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獅子の泉でつかまえて

銀河英雄伝説の皇帝夫妻をネタにした二次創作小説その他

11話〜20話

「きゃっ」

突然の出来事に、ヒルダは小さく叫んで身体を硬直させた。
それに気付いているのかいないのか、ラインハルトは素早くあたりをうかがうと、石畳の通路から数メートル離れた所に根を張っている桜の下へ彼女を連れて行く。
花の咲き乱れる上部はライトアップされているが、株元にはすでに薄闇が迫っていた。

「あっ、お嬢さま!お嬢さまに何を!」

背の高い若者に引きずられるようにして歩くヒルダに、ハンスは色を失った。
しかし、忠実な家令が、伯爵令嬢を救出すべく慌てて駆け寄ろうとすると、何者かが後ろから腕を捕まえて引きとめる。
振り向けば、マリーンドルフ邸の警備責任者、シュミット少佐がそこに立っていた。
庭から廻って、いつの間にか、玄関先まで来ていたらしい。

「まあ、まあ、シュテルツァー殿、落ち着いて。もう少し、様子を見守ろうではありませんか」

「そ、そうは言っても・・・・」

気が気でない様子のハンスが目を凝らして見つめる先では、満開となった桜が花びらを少しずつ散らし始めている。
その黒い幹の傍らに、神も羨むような美しい男女が向かい合って立っていた。
男は黒地に銀をあしらった軍服で逞しい身体を包み、その上に純白のコートを羽織っている。女は薄茶色のツイードのパンツスーツで、瑞々しい肢体を覆っている。

親衛隊員たちは二人を囲むように展開すると、司令官に背を向けて立ち、辺りに気を配った。
心得たもので、彼らは巧みに、会話が聞こえない程度の距離を保っている。

だが、マリーンドルフ家の忠実な家令にとってはまた事情が異なる。
毀誉褒貶の絶えないローエングラム候が、ヒルダお嬢さまの耳にいったい何を吹き込もうとしているのか、ハンスは気が気でなかった。
あの男と係わってからというもの、我が家の周囲では、きな臭いことばかり起きる。
おまけに先ほどの、仮にも侯爵を名乗る人士にあるまじき不埒な態度。
まるで、お嬢さまを略奪するがごときではないか。

それでも、そんな成り上がり者の不作法な行為に、お嬢さまが憤っているのならまだしもだ。
自分でさえ、間近で見る元帥閣下の美貌には、思わず息を飲んだ。
うら若い娘が、ぼうっと見とれているうちに言葉巧みに騙されてしまうなどということも、大いにあり得るのではないか。
賢いヒルダお嬢さまのことだ、つい我を忘れてお御身を危うくするようなことなど無いと信じたいが、万が一ということもある。

ああ、取り返しのつかないことになったら、伯爵さまに何とお詫びを――。

実際のところ、事態はすでに引き返すことのできない地点まで来ていた。
だが、もしこの時、ヒルダとラインハルトが交わす会話をハンスが聞くことができたならば、銀河帝国の臣民としてはともかく、マリーンドルフ家の家令としては安心がいったことだろう。
色めいたところなど、何一つなかったのだから。

「フロイライン、あなたの手腕を見込んで、頼みたいことがある」

「は、はい。何でございましょう・・・・」

胸の動悸が収まりきらない伯爵令嬢は、やっとの思いで返事をした。
が、ラインハルトは委細構わず、空いていた左手も添えてヒルダの身体をぐいと引き寄せると、くすんだ金髪から覗いた耳に、薄い唇を寄せて告げる。

「リヒテンラーデを見張ってくれ」

暖かい息とともに届けられた言葉の冷たい衝撃は、父親でも恋人でもない男性に腕を掴まれているという不条理な状態を、ヒルダに忘れさせるに十分だった。
彼女はゆっくりと頭を上げると、大きな碧の瞳で、若い元帥の端整な顔を正面から見る。

「それは、リヒテンラーデ公が、閣下を裏切るかも知れないということですか・・・・」

「そうだ」

少しも躊躇わず、ラインハルト言い切った。

「むろん、今すぐに何をするというのではない。だが、門閥貴族との内戦の趨勢が明らかになったその瞬間から、陰謀好きなあの老人は必ず蠢き始める。私がオーディンに居ないのを、これ幸いとな」

ヒルダは長い睫毛をいったん伏せると、薄桃色の唇から小さく息を吐いた。

「お気持ちは分かります。閣下とリヒテンラーデ公とでは、あまりにもお考えがかけ離れていらっしゃいますもの。永遠に倶に天を戴き続けることなど、とうていご無理だとは存じます」

「フッ、良く分かっているではないか」

「でも、少なくとも表面的には、まだ何の問題も生じていないように見えましたのに」

「急なことで驚かれたか。だが、たとえ全軍を手中にしようとも、リヒテンラーデが皇帝の摂政として国事全般を預かっている以上、大義名分は奴の意のままだ。いざとなれば、私を逆賊に仕立て上げることもできる」

若い元帥の言い分に、伯爵令嬢はコクリと頷く。
政務への関心が薄かった先帝フリードリヒは、万事にリヒテンラーデの手腕を頼み、信賞必罰の一切も彼に任せっきりだったと聞く。
ましてや、今の皇帝が年端もいかない子供であれば、どれだけ――。

「あの陰謀家に対しては、常に先手先手を打っていかなければ、こちらが危うくなる。そして、奴に疑われずに大軍を動かせる機会は、そう多くはない・・・・。分かるだろう?」

「は、はい、でも・・・・」

「でも?何だ、まだ納得が行かぬのか・・・・。そうか、なんだかんだいっても、やはりあなたは貴族なのだな。私のような成り上がり者が、宰相となることが気に入らぬのだろう。それとも、あれでリヒテンラーデは大過なく職責を果たしているのに、それに取って代わるのが私のような若輩者では頼りないとでも・・・・」

不意を衝かれたような表情をして、ヒルダは再び顔をあげた。
大きく見開いたブルーグリーンの瞳を、冴え冴えとしたアイスブルーの瞳が見下ろしていたが、伯爵令嬢は怯まなかった。

「いいえ。閣下がそのようなことを仰るとは、心外です。閣下が覇権を確立され、この帝国を統治されること、それこそ私が心より願って止まないことですのに。私はそのことを・・・・」

そこまで一気に喋ってから、ヒルダは息を継いだ。

「貴族の中にも、閣下を支持する者がいるのだと、そのことをお伝えしたくて、私はあの日、勇気を奮って、たった一人で元帥府を訪ねて行ったのです。もし、我が家の安泰のみを目的としたならば、私は伝手を頼って、宰相府の方を訪ねていたでしょう」

「・・・・そうだな」

懸命に言葉を重ねるうち、ヒルダのすべらかな頬は紅潮し、真珠色の肌はいっそう透明感を増したようだった。
それを目の当たりにして、どのような感情の動きがあったのか、若い元帥の蒼氷色の瞳から急速に冷気が引いていった。
と同時に、ラインハルトは、己の手が無造作に掴んでいるものが、ひどく細く儚げで、しかも柔らかいことに今更のように気が付いた。

「閣下。あの時、私が忠誠を誓ったのは、リヒテンラーデ公ではなく、ローエングラム元帥閣下に対してです。そのことをどうか、お忘れになりませんよう・・・・」

忘れるものか――。

自分でも良く分からぬが、何故かあなたには、いつも試すようなことを言っては怒らせてしまう。
けれども、本心からあなたを疑ったことなど、一度としてないのだ。
全てを洞察しながら、それでいて俺を選んでくれたフロイライン、我が同志よ!

ラインハルトは、胸郭の奥が、得体の知れない暖かいもので満たされていくのを感じた。
そして一瞬、両腕をこのまま伯爵令嬢の背中まで回して、華奢な身体を思いきり抱きしめたいという衝動に駆られた。
が、彼はきつく目を瞑ると、逆に手のひらをそっと開いて、彼女を放す。

「分かった・・・・。では、フロイライン・マリーンドルフ、先ほどの件、引き受けてくれるな」

威圧するようだった司令官の声音が、柔らかいものに変わっていた。

「はい、承知しました。閣下」

ようやく緊張が解けたヒルダも、表情を緩めると、うっすらと微笑んで返事をする。
この時、辺りがもう少し明るければ、彼女は軍神の彫像のごとき白皙の頬が、わずかに火照っていることに気付いたかも知れない。

「・・・・では、頼んだぞ」

そう言ってしまってから、ラインハルトは慌てて次ぎの言葉を探した。
言い残していることが余りにも多いような気がしたし、戦争を目前にした彼としては希有なことだが、俄にこの場から立ち去り難くなってもいたのだ。

「そうだ・・・・、この件に関しては、超高速通信もヴィジフォンも使ってはいけない。リヒテンラーデが内務警察を支配している限り、盗聴される危険は常にあるものと思ってくれ。私に連絡する際は、手紙の形式にして、元帥府の受付のリュッケ中尉に渡すのだ。シャトルで運ぶので時間はかかるが、確実に秘密は守れる」

「はい、閣下」

「ああ、それから、もし身の危険を感じるようなことがあったら、オーディンの守備責任者のモルツ中将を頼れ。屋敷の警備のものに連絡を取ってもらえば良いからな。護衛も警備隊も、マリーンドルフ家が必要とするなら、いくら増やしても構わないと伝えてある」

「はい、閣下」

「それから、フロイラインには色々と世話になった。この戦いに勝利した暁には、あなたの功績に厚く報いるつもりだ」

「恐れ入ります」

「それから・・・・、しばらく会えないが、元気で」

「はい、閣下もお元気で・・・・。どうか・・・・、どうかご無事でお戻り下さい・・・・。ローエングラム元帥閣下に、大神オーディンのご加護がありますように」

彼女自身と、マリーンドルフ伯爵家と、それ以外の多くの人々の命運を決することになる戦場に一人の戦士を送り出す言葉に、ヒルダは万感の思いを込めた。
ふと込み上げてきたものが、碧の瞳を潤ませていた。
ラインハルトは、両手を胸の前で重ねた伯爵令嬢に頷きながら笑みを返すと、ゆっくりと身体の向きを変え、四方に枝を延ばした桜の下から出て行った。

その時、ひとひらの花びらが、微風に乗って金色の髪の上に舞い降りた。
物言わぬ桜もまた、麗しい若者との別れを惜しむかのようだったが、ラインハルトはそれに気付かずに、門の外で待機する専用車へ向かって歩を進めた。
その律動的に揺れるコートの裾を追うように、親衛隊が靴音を響かせて続く。

夕闇が迫る中、マリーンドルフ伯爵邸の警備兵たちは、黒塗りの車の一団が完全に視界から消えるまで、敬礼を解かなかった。
軍服の銀モールも華麗な親衛隊を引き連れた、古代の彫像のように美しい若者。
その号令一下、何十万隻もの大軍を自在に操る戦争の天才、帝国軍最高司令官ローエングラム侯爵。
天上の神のごとき存在が、突然、我が家に現れては去って行った。

今の今まで目にしていたはずの光景なのに、まるで夢でも見たかのようにふわふわとして現実感が乏しい。
頭の中に靄がかかるとは、このような状態を指すのだろうか。
ラインハルトらが去って行った後も、なおハンスはしばらく突っ立ったままだった。
彼を元の世界に引き戻したのは、警備兵が門を閉める際の、ガシャンという閂の音である。

見上げれば、東の空で、ちらほらと星が瞬きはじめている。
ハンスはすぐさま、彼の大切なお嬢さまの姿を探した。
そして、ヒルダがまだ、青年に連れ込まれた暗がりから出てこないことに気が付くと、マリーンドルフ家の忠実な家令は、血色の良い顔を、悪い予感に青ざめさせることになる。

「お嬢さま!お嬢さま!」

ハンスが叫びながら通路を5、6歩走ったところで、ヒルダが木の下からふらりと姿を現した。

「あっ、お嬢さま!ご無事でしたか」

「え、ええ・・・・」

「本当に大丈夫でございますか?あの男に、何か悪さをされませんでしたか?」

「何も・・・・、話をしていただけですもの。ハンスはいつも、大げさに騒ぎすぎるのよ」

もっとも、そうは言ったものの、ヒルダも、自分を上手くコントロールできていたわけではない。
方向性はともかくとしても、何事も急ぎすぎるローエングラム候の手法を危ぶんでいたにもかかわらず、快く依頼を引き受けてしまったのだから。

ラインハルトが蒼氷色の瞳を細め、輝くような微笑みを自分に向けたとき、ヒルダは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、かつて経験したことのない感覚に捕らわれた。
息をすることすらどこか苦しいような案配だったが、我が身がなぜそうなったのかも分からず、ただ困惑するばかりだったのだ。

「だいぶ冷えて参りました、さあ、早く中へ入りましょう」

家令に言われてにわかに肌寒さを覚えたヒルダは、自らの肩を抱くようにして、ドアの向こうへ消えていった。

* * * * * * * * * *

正門の脇に設置された警備隊の詰め所から、シュミットは伯爵令嬢の後ろ姿を見送った。
きれいに切り揃えた顎髭をしごきながら、一人得心したような笑みを浮かべている。

夜目が利くのは生まれつきだった。
軍に入ってからは更に特殊な訓練を積み重ね、参謀本部の諜報部門で働くことになった。
そこでの勤務が長くなり、艦隊に配属されたのは還暦を迎えてからである。

補給の担当として働くこと、さらに5年。
内戦を前に、年齢的な制約から地上残留組に振り分けられてしまったが、シュミットがマリーンドルフ伯爵邸の警備を担当することになったのは偶然ではなく、キルヒアイス上級大将のたっての指名によるものだった。

なぜ、自分に白羽の矢が立ったのか――。
老軍人が尋ねると、赤毛の若い上司は、ある人物を必ずや守ってもらいたいからだと言った。
貴殿は諜報部に顔が利く上、カラテの達人と聞いている。だからお願いするのだ、と。

