【宇垣美里の漫画党宣言!】(87) 簡単な"正しさ"の先にあるもの

「魂で人と出会えたらどれだけ楽だろう」と思ったことがある。仕事や恋愛、人生におけるありとあらゆるイベントにおいて、私達は選んだわけでもない己の容姿に振り回され、ジャッジされ続けているから。いや、そうなったらそうなったで、きっと魂の色とか大きさで同じことが起こるんだろうな。『ブスなんて言わないで』は、そんな私達が囚われている強固なルッキズム、つまり人を見た目で判断する価値観をぶっ潰さんと戦う作品だ。高校時代にブスだからという理由で苛められた経験がトラウマとなり、知子は今も顔を隠して生きている。ある日、自分を苛めていた美人の同級生・梨花が美容研究家として"反ルッキズム"を掲げ、成功していることを知り、彼女への復讐を決意する。知子は叫ぶ。「美人にルッキズムの何がわかるっていうんだよ」。でも、只でさえ生きるって大変なことなのに、そのつらさを相対化することなんてできるわけがないじゃないか。梨花は、「美しく生まれてしまった者には美しく生まれてしまった者なりの地獄があるんだよ」とこぼした。彼女もまた、容姿によって勝手にイメージを押し付けられる苦しさを味わってきた者だから。私がどうしても梨花に感情移入してしまうのは、致し方ないことだろう。走るのが早い人がいるように、数字に強い人がいるように、私はどうやら見た目がいいらしいと大学生の頃に知った。陸上選手や物理学者と同じように、縁あってアナウンサーという見られる職業に就いた。だって喋るのが得意だったから。

けれど、外見への過剰な言及や、一方的な欲望をぶつけられることが増えるほどに、いつしか自分が張りぼてのお人形さんみたいだと感じるようになっていった。喋るのが得意だろうが、書くのが得意だろうが、皆どうでもいいみたい。この世には美しい容貌を崇めるばっかりに、その内側には誰しも人格や感情や欲望といった人間らしさが秘められていることを忘れてしまう人が多過ぎる。皮を剝げば、皆同様に血肉の詰まった人間なのに。知子や梨花以外にも、低身長に悩みシークレットブーツを履く男性や、摂食障害に苦しんだ経験のあるプラスサイズモデル、ブスの自虐ネタがウケなくなった女芸人等、ルッキズムに対し異なるコンプレックスを持つ様々なキャラクターが登場し、ガンガンと意見をぶつけ合う。そのリアルで明け透けな本音の吐露には迫力を感じるほど。美人とブス、加害者と被害者といった安易な対立構造にはせず、其々の置かれた環境から見た多様な現実を描くことで、簡単な"正しさ"に物語を着地させない。多様性を謳ったミスコンに対する様々な主張や、女性誌の内容の移り変わりも取り上げ、あらゆる角度からルッキズムの問題を深掘りしているところに、作者の誠実さと視野の広さを感じた。ルッキズムが誰の事も幸せにしないのはわかっている。でも、悩みの形は各々違うからこそ、そこに絶対的な正解などある筈もなく、己のコンプレックスや他者の痛みとどう向き合うか、ずっとずっと考えている。結論は未だ出ない。ただ、この先、同じものに苦しめられている知子と梨花が、いがみ合うのではなく手を取り合って、強いられた美しさの枷をぶっ壊していく未来を夢見ずにはいられない。


宇垣美里(うがき・みさと) フリーアナウンサー。1991年、兵庫県生まれ。同志社大学政策学部卒業後、『TBS』に入社。『スーパーサッカーJ+』や『あさチャン!』等を担当。2019年4月からフリーに。著書に『風をたべる』(集英社)・『宇垣美里のコスメ愛』(小学館)・『愛しのショコラ』(KADOKAWA)。近著に『風をたべる2』(集英社)。


キャプチャ 2022年12月22日号掲載

テーマ : 漫画
ジャンル : アニメ・コミック

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【ソビエト連邦崩壊と今】(05) 第二クーデター、森の密議で連邦消滅



20221230 20
「フランスより大きい欧州の独立国として、我々はソ連と永遠に完全決別するのだ」――。1991年12月1日、ソ連第二の共和国であったウクライナでは独立の是非を問う国民投票が行なわれ、賛成が90.3%にも上った。この結果に沸く首都キエフで、人民運動『ルフ』の面々は酷寒の中で興奮に震えていた。都心のあちこちで、"ソ連の穀倉"を象徴する小麦の黄色と、空の青色から成る伝統のウクライナ国旗が誇らしく揺れていた。ウクライナでの独立派大勝利が、程なく7〜8日に行なわれたロシアのボリス・エリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシュケビッチのスラブ3共和国首脳の会談で、極めて重要な意味を持った。ベラルーシのポーランド国境に近い『ベロベーシの森』にある政府要人別荘に集まった首脳らは、ソ連を一気に消滅させ、『独立国家共同体(CIS)』を創設する合意をした。8日夜、キエフから転戦したベラルーシの首都ミンスクで、私は同国外務省が発表した3首脳合意文書をひったくってタクシーに乗り込んだ。薄暗い電灯に翳してそれを読み出した途端、頭に電撃が走った。紛れもない"ソ連消滅宣言"だった。「ソ連邦は国際法の主体として、地政学的な現実として、存在を停止する」。ミハイル・ゴルバチョフ大統領をこの年の8月、クリミア半島の別荘に軟禁し、全権奪取を図ったソ連守旧派による事件を第一クーデターと呼ぶなら、ベロベーシの密議は第二クーデターだった。

