'12-46 東海道一人歩き その2ー2
「川崎から戸塚まで」の続き その2-2 です
Photo_4「新子安駅から神奈川駅まで」電車利用したので、その2-2 では神奈川駅からの行程です
登り坂を歩くと直ぐにあったのが「料亭・田中屋」
7時方向に下がると「追分」を経由して「保土ヶ谷」
右折して9時方向に行くとイキナリ出合ったのが「権太坂」
左:料亭・田中屋 11:57
黒塀に案内板(右側)がありますが、これを読んで驚いてしまいました
これによると、この料亭に坂本龍馬と結婚した「おりょうさん」が、ここで働いていた となっていました。もちろん龍馬は既に亡くなっていますが
調べてみると、更に興味津々なことが・・・
以下は検索した内容です
『田中家は、神奈川宿が賑わった当時から続く唯一の料亭で、文久三年(1863)創業の店です
田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名で、高杉晋作やハリスなども訪れました
坂本龍馬の妻「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年で、勝海舟の紹介(西郷隆盛の紹介と云う説もあるようです)で働いていたと伝えられています
英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました
右:「東海道五十三次」の神奈川・台之景(安藤広重)
海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。
その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。
そして坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字がある そうです
これが、現在の田中家の前身です
幕末の頃、文久三年(1863)に田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました
その少し前、安政6年(1859)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展し、「坂本龍馬の妻おりょう」は龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていました
月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます
横須賀に嫁いでいき、田中家を辞めた後も、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです
龍馬から おりょう にあてた恋文が、今も田中家に残っているそうです』
《私が写真を撮ったのが右の坂道で、この田中屋の裏は崖になっているようで、そして海だった わけです》
なお、晩年の「おりょうさん」はあまり幸せではなかったようで、ここでは触れません
左:神奈川関門跡碑 12:00
田中屋の前を少し登ると、この碑がありました
説明によると・・・
開港後、外国人があいついで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕えられませんでした。
イギリス総領事オールコックを初めとする各国の領事たちは、幕府を激しく非難しました。
そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化しました。
この時、神奈川宿の東西にも関門がつくられ、そのひとつが西側・神奈川台のこの関門です
右:その当時の関門だそうです
左:追分 12:56
この追分は東海道と八王子への分岐で、左へ直進するのが東海道で、右折するのが八王子方向になります
右:松原商店街 13:04
この追分から数分歩くとこの商店街で、距離は長くないのですがとても賑わっていました
(ほかの人のサイトを見ても同じように賑わっているようでした)
左:保土ヶ谷の宿場通り 14:42
右:保土ヶ谷の本陣跡 14:55
『保土ヶ谷宿の軽部本陣跡で、当時の門が残されている。
本陣は小田原北条氏の家臣、刈部豊前守の子孫が代々務めていた。
同家は、問屋、名主を兼ね、保土ヶ谷宿では最も有力な家であった』 そうです
左・右 権太坂 15:28 15:31
平坦な道を右折すると、イキナリ権太坂の登りが始まりました
チャリの女性はどこまで頑張れるのか 後ろから楽しみに見ていたのですが、直ぐに右折してしまい 残念でした(笑)
Photo_7地図の続きです
2時方向が権太坂で、登り切り左折して少し進むと「投げ込み塚」
塚から戻り、信号を左折すると下り坂で道は狭くなり、少し下がると「品濃(シナノ)一里塚」
ここから更に下って、大通りを陸橋で渡る頃には暗くなってしまい、旧道を間違える恐れがあるのでそのまま大通りを直進し、国道1号線との交差点で右折し、戸塚駅に向かいました
もうこの頃になると暗くなっていて、旧道ではなく大通りを通ったのが正解かも と自分で納得
それでも国道1号は歩道が狭く、凹凸があって歩きにくいこと甚だしい
Dscn0803_3
投げ込み塚 15:35
『権太坂は約1・5キロも続き、箱根につぐ難所で、行き倒れも多く、二番坂を上りきった横に死人を投げ込む井戸があったと伝えられていました。
昭和36年(1961)の開発で発掘され、多数の人骨が発見されたことに伴い、旅人の霊を慰めようと「投込塚之跡」の碑が祀られました。
発掘された人骨は、西区の東福寺に埋葬されました』
左・右:品濃(シナノ)一里塚 16;22
『この品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。
旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。
東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。
このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました』
川崎の宿を 8:30 にスタート
戸塚の宿に 18:30 着
歩行距離 約23,5キロ (歩数 約37500歩)
【川崎から戸塚まで はこれで終わります】
2012年11月29日 (木) ★ 「東海道」一人旅 | 固定リンク
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