【宇垣美里の漫画党宣言!】(43) マーチングにかける青春

中学生の頃、私は吹奏楽部だった。地区大会の前日、最後の全体合奏。「明日でこの3年間が終わるかもしれない」。そう思いながら狭い音楽室で練習した課題曲を演奏し終えると、全身に鳥肌が立ち、意味もなく涙が出た。大会当日はあっという間で、結果は県大会に進めない"ダメ金"だったけれど、あの前日の演奏は、心の動きは、今でも忘れられない。『みかづきマーチ』を読んで、そんな遠い記憶を思い出した。東京で勉強漬けの日々を送っていた高校生の美月は、退屈な日々に嫌気が差して春休みに家出。叔母を訪ねて秋田にやってきた。そこで偶然見たマーチング部によるパフォーマンスに衝撃を受け、転校し、入部することを決意する。吹奏楽の演奏だけではなく、集団で隊列を組んで行進したり交差したり、カラーガードという旗等を振って演技する要素も組み込んだマーチングは、大会での演奏時間から"8分間の総合芸術"と表現されている。私自身、運動会や近所の商店街の催しで、ちょっとした行進をするくらいのマーチングをしたことがある。サックスを担当していたが、口の位置がぶれて音程を保つのが大変で、慣れるまで何度も口を切った。温かでいて真っ直ぐな筆跡と、音の迫力や汗の飛沫まで伝わってくるような画力で描かれる、会場に着くまで皆で自分のパートを口で歌って合奏をしたり、初めての本番で頭が真っ白になる...なんて"あるある"に何度も頷いてしまった。因みに、私は初めての本番で緊張してしまい、正気に戻る為に手のひらを思い切り噛んだら、先輩に「野犬か...?」と慄かれた。

其々に一生懸命且つ魅力的な部員が沢山出てくるのだが、特にシンパシーを感じるのがサックスを担当している湊カナデ。同じ楽器だからというのもあるけれど、マーチングという独特の演奏法に苦しみ、「私は演奏でしか上手に想いを伝えられないから...好きなのに...思うように吹けないのは...辛い」とこぼしたシーンでは、胸が潰れそうになった。中学生の頃、「私に楽器があってよかった」と何度思ったことか。言葉では強過ぎて、素直になるには頑な過ぎて。演奏で感情が吐き出せるから、私は狂わずにいられた。3日しか休みのない夏休み、繰り返す練習でずたずたになる唇、文化部の筈なのにしっかりついた腹筋...。そのどれもが懐かしくて、眩しくて。楽しいも苦しいも悔しいも全部ひっくるめて私の青春だった。何故か「自分にはできないことなんてない」と信じ込んで、全力で全てにぶつかっていけたこと、どうして忘れてしまっていたんだろう。美月たちの次の舞台は県大会。全国大会を目指す彼女たちは、きっと仲良しこよしなだけではいられない。何度となくぶつかり、自分の実力不足に涙することだろう。それを乗り越えてこそ生まれる絆もある。コロナ禍の今、多くの生徒たちは練習すらままならぬ日々を送っている。目標にしていた筈の大会は幾つも中止となった。だからこそ、今は漫画の中の彼女たちを応援したい。また大勢で演奏することができる日が来ることを願って。


宇垣美里(うがき・みさと) フリーアナウンサー。1991年、兵庫県生まれ。同志社大学政策学部卒業後、『TBS』に入社。『スーパーサッカーJ+』や『あさチャン!』等を担当。2019年4月からフリーに。著書に『風をたべる』(集英社)・『宇垣美里のコスメ愛』(小学館)。


