあたりまでのことは今回の
『相模原障害者殺傷事件』の第一部第二章に書いた。なぜ書いたか。これもおわかりと思う。それは、作ることを求められ、存在することがよいことであると賞賛された施設でのできごとだった。そして施設を出ること、どこで生活するか、それをどう考えるかどうするかに関わっている。家族、本人や、本人の意志をどう扱うかに関わっている。」
■しかく
益留:で、結婚してて、彼。実は彼の奥さんの大学の後輩が、うちのつれあいなんですよ。しかも、そのさっき「ごはん食べてけよ、ボランティア探してあげるから」って探してくれたのが、つれあいなんですよ。
立岩:え、今のっていうか、そのうちつれあいになる人にその時に会ったってこと?
益留:そうそうそう。
立岩:宇都宮さんが、まあ言ったら紹介っていうかしてくれて、で、何だかんだ。そうなんだ。
益留:そうそう。
立岩:そういうことあるんだね。
益留:しかもね、びっくりしたのが、【『口で歩く』】(00:48:14)って牧口さんがエッセイ集っていうか小説っていうんですか、出してるじゃないですか→『口で歩く』って絵本が出てるじゃないですか。】★。うち子どもが二人いて、子どもの道徳の時間か何かに先生がそれを紹介らしいんですよ。
★丘 修三:文・立花 尚之介:絵 2000 『口で歩く』,小峰書店,94p. ISBN-10:4338170069 ISBN-13:978-4338170062
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[kinokuniya] ※(注記)
益留:宇都宮さんっていう人が、
立岩:のことを書いてるやつですね。
益留:そうそうそう。「今日ね、学校でね、こういう勉強したの」みたいな。「こういうのを読んだの」みたいなことを言って。「え、それ宇都宮さんだよ。うちのお母ちゃんとの出会いを紹介してくれた人だよ」みたいな。「えー」とかって言ってね。そうそう、それはちょっとびっくりしましたね。紹介してくれた先生もね、ちょっとすてきな人だったんだけど。
立岩:へー。ちょっと脱線ですけど、益留さんのとこのお子さんって、もういい歳になってる?
益留:もう上が27で、下が20...、今年5かな。
立岩:27と25か。うちのが31とかだから、もうなんかおじさんだよね。おじさんっていうか、そこそこの歳ですよね。そうですか、それがまあ馴れ初めっちゃあ馴れ初めなんだ。
益留:まあそうですね。
立岩:そんなことあるんだね。[00:49:26]
益留:そうそう。出会った...その期間は短いけども、ものすごい宇都宮さんには感化されたっていうか。いわゆる介護者との関係とか、「自立とは」っていう、たんに介護を受けるっていうことに対しても、いわゆる「頼む」っていうことと「頼る」っていうことはちがうよっていうふうに。それは頼ったらもうそれこそね、依存っていうことになるけど、頼むんだったらば、そこにいわゆる主体性があって、で、そこにやっぱり自分の意思がやっぱり反映されていくんだっていうようなことをやっぱり言われて。いわゆる「なぜ中途障害者がだめなのか」っていうことをほんとすごい学んだっていうか。障害があるっていうことに対する、何ていうのかな、意味というのかな、それをすごく教わった。
彼と出会って...。まあだから最初にほんとに宇都宮...荒木さん、村田さんとね、出会って、「あ、重度障害者でも生活できるんだ」、まあその時は「頑張れば自分でもできるんだ」っていうふうに思って出てきたけど、宇都宮さんに出会って、「もう頑張んなくてもいいんだ」っていうか、「いいんだ」っていうことを教わったっていうか。ようするに、「頑張る」っていうのはようするに自分で何でもやって、それこそ1時間とか2時間かけて着替えして、へとへとになって一日を過ごすよりも、5分で手伝ってもらって、介護者と一緒に出掛けて、関係作って、社会との接点持つほうが、いわゆる「自立」なんだっていうことを学んだんですね。それはね、やっぱり大きな出会いでしたね。
立岩:そういうことなんだ。その接点は知らなかったな。
益留:そうですね、それは。
立岩:その頃って、宇都宮さんにしても何? 生保とって、介護の、介助、介護のほうってのさっきボランティアっておっしゃったけど、たいがいそんな感じでやったのかな。大沢さんも含めて。
益留:そうです、そうです。大沢さんも最初に宇都宮さんと出会ったのは、あれですよ。ヒッチハイクじゃないけど、途中で、たぶん船の上か何かで会ったって言ったのかなあ。そうそう、それで、
立岩:船ってことは何? 四国からってことかな?
益留:たぶんそのへんだと思う。どこかわからないけれど、とにかく大阪に行く間で出会って、で、彼が連絡帳っていうのを作ってて、それに全部書いてくれてて。それで、「何かあったら、東京来たら、遊びに来たら、まあ連絡ちょうだいよ」みたいな、たぶんそういうやりとりなのかな。
立岩:じゃあ東京に来てからじゃなくて、どっかの海上で会ってんだ。
益留:そう、どっかで会ってる。それは大沢さんに聞いたほうがいいと思うけど。
それで、「東京に出てきたから」って、いきなりなんか電話が来て。それで大沢さんも「いきなり電話が来てさ」みたいな。それでほんとに週に2回3回介護に来るみたいな。で、宇都宮さんもそれでアパート見つけて、それで「もうこっちに越すから」みたいな。お母ちゃんに電話して、
立岩:中野区か。
益留:そうそうそう。「住民票送って」みたいな感じで、中野の野方に暮らしてたっていうことですよね。
立岩:そんなことがあった、80年代のまんなかぐらいですよね。それでその在障会やって、92年の自立生活企画っていうふうになってくのが、今日電車のなかで復習したとこだと、やっぱり在障会要求運動? 東京都ならそれはやるけど、実際にサービスっていうか、そういうものが来るのは待ってなきゃいけないっていう。それは嫌だよねって書いてあった。