会談後、事務局が真っ先に"ソ連消滅"を電話連絡したのは、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領と、ウクライナにも配備されていた核兵器の管理を担うソ連のエフゲニー・シャポシニコフ国防大臣だった。ゴルバチョフ氏は完全にはしごを外され、12月25日に辞任した。「実は、ベロベーシ会談の1年半も前、1990年6月12日にロシア人民代議員大会が圧倒的多数で"主権宣言"を採択した時点で、我々はCIS創設に動き出した。何の政治的枠組みもないままソ連を消滅させ、新たな独立国同士でユーゴスラビアのような流血の民族紛争が起きないよう未然に防ぐ為の決断だった」。エリツィン大統領の戦略参謀でベロベーシ合意のシナリオを描いたロシアのゲンナジー・ブルブリス国務長官は後日、こう明かしてくれた。ところが、現実にはソ連末期、民族独立運動の高まりの中で、ウクライナ南部クリミア半島の帰属を巡るウクライナとロシアの争いが顕在化してきていた。クリミアは元々、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフが1954年、嘗て自身が約11年間も共産党第一書記を務めたウクライナに、ロシアからの"贈り物"として移管した経緯があった。結局、ベロベーシ協定には「ウクライナを何とか法的、政治的に我々との協力に引き止めたい」(ブルブリス氏)と考えたロシアが、苦肉の策として植えこんだ"仕掛け"があった。同協定は全14条から成るが、その中に特別に領土条項((注記)第5条)を設け、「共同体の枠内で相互の領土保全と現存する国境線の不可侵を認め、尊重する。国境の開放性、移動と情報伝達の自由を保障する」とした。"仕掛け"とは"共同体の枠内で"のフレーズである。つまり、ウクライナがCISに留まっている限りは、ロシアはクリミアの返還要求等領土的提起はしないとの意味だ。「しかし、クラフチュク氏の頭の中はエリツィン陣営とは正反対で、表向きはCISに加わるが、好機を捉えてロシアと円満離婚し、共同体から完全離脱する道を考えていた」。日本在住のウクライナ人国際政治学者であるグレンコ・アンドリー氏は、当時の同床異夢をこう解説する。ウクライナでは2004年に親欧米政権が成立した『オレンジ革命』、2014年に親露派政権と民衆との騒乱の末、大統領がロシアに逃げた『マイダン(広場)革命』等の度に、『北大西洋条約機構(NATO)』やEUへの加盟が取り沙汰された。危機感を募らせたプーチン政権は、遂にマイダン革命直後の2014年3月、ベロベーシ協定の領土条項などお構いなしに、国際法を蹂躙してクリミア併合を強行した。これを受けてウクライナはCIS離脱を宣言したが、ロシアは認めていない。CISはあくまで対等な主権国家同士の連合体であり、ロシアが事実上、他の共和国を支配していたソ連とは違うにも拘わらず、だ。ロシア帝国再興を狙うプーチン氏の身勝手さと、どす黒い底意を読み取れる。プーチン氏は今年7月、「ロシア人とウクライナ人は一つの民族だ」とする論文を発表して誘い水を出したが、ウクライナのゼレンスキー大統領は「ロシアの我が国に対する態度は真に兄弟的とは言えず、"カインとアベル"の関係を思わせる」と真っ向から反論した。

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テーマ : 国際政治
ジャンル : 政治・経済

  • 2022年12月30日(23:44:29) :
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【国防解体新書】(02) 敵の政治指導者を翻弄..."認知戦"が始まった!



20221230 19
昨年末、防衛省で"認知戦"という言葉を初めて耳にした。宇宙・サイバー・電磁波に続く新たな領域とも聞いた。年明けに認知戦の取材を始めた直後、アメリカ政府が機密情報を元に極めて斬新な警告を発した。「ロシアはウクライナに侵攻する口実にするため、工作員をウクライナ東部に配置し、親露派武装勢力への破壊行為を自演する工作を進めている」。2月24日のウクライナ侵攻開始から1ヵ月以上前の1月14日、アメリカのジェン・サキ大統領報道官((注記)当時)はロシアが画策している工作をそう暴露した。ロシアが、味方である親露派武装勢力にウクライナの仕業にみせかけた自作自演の攻撃を行なうとの警鐘だった。自作自演の攻撃は偽旗作戦とも呼ばれ、このような情報をアメリカ政府が発信するのは異例だ。ロシアの極秘作戦と事前に暴いたアメリカの意図は何だったのか。ロシアは自作自演の攻撃でウクライナの不当さと不正義を捏造し、反撃としてウクライナに侵攻する正当性と正義を主張しようとした。それを察知したアメリカは、機密情報を明かしてまで防いだという攻防だった。自作自演の攻撃で「ウクライナは悪だ」とのロシアの主張が説得力を持っていれば、どうだったか。ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領と軍指揮官は、「ロシアと戦う政治決断と戦闘指揮に迷いと狂いが生じていた筈だ」(日本政府高官)。逆に、ロシアは正当性と正義を掲げて攻め入り、最小の軍事的損害で侵攻を達成する可能性があった。この米露の攻防は"情報戦"のひとつではある。