キャプチャ 2021年2月25日号掲載

テーマ : 漫画
ジャンル : アニメ・コミック

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【東畑開人の週刊臨床心理学】(39) 脳のせいなのね



20210226 16
童謡『おばけなんてないさ』は大変な名曲だ。おばけに怯える迷信深い少年が、「寝ぼけた人が見間違えたのさ」と自分を説得する。この歌詞には、「おばけはいない。目の錯覚である」という心理学の核心が見事に描き出されている。実際、明治時代のある心理学者は、人々が「妖怪のせいだ」と思っていることは、実は心理的錯覚に過ぎないと啓蒙して回った。因みに、彼が"妖怪博士"と呼ばれたのは歴史の皮肉だ。但し、本当に素晴らしいのは曲の2番以降だ。心理学に目覚めかけた少年は、それでもおばけが存在したらどうしようと想像し始める。最初は「冷蔵庫でカチカチにしちゃおう」と科学的に対処しようと思うのだが、後半になるにつれ、おばけと友だちになったら楽しいだろうし、皆に自慢できるよなぁと盛り上がっていく。ここには深い洞察がある。心理学は味気ない。目の錯覚で済んでしまうより、おばけがウヨウヨしているほうが、世界はずっとカラフルではないか。この点で、人気アニメ『妖怪ウォッチ』の主題歌『ようかい体操第一』は素晴らしい。主人公が寝坊したのも、好きな子にふられたのも、ピーマンが食べられたのも、全て「妖怪のせいなのね」と歌われているからだ。「心のせいなのね」より「妖怪のせいなのね」のほうが、ずっと気が楽だ。苦しいことを自分ひとりの問題にしなくて済む。だから、別に妖怪じゃなくてもいい。天気のせいでもいいし、社会のせいだっていい。原因を自分の内側ではなく、外側に見出すと、自分は悪くなくなる。そして実際のところ、問題が貴方にないことも多いのである。

「の、の、の」と連発してから、言葉は漸く形になる。「の、脳が疲れています」。50歳になったところで、そして夫が出ていったところだった彼女は言った。背の高い凜とした女性だった。子供が大学生になり、一人暮らしを始めた矢先の、予期しない出来事だったから、彼女は酷く混乱し、不安になり、不眠に陥った。だけど、驚くべき速さで彼女は回復した。精神科医による投薬治療は適切だったし、生活できるだけの資産があったのも大きかった。彼女は眠れるようになり、前を向いた。気持ちを切り替えて仕事を探そうとした。それなのに、大人になってからはだいぶ和らいでいた筈の吃音が悪化していた。「このままじゃ仕事ができない」と訴える彼女に、精神科医はカウンセリングを紹介した。「き、き、き、き」。彼女は諦めて、別の言葉を探す。「ど、どもるのを何とかしたい」。当然のことながら、吃音は心が傷付いていることを伝えているのだと私は思った。だけど、彼女は否定した。過去はもういい、気持ちの整理はついた。やることが多過ぎて、脳が疲れているだけ。脳のせいなのね――。それが彼女の言い分だった。夫と別居してから未だ2ヵ月も経っていなかったから、疲れているのは心ではないかと思ったが、それは言わなかった。様々なことが試みられたが、吃音は中々良くならなかった。だから、私たちは次第に吃音や脳以外の話もするようになった。彼女は変わらずに凜としていたが、時々、何故夫が出ていったのかわからないとこぼすようになった。そういう時、彼女は一瞬弱々しくなった。だからだろう、直ぐに脳の話に戻った。そんなある日の面接、彼女はいつも以上にどもり続けていた。「こ、こ、こ、こ」。ままならない言葉を絞り出そうとして表情が歪む。顔色が酷く悪い。「すみません」。突然そう言って、席を立つ。トイレヘ駆け込む。真っ青な顔で出てくると、「吐いてしまった」と言う。そして、「こ、興信所から報告があったんです」と打ち明ける。堰き止められて いた言葉が流れ出る。意を決して興信所に依頼していたこと、夫に親密な女性がいたこと、その人は彼女も知っている人で、昔からの関係だと思われること、2人は既に一緒に暮らしていること。「これまでの時間はなんだったのかと思うと、の、の、の」。言葉が詰まる。別の言葉に差し替えようとする。「こ、こ、こ」。だめだ、もう一度差し替える。「む、胸が痛い」。それから、彼女は怒り、そして悲しむことになった。混乱し、抑鬱的になった。苦しい時間になった。だけど、それが心の本来のペースだった。凜とした彼女は消え、傷付いている彼女が姿を現した。その代わり、吃音は徐々に和らいでいった。長い時間をかけて、彼女はもう一度、人生を作り直していった。

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テーマ : メンタルヘルス
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【令和の社長たち】(04) 矢野博丈氏(『ダイソー』社長)――"将来を怖がる力"が100円ショップを強くした