キルヒアイス提督が人選にこだわった理由は、先ほどの一件で良く分かった。
ある人物、つまり、この屋敷の美しくも賢い令嬢は、ローエングラム元帥閣下にとって特別な存在だったのだ。

立ち位置からいって、二人はまだ、思いを告げ合った恋人同士というわけではなさそうだ。
だが、そう遠くない将来に、関係が進展する可能性は相当に高いと、シュミットはその経験から判断した。
戦地への出征など、命の危険を伴う仕事を前にした男が最後に立ち寄る女は、その男にとって最愛の女であることがほとんどだからである。

それは、帝国軍の将官であろうが、共和主義派のテロリストであろうが、叛徒どものスパイであろうが、種を保存することが人間の本能である限り変わらない。
加えて、一夜を共にした男が、重要な証拠や情報を女に託していくことも珍しくなく、諜報部員だった頃の彼は、そんな監視対象者が通う女の多くを見張り、時には捕らえて尋問し、また場合によっては保護してきたのだった。

退役前の最後のお勤めが、思いのほか重責であったと知ったシュミットは、満足するとともに身が引き締まる思いがした。
彼は一瞬、諜報部員として鳴らした男らしく鋭い眼光をひらめかせたが、すぐに温厚な老人の顔に戻ると、周囲の兵士の誰に聞かせるともなく呟いた。

「ほんに、良いものを見せてもらったのう。一幅の絵画のようじゃった。いや、眼福、眼福」

* * * * * * * * * *

後部座席のゆったりとしたシートに身を預けると同時に、ラインハルトは大きく深呼吸した。
吐く息が熱い――と、彼自身も感じていた。
計画通りに事が運んだにもかかわらず、妙に気分が高ぶっている自覚がある。

「閣下が溜息をつかれるとは・・・・、珍しいこともあるものです」

地上車が発進すると、奥の座席から、抑揚のない男の声がした。

「急にどちらにお立ち寄りになるのかと思えば、マリーンドルフ伯爵の屋敷でございましたか」

「オーベルシュタイン。言いたいことがあるなら、はっきり言え」

総参謀長にそう命じつつも、ラインハルトは顔を正面に向けたまま目を閉じ、小言を聞き流すつもりでいる。

「では、申し上げます。閣下、我々が薄氷の上を歩んでいるということを、どうかお忘れなきよう。堅牢なダムであっても、蟻の一穴から崩れることもあるのです。今はまだ、用心の上にも用心を重ねてしかるべきでしょう」

「当然だろう。だが、そのこととフロイラインが、どう関係するというのだ」

「随分と、ご執心でいらっしゃるようにお見受けしましたので」

「ほお、そう見えたか。それで?」

「閣下とて、女性が必要な夜もおありでございましょう。ですが、フロイライン・マリーンドルフは名門の令嬢、そこらの女どもとはわけが違います。粗略に扱うことができぬ以上、当面は距離を保つべきではありませんか。どうしても彼女を所望されると仰るのなら、閣下が盤石の体制を築かれた後で、愛人なり寵姫なりになさればよろしい・・・・」

「オーベルシュタイン!卿は、はなはだしい勘違いをしているようだな!」

ラインハルトは蒼い目をカッと見開くと、いきなり語気を荒げた。
彼が、寵姫という言葉に激烈な反応を示したことは明らかだったが、その雷が落ちたがごときただならぬ気配は、防音ガラスで隔てられたフロントシートに座る秘書官が、たまらず振り返ったほどだった。
若い元帥は、何でもないと手を振って秘書官に前を向かせると、半白髪の男を睨み付ける。

「ふん、それでブラウンシュヴァイクの間者から格上げしたつもりか。マリーンドルフ邸に寄ったのは、私の留守中に、フロイラインに一仕事してもらうためだ。彼女は有能だからな。それだけだ」

「私の誤解でしたら、幾重にもお詫びいたします・・・・。して、その仕事とは?」

「リヒテンラーデの見張りだ」

参謀の義眼が、冷たく点滅する。

「閣下、お言葉を返すようですが、リヒテンラーデの監視には、すでに諜報部の者を何名も張り付けております。この上、フロイライン・マリーンドルフに何をさせるおつもりですか」

「何名も、か。今度は何に化けさせた。清掃係か?メイドか?そうそう、内装工事業者というのもあったな。だが、宰相府や屋敷に何人配置したところで、彼らが果たせるのは目と耳の役割だけだ。貴族社会にあっては、彼らは所詮、観衆に過ぎないのだからな」

ラインハルトに指摘された点については、オーベルシュタインにも忸怩たる思いがあった。

「社交の舞台に立ち、貴族たちと対等に会話をし、そうすることによって彼らに影響を与えることができるのは、同じ貴族だけだ。そしてフロイラインは、我が陣営にあっては貴重な、貴族社会のインサイダーだ。違うか?」

「そこまでお考えでしたか・・・・。ですが、閣下、敵の懐中に飛び込んでの工作となると、少なからず危険が伴うことになりますが、その点は、よろしいのですか?」

彼の血色の悪い顔から表情を読み取るのは不可能に近いが、オーベルシュタインはこの時、確かに当惑していたのである。
ラインハルトが女性に、しかも憎からず思っているはずの伯爵令嬢に対して、守られることよりも共に戦うことを要求するとは想定していなかった。
しかし参謀は、彼の年若い上司に、心の動揺を悟らせはしなかった。

「危険か・・・・。それを言うなら、この際、何もせずに手をこまねいていることほど危険なことはない。フロイライン・マリーンドルフならきっと、そのことを分かってくれるはずだ」

「犠牲も覚悟の上だと仰るなら、これ以上、何も申しません」

「納得してくれたか・・・・。ならば、軍港に到着するまでの間、少し休ませてもらう」

ラインハルトは額にかかる金髪を鬱陶しそうに掻き上げると、黒革のシートに身を沈めた。
その拍子に、桜の花びらが一枚、はらはらと舞い降りる。
その儚いような薄桃色を目の端に認めてから、彼は静かに瞼を閉じた。

――俺は、彼女に甘えすぎているのかも知れない。

内戦に破れれば、マリーンドルフ家にも間違いなく累が及ぶというのに、その上、リヒテンラーデの監視までさせようというのだから。
危害を受けるようなことになったら、俺を恨んでくれ。
ヴァルハラの神殿から、不甲斐ない男だと、とことん見下してくれていい。

ああ、そうだ。フロイラインはまるで、ワルキューレのようだな。

ややあって、ラインハルトが寝息をたて始めると、その端整な横顔を、オーベルシュタインはつくづくと眺めた。
参謀はしばらくそうしていたが、やがて身体の向きを変えて端末のモニターを覗き込むと、哨戒艇が報告してきた敵艦隊の配置を、逐一確認する作業に戻った。

* * * * * * * * * *

首都星オーディンを出発したその6時間後、帝国軍総旗艦ブリュンヒルトはヴァルハラ星系の外縁部に到達した。
ローエングラム元帥の直隷部隊と、先発していたキルヒアイス上級大将率いる別働隊はここで合流し、今まさに最終的な打ち合わせが行われている。

フェザーンの連絡員から至急扱いの通信が飛び込んできたのは、電波吸収材の散布範囲を再度チェックし、そろそろ散会という時だった。
惑星ネプティスにおいて同盟軍の兵士が叛乱を起こし、司令官を拘束したとの内容だった。
自由惑星同盟のクーデター派が、遂に武装蜂起した。
予定通りに事が運ぶならば、更にいくつかの惑星で同様の事態が起こることになろう。
だが、それらは陽動で、真の狙いは首都ハイネセンの制圧、そしてその背後には、同盟軍を政府派とクーデター派に分断させ、相争わせる帝国軍参謀本部の策略がある。

「あの酔っぱらい、なかなかやるではないか」

ラインハルトは義眼の参謀を振り返ると、口の端で笑った。

「故国への恩讐の念が、あの男の能力を100%引き出したのだとすれば、とんだ皮肉だが」

「御意。過日申し上げた通り、あのリンチという男はスケープゴートにされたのです。エル・ファシルであの男の取った行動は、最善とは言えぬまでも次善のものであったのに、選挙を控えて大衆の人気取りに汲々とする同盟政府は、ヤン・ウェンリーを英雄に祭り上げるために、あの男に悪人の役を割り振ったのです」

「フッ、民主主義とは、実にくだらぬものだな・・・・。だが、ヤンの力量は決して虚構ではない。問題は、そのヤンがどちらの側につくかだが・・・・」

ラインハルトは形の良い顎に指をあてて何事か思案をしていたが、ほどなく椅子から立ち上がると、ブリュンヒルトの艦橋に整列した別働隊の司令官たちを見渡した。

「聞いたか。しばらくの間、叛徒どもは一歩も動けまい。従って卿らは、後顧の憂いなく、辺境星域に巣くう賊軍どもの討伐に専念できるというわけだ。この上は、帝国の秩序の一刻も早い回復のために尽力してもらいたい」

「はっ」

一同が敬礼すると、ラインハルトは優雅な動作でステップを降り、キルヒアイスに同行するルッツ、ワーレンの各艦隊司令官と握手し、激励と再会を約する言葉をかけて回った。
最後にひときわ背の高い青年の前に立つと、親しげにその肩に手を置く。

「ローエングラム侯。帝国の全土は、ことごとく閣下の威光に従うようにしてみせます」

「頼んだぞ、キルヒアイス。ところで・・・・」

ラインハルトは幼馴染みの肩を引き寄せると、小声で囁いた。

「ちゃんと、言われた通りにしてきたからな」

赤毛の若者は一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに合点がいったようだった。

「マリーンドルフ伯爵令嬢に、お会いになられたのですね・・・・。それで、フロイラインはやはり、ラインハルトさまの無事を祈って下さったでしょう?」

「まあな・・・・。でも、そのくらいのことは、フーバー夫人もしてくれたじゃないか」

フーバー夫人とは、昨年まで二人が暮らしていた下宿屋を切り盛りする姉妹の片方で、60歳をすぎた老婦人である。
二人にとっては気が置けない祖母のような存在だったが、ラインハルトが唐突に彼女の名前を出したので、キルヒアイスは吹きだしそうになるのを必死に堪えなければならなかった。

「何がおかしい」

「あの、ラインハルトさま・・・・、とにかく、アンネローゼさまの他にも、無事を祈りながら待っていて下さる方がおできになったのですから、フロイライン・マリーンドルフを悲しませるようなことにならないように・・・・。あまり無茶をなさってはいけませんよ」

「ふん、分かっているさ。それにしても、キルヒアイス、お前がこれほどお節介になったのは、誰に影響されたのだろうな。・・・・お前こそ、姉上を悲しませるようなことにならないようにしろよ」

不意を衝かれて、今度はキルヒアイスが動揺する番になった。
「あっ」と言ったきり言葉が続かず、優しげな相貌は、見る見るバラ色に染まっていく。
ラインハルトは予想通りの反応に完爾として微笑むと、耳まで赤くなった親友の肩をポンポンと叩いてから軽やかに壇上へ上がった。

純白のマントを翻して、ラインハルトは再び艦隊司令官たちに向き直る。
その瞬間、世慣れぬ若者は、無為のうちに帝国軍最高司令官へと変貌を遂げていた。
従卒の少年がワインを配り、戦勝を期して提督たちは杯を挙げたが、軍神の唇からプロージットと音楽的な響きをもった声が発せられると、その瞬間、彼らは勝利が予め約束されたものであるかのような幸福な錯覚に浸ることができた。

バルバロッサの深紅の機影が、最大望遠にした艦橋の大型スクリーンから見えなくなったのは、それから1時間ほど後のことである。

* * * * * * * * * *

最終学年が始まった早々、ヒルダの周囲では一騒動持ち上がっていた。
参謀本部が彼女に付けた護衛兼監視役の黒ずくめ二人組が、大学側の警備員から構内への立ち入りを拒否されたのである。
校門を挟んで入れろ入れないの押し問答が続いている間に、ヒルダは素知らぬ顔で脇をすり抜けると、友人と待ち合わせた中庭のカフェテリアへ向かった。

日当たりの良い席で、栗色の髪をポニーテールにした女学生が手を振っている。
ヒルダも手を上げて応えると、小走りに駆け寄って同じテーブルに陣取った。
自由な校風で知られるこの大学でも、政治経済を専攻する女子学生の数は極めて少ない。
薄茶色の瞳がくるくるとよく動く、いかにも活発そうな女学生マリア・フォン・シュレンドルフは、ヒルダと共にその少数派の一人である。

「おはようヒルダ、久しぶり。おじさまの具合、どうだった?」

「おはようマリア。だいぶ良くなったみたいだけど、まだとても本調子とは言えないわ。ちょっと動くと、すぐに身体がだるくなるって。マリアの家の方は、どうだった?」

「もう、大変!あんなところ、行かなきゃ良かった。せっかくの休暇なのに、パパの会社の仕事を手伝わされる羽目になって・・・・。今、うちの工場、フル稼働しても追いつかないくらい忙しいのよ。ローエングラム侯の大きな輸送船が、毎日のようにやって来るから」

マリアの父ペーター・フォン・シュレンドルフは、オーディンからほど遠からぬ惑星で、大規模な農場と食品加工工場を経営している。
階級としては帝国騎士にすぎないシュレンドルフが、地味豊かな惑星を生産拠点にすることができたのは、十数年前、借金で首の回らなくなったさる伯爵家から、格安で土地を借り上げることができたからである。

彼は広大な土地を得ると、設備を拡充し、順調に業績を延ばしてきたが、軍と取引する道は閉ざされたままだった。
門閥貴族出身の幹部の血縁に連なる業者によって、物品の納入が事実上独占されていたからである。
その悪しき習慣も、元帥府で入札制度が導入されたことで、遂に終止符が打たれた。
長期保存用の食品を、シュレンドルフ社が納入することになったのである。