情報戦は情報操作や情報統制、プロパガンダ、世論・メディア工作で政治指導者から国民まで敵の幅広いターゲットの判断を混乱させる。だが、米露の攻防は情報戦の中でも特筆すべき新たな戦い方として、焦点があてられている。それが認知戦だ。認知戦の特徴は、判断を惑わせるターゲットが幅広い他の情報戦と異なり、政治指導者や軍指揮官ら敵の意思決定者をピンポイントでターゲットにすることにある。ウクライナであればゼレンスキー氏らであり、ロシアではウラジーミル・プーチン大統領だ。情報を武器に敵の政治指導者らの判断を翻弄し、自国に望ましい意思決定に誘導することを狙う。認知戦と他の情報戦には、もうひとつ違いがある。情報戦は情報を発信する"出し手"の意図に着目し、情報が相手にどう受け止められているかには関心が持たれない。対して、認知戦はターゲットにされた意思決定者ら情報の"受け手"の判断が如何に影響されるかに着目する。認知戦で相手の意思決定者にどう影響を与えるか、企業活動で想定してみる。「A社の既存の製品について、ライバルのB社が明確に否定し難い性能不良をでっち上げ、偽情報をSNS上で拡散して話題となる」「A社は新製品の発売を計画していたが、意思決定者の経営者は世間の厳しい目を受けて、発売見送りを決めた。その隙にB社は同種の新製品を先んじて発売し、利益を得る」――。これは認知戦でカギを握る手法で、偽情報を使い、ライバル(=敵)に対し有利な状況を作る"環境醸成作戦"と呼ぶ。ロシアが企てた自作自演の攻撃も、環境醸成作戦の典型だった。認知戦は、ロシアがクリミア半島を併合した2014年以前からウクライナで行なってきた情報操作等の非軍事的手段を軍事的手段に組み合わせるハイブリッド戦を進化させたものだ。アメリカ政府は、プーチン氏のウクライナ侵攻決断やロシア軍の動向も次々と詳らかにした。正しい情報を伝え、ロシアのハイブリッド戦に再び煮え湯を飲まされてはならないとの決意が込められていた。認知戦に詳しい日本政府高官は、「アメリカ政府が明かした情報は正確で、ロシアの作戦の機先を制する情報戦では優位に立った」と分析した上で、こう指摘した。「認知戦では負けた」。アメリカ政府が認知戦で敗北したというのは、ウクライナ侵攻という最大の意思決定をプーチン氏に踏みとどまらせることができなかったことを指す。つまり、意思決定を変えられず、侵攻の抑止に失敗した為だ。繰り返し強調すれば、認知戦は情報を武器に、相手の政治指導者らの意思決定を変えられるかどうかで作戦の成否が決まる。どの段階で、どんな情報を突きつけて翻弄していれば、プーチン氏の侵攻決断を阻止できたのか。ウクライナ侵攻から認知戦の教訓を導き出すことは、アメリカを始め西側諸国の課題となった。

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テーマ : 軍事・安全保障・国防・戦争
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  • 2022年12月30日(23:44:27) :
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【日本の領土を考える】(03) 台湾から南洋群島へ

20221230 18
台湾は、近代国家の道を歩み始めた日本が初めて異民族統治を行なった地である。日清戦争((注記)1894〜1895年)に勝利し、清から領有権を得た。"前段"がある。明治4(1871)年、台風に遭い台湾へ漂着した琉球・宮古島の島民54人が殺害された。明治政府は清国に対処を求めたが、台湾は"化外の地"として取り合わなかった為、日本は明治7年4月、軍を台湾へ派遣する((注記)台湾出兵)。日本軍の海外派兵は、これが初めてだった。この時期、明治の新政府内では、"南"の台湾出兵問題と共に、"北"への征韓論が巻き起こっていた。開国に応じない朝鮮への出兵案である。その先には、南下を狙う大国・ロシアの存在がちらついていた。だが、当時の日本にロシアと一戦構える国力はない。征韓論派は敗れ去り、日本は"南"へ向かう。台湾出兵で日本軍は、問題の発端となった島民を殺害した台湾の先住民族の地域等に侵攻するが、マラリアによって多数の戦病死者を出してしまう。結局、イギリスの仲介で同年10月、清が見舞金を支払うこと等の条件で両国の和解が成立した。日本は台湾に足がかりを得ると共に、"南"の琉球の島民について日本が保護に動き、清も抗議しなかったことから、"琉球は日本に帰属する"という国際的な認識が定着する。明治9年には、やはり"南"の小笠原諸島の領有を日本が宣言。国際社会に日本領であることを周知した。この前年の明治8年、ロシアとの間で『樺太・千島交換条約』が結ばれたことは前回書いた。この時点で、日本は"北"で事を起こすことを避けたのである。駐露特命全権公使として交渉役を務めた榎本武揚((注記)1836-1908)も、次第に"南"へ傾いてゆく。