20210226 11
広島県東広島市内の工業団地の一角に小ぢんまりとあった『大創産業』の本社を初めて訪ねたのは、26年前の夏のことである。100円ショップなるものが大衆のブームとなり始めたころのことで、本社も、商品が堆く積まれている倉庫兼物流センターも、急拵えの掘っ立て小屋同然のプレハブ造りであった。安手のパーテーションで仕切られたあちこちの狭いスペースで、従業員と取引先の商談がわいわいと盛んであり、伸び盛りの急成長企業とは斯くあるやと妙に感心した。歩けばミシミシと音がする本社の廊下を、社長の矢野博丈はサンダル履きで駆けていた。間仕切り越しの商談ににゅいと顔を突き出し、「安うしてな」「しっかり商談せいよ」と取引先にも従業員にも声をかけながら、筆者の待つ間仕切りスペースにどっかと腰を下ろした。「仕入れっちゅうのは格闘技だと従業員に教えとるんです」。その時、矢野が差し出した名刺には、"100円均一のトップカンパニー DAISO"というコピーとロゴと共に、"売上高115億円"と印刷されていた。実際の大創産業は年商300億円突破が目前となっていた。会社の急激な成長に、名刺の印刷が追いついていなかった。無論、駆け出しの記者であった筆者が四半世紀も前に本社へ赴いたことを、矢野が覚えていよう筈もない。この度、取材場所として冬の午後に指定されたのは、東京湾に面して建つタワーマンションの最上階であった。天井は6mはあろうかという高さであり、海側は壁一面が強化ガラスとなっていて、『羽田空港』を離発着する飛行機、レインボーブリッジ、何かと話題になっている豊洲の東京都中央卸売市場が一望できる。まさしく億ションという代物であろう。

矢野は「東京の住まいの一つじゃが、こんなマンション、幾つも持っとる」と窓からの眩しい景色を眺め、「海はええのう」と呟いている。地べたを這いずり回るような苦労の果てに巨万の富を手にした成功者の、これはこれでひとつのリタイア後の暮らし向きというものなのであろう。古い思い出と記憶を辿りつつ、「あの頃は本社も倉庫も質素でしたね」と語りかけた。矢野は、丸顔の眉根を寄せながら「あの時代があるから、強うなって、今があるんです」と語気を強めた。驚いた。矢野が「あの頃を知っておられるんですか...。よう働きましたわ...。ありがたい」と絶句し、金縁の眼鏡をずり上げながら涙を拭い始めたからである。「潰れる怖さから必死に逃げてきた」と。四半世紀の星霜、また、人と世の移り変わりというものを考えさせずにおかなかった。100円ショップ『ダイソー』の名を知らぬ人は日本にいるまい。国内で約3500、海外でも26の国と地域に合計で約2300もの店舗を展開し、今やDAISOのロゴは世界中に広がりつつある。矢野は「2019年にマツダを抜いて、中四国地方では納税額で1位になりました」と、さらりと口にした。昨年度の年商を5015億円と公表している大創産業だが、後発の同業である『セリア』や『キャンドゥ』と異なって株式非公開会社であり、経営に纏わる詳細なデータを徹底して明かさない。後は資本金が27億円と公表しているくらいである。株主の構成も非公表だが、恐らく資産管理会社や各種財団等も通して、その多くを矢野の支配するところと考えるのが常識であろう。プレハブ造りの本社を駆け回っていた矢野も、今や喜寿を迎えた。先年、無理と慢心が祟って二度も脳梗塞に倒れながら幸い大事に至らずに済んだということも、矢野の人生観を変えずにおかなかったろう。仮に100億円あろうと1000億円あろうと、人はそれを冥途の道連れにすることなどできぬ。老境に差しかかり、無病息災ならぬ二病息災を実感しているであろう矢野に、この際、自慢でも放言でも聞いてみようではないかという気でいた。と、会話を重ねた途端に、四半世紀前を否が応でも思い返す仕儀に至った。「これは、わしの親父からの、おでんじゃなくて遺伝...」。相変わらず、しょうもない駄洒落が繰り出されてきたからである。嘗て、東広島のプレハブ造りの本社で向き合った時、「在庫を大量に抱えることで御社にどんなメリットがあるのですか?」と訊ねるや、矢野は真顔で「シャンプーでっか? リンスでっか?」と広島弁で問い返してきた。商品名のことかと気付きながら無視して、問いを繰り返した。「御社にどんなメリッ...」と、今度は言い終わらぬうちに「シャンプーでっか? リンスでっか?」と、なお食い下がって譲ろうとしない。ありきたりの答えでは面白みなぞないし、勢いづく経営者に易々と一本を許してなるものかと意地になった若造は、とっさに「リンスインシャンプーでどうでしょう」と捻り出した。矢野は、ゴリラのような顔をくしゃくしゃにして「ぐはは」と笑い、「で、何の話でしたっけ?」と惚けたように真顔に戻るのである。

