'12-43 東海道一人歩き その1ー1

'12/10/29 (月)

いよいよ今日から「東海道歩き」に挑戦します

スタートは お江戸日本橋 ですが、七つ立ち(午前4時頃) と言うわけには行かず、10時を少し過ぎてしまいました
明け方まで雨が音をたてて降っていましtが、徐々に晴れきて日本橋に着く頃は快晴、暑いくらいです

Photoスタートは1時方向の東京・日本橋からで、きょうの予定は川崎まで歩きます

「前置き」ですが
1,日本橋から川崎までを1枚の地図にすると大雑把になり過ぎるので、2枚に分けました。
これからも、場合によってはこの様に分けて載せるようにしたいと思っています

2,歩行ルートは黒点線ですが、大まかな地図なので正確にはなっていないことを先ずご理解下さい

3,赤丸は途中で立ち寄った所や、名所・旧跡と言われる所です。
が、なにしろ「足の向くまま・気の向くまま」なので、これも寄ったり、寄らなかったり適当です

4,この道中記は日本橋から順番にアップすれば見て下さる方には見やすいと思うのですが、誠に勝手ですが、原稿?が出来た順番に更新してゆきますので、だいぶご不便をお掛けしてしまうことをお許し下さい

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左:日本橋 10:17・・・(時刻です)
この日本橋を渡り、このまま歩くと京都に向かいます
橋の上には首都高などという無粋なものがあって情緒もヘチマもありませんが、この首都高を撤去しようという動きがあるようです

右:日本橋「滝の広場」 10:29
橋の袂に「滝の広場」というのがあるのをご存じでしょうか?
これは・・・
『橋の南詰東側に間口5間の小屋の晒し場があった。
主殺し・女犯僧、心中者のかたわれなどの処刑者を見せしめのために「晒し箱」に入れ、首かせをかけて晒した』 所だそうです

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左:弾正橋跡公園 10:40
弾正橋は当時交差した堀川の上に真福寺橋、白魚橋と共に、この弾正橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図絵に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であった。

その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。

現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。
尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

右:八幡橋(旧 弾正橋)で、そのモニュメントの原型が、今では深川の富岡八幡の傍で現役の歩道橋として使われています

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左:東京・銀座の象徴 和光ビル 10:52
筋向かいビルのガラスに映っていたので パチリ

右:「銀座の柳」碑 11:07
♪ 巴里のマロニエ 銀座の柳
西と東の 恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を
撫でてやさしい 糸柳

もちろん私は聞いたこともないし知らない唄ですが、オバアチャンが唄っていたような微かな記憶があります
が、唄ってみろ と言われれば唄えると思います(笑)

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左:新橋駅を過ぎようとすると、ちょうど新幹線が高架を走って行きました
あれに乗れば、京都なんてアッという間に着いてしまうのに「歩いて行こうなんて 俺はなんてバカなんだ」

右:芝の増上寺 11:37
東海道からはホンの少し外れますが、増上寺本堂と東京タワーの組み合わせは、パチリ・ポイントになっているようです

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左:薩摩藩邸跡の碑(左) 12:00
『慶応3年10月13日(1867年11月8日)に薩摩藩へ討幕の密勅が下るなどしたが、薩摩藩の協力を得るなどして幕府側は、それを回避するために慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還となり、徳川幕府は朝廷への政権返上を上奏した。
しかし、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられ、幕府は廃止された。

これらの状況下で続出する騒乱の犯人として薩摩藩が裏に控えていると疑った旧幕臣たちは、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦はついに武力討伐を決意。
12月24日(1868年1月18日)に庄内藩江戸邸の留守役松平権十郎に、「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す』
このような状況で焼き討ちされた薩摩藩邸跡で、田町のNしろまるCビルの敷地にあります

右:勝・西郷・の会見地跡 12;05
『江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868)3月13日、14日の両日薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城がなされました。
この重要な会見の地については諸説があるようですが、13日の予備的会談は高輪の薩摩屋敷、14日の最終会談はこの碑の建つ田町の蔵屋敷で行われたようです』

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左:東京タワー 12:12
「札の辻」交差点の歩道橋から眺めた東京タワーで、少しの間の見納めでしょうか

右:大木戸跡 12:22
『江戸時代は町ごとに木戸を設け、自身番において警固させました。
江戸の入り口であるため高輪は大木戸と呼ばれ、旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのもここまででした』

余談ですが・・・伊能忠敬は正確な日本地図を作るため、この「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。
寛政12(1800)4月19日55歳の時。地図は忠敬が74歳で死んだ3年後、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。
この地図を国外に持ち出そうとして発覚、国外追放となったのが かの有名なシーボルトです

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左:泉岳寺 12:30
忠臣蔵でお馴染みの、赤穂四十七士の墓があることで有名ですが、今日はお参りをせずに門前で失礼

右:品川駅前 13:06
駅前の球技場(パチンコ屋)では、客寄せに懸命(後ろの若者はまだ見習いなのか、踊りがサマになっていません)

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左:旧東海道 13:20
品川駅を過ぎ、左手を行き京急線の踏み切りを渡ると、「旧東海道 品川宿」に入ります
ここにはだいぶ前に来たことがありましたが、今では電線も整理され空が明るく感じました。
出来れば宿場だけでなく、どこもこの様に電線を隠すようにしてもらえると スッキリ・サッパリすると思うなですが・・・

右:品川宿 本陣跡 13:32
本陣跡の中は児童公園になっていて、その遺構らしい物はないようです

【地図を新しくして その1-2 に続きます】

2012年11月28日 (水) ★ 「東海道」一人旅 | 固定リンク
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