先述した小笠原諸島や南洋群島、更には明治24年に外務大臣に就任すると、移民課を新設し、メキシコ等への殖民を推進する。"北"への進出には強大な武力が必要だ。だが、未だ欧米列強の関心が比較的薄かった"南"の島々なら日本が買収して、日本人を移民させ、太平洋に一大経済ネットワークを構築する――。それが榎本の考えだったろう。"武力"によるものではなく、"産業・貿易"立国論である。冒頭に戻れば、"南"の第一歩が台湾統治であった。明治28年から始まった台湾統治に、日本は当初、苦労を重ねるが、そのスタイルは後の外地統治((注記)経営)のモデルとなる。道路・鉄道、港湾のインフラを整備し、学校や病院を建て、農業や産業を興して、近代化を図ってゆく方式だ。そして、台湾は日本の南洋開発・研究の拠点となる。全国に9つしかなかった帝国大学が台湾((注記)台北帝大)にできたのは昭和3(1928)年で、内地の大阪、名古屋帝大よりも早い。台北帝大には、熱帯農学の研究科や熱帯医学研究所、南方人文研究所、南方資源科学研究所等が次々とつくられた。その拠点で、甘蔗((注記)サトウキビ)を始めとする熱帯作物の品種改良や新種開発、或いは台湾出兵でも日本兵を苦しめたマラリア等熱帯病の研究が進められてゆく。日本が台湾で発展させた代表的な産業のひとつが製糖業だ。明治34年に渡台した新渡戸稲造((注記)1862-1933)が甘蔗研究の先鞭をつけ、収量が劣り、病気にも弱い台湾の在来種に代わってハワイ産の品種等の導入を提言。製糖会社も次々と台湾に設立され、台湾で粗糖((注記)原料糖)にして内地((注記)日本)で精製し、白糖にするビジネスモデルが確立した((注記)後には台湾でも白糖を生産)。それまで約4分の3を輸入に頼っていた砂糖は、完全自給を達成。そのうちの約85%を台湾産が占め、満州や中国にも輸出されるようになったのである。台湾の製糖会社は、第一次世界大戦後に日本が南洋群島の統治((注記)『国際連盟』の委任統治)を始めると、新たなビジネスチャンスと捉えて勢い込む。何しろ、亜熱帯の台湾よりも熱帯の南洋群島のほうが、甘蔗の成長は1.5倍以上早い。内地への距離が遠い分だけ輸送コストは嵩むが、収量が増える分だけ"ペイする"という目論見だった。ところが、大手に先行して、南洋群島・マリアナ諸島のサイパンで製糖工場をつくった業者は技術力もなく、無残な失敗に終わってしまう。"弱点"も見えてきた。小さな島の集まりである南洋群島は、全ての面積を合わせても東京都と同じ程度しかなく、九州に近い大きさの台湾と比べても甘蔗の栽培地を確保し難い。熟練した労働力の確保も課題とみられた。各島に散らばっている現地の島民は全部合わせても5万人程度で、"労働"という意識にも欠けている。大手製糖各社の南洋群島に関する興味が失われていく中で、敢えて南洋群島へ進出した男がいた。今も当地で"シュガーキング"と称される松江春次((注記)1876-1954)である。松江が初代社長に就いた『南洋興發』は初期の苦難を乗り越えて、サイパン、テニアン、ロタの各島に製糖工場を建設。最盛期には計約7万5000トン((注記)昭和13年度)の砂糖の生産に成功する。日本が委任統治した南洋群島は当時、内南洋、或いは裏南洋と呼ばれていた。更に、外側が外南洋((注記)表南洋)である。蘭印((注記)現在のインドネシア)やニューギニア、オセアニア((注記)フィリピンを含む場合も)等の地域だ。日本軍は昭和17年、蘭印ジャワでオランダ軍を破り、軍政を敷く。甘蔗の主産地である同地に糖業試験所を設け、品種改良等の研究を行なっている。各事業者も挙って外南洋へ進出した。昭和16年の南洋興發の『創立20周年』に、同社が進出した拠点の地図が掲載されている。蘭印セレベスでは、ヤシ園やヤシの実の果肉を原料とするコプラ貿易等、ニューギニアは綿花やジュート((注記)黄麻)からつくられる繊維、ポルトガル領ティモールではコーヒー、ゴム、キナ((注記)マラリアの特効薬であるキニーネの材料)等と手広く事業を展開した。日本から数千kmも離れた"南"の島々へ渡り、産業、農業振興や学術研究、教育、医療、治安維持等に尽くした日本人の物語を、これから書いてゆく。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ 2022年5月11日付掲載

テーマ : 歴史
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  • 2022年12月30日(23:44:25) :
  • 歴史 :
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【日朝文化史のリアル】(17) 流転の舞姫・崔承喜4...訪ねてきた男が"総連議長"に

20221230 17
北朝鮮・朝鮮労働党傘下の『朝鮮作家同盟中央委員会』の内部資料に、崔承喜((注記)1911-1969)の舞踊について書かれた一文がある。その一節に、崔と、若き日の韓徳銖との邂逅を巡る秘話が書かれている。時は昭和11(1936)年。横浜で公演中の崔承喜を2人の朝鮮人が訪ねてきた。「丹那トンネル工事現場で働いている朝鮮人労働者を代表してきた、という男は韓徳銖と名乗った」。地味な背広を着た青年は、「工事現場における朝鮮人労働運動のリーダーだ」と言い、後に『朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)』初代議長に就く。もう1人は、やはり、後に総連副議長になる盧在浩だった。韓の話は、トンネル工事現場で肉体労働に就いている同胞の為に、崔に踊りを踊ってくれないか、という依頼だった。話を聞いた崔も前向きの対応を約束する。工事現場に戻った韓は、同胞の労働者らを動員して、仮設舞台の建設に取り掛かる。ところが、崔はいつまで経っても現れない。韓の話を信じた労働者からは、「(崔は)日本人の連中の前で踊るのが好きな女に過ぎない」等という悪口まで聞かれるようになった。何故、崔は来なかったのか? 内部資料は「(崔の)側近が反対したため」と結論付けている。「朝鮮人が集まる場で、朝鮮舞踊を踊ることは当時の状況では非常に危険な行為だったからだ」。実際に崔がどの程度"本気"だったのか、真相はわからない。ただ、崔が日本の朝鮮人にとって"希望の星"であったことが窺える話だ。