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  • 2021年02月26日(23:21:27) :
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【創価学会は今】(23) 箱根駅伝準優勝の勢いを活かせるか...創価学会が衆院選・都議選へ焦りの総動員



20210226 14
今年の箱根駅伝は、創価大学が往路優勝・総合2位の成績を果たしたことで、学会員は大喜びだった。池田大作名誉会長の言葉とされる『聖教新聞』1月4日付の寸鉄には、「創大が箱根駅伝で堂々の準優勝。歴史築いた一頁。皆が感動、皆が大喝采!」とある。池田氏は「祈りとは本来、"誓願"だ。『必ずこうする』という誓いであり、明確な目標に挑み立つ宣言だ」と言って、選手たちの快挙を称えた。「1月2日に93歳の誕生日を迎えた池田氏だが、今年の正月も公の席には一切、姿を現していない。だが、ランナーに伴走していた白塗りの高級車に『池田先生が乗って応援している』等の噂が飛んだ。総合優勝した駒沢大学には仏教学部があり、曹洞宗なので、裏では"駅伝宗教戦争"等と言われていたこともある。往路・復路共に30%以上の視聴率を叩き出したが、学会員はテレビの前に釘付けになって題目を上げていたという」(学会ウォッチャー)。あるスポーツ紙が創価大学ランナーの写真を大きく報じたが、それは神社の鳥居を駆け抜けるシーンだった。これに対し、学会青年部や婦人部の間からクレームが出たという。「日蓮の教えで今も、学会員にとって神社は忌み嫌う存在だ。最近は選挙活動等で神輿を担いでも差し支えない旨の通達も出されているが、やはり一般の会員にとっては抵抗感が強い。スポーツ新聞社に対しては、『何故あんな写真を使ったのか』という抗議もあったという」(学会元幹部)。それほどまでにフィーバーしていたようだが、学会総本部がある信濃町にも学会幹部や公明党関係者が駆けつけた。信濃町で仏壇や仏具を販売する『金剛堂』では、駅伝部ユニホームの赤と青のストライプ型オフィシャル応援マフラータオル等が販売されていた。

前出の学会ウオッチャーは、「箱根駅伝は各大学にとって絶大な広告効果がある。その為、創価大学は選手時代に4年連続区間賞を獲得して箱根駅伝を熟知している榎木和貴氏を、2年前に監督として招聘した。彼は沖電気やトヨタ紡織で監督として経験を積んできたが、学会員ではない。選手たちも嘗ては学会員が殆どだったが、榎木監督が就任してからは、全国の強豪高校からスカウトしたケースが多い。創価大学の学生は80%以上が学会員だが、今回の駅伝メンバーは学会員が数人しかいなかった」という。池田大作氏が創立した創価大学は今年、創立50周年を迎えるが、今後は"池田離れ"も起きそうだ。そんな中、創価学会の原田稔会長は、来るべき全国の選挙対策で各地を駆けずり回っている。昨年12月末、原田会長は福岡県北九州市へ飛んだ。狙いは他でもない、1月31日投開票の北九州市議選だ。学会の内部情報によれば、「学会・公明党は、この北九州市議選を今年7月の東京都議会選挙、10月までに行なわれる衆議院選挙の前哨戦と位置付け、フル稼働している」という。既に九州の各組織では「北九州が勝てば全国が勝つ!」なる文書が配布されている。2030年の学会創立100周年に向け、福岡市の『九州池田講堂』で開催された大九州の総会で、原田会長は次のように演説した。「今日の世界広布の大発展は、池田先生の誓願、展望、不断の闘争によって実現した。偉大な師匠に連なり、全てに先駆の九州が、今こそ人間革命と宿命転換の実証を示さなければならない」。聖教新聞には九州での様々な会合での写真が掲載されている。それによれば、「政教一致の3密会合が目立っている」(前出の学会元幹部)。本来なら新聞や週刊誌メディアが指摘しなければいけないような状況だが、堂々と選挙活動を進めていることが手に取るようにわかるのだ。聖教新聞の座談会では、公明党が進めた"医療従事者の手当増額"や"飲食店への一律100万円の協力金"を褒め称える。これまでなら、直接、政治に関わることはなるべく座談会では扱わなかったのだが、このところ、学会幹部は堂々と公明党の働きを喧伝するようになった。それもこれも、末端の学会員に対し、「公明党はこれだけ政権与党の中で多大な影響力を持っている」とアピールする為だ。「ここ数年の各種選挙では、学会員が露骨に公明党の働きを有権者に伝え、F票を掘り起こすケースが増えている。子供がいる家庭には『学校の無償化は公明党がいたから実現した』、コロナ禍では『公明党が一層充実した支援策を打ち出す』というトークだ。現場の声を聞くと言いながら、何れも税金をばらまくような政策ばかりだ」(同)。