「パパったら、創業以来最高の利益が出るぞ〜、なんて言って張り切っているけど、家族と従業員はもうくたくた・・・・。それよりヒルダ、昨夜のニュース見た?」

「え、ええ」

「ローエングラム元帥って、最高にカッコイイよね。白い戦艦の搭乗口で手を振っているところなんか、絵から抜け出してきたみたいだしさあ、そこらのソリビジョンの俳優なんか、お呼びじゃないって感じ・・・・。ねえねえ、ヒルダは伯爵令嬢なんだから、まるっきり雲の上の存在ってわけでもないんでしょ。パーティとか、舞踏会とかで、彼に会ったりしないの?」

「そうね。そういう場所で会ったことはないわ・・・・」

ローエングラム候とマリーンドルフ家との"関係"は、貴族社会では周知のことだったが、それをマリアにどう説明したら良いものか、なかなか頭を悩ませる問題である。

「なんだ、残念。ヒルダなら絶対、彼の気を引けると思うんだけどな」

「もう、マリアったら。だいたいローエングラム侯は戦地に向かっているのに、不謹慎よ・・・・」

ふと、背後で、誰かがくすくす笑うような気配がした。
振り向けば、身なりの良い男子学生が、ヒルダのすぐ後ろに立って、腕を組んでいる。

「やあ、マリア」

ハンサムな青年だったが、気安く名前を呼ばれると、マリアは露骨に嫌そうな顔をした。
その理由は、ヒルダにも察しが付かなくもない。
青年が、いつも両手に女の子をぶら下げて歩いている、大学一のプレイボーイだったからだ。
マリアが、彼に捨てられたといって泣く後輩を慰めたのは、つい先日のことである。

「まったく、女どもときたら、寄るとさわるとローエングラム侯のうわさ話だな。いったい、何を夢見ているんだか。鏡を見て、現実に目覚めろよ」

キーッと怒るマリアを尻目に、青年はなおも独り言のように話し続ける。

「それにしても、賊軍とはね。綺麗な顔をしていても、敵にはまるで情け容赦ないんだな、あの男は。目的のためなら、どんな残酷なことでも平気でやれちゃうタイプなんじゃないの。おお、くわばらくわばら・・・・」

明るいブラウンの髪の青年は、そう言うと、大げさに肩をすくめてみせた。
しかし、そんな戯けた態度の一方で、彼はこっそりと、今の発言に対する反応を確かめるかのように、ヒルダに向けて鋭い視線を走らせる。

「何を偉そうに講釈たれてるのよ!あんたなんか、全然お呼びじゃないわ」

「お生憎さま、僕が用があるのは、そちらのお姫さまの方でね・・・・」

青年はヒルダに向き直ると、急に態度をあらため、温厚な紳士のように微笑みかけた。

「フロイライン・マリーンドルフ、こうして直接ご挨拶申し上げるのはこれが初めてですね。法科5年のセバスチャン・フォン・ダルムシュタットです。どうか、お見知り置きを・・・・。ところで、我が家のサロンへぜひお越しいただきたいと、叔父が申しておりますが・・・・」

「あなたの叔父さま?」

「これは失礼いたしました。ご存じだとばかり・・・・。財務尚書のゲルラッハですよ」

* * * * * * * * * *

大艦隊が出立してしばらくの間は、戦況に関する情報は何も入って来なかった。
代わりに、連日のように報じられたのは、同盟で頻発する叛乱に関するニュースである。

ほどなく、首都ハイネセンでも大規模なクーデターが勃発し、救国軍事会議を名乗る軍人のグループが、国営放送を通じて、同盟の全権を掌握したと発表した。
国家元首トリューニヒトの消息が不明となっていることも含め、このことは帝国内にも大きな衝撃となって伝えられた。

この時点で、同盟のクーデターが、ラインハルトによって仕掛けられたものだと見抜く者は、宰相リヒテンラーデも含め、帝国内には皆無だった。
かえって、門閥貴族と揉めていなければ、混乱に乗じて叛徒どもを滅ぼす千載一遇のチャンスであったろうにと、軍を批判する学者がいたほどである。

4月20日になると、ローエングラム陣営から最初の戦勝報告が届いた。
アルテナ星域での戦闘において、ミッターマイヤー艦隊が、貴族連合のシュターデン艦隊を完膚無きまでに破ったというのだ。
士官学校で長年戦術理論を指導してきたシュターデンがかくも脆く敗れ去り、自前の艦隊を率いて参戦したヒルデスハイム伯爵家の当主はあっけない最後を遂げた。

やはり、ローエングラム侯は戦争の天才だ。
枢軸派の貴族は、この時、自陣の幸先の良い勝利を、大いなる喜びをもって迎えていた。
カレンダーは5月に入っていた。
この頃のヒルダは、アムリッツァ会戦に関しては、かなりの"通"になっていたと言って良い。
ローエングラム元帥麾下の艦隊司令官の名前も覚えた。
最初に元帥府を訪ねたとき見かけた半白髪の将校が、オーベルシュタインという名の総参謀長だということも。

これらはもちろん、シュミット少佐の薫陶のたまものである。
あの時以来、老軍人は勝手に、ヒルダの教育係を買って出ているのだ。
「よろしかったら、今度は護身術をお教えしましょう」というのが、最近の彼の口癖である。

ところで、あの時というのは、新学年の初日のことである。
ヒルダはその日、黒服の二人組を校門の外に置き去りにして講義を受けたのだが、帰宅すると、なぜか事情を知っているシュミットに捕まって、たとえ大学であっても、護衛の目の届かないところへは決して行ってならないと、厳しい調子で叱責されたのだ。

「フロイラインは、ご自分のお立場を良く理解していらっしゃらないのではありませんか!」

「万が一のことがあったら、ローエングラム侯はどれほどお嘆きになることか!」

「ご自分だけのお身体ではないのですよ!」

ヒルダとしては納得のいかない部分もあったが、気のいい老人だとばかり思っていた少佐の迫力に押し切られる形になった。
すぐにヴェストパーレ男爵夫人に連絡して特別に許可をもらい、かくして大学の構内に、場違いな黒服の男たちが出現することとなった。

彼らは、ヒルダが講義を受けている間は教室の前の廊下で待機し、移動する時は数メートル後ろを付かず離れず歩き、食事の際はテーブルが見渡せる場所に陣取っていた。
そうすることで、確かに彼女の身の安全は保たれたのだが、悪目立ちする彼らの存在は、いやが上にも学生たちの好奇の的となる。
マリアに対しても、ラインハルトとの"関係"を打ち明けざるを得なくなった。

二人はこの時、校舎のはずれに置かれたベンチに並んで腰掛けていたのだが、人気のない場所を選んだのは正解だったといえる。
なぜなら、「驚かないでね」と予防線を張ったにもかかわらず、その効果がほとんどなかったからである。
マリアの絶叫はこだまとなって建物のレンガ壁の間を何度か往復し、近くに控えていた黒服たちは何事が起きたのかと、思わず腰のブラスターに手を遣った。

その後、当然の成り行きとして、マリアによる質問責めが始まった。
といっても、彼女が知りたがったのは、ローエングラム侯に恋人はいるのか、いないのならどんなタイプの女性が好みなのか、どういった趣味があるのか、好きな食べ物は何か、シャンプーはどの銘柄のものを愛用しているのか、やはり支給品の白いブリーフを穿いているのか――といった、非軍事的かつ非政治的な事項である。

こうした疑問に対し、ヒルダは何一つとして答えることができなかった。
知らなかったからである。

「ヒルダったら・・・・。ブリーフは冗談にしても、あれほどの美形に遭遇しておきながら、少しはそういうことが気にならないのかしらね」

「でも、あの時は、とても私的な話をするような雰囲気じゃなかったのよ」

「うーん、だからさあ、何も面と向かって聞かなくとも、それなりに注意深く観察すれば、女がいるかどうかなんて、ある程度は分かるものじゃない」

「そうなの?私にはサッパリ・・・・」

「もう、日頃の洞察力は、どこへ消えちゃったのよ。少しは、プライベートな事にも関心を持たなきゃ・・・・。どうせ、元帥府へ行った時も、その色気のない服装だったんでしょう」

「そ、そうだけど、いけなかったかしら・・・・」

マリアは、手の施しようがないといった風に、盛大に溜息をつく。

ラインハルトに意中の女性がいるかどうかなど、ヒルダは今の今まで考えたこともなかった。
彼ほどの地位にあれば、門閥貴族ならずとも、年頃の娘を持つ有力者から次々と縁談が持ちかけられるだろうし、状況が落ち着けば、そうした娘の中から一人選んで結婚するものだと、端から思い込んでいたのである。

あるいは、ヒルダがそのような思考に陥ってしまうのは、政略結婚が常態となっている上流階級に生まれ育った人間の、習い性のようなものだったかも知れない。
実際、彼女自身も、伯爵家を相続する一人娘として、いずれしかるべきところから婿養子を迎えることになるのだろうと、自分の将来をぼんやりと思い描いていたのだから。

マリアから指摘されて、ヒルダは初めて、漠然とした未来の話ではなく、今、ラインハルトに恋人がいる可能性について思案することになった。

ローエングラム侯の心の中に、ひとりの女性が棲んでいる。
あのどこか恐ろしく、近寄りがたくもある軍神が、プラスベートでは、一人の男性として愛しい女性を優しい眼差しで見つめ、楽しげに語らい、熱い抱擁を交わしている。
恋人がいるとは、そういうことだ。

が、たとえそうであっても、自分には関係のないことだし、そのことによって何ら影響を受けるわけでもない。
ローエングラム候への忠誠心が揺らぐことも、なすべき事を疎かにすることもないだろう。
それは、疑うべくもないことだけれども――、けれども、どうだというのだろう。

ヒルダの脳における思考はそこで行き止まりとなり、入れ違いに心臓の辺りが何かひんやりとしたものに触れた。
それは、寂しいという感情だったかも知れない。

急に押し黙ってしまったヒルダに、知らぬ間に何かスイッチを入れてしまったのではないかと、マリアは一寸不安になる。

「ちょっと、ヒルダったら、そんな深刻にならないでよ、何も責めているわけじゃないんだから・・・・。えーっと、じゃあ、ヒルダから見て、何か意外な発見とかはなかった?」

「意外な発見?そ、そうね、コーヒーに、お砂糖を山盛り2杯入れることとか・・・・」

過日出会ったハンサムな青年が、校舎の向こう端から姿を現したのは、マリアがベンチからずり落ちそうになった、ちょうどその時だった。

「さっきの、やっぱりマリアか。相変わらずデカイ声だな。おかげで探す手間が省けたけど」

「セバスチャン!あーもう、せっかくローエングラム侯の話で盛りあがっていたのに、なんで水を差すかな」

マリアがぶつぶつ言っている間にも、セバスチャンは通路を通ってベンチの前に到達した。
音楽会の日程が決まったので、ヒルダに招待状を持ってきたという。

「必ずいらして下さいね。たった今、理事長室の方にも寄ってきましたが、ヴェストパーレ男爵夫人は、バイオリンの坊やを売り込むためにも絶対に行かなければと仰ってましたよ。子爵邸の音楽会には、コンクールの審査員を務めるアカデミーの先生方もお見えになりますから」

* * * * * * * * * *

ゲルラッハ子爵邸は、暗い色調の石材をふんだんに使った、重厚な造りの邸宅だった。
新無憂宮からの距離はマリーンドルフ邸と同じくらいだが、規模としては一回り以上大きい。

篝火に照らされた玄関にヒルダが到着すると、財務尚書は自ら慇懃に彼女を出迎え、広間に設えた座席まで案内した。
驚いたことに、ステージとは小綺麗にアレンジされた花で隔てられただけの最前列だった。
斜め後ろの席では、男爵夫人が、音楽関係者らしい男性と何やら熱心に話し込んでいる。

「フロイライン・マリーンドルフ、ご活躍のほど、しかと伺っておりますぞ。拙宅にお越しいただけるとは光栄の極み。今年は、何か良いことがありそうな予感がいたしますな」

頭の禿げ上がった厳つい顔の男が、精一杯の柔和さでヒルダに微笑みかけた。
リヒテンラーデの側近中の側近、後継者の呼び声も高いゲルラッハが、彼女のような小娘を優待するのは、むろん伯爵家の背後に、ローエングラム侯の姿を見ているからに他ならない。

「子爵、こちらこそ、お招きありがとうございます」

ヒルダもまた、真の目的が偵察にあることを隠して、愛想良く挨拶する。

「別室の方に、飲み物と軽い食事を用意しておりますので、最後までご緩りとお過ごし下さい。そうそう、お父上の具合はいかがですか・・・・」

と、その時、子爵家の執事が、急ぎ足で近づいてきた。
主人に何事か耳打ちをすると、瞬間、財務尚書からそれまでの余裕の色が消える。

「ええと、フロイライン・・・・。後は、そちらのセバスチャンがお相手いたしますので、ご用の向きは遠慮せずに何なりとお申し付け下さい。では、失礼」

言われて振り向けば、いつからそこに居たのか、タキシード姿のセバスチャンが立っていた。
せかせかと早足に去っていくゲルラッハを、皮肉な笑みを浮かべながら見送っている。

「叔父上のあんな姿を、部下が見たらどう思うか・・・・。フロイライン、どうやら、リヒテンラーデ公の姪御さまご一行が、お見えになったようですよ」

そういう間もなく、濃い紫のドレスを纏った中年女性が、二人の令嬢を従えて広間に現れた。
リヒテンラーデの亡き姉の子にあたる、コールラウシュ伯爵夫人ドロテアである。
特徴的な鷲鼻が、彼女が公爵の血縁者であることを、何よりも雄弁に物語っている。