韓が崔を訪ねた昭和11年は、朝鮮出身の孫基禎((注記)1912-2002)がベルリン五輪マラソン競技で金メダルを獲得した年である。孫と崔は当時、朝鮮人の輝ける二大スターだった。先の内部資料は、孫がベルリン五輪の前年である1935年11月、東京のマラソン大会で当時の世界最高記録を達成した時、崔がお祝いに駆け付け、100円の大金((注記)現在の価格で約20万円)を贈ったエピソードを披露している。孫がベルリンから朝鮮へ戻った1936年10月には、京城((注記)現在のソウル)で開かれた祝勝会に崔も参加している。2人を引き合わせたのは民族運動家の呂運亨だった。3人の顔ぶれから、やはり崔は「反日だった」という向きがある。孫も民族紙の日章旗抹消事件((注記)『東亜日報』に胸の日の丸を塗り潰した孫基禎の写真が掲載され、関係者が逮捕。同紙は発行停止処分を受けた)の"悲劇のヒーロー"として語られることが多いからだ。だが、日章旗抹消事件にそれほど深い政治的背景があったとは思えない。当時、その新聞社前では時差があるドイツでの競技をラジオで生中継し、詰めかけた大観衆で盛り上がっていた。今で言うなら、サッカーの日本代表戦後の渋谷の喧噪を思い起こせばいい。そして、同胞のランナーが優勝する。民族愛に溢れる新聞社の記者や編集者は、ふと悪戯心を起こしたのではなかったか。戦後の話になる。北朝鮮の崔を日本の文化人・芸術家らが度々訪ねてきた。資本主義に対する社会主義の"優位"が信じられ、日本でも"左の風"が吹いていた1950年代のことである。日本の文化人らに会った崔は、懐かしい日本への思いを募らせる。ソビエト連邦((注記)当時)や中国等、東側諸国には公演で行くことができても、日本を始めとする西側諸国を訪問することは叶わなかった。崔はこの頃、嘗ての師匠である石井漠にも手紙を送り、日本公演への願いを綴っている。日本で大人気を誇った崔ほどのネームバリューがあれば、北朝鮮としても"外交カード"として使うことを考えたに違いない。実際、北朝鮮の高官や官製メディアが何度か崔の日本公演の可能性を仄めかしている。在日2世の音楽プロデューサー、李喆雨(83)はこの時期の崔の日本公演について、「少なくとも三度、チャンスがあった」という。「社会党((注記)当時)の国会議員だった帆足計さんが中心になって『崔承喜を日本へ呼ぼう』という話が進んだり、日本の地方紙が同様の企画を立てたこともありました。日本側の民間団体は積極的だったが、(北)朝鮮側の"受け皿"は未だ十分に整っていなかったのでしょう」。つまり、北朝鮮は崔の公演を"外交カード"として使えることを知りながら、それをプロデュースするノウハウも対日改善に繋げるという広い視野もなかった。寧ろ、崔を日本へ行かせれば、そのまま帰って来ず、亡命されてしまう"懸念"のほうが強かったのである。この後、1965年には"日本からの帰国者で最も出世した男"と呼ばれた張徹が北朝鮮へ渡り、文化芸術大臣や副首相の高位に就いて"芸術外交"を展開することになる。北朝鮮と国交のない国に芸術団を送り込み、"親善"を深めていく手法だ。そうした時代を迎える前に、崔は失脚してしまう。1957年秋には、崔の大ファンであった作家の川端康成らが招致委員会をつくり、崔の日本公演実現に向けて署名運動まで行なったが、実現には至らなかった。北朝鮮の最高実力者である金日成が崔を批判するのは、翌1958年のことである。1960年1月には、既に崔は失脚していたが、日本からの帰国者を迎える"迎接委員"となり、東海岸の清津港に到着したテノール歌手の永田絃次郎((注記)朝鮮名は金永吉)一家を歓迎する行事に参加している。崔は永田と共に、北朝鮮の官製メディアの座談会にも出席。失脚した事実を隠したまま、北朝鮮を賛美する発言を繰り返すしかなかった。1969年の死後、崔は名誉回復が図られ、2011年の生誕100年の際には北朝鮮で公式の評伝が刊行されたりしたが、最早北朝鮮で崔のことを覚えている人は少ない。弟子も殆どいなくなった。終戦後、若しも崔が北へ渡っていなかったら、どんな生涯だったろうか――。李は、崔にはもっと高い評価が与えられて然るべきだと思う。「朝鮮民族の中でそれまで卑下されがちだった"舞"を正しく評価せしめ、歌・舞の一体化や舞踊教育の体系化にも大きな功績があった。"大母"と呼ばれるのに相応しい女性であり、舞踊家であったと思いますね」。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ 2022年3月23日付掲載

テーマ : 北朝鮮問題
ジャンル : 政治・経済

  • 2022年12月30日(23:44:23) :
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【永田町LIVE】(04) ぶれた救済法案、公明不信...原因は首相の根回し不足、重鎮引退でパイプ弱体化



20221230 16
臨時国会中盤の先月7日夕。衆議院議員会館の事務所を訪れた松野博一官房長官の言葉に、公明党の石井啓一幹事長は驚いた。「このままでは政府・与党が被害者救済に後ろ向きだと言われる」。松野氏が伝えたのは、『世界平和統一家庭連合』((注記)旧統一教会)問題を受けた被害者救済法案を提出するとの岸田文雄首相の方針だった。「明日、党首会談を開きたい」。松野氏はこう求めた。法案提出は来年の通常国会――。そう認識していた公明には"突然の方針転換"と映った。石井氏は10月19日の自公の幹事長・国対委員長会談で、自民党の茂木敏充幹事長らから「政府の被害者救済法案の提出は臨時国会には間に合わない」との説明を受けていた。だが、首相は内閣官房や消費者庁に「この国会中に法案を提出する。会期を延長してでも成立させる」と指示していた。政府が水面下で進めた法案策定の動きを、公明は把握していなかった。ただ、松野氏が伝えた首相の方針は、公明にとっては"渡りに船"でもあった。当時、臨時国会中の法案提出に慎重姿勢を示した自公に対し、立憲民主党と維新は「やる気がない」と批判を繰り広げていた。特に公明は標的となり、立憲民主幹部からは「支持母体の創価学会のほうばかり見ている」と皮肉られた。「このままでは拙い」。公明内では世論の反発を懸念する声が強まっていた。石井氏は松野氏との会談翌日の8日、党会合で政府の法案提出方針を説明。出席者から反対論は出なかった。首相はこの日のうちに公明の山口那津男代表と会談し、法案提出を正式表明した。