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テーマ : 創価学会・公明党
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  • 2021年02月26日(23:21:25) :
  • 政治 :
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【地方大学のリアル】(14) 創価大学(東京都)――創価学会"戦略機関"の正体



20210226 10
新春を彩る国民的スポーツイベントとなった『箱根駅伝』。年毎に大学がブランド向上に鎬を削る舞台へと変質しているが、今年、その場を最大限に活用してみせたのが、往路優勝且つ総合2位と大躍進した創価大学である。『創価学会』が大学まで持っていたのかと驚いた人も少なくなかった程の知名度の大学だが、信者の減少等陰りが濃くなる学会の中で、生き残りを担う戦略機関と言える。その意味で、箱根駅伝の往路優勝は大学以上に学会にとって大きな意味を持っていた。「やっぱり先生は強い星を持っていらっしゃる」。5区の三上雄太選手が芦ノ湖のゴールにトップで飛び込むと、東京都八王子市にある創価大学キャンパスでは、期せずしてこんな言葉が上がったという。往路の開催された1月2日は池田大作名誉会長の93歳の誕生日だったからだ。創価大学が翌日の総合優勝ではなく、往路に全力を上げた隠れた理由である。池田名誉会長は、学会では牧口常三郎初代会長と戸田城聖第二代会長に続く第三代会長だが、創価大学は1971年に自ら創立した「先生の子供のような存在」(学会関係者)。駅伝往路優勝を伝える『聖教新聞』の1面には、池田会長が歓喜の言葉と共に「ありがとう」とメッセージを寄せた。多くの人にとって、創価大学は謎に満ちた学校だ。最も大きな疑問は、「創価学会員でなければ入学できないのか?」という点だ。当たり前の話だが、文部科学省が設置認可を出した以上、特定宗教を入学の条件にはできない。誰でも自由に入学はできるが、現実は推定で90%が学会員の子弟である。

最近は一般の高校からの入学者も増えているが、創価高校や関西創価高校の係属2校からの入学者が多数を占める。今年の駅伝の10人の走者で学会員は3人のみで、残りは駅伝有力校や鳥取県立米子東高校等地方の名門進学校出身。実は、創価大学は学生多様化の時代を迎えているのであり、駅伝の躍進はその象徴といえる。創価大学のもうひとつの謎は、教育の実態が殆ど外に紹介されていない点だ。法学部、経済学部、経営学部等の文科系だけでなく、理工学部、看護学部等理・医薬系学部もあり、通信教育部を含めれば9学部という総合大学。ただ、学生数((注記)大学院含む)は約7400人と中堅規模で、87万m2という広大なキャンパスから考えればアメリカの大学のような雰囲気を持つ。創価大学で知名度が最も高いのは法学部と法科大学院だろう。2019年の司法試験((注記)2020年は延期)でも法科大学院から16人が合格、東北大学、九州大学等旧帝大にほぼ並ぶ合格者数だった。創立からの累積合格者数は375人に上り、法曹界で一定の存在感を持ち始めている。この法曹界への人材輩出こそ、創価大学創立の目的の一端を示している。即ち、戦前には特高警察等からの弾圧も経験した学会が法律を武器に自らを守る為であり、更に学会員の法律家を公明党の政治家の母集団にしようという戦略である。創価大学出身の弁護士である佐々木さやか、安江伸夫両参議院議員はその典型である。公明党はこれまで、元検事の神崎武法元代表や弁護士の山口那津男現代表ら年配幹部が東京大学法学部卒だったが、これから創価大学卒の法律家が党の要職を占める時代に変わっていく。もうひとつ、創価大学出身が増えつつあるのはメディアだ。『朝日新聞』・『日本経済新聞』・『毎日新聞』等全国紙や『西日本新聞』等有力地方紙の記者には、創価大学出身者がじわじわと増えている。メディアに人材を送り込むことで、報道への影響力を強めようという狙いだ。その原動力となっているのが、『聖教新聞』や『公明新聞』の印刷委託。部数減、広告減で経営が悪化する全国紙や地方紙にとって、印刷所の稼働率を高められる聖教新聞等の"賃刷り"は抵抗できない甘い蜜。学会は見返りに、創価大学卒業生の採用を各新聞に強く働きかけているという構図だ。