「申し訳ございません。本来ならヘルムートにお迎えに上がらせるところでしたが、生憎とこのような状況ですので、念のため、領地に張り付かせておりまして・・・・」

「致し方ありませんわ、主人もそうしておりますし。でも、ヴェロニカは、寂しがっておりましてよ」

娘たちは父親に似たのか、小作りで整った顔立ちをしているが、髪の色は母子共通である。
クリーム色のサラサラとした髪の姉はヒルダと同年代、緩くウェーブのかかった髪の妹は16歳といったところだろうか。

「あの姉の方は、ヴェロニカといって、この家の総領息子ヘルムートの婚約者。妹の方は初めて見るけれど、確かエルフリーデという名前だったと思う。いかにも、領地からオーディンに出てきたばかりのおぼこ娘って感じ・・・・」

セバスチャンはヒルダの右隣の椅子に腰を落ち着けると、小声で解説しながらも、通路を挟んで反対側の席に座った伯爵夫人の二人の娘に、抜群の笑顔で会釈した。
大きなマリンブルーの瞳を眩しそうに細めると、大概の女性が自分に好意を抱いてくれることを彼は心得ている。

この時も、姉の方はプイと顔を背けてしまったが、妹の方はセバスチャンに興味を抱いたようだ。
母親はといえば、ゲルラッハに不満を訴えることに夢中で、娘の様子には気付いていない。

「エルフリーデも可哀想に、年明け早々からデビューの支度をしてまいりましたのに、今年に限って黒真珠の間の舞踏会が中止になるなんて・・・・。青天の霹靂とは、このことですわ」

「それは、残念でございましたな。来年こそは必ず・・・・」

「お願いしましてよ。それにしても、ずいぶんと傍迷惑な話ではなくって?せめて舞踏会が済むまで、あなたや叔父さまの力で、開戦を先延ばしすることはできなかったのかしら」

「ハハ、これは手厳しい・・・・。ですが、事ここに至るまでには、複雑な経緯と切羽詰まった事情が何やかやとございまして、こちらとしても、時期を選んでいるような余裕はとても・・・・」

「あら、そうでしたの?私はてっきり、あの成り上がり者の孺子が、手柄欲しさにわざと事を荒立てて、戦争を始めたのだとばかり思っていましたわ・・・・」

「い、いいえ、そのようなことは断じて・・・・。皇帝陛下の摂政であられる宰相閣下が、最高司令官とはいえ一介の軍人に過ぎぬ男に、そのような勝手を許すことはございません」
財務尚書のこめかみからしみ出た汗は、一筋の流れとなって頬を伝った。

忠犬と揶揄されるゲルラッハも、時には上司を恨めしく思うことがある。
リヒテンラーデ公の姪でなければ、このコールラウシュ伯爵夫人は、貴族連合の側に属していて然るべき種類の人間ではなかろうか。

皇室との繋がりや、官位、爵位に物を言わせれば、どんな我が儘でも通ると思っている、ブラウンシュヴァイク公とその取り巻きたち。
世の中が、万事、自分たちに都合良く回ってくれないと気が済まない。
貴族の面汚しの、ああいった輩と馬が合いそうだ。

ましてや、このような場所で、ローエングラム侯を悪し様に言うとは。
個人的な好悪の感情がどうあろうと、戦端を開いてしまった以上、その"成り上がり者"に勝ってもらわない限り、自分たちに明日はない――そのことが、分からないのだろうか。

いや、決して腹を立ててはならぬ。
我が息子ヘルムートがヴェロニカ嬢と華燭の典を挙げてリヒテンラーデ公爵家と縁続きになり、宰相の正式な後継者として指名を受けるまでは、何事も辛抱だ。

伯爵夫人に気取られぬよう、ゲルラッハはそっと身を反らして、ヒルダの席の方を見た。
甥っ子と歓談している。
大丈夫だ、彼女は何も聞いていない。

* * * * * * * * * *

セバスチャンは、今度は顔の横で指をヒラヒラと動かして、エルフリーデの気を引いている。
そうしながら、ヒルダにだけ聞こえるような小声で話しかけた。

「今の、聞こえましたか?」

「ええ」

「反吐が出そうでしょう。あれでも、宰相閣下の身内なのですからね。枢軸派といっても内実はこんなもの。血縁関係や、利害関係だけでこちらの陣営に付いている奴も大勢います。ローエングラム侯に外戚を一掃してもらったら、今度は自分たちがその地位に取って代わろうという連中・・・・。そんな奴らのために戦うローエングラム侯こそ、いい面の皮ですよ」

「ローエングラム侯のこと、嫌いなのではなかったの?」

「嫌いですよ」

セバスチャンはぶっきらぼうに答えると、通路の向こうの娘に、「キ・ミ・カ・ワ・イ・イ・ネ」と、声を出さずに口の形だけ見せるように話しかけた。
意味が通じたのか、若い娘はハッと驚いたような顔をすると、慌てて向こうを向いてしまった。
端から見ても、その頬が赤くなっているのが分かる。

「ちょっと、セバスチャン。あなた何をしたの?」

「何も。ただのゲームです」

「呆れた。あなたって人は、いつもそんなことをして遊んでいるの」

「いつも、ね・・・・。では伺いますが、君はいつも、例えばこんな場所でも決してドレスを着ませんね。それはなぜなのでしょう。僕としては是非、理由を知りたいと思うのですが」

向き直ったセバスチャンは、椅子の背に肘をかけて、無遠慮に伯爵令嬢を見据える。

「理由?こちらの方が動きやすいし、それに、ドレスは似合いませんから・・・・」

「ハッ!これは異な事をおっしゃる。純白のローブデコルテが、この上もなくお似合いだったではありませんか。4年前の君は、あんな娘の何倍も綺麗だった・・・・」

16歳の春、ヒルダは数十人の貴族の子弟とともに、社交界にデビューしている。
皇帝臨席の下に盛大に執り行われる、新無憂宮の"黒真珠の間"の舞踏会でのデビューは、爵位のある貴族に生まれた子女にとっては、一世一代の晴れ舞台である――はずだったが、ヒルダに限って、あまり良い思い出とはなっていなかった。

「そ、そうだったかしら。同じ歳なのだから、舞踏会で遇っていても不思議はないけど・・・・」

「フッフッ、その様子では、本当に僕のことを覚えていないのですね。あの時、ハンカチをお貸ししたのに・・・・。君は不良グループに囲まれて、今にも泣きそうだった・・・・」

ヒルダの目が大きく見開かれ、セバスチャンの顔をまじまじと見る。

「私、覚えているわ。いじめられたことも、燕尾服の少年がハンカチを貸してくれたことも。あれ、あなただったの?もっと、内気な感じの男の子だったように記憶していたけれど・・・・。余りにも印象が変わってしまったので、判らなかったわ」

「変わったのはお互い様でしょう。それに、別に内気だったわけでは・・・・」

急に神妙な顔付きになったセバスチャンは、何かを探すかように、ヒルダの全身を眺める。
ショートカットにしたくすんだ金髪、一粒だけのパールのイヤリング、ボウタイ付きの白いブラウス、光沢のある薄いグレーのパンツスーツ、ローヒールの黒い革靴。
そして、もう一度、視線を上へ戻したとき、彼は訝しげに自分を見つめる瞳と再会した。

――そうだ、あの時、このブルーグリーンの瞳は涙で潤んでいた。

花びらような唇をへの字に曲げて、「かわいくなくていいもん!」と小さな声で訴えていた。
だけど僕は、どこがかわいくないのか、ちっとも分からなかった。
これほどかわいらしい女の子は見たこともなくて、うなじの後れ毛までかわいくて、「ありがとう」とハンカチを返された時に、指先が触れ合ったことが嬉しくて、恥ずかしくて――。

セバスチャンは大きく息を吸い込むと、足を組み直してヒルダから顔を逸らし、ようやくステージに現れた弦楽四重奏団の方を見るともなく見た。

舞踏会から半年ほど経って、セバスチャンはあの時の少女が、同じ大学に在籍している"変わり者の伯爵令嬢"であることを知った。
図書館ですれ違ったヒルダは、なぜか男のような格好をしていたが、間違いなくその娘だった。
ところが、当時の彼は、母親の件で自暴自棄になっていたこともあり、とても名乗り出るような状態ではなかったのである。

そうこうしているうち、女泣かせの遊び人との評判が学内に広まって、ヒルダのような真面目に勉学に打ち込む女学生からは、疎まれるだけの存在に成り下がってしまったのだ。

月日は流れ、リップシュタット盟約が結ばれた2ヶ月前。
それまで政治向きの事柄とは無縁だったマリーンドルフ伯爵家が、突如として、名門と呼ばれる貴族の中では真っ先に、ローエングラム候への支持を表明した。
しかも、驚いたことには、領地で療養中の伯爵に代わって、実際にオーディンで活動しているのは、その令嬢だという。

「この際、フロイライン・マリーンドルフと懇意になっておいた方が良かろう。同じ大学に通っているのならば話は早い、伯爵令嬢を我が家のサロンへお誘いするのだ。幸い、お前は女の扱いには慣れているようだし、適任ではないか・・・・」

恩義ある叔父からそう命ぜられた時、セバスチャンは、錆び付いていた歯車が軋む音を聞いたような気がした。
ただし、それが転がって行く先についてまで、彼が楽観的になれたわけではない。
幸運のすぐ隣りに破滅の淵が口を開けていることを、彼は身をもって知っていたからである。
そして同時に、淵を覗きたくなる衝動も、抑えがたくあることを――。

セバスチャンはもう一度足を組み直すと、身体を傾け、ヒルダの耳元に口を寄せた。

「君はもう、あの男のものになってしまったのですか?そうでないのなら、昔のよしみで僕にもチャンスをくれませんか。ねえ、フロイライン・・・・、つっ!」

青年が右手をヒルダの膝に置いた瞬間、パシッと音がして、痺れるような痛みが走った。
男爵夫人の優美な手が伸びて、扇が青年の手の甲をしたたか打ったのだ。

「長生きしたかったら、その娘には手を出さない方がいいわよ。プレイボーイさん」

* * * * * * * * * *

演奏が終わり、ステージの照明が落とされると、客は三々五々別室へ移動していった。

ヴェストパーレ男爵夫人と連れだったヒルダは、飲み物を手にすると、サロンの一角に置かれた螺鈿細工の飾り棚の前に立った。
グラスからは、カシスの甘酸っぱい香りが漂ってくる。
男爵夫人の向こうではセバスチャンが、「まだズキズキする」と毒づきながらも、ウェイターを何度も呼び止めては、痛いはずの右手に持ったマティーニのグラスを取り替えている。

マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレは、サロンの常連であり、華である。
この日も、すらりとした背中を見せ付けるようなワインレッドのドレスが何とも艶やかだ。
そんな彼女が、見知らぬ娘、それも若く麗しい令嬢と一緒にいるとなれば、俄然、周囲の注目を集めることになる。

「こんばんは男爵夫人、今日はいちだんとお美しい・・・・。ところで、こちらのお嬢さんは?」

男爵夫人がもったいぶった調子でヒルダを紹介すると、皆が一様に、噂に聞くマリーンドルフ伯爵令嬢の意外な若さに目を見張った。
彼らは初対面の挨拶を済ませると、そのままその場に留まって、ローエングラム候ラインハルトの後援者として今や時の人となった娘と話をしたがったので、ヒルダの周囲には次第に人垣ができることになった。

財務尚書のサロンらしく、子爵邸に呼び集められた客の中には、中央の省庁で役職に就く者も少なくない。
下級貴族出身者の占める割合が多いという点で、官僚は軍の士官に似ていた。
彼らは、リヒテンラーデやゲルラッハのような行政学院出身のエリートには一定の敬意を払っていたが、無能で傲慢な門閥貴族を激しく憎悪した。
その度合いは、直に接する機会が多いだけに、かえって市井の庶民より勝っていたろう。

身分だけで出世の階段を駆け上った無能な上司に対する不満、皇室との血縁を楯に査察を妨害する大貴族への憤り――。
ヒルダを前にすると、役人たちは、日頃の鬱憤を晴らすように良く喋った。
実際のところ、ローエングラム候が門閥貴族たちを"やっつけてくれる"ことを最も切実に願っていたのは、彼らだったかも知れない。

目下のところ、彼ら官僚の頂点に君臨するのは宰相のリヒテンラーデだが、行政面での実権掌握を狙うラインハルトにとっては、是非とも味方につけておきたい存在である。

「もう少し風通しの良い時代が来て、皆さまのお仕事がやり安くなるとよろしいですわね」

慈母のような優しげな口調で、ヒルダは彼らに語りかけた。
これには、もちろん、官僚たちの心証を良くしておこうとの計算も含まれていたのだが、彼らは美貌の伯爵令嬢の心遣いに涙を流さんばかりに感激し、遂には「お飲み物はいかがですか」、「私がサンドイッチをお持ちしましょう」などと、各々がヒルダに対するサービスを競い始めることになった。

セバスチャンは壁にもたれて、そんな役人たちの浮かれぶりを、冷ややかに眺めている。

「あら、ずいぶんと大人しいじゃないの。もう酔っぱらってしまったの?ちゃんとエスコートしていないと、誰かがヒルダちゃんを送り狼するかもしれなくてよ」

マティーニで火照ったセバスチャンの顔を、ヴェストパーレ男爵夫人はからかうようにあおいだ。
その扇を、明るいブラウンの髪の青年は鬱陶しそうに押しのける。

「あなたが言いますか・・・・。それにしても、早死にしたい奴が多すぎやしませんか」

「オホホホ、男って本当に単純ね、面白いように釣れているみたいじゃないの。それから、セバスチャン、さっきの件は誤解しないでね。私はあくまで、心構えを言ったまでだから、ウフフッ」
「お母さま、あちらはとても賑やかね」

エルフリーデの視線は、広いサロンの反対側に注がれている。
聡明そうな紳士が数名、少年めいた美貌の女性を囲んで楽しげに語らっている。
艶やかな黒髪が印象的な貴婦人や、さきほど自分をからかったハンサムな青年もいる。
領地の城では、ついぞ目にしたことのない種類の人たち。