「官邸がそんな話を持ってくるとは思ってもなかった」。公明幹部は安堵の表情を浮かべた。とはいえ、官邸・自民の判断がぶれる中、公明が振り回されたのは事実だ。「首相と茂木氏の主導権争いが起きているのではないか?」「官邸と自民の中は一体どうなっているのか?」。公明内から戸惑いの声も漏れた。山口氏は党首会談後、記者団から事前に首相から説明を受けていたのかと問われ、「私は聞いていない」と苛立った表情をみせた。「今の官邸は"前捌き"も不十分なまま党首会談で何でも決めようとする」。公明関係者は山口氏の思いを代弁した。公明に燻る官邸・自民への不信感。そんな中、ある自民党の重鎮が動いた。先月9日、首相公邸。岸田文雄首相が密かに向き合ったのは、昨年政界を引退した大島理森前衆議院議長だった。大島氏は国対委員長等を歴任し、国会運営に精通した重鎮。公明党とも太いパイプを持つ。「国民民主党のことはどう思われますか?」。首相が切り出したのは、自公の枠組みに国民民主を加える新たな連立構想だった。政権に接近する国民民主との連立構想は、7月の参院選前から与党内で囁かれていた。それに対して大島氏は、構想に理解を示しながらも、釘を刺した。「政権の枠組みの基本は自公です。それを崩すことは絶対にあってはならない」。国民民主を加える構想は、自民党の茂木敏充幹事長が国民民主の玉木雄一郎代表と接触を続ける等、両党間で模索してきた。"新しい資本主義"を看板政策に掲げる官邸にとっても、国民民主を取り込めば、同党を支える産別労組から賃上げへの協力を期待できる――との思惑もある。だが、こうした動きに公明は「自民は公明との関係を軽視している」と神経を尖らせていた。大島氏は、臨時国会召集直後の10月5日も首相に招かれ、官邸で密かに会談し、「公明党との関係を大切にして下さい」と助言した。大島氏が繰り返し自公結束の重要性を説くのは、岸田政権発足以降、公明との"隙間風"が散見されるようになったことが背景にあるとみられる。何故、隙間風が生まれるのか。「今の官邸や党執行部は、十分に時間をかけて公明と意見をすりあわせるプロセスを取っていない」。政府関係者は解説する。第二次安倍晋三政権は、公明が慎重な集団的自衛権の行使容認や安全保障関連法制定等を推し進めたが、公明との調整を重ねて落としどころを探る作業を繰り返した。"公明重視"の姿勢は政権の"強権"イメージを和らげる狙いがあり、菅義偉政権もこの方針を基本的に引き継いだ。それに対して、岸田政権は発足直後から公明との軋轢を生んだ。公明は7月の参院選に向け、昨年末までに両党の選挙区候補に対する相互推薦の協定を結ぶよう要請した。ところが、自民は地元の反発等を理由に先延ばしし、公明側を激怒させた。3月に決着したが、公明内には「今の政権は我々を軽視している」との不満が蓄積した。

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  • 2022年12月30日(23:44:21) :
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【部活動が危ない!】番外編(03) 吹奏楽、地域移行に難題...楽器の管理や運搬、費用重く

20221230 14
部活動の実施主体を学校から地域に移す"地域移行"に向け、文化庁の有識者会議が文化部の活動方法を議論している。最大の焦点は、熱心な練習から"体育会系の文化部"とも呼ばれ、生徒の人気も高い吹奏楽部の在り方だ。顧問の教員に代わって指導する人材が不足する等、運動部と同様の問題を抱えている上に、楽器の管理や運搬を巡る独特の課題もあり、関係者は頭を悩ませている。「継続的に高いレベルで指導するのは、困難ではないか」。関東地方の公立中で吹奏楽部の指導経験がある30代の男性教諭が言う。国が進める地域移行では、少子化で部活のメンバーが揃い難くなっていることや、顧問を務める教員の長時間労働の一因であること等を踏まえ、来年度から主に公立中学校で土日の活動を民間や地域の指導者に担ってもらう。平日も含めた完全移行も見据える。運動部では、地元のスポーツクラブ等校外に活動場所を移す方法が示されている。だが、吹奏楽部で同じように休日の活動場所を校外の施設へ移すには、生徒達が練習で使う楽器を運び出す必要がある。コントラバス等大きな楽器もあり、トラックでの運搬費に加えて会場使用料、楽器の保険料と、活動に費用が嵩むことが想定される。一方、学校に民間の指導者を呼べば、校舎の扉の開け閉めや、活動中の事故に備えて教員が出勤せざるを得ない。男性教諭は、「中学の吹奏楽は楽譜通りに演奏すればいいわけではなく、生徒の力量に合わせた指導も必要だ。『土日は違う先生と練習してね』とは言い難い」とも指摘する。