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テーマ : 教育問題
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  • 2021年02月26日(23:21:23) :
  • 教育 :
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【地方銀行のリアル】(47) 静岡銀行(静岡県)――システム障害"連発"の大惨事



20210226 09
衝撃はまさに「メガトン級」(関係者)だったという。年明けから稼働させた新勘定系システムでトラブルを連発させた地銀大手の『静岡銀行』。一部の不具合については今もなお対応中で、原因も判然としていない。システム開発の現場は勿論のこと、行内は「騒然としている」(同)らしい。「当行は本日、日立製作所と共同で開発を進めてきた"次世代勘定系システム"の稼働を開始しました」――。静岡銀行がこんなニュースリリースを開示したのは1月4日のこと。まるで順調な滑り出しが約束されているかのように誇らしげだが、舞台はこの時、既に暗転していた。『セブン銀行』のATMで、同午後4時から5時間弱に亘り、静岡銀行の口座への入金ができなくなるトラブルが発生していたのだ。幸い、この不具合は同日中に解消したが、その後もシステム障害は止まらない。5日には、他の金融機関からの入金取引で手続きの遅れや入金不能トラブルがあったことも発覚。4日午後3時半以降に受け付けた他行からの振り込みの一部では、取引処理が繰り返される"二重振り込み"も見つかった。ATM関連ばかりではない。法人向けのインターネットバンキングサービス『WEB-PCバンキングサービス』を巡っては、給与振り込みの際に法人側が負担する送金手数料が、誤って従業員らに振り込んだ金額から差し引かれてしまうといったトラブルも起こった。いつもより給与が減ってしまうわけで、利用者からすればそれこそ"業腹"だろう。

静岡銀行は、この新勘定系システムの開発に約7年もの歳月と400億円超に上る事業費を投じてきた。構想化されたのは2013年11月。機能拡張やフィンテック等他の金融サービスとの連携が素早くかつ容易なように、オープン系と呼ばれる技術の採用を邦銀で初めて決断。ベンダーを、1989年から付き合いのあった『富士通』から『日立製作所』に切り替えてのプロジェクト始動だった。しかし、開発はその新規性故に、想定以上に難航する。信頼性や堅牢性の検証作業にも時間がかかり、当初は2017年中としていた稼働を二度に亘って延期。業務分析等に工数を費やし、300億円前後と見込んでいた事業費も膨らんだ。昨年5月からはATMやインターネットバンキング等のオンラインサービスを計4回に亘り休止。「万全な上にも万全」(幹部)を期してシステム刷新に臨んだ筈だった。そんな時間と労力が今回、「殆ど泡と消えてしまった形」(中堅行員)となる。パートナーの日立を貫いた衝撃は静岡銀行以上か。同社では、この新勘定系システムをオープン勘定系パッケージとして製品化し、他の金融機関に売り込んでいく計画を表明していたからだ。これを受けて、既に昨年9月には『滋賀銀行』が導入を発表。『京葉銀行』も追随するとの観測も上がっていた。だが、トラブル多発、その上に原因不明の製品など危なくて、このまま受け入れられる筈もない。事情通によると、社内では「(ベンダーを外された)富士通によるサイバー攻撃ではないか」といった"恨み節"も飛び交っているらしい。無論、金融庁は怒り心頭だ。基幹系システムに関する地銀等の先進的な取り組みを支援しようと、昨年3月、庁内に基幹系システムフロントランナーサポートハブを設置。その第1号案件として同4月末、静岡銀行の新勘定系システムに対する支援を決めていたからだ。支援には"先進性"の他、基幹系システムの開発・更改により業界全体のデジタライゼーションの進展が見込めるといった"社会的意義"等4つのチェック項目を満たすことが要件。"利用者保護"もその一つだ。利用者保護上の適切な対応が確保されるシステム開発・更改でなければならないというわけだが、それがものの見事に裏切られたとあっては堪らない。当局筋の一人は、「とんだ食わせ物。こっちの面子は丸潰れだ」と声を震わせる。静岡銀行は、1877年設立の『静岡第三十五国立銀行』が母体。その後、1943年3月に『遠州銀行』、同6月に『浜松銀行』等3行、同12月には『伊豆貯蓄銀行』等同じく3行と相次いで合併して業容を拡大。1944年には『浦川銀行』、1945年には『浜松市信用組合』も吸収合併している。

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  • 2021年02月26日(23:21:21) :
  • 経済 :
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香港の"中国研究拠点"のトップが更迭...膨大な中国共産党関連書籍の行方が焦点