彼らはあそこで何を話しているのだろうか、自分が理解できるような内容なのだろうか、いつの日か自分も、あの華やかな輪の中に入っていけるのだろうか。
まだあどけなさの残る16歳の少女は、空色の瞳を希望に輝かせた。
あんな背中の開いたドレスが着こなせるような大人になれたら、どんなに素敵だろう。

「子爵、あの男のような身なりをした娘は、何者ですか?」

庭に向けたカウチに腰掛けていた伯爵夫人が、つり上がった目線でゲルラッハを振り返った。
次女の浮ついた様子が、癇に障ったものらしい。
財務尚書は、ことさら慎重に、彼女が例のマリーンドルフ伯爵令嬢だと告げたが、コールラウシュ夫人は露骨に顔をしかめた。

「ああ、あれがそうなの・・・・。名門の令嬢ともあろうものが、あんな成り上がり者に尻尾を振って、恥ずかしくないのかしら。マリーンドルフ家は、余程お金に困っているのではなくって」

予想通りの反応に、ゲルラッハはやれやれと心中で溜息をつく。

「ねえ、お母さま。あんな男みたいな服、ブティックで一度でも見たことがあって?わざわざオーダーして作らせているのかしら・・・・。変な女。異例の出世を遂げた者らしく、女の趣味も異例尽くめなのね」

ヴェロニカの言い様は、同年配のヒルダに対するやっかみが、多分に含まれているようだ。

「ハハハ・・・・、全てにおいて型破りなのでございましょうな、ローエングラム候は」

ゲルラッハは、再び額の汗をぬぐった。
今や彼は、言葉の選び方に、細心の注意を払わなければならなかった。

夫人の機嫌を損ねてはならないのは当然としても、同調し過ぎてしまうのは不味い。
つい乗せられて発した不用意な一言が、人伝にローエングラム候の耳に入らないとも限らないではないか。
マリーンドルフ伯爵令嬢を招いたのも、軍を掌握する彼と良好な関係を築きたいからだ。
己が宰相となる日のために――。

数分後、宰相府から連絡が入ったと執事が呼びに来たが、伯爵夫人にしばしの暇を乞う際、ゲルラッハは残念そうな顔をする努力をしなければならなかった。

* * * * * * * * * *

「皆さん、ご静粛に!たった今、戦況に関する最新の情報が入りました」

その場にいた全員が、会話を中断し、いっせいに声の主の方を見た。
一片のメモ書きらしきものを手にしたゲルラッハが、部屋の入り口で仁王立ちになっている。
常勝の英雄ローエングラム候が、負けるわけがない。
ヒルダを含め、この場にいる者たちは皆そう信じているのだが、音楽が止み、しんと静まったサロンは、何ともいえない緊張感に包まれていく。

「ああ、どうしよう。私、とても聞いていられないわ・・・・」

ヴェストパーレ男爵夫人が、いきなりヒルダに擦り寄って、何かにすがるようにその腕を掴んだ。

「男爵夫人?」

見れば彼女は、目を固く閉じてうつむき、口の中で何かブツブツと祈っているようだ。
扇を握りしめた方の手は、胸の前で小刻みに震えている。
自他ともに認める男勝りで、万事に余裕綽々といった風情のヴェストパーレ男爵夫人が、平静を失った場面に、ヒルダは初めて遭遇した。

恋の噂が絶えない男爵夫人だが、彼女が心から愛する男性は、夜毎のパーティ会場などではなく、戦場にいたのだ。
だが、彼女をこれほど動揺させる男とは、いったい誰だろう――お気に入りだと言っていたキルヒアイス提督だろうか、それとも、昔馴染みのメックリンガー提督だろうか。

「勝ちました。ローエングラム候が、また勝ちましたぞ!」

ゲルラッハは喜色を満面に浮かべながら、メモを読み上げる。

「元帥麾下のロイエンタール、ミッターマイヤーの両提督が、かねてより攻略中のレンテンベルク要塞を遂に陥落せしめ、あのオフレッサー上級大将を生け捕りにしたとのこと!」

短い沈黙の後、サロンのあちらこちらから同時に、ローエングラム候万歳、帝国宇宙艦隊万歳の声が湧き上がった。
楽団はすかさず国歌を演奏し、子爵邸の主は客人に気前の良いところを見せようと、地下の倉庫からシャンパンを持ってくるよう執事に命じる。

ヴェストパーレ男爵夫人はヒルダの腕を放すと、その手で涙のにじんだ目尻をぬぐった。

「何もなくて良かったわ・・・・」

ようやく落ち着いてくると、男爵夫人は大輪の花がほころんだような笑顔を見せた。
完璧なアイメイクが、少し崩れている。
ヒルダはこの時、8歳年上の彼女を、かわいいと思った。

* * * * * * * * * *

早めに帰途に就いたコールラウシュ伯爵夫人の一行を送り出すと、ゲルラッハは軽やかな足取りでサロンへ戻ってきた。
秘蔵のシャンパンを惜しげもなく振る舞いながら、ゲストの間をにこやかに立ち回る。

「ローエングラム候と提督たちに乾杯!」

グラスがぶつかる軽やかな音がそこここから聞こえ、サロンはまるで新年のパーティのような晴れやかな雰囲気となった。
シャンデリアの煌めきの下で乾杯を繰り返す客のうち、下級貴族出身者は素直にラインハルトの勝利を喜び、爵位のある貴族たちは何よりも己の判断の正しさを言祝いだ。

「それ見たことか!ローエングラム候の強さは圧倒的ではないか。ブラウンシュヴァイクに付いていった奴らは、選択を誤ったのだ」

音楽会のために並べられた椅子が除けられて、ホールは特設のダンスパーティ会場と化した。
ヒルダも大勢の人間と杯を交わし、何人かの紳士とワルツを踊った。

セバスチャンはその中に入っていなかったが、エスコート役を完全に放棄したわけではない。
彼は踊っている間もヒルダから目を離さなかったし、時計が11時を回って彼女が帰宅する時間になると、ちゃんと屋敷まで送ると申し出たからである。
ただし、送迎については、ローエングラム候差し回しの護衛が付いているから不要だと、ヒルダからキッパリと拒絶されてしまったのだが。

「では、また次ぎの機会に。何しろ最大のライバルは宇宙の彼方だし、僕にも時間だけはたっぷりとありますからね・・・・」

車を待つ間、ヒルダは心ならずもセバスチャンと2人きりになった。
館の中はさんざめいていたが、玄関先では涼しい夜風が吹いて篝火を揺らし、その炎の作り出した二つの影が、前庭に敷き詰められた玉砂利の上で音もなく踊っている。

「ねえ、フロイライン、聞いて下さい。君がまだ誰のものにもなっていないと分かって、僕は今、最高に気分が良いのですよ。正直いって、あの先制攻撃の得意な男が、君のような美女にまだ手を付けていないとは驚きましたが・・・・」

セバスチャンの分かった風な言い方には、ヒルダを苛々とさせるものがある。

「そんなことが、どうして分かるの!」

「図星でしょう?踊っているところを見れば、だいたいのことは分かるのですよ」

「あなたには関係ないでしょう・・・・。それに、さっきから聞いていれば、もの、ものって。一人の人間が他の人間のものになるなんて、奴隷じゃあるまいし。少なくとも私は誰のものでもないし、今後も、誰かのものになるつもりなんてありませんから」

「アハハ・・・、君は本当に何も知らないのですね。もし、君が僕のものになってくれるのなら、ものになるとはどういうことか、手取り足取り、懇切丁寧に教えて差し上げますが・・・・」

伯爵令嬢の真珠色の頬に、カーッと朱が走った。
セバスチャンは悪びれた様子もなく、滑らかな肌の色の変化を楽しむかのように、いつもの甘ったるい笑顔でヒルダを眺めている。

「あ、あなたの言うことは、私にはまったく理解できないわ!それから、帝国の命運を担って戦っていらっしゃるローエングラム候を、あなたのような遊び人の学生と同じ物差しで測らないでいただきたいの。では、ごきげんよう、今日は楽しかったわ」

素っ気ない別れの挨拶を済ませると、ヒルダはセバスチャンに背を向け、数メートル先に停められた迎えの車に向かってスタスタと歩き出した。
背後で名前を呼ぶのが聞こえたが、彼女は振り返らなかった。
胸がむかむかとして、これ以上、セバスチャンと話をする気にはとてもなれなかった。
が、直後、勢いよく砂利を踏む音が背後でしたと思った次ぎの瞬間には、青年がヒルダの手首を強く掴んでいた。

「何をするの!痛いじゃない」

「君が無視して行ってしまうからですよ。まだ肝心な話をしていなのに・・・・。聞いて下さい、君のお父上のことです」

伯爵令嬢が睨み付けた青年の顔からは、ふざけたような微笑みが消えている。

「私の父?」

「マリーンドルフ伯爵は、もう丸一年も、領地で静養されてしらっしゃるのでしょう。ひょっとして、カストロプ公のところで人質になって以来、ずっと体調がすぐれないのではありませんか?」

「ええ、そうよ。父はあれからずっと、手足の痺れと、身体のだるさを訴えているわ。それで?」

「ならば、治せるかも知れません」

ヒルダのブルーグリーンの瞳が、構えることなく、"悪名高い"セバスチャンの顔に見入ったのは、おそらくこの時がはじめてだったろう。
さっぱり原因が分からないと、医者も匙を投げた父の病が、治るかも知れない。
その一縷の望みが、聡明な伯爵令嬢を無防備にし、あまつさえ縋るような表情をさせていた。

「まさか、本当に?でも、なぜあなたが?」

疑問は後から後から湧き上がってくる。
しかし、結局のところ、ヒルダは青年を問い質すことができなかった。
セバスチャンが掴んでいた手をいきなり引き寄せて、その指に口付けたからである。

突然のことに、ヒルダはただ呆気にとられ、立ちつくした。
それは、わずか数秒の間の出来事だったが、セバスチャンは伯爵令嬢のほっそりした指を唇で啄むと、愛おしげに頬に押し当てて擦った。
たちまち、悪寒に近いゾクッとするような感覚が、ヒルダの背中を駆けのぼってくる。
が、彼女が反射的に強く手を引いて逃れようとすると、セバスチャンはあっさりと力を緩めた。

「大変失礼をいたしました。黒服の二人が先ほどから怖い顔でこちらを見ていますし、残念ですが、今日はここまでにいたしましょう。その代わり、お父上の病気を治すことができたら、僕にご褒美を下さい。フロイライン、きっとですよ」
宇宙歴797年、帝国歴488年の5月から8月にかけて、自由惑星同盟は「救国軍事会議」を称するクーデター派による厳しい情報統制の下にあった。
外部との通信は遮断され、このため、帝国が送り込んだ密偵によって捕捉された情報がブリュンヒルトの逗留する宙域にもたらされるまで、数日という時間を要していた。

「一個艦隊が全滅しただと?」

「御意。去る5月19日、ドーリア星域において、イゼルローン駐留艦隊とクーデター派の指揮下にある第11艦隊との間で戦闘が行われ、第11艦隊は消滅いたしました」

半白髪の総参謀長が、淡々と報告を上げている。
いかな驚くべき事態も、彼の青白い顔色を変化させることは不可能であろう。
もっとも、豪奢な金髪の持ち主である最高司令官においては、いささか反応が異なる。

「つまりヤンは、文民統制の原理原則とやらに従ってクーデターに与せず、鎮圧する側に回ったということか。あの腐りきった政府に義理立てするとは、どうにも度し難い・・・・。しかし、これで唯一の機動艦隊を失ったクーデター派は、ハイネセンに封じ込められたも同然ということになるのではないか」

「閣下、ハイネセンにはまだ、最強の防空兵器"アルテミスの首飾り"がございます。目下のところ、我が帝国軍の開発した指向性ゼッフル粒子を除いて、あれを破る方法はございません。クーデター派も、今少し持ちこたえてくれるでしょう」

「オーベルシュタイン。今少しというのは、1ヶ月か、それとも半年か。ヤンは一兵も損なわずにイゼルローンを落とした男だ。今度も、何か想像もつかぬことをやってのけるかも知れん・・・・」

門閥貴族との戦いにおいて、ラインハルトはここまで順調すぎるほど順調に戦果を収めてきた。
しかし、最終局面まで見えているわけではない。
敵の本陣、ガイエスブルグ要塞を落とすには、相当の時間と労力を要することになろう。

そうした状況下で、同盟の内紛が想定以上に早く、かつ戦力を温存した状態で終結してしまうのは好ましくない。
イゼルローンから出撃してくる艦隊に、後背を衝かれる恐れがあるからだ。
二正面作戦を避けるためにも、クーデター派には、まだまだ頑張っていてもらいたいのである。
それでいてラインハルトは、最終的には、ヤンにこそ勝ち残って欲しいとも願うのだ。

「御意。ガイエスブルグの攻略に関しては、期間短縮の面から、再度検討をいたします。いずれ正攻法とは行かぬでしょうが・・・・。ところで閣下、オーディンから、少々気になる報告が入っておりますが・・・・」

「何だ、リヒテンラーデがもう何かしでかしたのか」

「いいえ、マリーンドルフ伯爵令嬢に係わるものです」

帝国軍総旗艦ブリュンヒルトの司令官執務室の内装には、貴族の邸宅の贅を凝らした書斎さながら、高価なマホガニー材がふんだんに使用されている。
その磨き上げられた大きなデスクの前で、総参謀長は手にしたファイルを開いた。

「彼女は先般、リヒテンラーデの腹心、ゲルラッハ財務尚書のサロンに招かれています」

「ほう、敵情視察というわけか」

「問題は次ぎです。ゲルラッハには、セバスチャン・フォン・ダルムシュタットという義理の甥がおりますが、報告によれば、この青年とフロイライン・マリーンドルフが、最近とみに懇意にしているとのことで・・・・」