文化部の地域移行の在り方は、文化庁の『文化部活動の地域移行に関する検討会議』((注記)座長は静岡大学の北山敦康名誉教授)で2月に議論が始まり、文化系で人気トップを誇る吹奏楽部の活動方針が注視されている。文化庁が2020年1月、全国の中学、高校生の保護者計2万人に子供の活動状況等を尋ねたウェブ調査では、部活に加入する中学生のうち、吹奏楽部所属の生徒は最多の10.4%。運動部で人気の卓球((注記)9.7%)やソフトテニス((注記)9%)等を上回った。また、多くの学校で運動部並みの練習をこなし、文化部全体で"2時間未満"が7割以上だった平日の活動時間が、吹奏楽では"2時間以上"が4割近くに上る等、活動の過熱ぶりも窺える。ただ、人気の一方で民間の音楽教室等から指導者を確保することが困難な自治体も多く、これまでの検討会議では委員らから「指導には高度の知識が必要になるが、地域に人材がいない」といった意見が出た。富山県朝日町は昨年度から地域人材の活用を先駆けて始めている。町唯一の中学校である町立朝日中学校で、地元の競技団体等が集まって部活指導を担う『朝日町型部活動コミュニティクラブ』を設立した。学校現場では自身は競技等の経験のない教員が、部活の顧問を務めるケースも多い。朝日中学校では、専門性の高い指導者が加わることで生徒は質の高い指導が受けられるようになった他、教員の時間外勤務が3割以上減る等の効果も得られたという。吹奏楽部では、音楽教室の講師ら2人を指導員に迎え、顧問教員と3人態勢で指導に当たった。だが、練習の為に学校外に楽器を運び出すのが難しかったことから、活動はほぼ音楽室に限られ、休日の指導には毎回顧問が出勤せざるを得なかった。町教育委員会の担当者は、「指導員にどこまで責任を負わせていいかがわからず、100%を任せるのは難しい」と話す。スポーツ庁の有識者会議が先月示した運動部の移行案では、体育館やグラウンドといった学校施設を民間団体が使えるよう利用規則を見直すこと等を求めた。昨日開かれた文化部改革の検討会議では、吹奏楽部等で地域人材の活用を始めた自治体や民間団体が各自の取り組みを報告。ただ、多くは朝日町と同様に校舎等学校施設を利用しており、委員の一人は「文化活動を維持するには、多かれ少なかれ学校の関わりが必要だ」と指摘した。 (取材・文/社会部 李英浩/運動部 村上正)


キャプチャ 2022年5月12日付掲載

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  • 2022年12月30日(23:44:19) :
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【気候変動のリアル】(06) 「脱炭素実現へ責任と誇り」――ローラン・ボワシエ氏(『ダノンジャパン』社長)インタビュー

"Bコープ"という言葉を聞いたことがあるだろうか。環境や社会課題に積極的に取り組む企業にお墨付きを与える国際認証制度『B Corporation』の略称で、海外では5500社以上が取得している。日本では馴染みが薄いが、脱炭素社会の実現には公益性を重視する企業の存在が不可欠。Bコープにどんな可能性があるのか。2020年に食品メーカーとして日本で初めて認証を取得した『ダノンジャパン』のローラン・ボワシエ社長に聞いた。 (聞き手/経済部 松山文音)

20221230 13
――何故、Bコープを取得したのですか?
「1970年代にグループの初代CEOがフランスのマルセイユで行なった有名なスピーチがあります。『企業の責任は製造工場の門のところで終わるものではない』というもので、それ以来、私達は社会的な責任と経済的な責任の2つを念頭に置いて活動していて、会社の礎です。Bコープを取得することに迷いはなく、グループとしては2025年までに全ての事業体で取得を目指しています。今の時代は、消費者も会社が地球や環境、健康の為に努力しているか証拠を求める時代になってきました。特に、多くの若い人達は地球環境の課題を念頭に置いて暮らしています。商品を選ぶ理由や、働く会社に対してパーパス((注記)目的)を求める。認証を取得することは競合優位性に繋がり、非常に大きなメリットがあると考えました」
――取得に向けてどのように動きましたか?
「Bコープはアメリカの非営利団体による認証です。ガバナンス、従業員、コミュニティー、環境、カスタマーの5つの切り口における200以上の質問に答えなければなりません。(会社運営の)全ての側面で監査を受けることになるので大変です。取得に向けては2つのステップを考えました。一つは、旗振り役として複数の部署から人材を集め、Bコープのタスクフォースを作りました。更に、社員がBコープを知らないので、"Bコープとはどういったものなのか"という初歩的なところから丁寧に説明していきました。認証はポイント制で審査され、取得するには80ポイント以上が必要です。私達は社員のエンゲージメント((注記)やる気や熱意)の分野等が特に評価され、85.3ポイントでした。ただ、更新には3年に一度のチェックがあるので、更なる進捗に向けた取り組みをしなければいけません。ビジネスが急速に成長し、工場のキャパシティーも大きくしています。今後もサステナビリティー((注記)持続可能性)がしっかりと担保できるようにしていきたいです」
――認証を取得したことで、具体的にどんなメリットがありましたか?
「Z世代と呼ばれる若い人達は、働く会社が"使命のある会社かどうか"を問いかける傾向にあると言われています。その風潮は、この2年の新型コロナウイルスの影響で強まっていると思います。ダノンでは社員アンケートを実施していますが、最近の調査結果でBコープの認証を得たことが、非常に会社の誇りを感じることの源泉になっていました。離職率が低下し、多様化した能力の高い人材を引きつけることができるようになってきました。若い人達のエンゲージメントにおいて、大変良い効果があったと思っています」
――日本ではBコープの認知度が低いです。
「海外支社では、認証取得によって小売店や消費者等、様々なステークホルダーから問い合わせ等で良い反応がありました。若い人達が環境等に心を砕き始めていることは、どこの国においても見られ、会社として何をすべきかという意識を非常に強く持っているので、日本で広がるのもタイミングの問題でしょう。日本でも消費者の認知度が上がり、認証を受ける会社が増えていくと思います。私達が認証を取得しようと思った約5年前は、ヨーロッパでもBコープの認知が非常に低かったです。しかし、その後は(環境課題や人権に関心を持つ人が増え)急速にBコープの認知が広がりました」
――岸田文雄首相の看板政策である"新しい資本主義"も、民間が担う公的な役割を期待していて、Bコープの概念に通じるものがあります。
「昨今の地球環境の状況は皆さんが実感している通り、待ったなしの状況です。その為、岸田首相が"新しい資本主義"という形で(民間企業の公的役割を)理解して下さっていることは、大変嬉しく思っています」
――日本は海外に比べて、企業の環境への意識が低いと言われます。海外と日本の企業の違いをどう見ていますか?
「これまでドイツやスウェーデン、フィンランド等で仕事をしてきました。北欧や西欧の国ではNGO等の消費者団体の存在が大変強く、企業に変化を求める力、つき上げる力が強いです。一方、日本の消費者の皆様は、どちらかというと公的な権威からのトップダウンを期待している面が多いように感じます。その意味でも、岸田首相が"新しい資本主義"として、日本をESG((注記)環境・社会・企業統治)を含めた方向に向かわせていることは、理に適ったものであると考えています」