20210226 08
香港中文大学にある中国研究サービスセンターに在籍していたアメリカ人研究者のピエール・F・ランドリー主任((注記)左画像)が辞任し、波紋が広がっている。大学の組織改編で同センターも対象になり、その計画にランドリー氏は不満を持っていたとされる。中文大学の幹部は、中国主導の研究機関になってほしいと希望していた。後任の主任には、同大学の社会科学院院長を務める趙志裕氏が就任することが決まり、今後はセンターの組織改編を主導するとみられる。趙氏は中国出身の研究者。中国の所謂『千人計画』で特別招聘専門家を務めたこともあり、中国当局と太いパイプを持つ。同センターは半世紀の歴史を誇り、中文大学の図書館は、ここを通じて中国共産党下の中国の国情について書かれた書物等を大量に保有している。懸念されているのは、こうした大量の書物の閲覧が難しくなることだ。大学側は「デジタル化を進めており、世界の学者が図書館を利用することを継続して認める」としているが、今後どのような扱いになるのか注目されている。



ハンガリーに、中国の大学としては欧州で初めての分校が設置されることが決定し、周辺国が改めて警戒感を強めつつある。分校を設置するのは名門の復旦大学。昨年12月に行なわれた、ハンガリー側との協議で2024年から同国内に分校を開設することが決まったという。学生数は6000人で、経済、国際関係、医学、科学技術の学位を付与する計画だ。ハンガリーのオルバーン・ヴィクトル政権はこの10年、欧州諸国では中国やロシアとの関係を深めているほぼ唯一の存在になっている。特に、中国にとってハンガリーは一帯一路の欧州における最重要拠点で、大学設置を機に更なる影響力の拡大が懸念されている。有効性が疑問視され、出遅れる中国製コロナワクチンに関しても、ハンガリー国内での接種を前提に購入に合意しており、中国の属国化が止まらず、周辺国としては気が気ではない。



インドがロシアから空中輸送可能な軽戦車を購入する計画が進行している。インド駐在のロシア大使がインド側に提示した軍事協力プログラムに含まれているもので、ミサイルや戦闘機と並んで、軽戦車『スプルートSDM1』を供与する計画だという。同戦車は元々、ロシアのパラシュート部隊に配備されているもので、軽量である為、ヘリコプター移送が可能。更には、空気が希薄で低温な場所でも動く為、寒冷高地の作戦に適している。この為、インド側は、カシミールやヒマラヤ地帯での運用を考慮しての導入とみられる。現在、ヒマラヤ地域では中印両国が国境紛争を起こしているが、ロシアはそれを承知で、中国に不利になるような武器をインド側に売却する腹積もりだ。今後、中国側の反発も予想され、中露関係にも影を落としそうだ。



中国は昨年10月からオーストラリア産石炭の輸入を禁止しているが、実際には一部がインドやパキスタン等第三国を経由して中国に入っていることが判明した。オーストラリアの華文ウェブサイトが、オーストラリア企業『ホワイトヘブンコール』幹部の話として伝えた。スコット・モリソン首相の新型コロナウイルス感染源調査に関する発言を受け、中国当局は報復としてオーストラリア産石炭の輸入を制限した。その後、ロシア、インドネシア、南アフリカから石炭を輸入し始めたが、輸送費等が嵩み、高コストになっていた。中国側もこの迂回輸入を承知しているとみられるが、厳冬で石炭不足に陥っている為、止むを得ない措置として黙認しているようだ。

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  • 2021年02月26日(23:21:19) :
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【プロ野球アウトロー列伝】(05) 角盈男...「俺の野球人生なんで、辞める時は自分で決めた」