刹那、ラインハルトの形の良い眉が寄せられた。
それはごく微かな動きだったが、予測していた反応を、オーベルシュタインが見逃すことはない。
義眼の参謀はそこでいったん言葉を切り、平静を装う若い上司の応答を待った。

「何者だ。その義理の甥とやらは・・・・」

「ダルムシュタット男爵の次男で、伯爵令嬢と同じ大学に通う、20歳の学生です」

「ふん、それから?」

「男爵は、元財務官僚。将来を嘱望されていましたが、屋敷が火事になった折に半身不随となって退職、妻とも別居し、以来領地で隠遁生活を送っています。現状、男爵家を取り仕切っている長男は、ゲルラッハの妹である先妻の子。セバスチャンは後妻の子なので、財務尚書と血の繋がりはありませんが、男爵家はいまだに屋敷を再建出来ておらず、彼はゲルラッハ邸に住み込んで、そこから大学へ通っています」

「なるほど、ゲルラッハはその青年にとって、恩人というわけだな・・・・。で、何か問題でも?」

「閣下のご懸念の通りです」

「私の?ハッ、私がフロイライン・マリーンドルフの何を懸念するというのだ・・・・。しかし、卿が懸念しそうなことなら、おおよそ察しが付く。おおかた、彼女がその甥とやらに籠絡されて、こちらの計画をゲルラッハやリヒテンラーデに漏らすかも知れない、そう言いたいのだろう」

「御意。その可能性は捨てきれぬかと・・・・。二人が恋愛関係にあるならもとより、たとえそうでなくとも、女性は身体を絡め取られてしまえば、やがて心まで差し出すようになるものです」

ラインハルトの腹の底から、にわかに苦いものがこみ上げてきた。
この時、オーベルシュタインは図らずも、若い上司の心の最も弱く敏感な部分、彼の姉に係わる場所に触れてしまったのだった。
だが、鋭敏な参謀も、そこまでは気付いていない。
ラインハルトもまた、「黙れ!」と叫びたい衝動を、どうにか抑えきった。

「誰がそのようなことを・・・・。だいたい、矛盾しているではないか。卿はかつて、女の間者は寝物語から情報を得ると言っていたが、身体と同時に心まで差し出してしまったのでは、間者としてものの役に立たぬであろう」

「確かに申し上げました。諜報部のデータには、多額の報酬を目当てに、そうした仕事に就いた女の記録が数多く残されております。そのほとんどは商売女ですが、中には零落した貴族の女が泣く泣く引き受けさせられたような例もございます故・・・・。ですから、あの折は、閣下の注意を喚起するために、あえて申し上げたのです」

「だが、マリーンドルフ伯爵家の経済状態は良好。フロイラインが、ブラウンシュヴァイクにも他の誰にも雇われていなかったことは、調査の結果、明白になった。彼女は、あくまでも自分の意志で、私に協力を申し入れたのだ」

「承知しております。ですが閣下、だからこそ私は憂慮するのです。人の心は不変ではありません。彼女が自らの意志によって閣下の味方になったのなら、自らの意志によって裏切るかも知れません。金銭で縛るより、よほど危うい・・・・」

* * * * * * * * * *

参謀が退出すると、ラインハルトはデスクに肘をつき、親指と人差し指を強く額に押し当てた。
目の前には、厚くもないファイルが、無造作に置かれたままになっている。

「女性は身体を絡め取られてしまえば、やがて心まで差し出すようになるものです」

皇帝に奪われた姉を取り戻す――そのことを動機として今日まで戦ってきたラインハルトにとって、こうした見解が巷間で広く信じられていること自体、承服しがたいものがある。
女は皆、"サビーニの娘"だとでもいうのだろうか。

15歳の少女が、父親より年長の、淫蕩で自堕落な男に権力ずくで連れ去られ、手籠めにされ、その後も10年の長きに渡って愛人として生きることを強要させられた。
そのような関係において、女が男に心を寄せることなどあり得ようか。
憎しみ以外の感情が、存在することなどあり得ようか。

あり得ない――、否、絶対にあってはならないのだ。
あると認めることは、ラインハルトにとって、自己の全てが否定されるにも等しいのだから。

フリードリヒ4世が病死したとの報せを受け取ったのは、アムリッツァからの帰路だった。
ラインハルトはその時、復讐する機会が失われたことを、ただ悔しがった。
だが、もし先帝があのまま生き永らえ、遂にラインハルトによって弑されるという事態に至った時、アンネローゼが命乞いをしたらどうだったろうか。

先帝が崩御してからシュワルツェン館に移るまでの1ヶ月、姉上は漆黒のドレスを着続けた。
あれは、あの男の喪に服していたからではないのか。
下町で姉上を見出し、皇帝へ献上した宮内庁官吏のコルヴッツを、彼女は恨んで遠ざけるどころか、夫婦で身の回りの世話をさせているではないか。

サビーニの娘は、自分たちを拉致して妻にしたローマの男を許し、取り戻そうと戦を仕掛けてくる父や兄に対して和平を請うた。
同じことが、自分の身に起こったら?姉が皇帝を庇ったら?
ラインハルトは、アンネローゼを責めただろうか。それでもなお、皇帝を処刑しただろうか。

その答えは、先帝の突然の死によって、永遠に封印されることになった。
しかし、このことはラインハルトにとって、むしろ幸運だったと言えるかも知れない。
たとえ仮定の話であっても、彼にそのようなことを認めるのは辛すぎた。
しかし、結論の出ぬまま腹の底に澱となって沈んだそれが、何かの拍子に掻き乱され、水面に浮かび上がってくることまでは避けようがない。

口の中が、無性に苦く感じられた。
会議の時間が迫っていなければ、ラインハルトは迷うことなく、ワインの栓を抜いていただろう。
その代わり、彼は背を伸ばすと、デスクに置き去りにされたファイルを手に取った。
表紙をめくると、添付されたホログラム写真が浮かび上がってくる。

"セバスチャン・フォン・ダルムシュタット"
明るいブラウンの髪、深いマリンブルーの瞳、人好きのする爽やかな笑顔の若者。
世事に疎いラインハルトでも、写真の青年が女性にもてるタイプであることは判るのだが、ヒルダの好みに合致しているかどうかは、皆目見当がつかない。

同じ大学に在籍していたにもかかわらず、最近になってフロイラインに接触したのは、叔父に命ぜられたからであろうか。
ならば何かしら思惑があるはずだが、少なくともこの青年からは陰湿さは微塵も感じられない。
拷問したり、女性を無理やり辱めたりすることのできる人間でもなさそうだ。
ならば、彼女自身が望んでそうしない限り、こちらの意図が先方に知れることはないだろう。

だいたい、フロイラインが裏切ったところで、どれほどのことがあろうか。
もし、我々の計略がリヒテンラーデの耳に達したならば、戦況の如何にかかわらず、すぐに帰投せよとの命令が下されることになろう。
速やかにオーディンに戻り、皇帝陛下の御前に出頭し、釈明せよとの勅命が。

あの陰謀家の老人が打てる手は、せいぜいそのくらいのものだ。
ならば、我々も勅書を破り捨て、圧倒的な武力をもって粉砕すれば良いだけのこと。
宰相も、皇帝も、フロイライン・マリーンドルフも――。

ふと、ラインハルトは、いつになく自虐的な思考に陥っている自分に気付いて、苦笑した。
戦士としての彼の直感は、ヒルダが裏切らないことを確信しているというのに。

桜の下で別れてから、もう1ヶ月以上経っている。
元気にしているだろうか。
何の進展がなくとも、手紙の1本も寄越せばいいのに。
こんな報告書ではなく、フロイライン自身の口から、オーディンの近況を聞きたいものだ。

ラインハルトはこれまで、遠征中に、後に残してきたものを顧みることはなかった。
アンネローゼは例外だったが、戦いによる気分の高揚は、その他の多くのものを思念の外へ外へと押しやってしまうのだ。
だから、一女性に対してこうした感情が湧き上がること自体、ラインハルトとしては異例中の異例の事であったのだが、彼自身はそのことをまだ自覚していない。

ファイルを静かに閉じると、ラインハルトは独りごちた。

「セバスチャンか、気に入らない名前だ」
「おーい!ヘルムート、ここだ!」

シャトルの到着ゲートから掃き出された人の群れの中に、ひときわ洗練された身なりの従兄の姿を認めると、セバスチャンは大きな声で呼びかけた。

帝国歴488年は、帝国の上層部を二分する激しい内戦の行われた年だったが、7月も末になると、オーディンと主要な恒星系を結ぶシャトルの便も次々と復活し、それまで滞っていた人と物とが、堰を切ったように流れ出していた。
オーディンの宇宙港の混雑ぶりは、かつてないほどである。

5万隻を率いて分派行動をとっていたリッテンハイム候が、キフォイザー星域における戦闘でキルヒアイス提督に敗れたのは、つい2週間前のことである。
逃げ込んだ先のガルミッシュ要塞は内部から爆発し、リップシュタット連合の副盟主もそこで死亡したものと推定された。

メルカッツ上級大将の指揮下、未だ10万隻もの戦力を有しているにもかかわらず、ローエングラム陣営の巧みな戦略によって、貴族連合軍の外堀は着実に埋められつつあった。
今や、彼らの勢力の及ぶ宙域は、ガイエスブルグ要塞と、それを取り巻くように点在する、門閥貴族の植民惑星群に限定されようとしていた。

万が一に備えて、自らの領地の守備に就いていた枢軸派の貴族たちも、この頃から続々とオーディンに戻り始めている。
家族との再会を喜ぶ者、都会の空気を懐かしむ者、ビジネスに勤しむ者、戦死者の後釜を狙って早くも猟官運動を始める者、彼らも実に様々である。

「ハイ、君からの頼まれ物」

迎えの地上車に乗り込むと、ヘルムートと呼ばれた財務尚書の長男は、ブリーフケースから一通の封筒を取り出した。
背格好は似ているが、セバスチャンより7歳年長になるこの青年は、ダークブラウンの髪を後ろに梳かしつけ、靴をピカピカに磨き上げている。
シャツの襟元に見え隠れしている銀の鎖は、極めて繊細な加工が施された特注品だ。

「ダンケシェーン。一生恩に着るよ」

セバスチャンは礼を言うと、封筒をジャケットの内ポケットに大事そうにしまい込んだ。

「ふーん、やけにしおらしいじゃないか。その処方箋でマリーンドルフ伯爵の病気が治ると、お前に何かいいことでもあるのか?」

「まあね、これは僕の切り札なんだ・・・・。にしても、ベルガー爺さん、協力してくれたんだな」

ゲルラッハ子爵領では、ゴールデンバウム王朝開闢以来の伝統産業として、生糸と絹織物の生産が盛んに行われている。
城下には立派な工房や研究施設も備わっているが、ベルガー爺さんとは、最近その研究所の別棟に住み着いて、何やら怪しげな実験に明け暮れている老化学者のことである。

「クックッ、あの爺さん、後ろめたいところが色々ありすぎるからな。うちから放り出すと言えば、何でもするさ。そうそう、春に顧客が一斉に検挙された合成麻薬も、あの爺さんの若かりし頃の作品だったらしいぞ。この間、本人が自慢していた・・・・」

「へえ〜。じゃあ、カストロプの城の地下実験室にいたのも、本人は脅されて無理矢理働かされていたと供述していたけれど、本当は違うんじゃないの?むしろ、施設と研究費を提供してくれるスポンサーを探し求めて、爺さんの方からカストロプに近づいたのかも」

「かもな・・・・。とにかく、キルヒアイス提督に踏み込まれた時、死んだ使用人に成りすましたまでは良かったが、脱税の前があったのが運の尽きさ。財務省のブラックリストに、爺さんの個人データがバッチリ残っていたからな。まあ、拾ってやったんだから、これからはせいぜい、俺のために働いてもらうことにするよ、ハハハ・・・・」

「あまり無茶はしないでよ。だいいち、叔父上に見つかったら・・・・」

「大丈夫。親爺は領地のことまで頭が回っていないし、母上にはシルクプロテインを有効活用するための研究だって言ってあるし、分かりゃしないって・・・・。だからセバスチャン、お前も絶対に喋るなよ。その代わり、いい子にしていたら、これを分けてやる」

従兄は、今度は半透明のプラスチックケースを取り出すと、セバスチャンの顔の前で振った。
容器の中には、白い粉の詰まったカプセルが、数十錠入っている。

「例の薬の試作品だ・・・・。媚薬としての効果もあるって言うから、早速ハンナで試してみたんだけど、あの娘じゃ、素の状態と区別がつかないから困るって、アハハ・・・・。ひょっとして、分量が少なかったのかな。今度は思い切って、3錠飲ませてみるか」

「ますます不安になってきた・・・・。それに、ハンナは、叔母上に告げ口したりしないの?」

「お前も心配性だな、ちゃんと口止めしてあるって。あの娘は俺に惚れ込んでいるから、何でも言いなりなのさ・・・・。さあ、これで一儲けして、俺専用のシャトルを買うぞ」

* * * * * * * * * *

「例のものをお渡ししたいので、ガーデンパーティへいらっしゃいませんか」

セバスチャンから突然ヴィジフォンがかかってきた時、ヒルダは一瞬、返答に詰まった。
あの夜以来、大学の構内で彼とすれ違っても、挨拶しないどころか、目も合わせないようにしていたからだ。

マリアによれば、最近のセバスチャンは、まるで人が変わったようだという。
彼を取り囲んでいた複数の女学生とも距離を置くようになり、カフェテリアにいる時などは、ほとんど一人で本を読んでいるというのだ。

だが、その程度のことで、ヒルダのセバスチャンに対する心証が良くなるものではない。
ましてや、彼女の憤りは、彼女自身により多く向けられていたのだから。
ヒルダは、己の迂闊さに腹が立って仕方がなかった。
どうせ口からでまかせを言っているのに、一瞬でも信じた自分が馬鹿だった、と。