キャプチャ 2022年9月14日付掲載

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  • 2022年12月30日(23:44:17) :
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【WEEKEND PLUS】(302) 突然"2倍"になった病床数の謎...小池百合子の新型コロナウイルス対策を再検証する!



20221230 08
年明け1月2日、東京都知事の小池百合子は千葉、埼玉、神奈川の知事達を引き連れ、新型コロナウイルス対策担当大臣の西村康稔と対峙していた。結果、二度目の緊急事態宣言を引き出すことに成功する。「国の対策が遅い」という世論の不満に応えた小池は、「積極的に感染防止対策に取り組んでいる」と強くアピールすることにも成功した。ところが、そうした派手なパフォーマンスの裏側で、不満の声が各所で燻っていた。"喉元過ぎれば"となる前に、彼らの声を残しておこう。東京で新型コロナウイルス対策に取り組んでいる医療関係者は、苦々しげに語る。「小池さんの姿勢は常に一貫していましたね。医療の提供体制を改善したり、感染者数を減らそうとしたりする取り組みは場当たり的ですけど、どうすれば自分がちゃんとやっているように見えるかは一貫して考えていました」。23区内の保健所で新型コロナウイルス患者の入院調整にあたっていた職員は、「負けパターンに突入していた」と振り返る。「区内の病院がいっぱいになっているのに、区外の大病院からは患者の受け入れが断られる。区を跨ぐ入院調整は現場では難しい。都に仕切ってもらわないといけないのに、オペレーションが機能しているようには全く思えなかった。東京の医療資源は日本で一番恵まれているのに、これでは勝負にならない」。厚生労働省関係者は、こう証言する。「行政が病院連携を主導しようとした大阪や神奈川に比べ、東京は明らかに保健所や病院任せ。第三波の東京で起きていたのは、保健所機能の崩壊ですよ」。

これらは全て同じ質問に対する答えだ。「新型コロナウイルス対策で重要なのは、人口1400万人を抱える東京都の対応だ。第三波では、国だけでなく、東京都も後手に回っていたのではないか。東京のどこが"脆弱"だったのか」――。この1年間、医療崩壊を防ごうと奮闘した現場の医師達を取材すると、「災害医療の知見を応用した」と語る人々が少なからずいる。災害医療とは、多数の負傷者が同時に発生する等して、医療の需要が、供給される医療サービスのキャパシティーを上回る状態での医療を意味する。第三波が襲来した時、東京の一部では災害時のように医療体制は崩壊寸前だった。新型コロナウイルスの感染拡大は、まさに"災害"である。こうした事態に面した時、取れる方法は2つある。ひとつは医療の需要を抑え込むこと。新型コロナウイルスで言えば感染者数の抑制だ。感染拡大を防ぐ為、人と人との接触を避ける。クラスターを早期に発見する為に、積極的な調査をする。飲食時は感染リスクが高いとされているので、飲食店の時短営業を要請する。営業の自由等を制限する緊急事態宣言は、現状の日本で最も強力な措置だろう。第二の方法は、限られた医療資源をより効率的に配分することだ。地域の大病院が主体となって重症患者を診て、それ以外の病院には軽症と中等症、回復期の患者の受け入れという役割を割り振る。新型コロナウイルス専用の病棟を設けて、そこに医療資源を集中させる等の方策がこれにあたる。この需要抑制と医療資源の配分は対立するものではなく、同時に整えなければいけない対策の両輪だ。ところが、これまでの小池の言動は前者に偏っていなかったか。新型コロナウイルス患者を多く受け入れてきた、ある基幹病院の医師が、半ば呆れ気味に語った。「東京の専用病棟の設置は明らかに遅かったし、病院同士の連携も、第一波の時から医師が個人のネットワークでやってきた。『先生の依頼だから今回は受け入れます』と何度も言われましたよ。一体、都の対策は"何周遅れ"なんでしょうかね」。2ヵ月半にも亘った緊急事態宣言が終わった今、改めて問うべきは、今後、第三波を超える感染拡大が起きた時、東京都はそれに耐えられるのかということだ。それは同時に、東京のリーダーとしての小池が"災害"時に相応しいのかという問いでもある。これまでの東京都の新型コロナウイルス対応を検証することで、この問いの答えを探していくことにしよう。

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  • 2022年12月30日(23:44:15) :
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