20210226 18
15年に亘る現役生活において、長嶋茂雄や王貞治、そして野村克也の下でプレーした経験を持つ角盈男は、「僕は上司に恵まれた」と振り返る。1976年にドラフト3位で指名されたものの、翌1977年の都市対抗大会に出場後、ドラフト期限が切れる直前に『読売ジャイアンツ』に入団した。「当時の監督はあの長嶋さんで、一塁には未だ現役だった王さんがいる。1年目は未だ夢物語で、何も現実味がないまま野球をやっていた感じだったよね」。この頃、「最も緊張したのが一塁牽制だったな」と角は笑う。「僕は左投げだから、牽制球を投げる時には一塁を守る王さんが正面にいるでしょう。ついこの前までは雲の上だった人と同じグラウンドにいる。牽制球は繋張しましたよ。暴投で王さんに球拾いをさせるわけにはいかない。ワンバウンドを投げて身体で止めさせちゃいけない。だから牽制球を投げられない。あの頃はただ、プレートを外すだけ(笑)」。角と言えば独特なサイドスローが代名詞だが、入団当時は真上から投げ下ろす本格派オーバースロー投手だった。入団1年目こそ新人王を獲得する活躍を見せたが、2年目には早くも致命的な欠点が露呈された。その日の調子によって抑えたり、打たれたり、調子は常に不安定で、マスコミからは"ノーコン病"と揶揄されていた。「ある試合後、西本(聖)と僕が遠征先宿舎の長嶋監督の部屋に呼ばれました。監督は兎に角、逃げるのが嫌いなんです。ピッチャーならフォアボール、バッターなら見逃し三振をすると凄く怒る。この日、西本も僕も逃げのピッチングで、風呂上がりの監督にばんばんビンタをされました。でも、僕の場合は逃げたわけじゃないんだよね。ただコントロールが悪かっただけなのに(笑)」。

フォーム改造のきっかけは後に伝説となる、1979年の"地獄の伊東キャンプ"だった。長嶋政権5年目を終え、若手の育成は急務だった。そこで、長嶋は有望選手をピックアップし、徹底的にしごき上げる方策を採った。「あの時のメンバーは江川(卓)さん、鹿取(義隆)さん、西本ら、野手は中畑(清)さん、篠塚(利夫、現在は和典)さん、松本(匡史)さんたち。練習メニューは至ってシンプル。午前中はただ投げて、午後はひたすら走るだけ。この時、ひたすら投げていくうちに、『これなら何球でも放れるな』というフォームが見つかった。それが、あのサイドスローだったんだよね」。このキャンプでの目的は、長嶋曰く「一番、四番打者と抑え投手を確立すること」だったという。それは長嶋退任後、後任の藤田元司監督時代になって、一番・松本、四番・中畑、抑え・角という形で結実することになる。1980年代になると、角はリーグを代表する抑え投手となった。投手出身の藤田は、巧みな人心掌握術で角の実力を更に開花させた。後を受け継いだ王監督の下でも、大事な場面を任されていたが、軈て斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄らが台頭。チームは若返りの渦中にあった。「結局、巨人には1989年途中まで在籍して、この年の途中に日本ハムに移籍するわけだけど、表向きには"日本ハムならば先発ができる"という理由だったけど、それは後づけで、本当のことを言えば『ジャイアンツに俺の居場所はないな』と思ったから。で、それ以降の現役生活は言い方は悪いけど、完全に"余暇"という感じになっちゃったよね」。1989年シーズン途中から1991年までは『日本ハムファイターズ』に在籍し、そして1992年から角は再びセリーグに移籍する。新天地となったのは、野村克也が監督となって3年目を迎える『東京ヤクルトスワローズ』だった。「野村さんの野球には興味がありましたね。噂の長時間ミーティングも、言っていることは普通の当たり前のことなんだけど、いざそれを言葉にするとなると難しいことをきちんと整理してあった。やっぱり奥が深かったし、後の財産になったのは間違いないよね」。この年、ヤクルトは14年ぶりにリーグ制覇を達成。惜しくも日本一は逃したものの、角は中継ぎとして46試合に登板。優勝の立役者となった。しかし、この年限りで角は現役を引退する。野村監督を始め、周囲の誰もが「まだまだ投げられる」「もったいない」と説得する中での突然の引退劇だった。「ピンチの場面ばかりで登板させられたからですよ。もう、自分のボールに力がないのがわかっているのに、大事な場面を任せられる。騙し騙し、何とか抑えていたけど、もう限界。野村監督からは止められたよ。でも、俺が野球を続けるか辞めるかは、野村さんが決めることじゃない。俺自身が決めることだから」。現役引退後、芸能事務所である『浅井企画』に所属しながら、解説者としてのみならず、ベースボールタレントとして活躍した。しかし、それも僅か2年の出来事だった。1994年オフ、角の下に球界復帰のオファーが届く。野村からだった。「一軍投手コーチとしてチームを支えてほしい」という突然の依頼だった。「正直なことを言えば、野村さんは1995年限りでの退任が決まっていたんです。退任が決まっている監督の下で、態々コーチになるヤツはいない。それで、何人目の候補者に断られたんでしょう。表向きは『お前の明るさがチームには必要だ』ということだったけど、実際はなり手がいなかっただけ(笑)」。

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テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

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