その一方、現実問題として、彼女はパーティへの誘いを無碍に断れない状況にあった。
ゲルラッハ邸の音楽会以来、枢軸派の有力者はこぞってヒルダを自宅に招きたがり、ヒルダもまた積極的にあちらこちらのサロンに顔を出しはしたものの、リヒテンラーデ本人に遭遇出来なかったばかりか、結局、ゲルラッハ以上に近い人脈も開拓出来なかったからだ。

浮ついた雰囲気を毛嫌いする老人は、元々、私的な会合に顔を出すことが稀だった。
では、宰相として出席が求められる公的な行事はどうかといえば、こちらは春以降、華々しいものは内戦を理由に自粛され、堅苦しいものは皇帝の健康状態を理由に延期されるといった具合で、全く開催されていないのである。

幼い皇帝が何も分からないのを良いことに、皇室の権威付け程度の役割しか果たしていない行事は、経費節減のためにやらずに済ませてしまおう、宰相閣下はそのようなを魂胆でいらっしゃるのだ――とは、事情通を自認するサロン人士の見方である。
だからといって、ヒルダの方からリヒテンラーデの自宅や宰相府に近づくような真似をしては、相手に疑心暗鬼を生じさせるだけである。

逡巡した末、ヒルダはパーディ会場となる、ゲルラッハ別邸の門をくぐっていた。

* * * * * * * * * *

オーディン近郊、シュヴァーベンの丘陵地帯に、ゲルラッハ家は壮麗な別邸を構えている。

サッカーグランドがすっぽり入る広さの芝生の庭は、高低様々な樹木によって縁取られている。
その木々の合間を縫うように遊歩道が伸び、ところどころに東屋が設えられている。
さらにその外、山側の緩やかな斜面は見渡す限りの牧草地になっており、谷側を流れる小川は、新無憂宮の人造湖へと流れ込んでいる。
庭を見下ろす館は、地球時代のヴォー・ル・ヴィコント城を模して造られたものだ。

ヘルムートと並んで玄関でヒルダを出迎えたセバスチャンは、彼女が従兄と初対面の挨拶を済ませるなり、「はい、これ」と、あっさり処方箋の入った封筒を手渡した。
引き替えに何か要求されるようなことがあったら、すぐに帰ろう。
そう心に決めていたヒルダは、セバスチャンのとった行動に、すっかり拍子抜けしてしまった。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして。ベルガー博士によれば、ただの解毒剤だそうですが・・・・」

その博士こそ、ヒルダの父親の病気の原因となった薬物を作った張本人でもあったのだが、セバスチャンはもちろん、そのことを伏せている。
むしろ、素直に感謝された上、ブルーグリーンの瞳と真っ直ぐに目があった青年は、いつになく照れているようにも見える。

「カストロプの城に捕らわれていた時、伯爵は何らかの薬品を吸い込んでしまったのではないかと思って、それで、知り合いの化学者に調べてもらって・・・・」

そこまで語ったところで、ヘルムートが「ちょっと失礼」といって会話に割り込んできた。
彼は、義理の従弟の腕を掴むと、円形のロビーの中央にそびえるルドルフの彫像の影へ引っ張って行く。

「おい!切り札だって言ってたのに、あんなにあっさりと渡しちゃって良かったのか」

「いいんだって。彼女はこちらに作為がないと納得しない限り、警戒を解いてくれないから」

「ああ、そう。まあ、お前がそう言うなら、いいけどさ・・・・。それより彼女、スゲー上玉じゃん。ちゃんとCカップあるしさ。頭の中身も服装も男みたいな女だってヴェロニカから聞かされていたから、俺はまた、ゴリラみたいなのを想像してたよ」

頭の中身も服装も男みたいだという点に関しては、強ち間違っていないと思うのだが、それがヒルダの一面でしかないことも、セバスチャンはちゃんと知っている。
もっとも、彼にしてみれば、そんなことを知っているのは、自分ひとりで十分なのである。

「フロイライン・マリーンドルフには、絶対に手を出さないでよ」

「ハイハイ、分かってるって」

芝生の庭に張られた大きなテントが、強い日差しに照らされて白く輝いていた。
その下では飲み物が振る舞われ、ブラスバンドが軽快な音楽を奏でている。
グラスを手に談笑する男女、芝生の上でボールを蹴って遊ぶ若者のグループ、木陰に寝そべっているカップルもいる。

夏の太陽が発する熱を、丘陵地帯を吹き抜ける涼やかな風がやわらげてくれている。
たとえ戦場でどれほど激しく戦火が交えられていても、この牧歌的な郊外の庭まで火の粉が及ぶことはない。
心からそう信じられる、素晴らしい天気だった。
彼らが見上げる空はどこまでも青く澄み渡り、ユーモラスな形をした白い雲がぽつぽつと浮かんでは消えていた。

コールラウシュ家の姉妹が待っているからと、ヒルダは真っ先に厩舎へ案内された。
「今日は、あの嫌味なオバサンはいないから大丈夫」と言って、セバスチャンは悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
なるほど、厩舎の建物の向こう、放牧地を囲う木柵の前に立っているのは、優美なレースの日傘を差した二人の娘だけだった。

姉妹の母、コールラウシュ伯爵夫人がラインハルトを快く思っていないことを双方とも知っているだけに、ヒルダとヴェロニカの挨拶は、どことなくぎくしゃくしていたかも知れない。
けれども、しばらく会わないうちに田舎臭さが抜け、見違えるほど綺麗になっていたエルフリーデには、ヒルダは率直に感心した。
ノースリーブのサマードレスが、よく似合っている。

この場に集った5人、ヒルダとセバスチャン、ヘルムートとヴェロニカ、そしてエルフリーデのその後の人生航路は、それぞれが全く異なった様相を呈することになる。
それでも、この瞬間は、皆が揃って、母馬と仔馬が仲良く連れ添って走る姿を、和やかな雰囲気のうちに眺めていたのである。
木柵の間から頭を突きだした仔馬に、少女は草を摘んでは食べさせていた。
この春に産まれたばかりの栗毛の仔馬は、美味しそうに口をもぐもぐと動かしていると思ったら、今度は母馬と一緒になって草地の上を走り出す。
ぎこちない脚の運びが、何ともかわいらしい。

「お父さまにお願いして、仔馬を買っていただきましょう」

誰が聞いているでもないのに、エルフリーデは声に出して言ってみた。

しばらく前から、彼女はひとりぼっちでいる。
姉のヴェロニカと、来春にも彼女の義兄になるはずの青年は、示し合わせたように姿を消した。
エルフリーデは自分が、姉が外出するためのダシに使われたことは良く分かっている。
口うるさい母親に、妹と一緒だから大丈夫だと思わせるための道具なのだ。

それでも、一昨日、ヴェロニカのおねだりに弱いコールラウシュ伯爵が領地から戻っていなければ、ガーデンパーティに行く許可など、金輪際、下りなかったかも知れない。
何故なら、ヘルムートの友人には仕事柄ファッション関係者が多いが、彼女らの母親に言わせれば、そういった享楽を生業とするような連中は、間違いを犯すに決まっているからだ。
リヒテンラーデからの要請がなければ、ヴェロニカをヘルムートと婚約させることもなかったろう。

一列に並んだ厩舎の窓から、乗馬用の馬たちが顔をのぞかせている。
エルフリーデは彼らの鼻面を順番に撫でてみたが、それにも飽きると、厩舎の門を出て、庭の周囲をめぐる遊歩道を歩き出した。
女学校で習った歌を口ずさみながら木陰をしばらく行くと、小高い場所に東屋が見える。
あそこのベンチに座って、しばらく時間を潰そう――。

東屋の背後に広がる丘陵には、ぽつんと1台、干し草を積んだトラックが停まっていた。

* * * * * * * * * *

「領地でとれたワインが冷えているはずだから、試してみて」

庭の中央の大きなテントに、ヒルダはセバスチャンと連れだってやってきていた。
合図をすると、ウェイターがワインクーラーからボトルを取り出して栓を抜き、グラスへ注ぐ。
青年から手渡された白ワインは冷たく、口に含むととても良い香りがした。

「おいしい!」

「本当?よかった。領地にはもう何年も帰ってないけど、ワインは毎年送られてくるんだ」

そう言って嬉しそうに微笑むセバスチャンは、邪心のない少年のようだ。

――だめだめ、油断しちゃ。

ヒルダは改めて気を引き締めたが、たった今湧き上がった感情が、ある記憶と繋がっていることは自覚していた。
以前、ローエングラム候と夕食を供にし、ワイングラスを傾けていた時、畏敬すべき最高司令官閣下が、ふと純真な少年のように見えたことがあった。
彼に対して良い印象を持つようになったのは、それからではなかったかしら、と。

「ダルムシュタット領はオーディンから2週間もかかる僻地で、これといった産業もないけれど、白ワインだけは自慢できると思っているんだ。マリーンドルフ領でも、ワインを造って・・・・」

と、その時、背後から覚束ない足取りで近付いてきた若い女が、いきなりセバスチャンの肩にしなだれかかってきた。
職業モデルらしく、脚線美をひけらかすような深いスリットの入ったドレスを着ている。

「ここにいればあなたに会えると思って、ずっと待っていたのよ。約束をすっぽかしておいてそれきり別れようだなんて、この私に、よくもそんな仕打ちができたものね・・・・」

セバスチャンは酩酊状態の女をどうにか引き剥がしたが、フラフラと数歩後退しながらも彼女は踏みとどまり、恨めしそうな視線を投げかけることを止めない。
後ろを振り向けば、危惧した通り、ヒルダがすっかりあきれ顔になっている。

「ああ、その娘がそうなの。聞いたわよ、伯爵家のご令嬢なんですってねえ。フン、口では偉そうなことを言っても、結局あなたも、家柄や財産の方を選ぶ、つまらない貴族のおぼっちゃまでしかないなのよ!」

「レニ、彼女は違うんだ」

悪態をつく元恋人に心の中で舌打ちすると、セバスチャンはここでは落ち着いて話も出来ないからと、ヒルダを図書室の方へ移動させることにした。
女をなだめて手近な椅子に座らせてから館に戻ってみると、玄関ホールには日陰を求めてきたらしい数人の客が屯している。
その脇を通り過ぎて、廊下を突き当たりまで行った北側が目指す場所だった。

「安心して、ドアは開けておきますから」

そう促されてヒルダが足を踏み入れた部屋は、窓からの採光が最小限に抑えられているせいか、薄暗く、涼しく、そして静かだった。
時折、庭の賑やかな音楽が、風に乗って聞こえてくる。
目が慣れてくると、床からかなりの高さがある天井まで、四方の壁が作りつけの書架になっており、数百年の歳月を経た古書が、ぎっしりと並べられていることが分かった。

「立派な図書室ね。蔵書も素晴らしいわ。この分厚いレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ集は、従弟のハインリッヒの屋敷でも見たことがあるけれど、これがオリジナルなのね」

「古書の収集は、叔父の趣味なんですよ。でも、まあ、ただの骨董好きなんでしょう。中身にはほとんど関心がないようですから」

「そういえばセバスチャン、今日はゲルラッハ子爵はいらっしゃらないの?夏の間は、毎週末こちらの館で過ごされると聞いたけど」

先ほどから疑問に思っていたことを、ヒルダはさりげなく口に出してみた。

「今朝方、宰相閣下の秘書からヴィジフォンがあって、あたふたと出かけていきましたよ」

「休日なのに?」

「休日だからですよ。これまでも、何度かこういうことがありました。リヒテンラーデ公は、大切な用事がある時は、必ず自宅の方に人を呼びつけるのですよ」

「宰相閣下は、用心深い方なのね。でも、何かしら、大切な用事って・・・・」

「へえ、君って、そんなことに関心があるんだ」

口元は微笑んでいるが、セバスチャンの瞳の奥で一瞬、何かが揺らめいたような気がした。
途端に、ヒルダの頭の中で警報が鳴りはじめる。

「あ、いえ、ふと思っただけ。特に関心があるというわけじゃ・・・・」

ヒルダはセバスチャンから目をそらすと、壁際の本棚へ向かった。
端から順番に書籍を眺めながら歩き、やがて手近な一冊を棚から引き抜くと、部屋の中央に置かれた書見台に乗せてパラパラとめくり始める。
革表紙に金箔が押された豪華な装幀の本は、地球時代の様々な神話や宗教を解説した、絵入りの辞典だった。

「フッ、君という人は、つくづく嘘がつけない質なのですね・・・・。素直に認めてしまえばいいのに。叔父やリヒテンラーデ公の情報が欲しいのでしょう?」

「まさか、あなたの考え過ぎよ」

ギリシャ神話の神々が描かれた本のページから、ヒルダはじっと目を離さずにいる。
鼓動の速さを自覚する。自分はきっと、激しく動揺しているのだろう。
が、それをセバスチャンに悟られてはならない。

「誤魔化さなくてもいいんですよ。ちゃんと分かってますから。でなければ、僕のような何の価値もない人間、せいぜいあの飲んだくれのモデル風情が似合いの僕に、君のようなご立派な令嬢が付き合ってくれる理由などありませんから」

「何の価値もないだなんて。そんな言い方・・・・」

「社交辞令はけっこうです!フロイライン・マリーンドルフ」

セバスチャンの声の調子が、明らかに変化した。
危険を察してヒルダは思わず顔を上げたが、目の前に立つ青年の視線は射るように鋭い。

「ねえ、フロイライン・・・・。マリーンドルフ家は、ローエングラム候に忠誠を誓ったのでしょう?それをいいことに、あの男は、君に命じたのではありませんか。自分がオーディンを留守にしている間、リヒテンラーデの一味が妙な動きをしないかどうか監視するように、と。違いますか?」

「ち、違うわ・・・・」

「あの男が何の見返りも要求しないなんて、僕にはとうてい信じられませんね・・・・。それとも、戦勝を条件に、君を愛人にする契約を君のお父上と交わしたとか」

「父を侮辱しないで!言うに事欠いて、酷いじゃない」

「失礼、言い過ぎました、謝ります・・・・。けれど、ローエングラム候の命令でないのなら、君は自らすすんで、僕に会いたくてここへやって来たことになりますよね。先日の無礼を許してくれたばかりか、僕ともっと親しくなりたいという気持ちがあると・・・・。まあ、僕としては、そちらの方がずっと嬉しいのですが」

「だって、あなたが処方箋をくれると言うから・・・・」

「ならば、貰うものを貰ったら、すぐに帰るべきでしょう。そう、僕のような遊び人が嫌いなら、あれ以上係わらずに、さっさと帰れば良かったのですよ・・・・。君があんまり付き合いが良いものだから、僕ときたら、すっかりその気になってしまったじゃないですか」

そう言うや否や、セバスチャンの右手が素早く伸びて、書見台の上に乗せられていたヒルダの左手を上から強く押さえつけた。
伯爵令嬢は最早、後ずさりすることも出来ない。

「は、放して!大声を出すわよ」

「君が本当のことを認めたら、すぐに放しますよ。ローエングラム候のスパイをしているとね・・・・。大丈夫、叔父やヘルムートには、内緒にしておきますから」

「あなたの言うことなんか、信じられるものですか!それに私、スパイなんかじゃない」

「あくまでも、しらを切るつもりなのですね・・・・。いいでしょう、どうしても否定するのであれば、君は僕に気があるものと判断せざるを得ませんので、このまま抱きしめてキスさせていただくことにします。もちろん、恋人同士の深い口付けですよ・・・・。ああ、でも、君が欲しくて仕方がない僕のことですから、抑えが効かなくなって、それ以上のこともしてしまうかも知れません」

「そ、そんなことをして、ただで済むわけないでしょう」

「構いませんよ。どのような厳しいお咎めでも、甘んじて受けるつもりです。君にはそれだけの価値がありますからね・・・・。で、認めるのですか、認めないのですか?」

「み、認めな・・・・」

ヒルダの口から弱々しく言葉が発せられると同時に、セバスチャンの左手が背に回された。
そのまま強く引き寄せられ、息が苦しくなるほど体を密着させられる。
肩を押して必死に逃れようとする伯爵令嬢の耳元で、青年は低く囁いた。

「観念なさい。恨むのなら、君にこんな危険を冒させた、あの男を恨みなさい」
その日、ゲリラッハ別邸のガーデンパーティーに集った百人からの客のうち、最も近い所から犯行を目撃したのはエルフリーデだった。

日差しを避けようとして、彼女は庭の北西端の高台に位置する東屋のベンチに腰掛けていたが、しばらくすると、木立の向こうで草地で何やら人の気配がする。
見ると、それまで無人と思われたトラックから男が降りてきて、荷台に満載した牧草の束を次々と投げ下ろし始めた。

いったい、何をやっているのかしら。
不審に思ったエルフリーデが注視している間にも、その男は黙々と作業を続け、やがて干し草の下から、黒光りする小型のロケットランチャーが姿を現した。

2階の自室にいたヘルムートは、ベッドから半身を起こした時、フランス式の窓の彼方に広がる丘陵地で、何かがキラリと輝くのを見た。
しかし、気に留めることもなく、ヴェロニカのクリーム色の髪に再び顔を埋めた。

激しい爆発音がして建物全体が大きく揺れたのは、そのわずか数分後のことである。
続いて、庭でも地鳴りのような音と振動がして、テントが宙を舞った。

図書室にいた男女は、その瞬間に至るまで、何の異変に気付かなかった。
外の世界に気を配る余裕が、二人には無かったからである。
「恨むなら、あの男を恨みなさい」と告げられて、ヒルダはようやく悟ったところだった。
セバスチャンは最初から全て知っていて、自分を弄んでいたのだと。
伯爵令嬢は、青年の執着心を軽く考え過ぎていたのだ。

「この2ヶ月というもの、そう、君がローエングラム候の事を考えている間ずっと、僕は君のことばかり考えていたのですよ・・・・。お陰さまで、君のことが良く分かるようになりました。急にあちらこちらのサロンに出入りするようになった理由も、本当は軽蔑しているくせに、僕のことを突き放さない理由も・・・・」

セバスチャンにしても、正義感の強いヒルダが、この程度の脅しに屈するとは考えていない。
にもかかわらず、薄いリネンのブラウス越しに伝わってくる彼女の肌の暖かさや乳房の柔らかさは、彼から自制心を奪い、無謀な行動へ駆りたてて止まないのだ。

「安心なさい、叔父上にも誰にも言いやしません。君がローエングラム候の"草"だということは、二人だけの秘密にしておきましょう。その代わり・・・・」

口止めと引き替えに、肉体の関係を強要する。
己の卑劣さに愕然としながらも、セバスチャンはヒルダの腰に回した腕に一層力を込めた。
息が掛かるほど顔が近付くと、気丈な伯爵令嬢も思わず顔を背け、青年を睨み付けていたブルーグリーンの瞳を固く瞑る。

大音響とともに二人が弾き飛ばされるようにして倒れたのは、まさにその時だった。

床に投げ出されると同時に、ヒルダとセバスチャンの上に、重い書籍が雨霰と降りかかってくる。
ロケット弾の直撃を受けた建物の西翼から黒い煙が立ち上り、異常を感知した防火装置は、直ちにスプリンクラーの水を辺り一面に撒き散らし始めた。

それから僅かに遅れて、正門を中心に配備されていた守備隊が現場に到着した。
庭に足を踏み入れた彼らはそこで、深く抉られた芝生と、樅の根本まで吹き飛ばされたテントと、散乱する飲食物と、傷を負って呻く多くの人間と、物言わぬ遺体を目にすることになった。

* * * * * * * * * *

セバスチャンは決して信心深い質ではなかったが、この世には、人知を超えたものが存在するのではないかと怪しむ程度の謙虚さは持ち合わせていた。
そのせいかどうか、書物の下敷きになって失神した刹那、彼は妙な夢を見たのだ。

ヴァルハラの宮殿らしき場所を、あてどもなく彷徨っていた。
銀の鎧を纏ったヒルダによく似た女神を見かけて声を掛けるが、彼女は彼を避けるように奥へ奥へと逃げていく。
後を追って行くと、列柱の影から現れた兵士に捕らえられ、広間に引き出された。
神に選ばれた勇士でもない男がワルキューレの乙女を誘惑したと、大神オーディンは烈火の如く怒っている。

彼女のことを心から愛しているのだという弁明にも耳を貸さず、不埒な若造を罰しようと、オーディンは槍を握った右腕を大きく振り上げた。
次ぎの瞬間、雷が落ちたような大きな音と衝撃が彼を襲い、思わずワーッと叫んだセバスチャンは、その拍子に我に返った。
冷たい水のシャワーが、大量の本と自分、そして、隣りに横たわる伯爵令嬢の上に、容赦なく降り注いでいた。

ヒルダが目を覚ましたのは、スプリンクラーがその役目を終えようという時だった。
彼女もまた、気を失っている数分の間、夢を見ていた。
夢の世界には、直前まで開いていた豪華な革装本の挿絵に描かれた、ギリシャ神話の神の姿があった。
自ら発する光によって黄金の髪を輝かせ、不遜な表情を浮かべた美青年として描かれたアポロン神を、ヒルダはラインハルトに良く似ていると思ったのだ。

岩山にそびえる神殿に、アポロンと、薄衣を纏った美しいニンフがいる。
彼女の求めに応じてアポロンが竪琴をかき鳴らすと、青空から雨が降ってきた。
喜びにじっとしていられなくなったニンフは、雨の中でくるくる回りながら踊り始めたが、ふと見ると、彼女の衣も髪も、何もかもが真っ赤に染まっている。
それでもニンフは笑みを絶やさず、全身に血の雨を浴びながら、嬉しそうに踊り続ける。

「フロイライン!フロイライン!」

どこか遠くで自分を呼ぶ声が聞こえ、それが徐々に近くなり、やがて皮膚の感覚も戻ってくる。

耳鳴りがして、頭が割れるように痛かった。肘も腰も痛い。
大理石の床と、石のように固く重い書物の両方で、ヒルダは全身を強く打っていた。
ようやく薄目を開けると、濡れた髪が張り付いた彼女の頬を、セバスチャンが掌で軽く叩いて覚醒を促していた。
マリンブルーの瞳が、伯爵令嬢の顔を、心配そうに覗き込んでいる。

「うーん・・・・、セバスチャン?」

「フロイライン、大丈夫ですか。お怪我はありませんか?」

「頭が痛いわ、肩も・・・・。ただの打撲だとは思うけど・・・・。いったい、何が起こったの?」

「僕にも良く分かりませんが、建物の反対側で何かが爆発したようです。危険物がまだ残っているかも知れませんから、一刻も早く、外に避難しましょう。立てますか?」

「ええ、多分・・・・」

ヒルダはあえて自力で立ち上がろうとしたが、いかにも足元が危うい。
結局、ふらついたところをセバスチャンに腕をつかまれ、辛うじて倒れずに済んだのだが、その途端、先ほどの記憶が蘇って、彼女は身を強ばらせた。

セバスチャンもまた、ヒルダのブラウスが濡れて下着の色を透かせていることに気付くと、見てはいけないものを見てしまったかのように、慌てて顔を逸らせた。
気まずい雰囲気の中、青年の髪から、血の混じった水滴がポタポタと落ちてくる。

「セバスチャン!あなた、怪我をしてるじゃない」

「本の角で髪の中を切っただけです。大したことはありません・・・・。さあ、行きましょう」

セバスチャンは改めて気合いを入れると、努めて紳士的にヒルダの手を取った。
ところが、本を踏み分け踏み分け図書室から出てみると、玄関ホールへの通路は瓦礫で塞がれ、とても通行できる状態ではない。
そこで二人は行き先を変更して、いったんボートハウスへ避難することにした。

通路の玄関と反対側のドアを押し開けて建物の外に出ると、木製の渡り廊下があった。
廊下を少し行くと下り階段があり、通路と交互に小川まで続いている。
その突き当たりにボートハウスがあった。
道すがら、灌木の茂みを透かして、庭の方から慌ただしい人の動きが伝わってきた。

* * * * * * * * * *

ボートハウスに着くと早速、セバスチャンは奥のロッカーからバスタオルを取り出した。
ヒルダにも一枚投げて寄越すと、青年は濡れたジャケットとシャツを無造作に脱ぎ捨て、髪の毛をゴジコシと拭きはじめる。

慌てて後ろを向いたヒルダだったが、瞬間目にした青年の裸体は、ふだん服を着ている時に受けるスマートな印象よりずっと逞しいような気がした。
もっとも、彼女の比較対象は、彫像か、ソリビジョンで見るスポーツ選手くらいのものだったが。

「濡れたままでいると、風邪を引きますよ」

タオルを抱えたまま突っ立っているヒルダの背中にいつもの調子に戻って声を掛けながら、セバスチャンは濡れた革靴を脱ぎ捨て、デッキシューズに履き替える。

「外の様子を見て来ますから、しばらくここで待っていて下さい。それとも、誰か人を呼んで、護衛のところまで送らせるようにしましょうか・・・・」

その時、ギーッと木戸の軋む音がして、ボートハウスの入口の戸が開いた。
もしや犯人でも現れたのかと一瞬緊張が走ったが、「おっ、先客がいたか」と言って入ってきたのは、ヘルムートと、彼に抱きかかえられたヴェロニカだった。
ちょうど裸でいた時に事件に遭遇したらしく、二人ともタオル地のバスローブを羽織っている以外、何も身に付けていない。

「良かった、お前たちも無事だったか。まったく、どこもかしこも水浸しだな」

ヘルムートはそう言うと、立っているのも辛そうな様子のヴェロニカを、手近なベンチに座らせた。
そして、自分も並んで腰掛けて婚約者の肩を抱くと、彼女の長い髪を指で梳きながら、何事か小声で話しかける。
ところが、ちゃんと目を開けているにも係わらず、ヴェロニカの半開きになった口からは、なぜか唸るような音が漏れてくるだけなのだ。

「どこか具合がお悪いの?」

「いや大丈夫、時間が経てばしっかりしてくるはずだ」

ヒルダの問い掛けにヘルムートは事も無げに答えたが、人一倍気位の高いヴェロニカが、口をだらしなく開け、目を虚ろにさせているなど、とても尋常な状態とは思えない。
それなのに、ふと気が付くと、セバスチャンも何故か、心配するというより、珍しい動物を観察するかのような視線を彼女に投げかけているのだ。

「い、いもうとは・・・・、エルフリーデは、どこ・・・・、エルフリーデは無事なの・・・・」

ややあって、ヴェロニカの口からようやく意味のある言葉が発せられると、他の三人は、瞬時にお互いの顔を見合わせた。
2時間も前に厩舎の前で別れてから、誰もエルフリーデ嬢の姿を見ていない。
皆、自分のことに一生懸命で、彼女のことをすっかり忘れていたのだ。

男たちが飛び出して行った後は、タオルにくるまりながら、ヒルダがヴェロニカに付き添った。
庭の騒ぎをよそに、ボートハウスは静けさを保っている。
小川は煌めきながらゆったりと流れ、桟橋に繋がれた手漕ぎのボートは、水の動きに合わせるように小刻みに揺れていた。

あたりを見回すと、板張りの床の片隅に、クーラーボックスが置き放しになっている。
中にミネラルウォーターを見つけると、ヒルダはヴェロニカに飲ませようと、ベンチにぐったりと横になっていた彼女の上体を起こした。
掠れた声で礼を言うと、ヴェロニカは髪を掻き上げ、ボトルに口を付ける。

その時、バスローブの裾が乱れて、ヴェロニカの片足が太腿の上の方まで露わになった。
が、本人は気付かず、のどを鳴らしながら夢中で水を飲み続けている。

彼女の白い内腿には、一筋の血液の流れた跡があった。
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