[フレーム]

獅子の泉でつかまえて

銀河英雄伝説の皇帝夫妻をネタにした二次創作小説その他

1話〜10話

((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

帝都オーディンのとある街角までやってきた時、マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレはふと思い出して、自らハンドルを握る地上車を、馴染みの花屋のある通りに向けた。
その夜、帝国歌劇場の小ホールで新作を発表する作曲家へ、花束を贈ろうというのである。
手配を終え、再び車に乗り込もうとした時、彼女は歩行者のひとりから挨拶をされた。

「あら、マリーンドルフ家のヒルダ嬢ちゃんじゃないの」

「ヴェストパーレ男爵夫人、お久しぶりです」

伯爵家の令嬢でありながら、運転手付きの自家用車を使うでもなく、共の者を付けるでもなく、ヒルダは気軽に街を歩いていた。

「まだ学校に通ってたんだっけね」

「はい、来年卒業です」

「その後はやっぱり、大学に進むの?」

「ええ」

マリーンドルフ伯爵の亡くなった夫人は、結婚前、ヴェストパーレ男爵家が主催する学校で古典音楽の教師をつとめていたことがある。
だが、娘のヒルダは、芸術より政治や軍事といった散文的なことに興味があるらしかった。
くすんだ金髪を短く切り、男のような服装をした伯爵令嬢は、この日も色気とはほど遠い、難しそうな書物を脇に抱えている。

「ヒルダ、あなたが男なら、いずれ国務尚書ぐらい簡単に務まるのにねえ。それとも軍隊に入って軍務尚書かしら」

ヒルダは笑い、すると美貌の少年っぽい容姿に、少女らしい香気がひらめいた。

「男爵夫人こそ、大元帥の制服がきっとお似合いですわ。そうしたら私、参謀長になって差し上げます」

「それも悪くないわね。どう、乗っていかない?図書館でもどこへでも、送ってあげてよ」

「それじゃ遠慮なく・・・・。国立図書館の分館までお願いします」

国立図書館の分館には、市販された書籍ではなく、帝国の実情を示す様々なデータ――もっとも公開されているのはその一部に過ぎない――が保管されている。

カブリオレが颯爽と走り出すと、初夏の風がふたりの髪を撫でた。
マグダレーナは、化粧気のないすべすべとした頬を輝かせているヒルダを横目で見るうち、何か感じるところがあったようだ。

「ヒルダちゃん、まだ恋人は出来ないの?」

パーティー、舞踏会、ドレス、アクセサリー、そして恋愛。
同年代の貴族の娘が好んで追い求める事柄に、この美しい令嬢はまるで関心を示さない。
服装や髪型に至っては、あえて男を寄せ付けまいと武装しているようにすら見える。
それで男爵夫人は、つい確かめてみたくなったのだ。
彼女がそうする理由が、もしや男性に対する恐怖心ゆえではないのかと。

「ええ、残念ながら・・・・。男爵夫人、誰か紹介していただけますか」

マグダレーナの心配をよそに、ヒルダはあっさりとそう回答した。
彼女が、名門貴族の年頃の令嬢としては、相当な変わり種であるという点については疑いようもないが、かといって、男性を嫌って意図的に避けているわけではなさそうだ。
要は、相手次第――ということか。

「そうね。心当たりがないでもないわ」

マグダレーナは、ひとりの若者の姿を思い浮かべながら、言葉を続けた。

「どうせ、低脳な男はあなたはダメでしょう。その点、その人は秀才よ。何しろ、幼年学校を主席で卒業したくらいだから」

「では、その方は、士官候補生なのですね」

「いいえ、彼は士官学校へは行かずに、すぐに前線に出たの。そして次々と目覚ましい戦果をあげて、今では閣下と呼ばれているわ。まだ18歳なのに・・・・」

「まあ、そのような方がいらっしゃるのですか。私と一つしか違わないのに、将官だなんて・・・・」

ヒルダは、大きなブルーグリーンの目をパチパチさせて驚いている。
マグダレーナは黒曜石の瞳を細めると、莞爾と微笑んだ。
彼女の思惑通り、伯爵令嬢はその若い軍人に、少なからぬ関心を抱いたようである。

懸念材料があるとすれば、若者がライヒスリッターの出身であること、その一点に尽きる。
万が一交際が真剣なものになれば、伯爵令嬢であるヒルダとの階級の違いは、容易に乗り越えがたい壁となってふたりの前に立ち塞がることになろう。

帝国においては、相手の身分を確かめもせずに男女が深い仲になるのは、犬畜生にも劣る行為だとされていた。
当然のことながら、階級を偽れば、詐欺に等しい罪として刑に処せられる。
自己紹介するにも、人を紹介するにも、まず身分を告げる。
それが帝国の常識なのである。

しかし、マグダレーナはこの時、あえてヒルダに何も告げず、成り行きに任せてみようという気分になっていた。
それは、あのアイスブルーの瞳を熱く燃やす若者が、いずれ自らの出自どころか身分制度そのものを破壊してしまうことを、彼女自身、心のどこかで期待していたからかも知れない。

「ヒルダちゃん、彼に少しでも興味があるなら、一度、我が家のサロンにおいでなさい。紹介して差し上げてよ・・・・。あら、やだ。噂をすれば影だわ・・・・」

階級という絶対的な距離を埋めるのに、わずかな時間しか要しない場合も稀にある。

後に銀河帝国皇帝となるラインハルト・フォン・ミューゼルと、彼の妃となるヒルデガルト・フォン・マリーンドルフは、互いの身分を知るより早く、出会ってしまったのである。

マクシミリアン・ヨーゼフ二世広場の歩道上に見知った金髪の若者を見付けると、男爵夫人は彼の傍で地上車を停め、声を掛けた。
頭の上がらないごく少数の女性の姿を認めたラインハルトは、あわてて会釈を返す。

その日は、グリンメルスハウゼン子爵邸において、76歳になる当主の大将昇進を祝うパーティが催され、ラインハルトも出席することになっていた。
先だってのヴァンフリート星域会戦において、彼はこの老提督の麾下にあって敵の基地司令官を捕らえるという武勲をたて、帝国軍史上最年少の少将に叙せられたのである。

そもそも、栄達の道として、ラインハルトが軍隊を選んだのには、理由がある。
前線に出て武勲をたてれば早く栄達できる、というのが他者に対する説明で、それは虚偽ではなかったが、ラインハルトは秀麗な仮面の下に、より不敵で不逞な理由を隠していた。
彼は、将来、ゴールデンバウム王朝を簒奪して、名実備わった宇宙の覇王たらんと志していたのである。

仮に、彼が文官として宮廷内で栄達し、国務尚書ないし帝国宰相の座に就き得たとしても、そのような権力など、門閥貴族たちによって、一日で覆されうる程度のものでしかない。
最高の地位と権力を獲得し、それを保持するためには、武力が必要だった。
それも、比類なく強大な武力が、である。

「あらそうなの、惜しかったわね。お暇なら、音楽会でもどうかと思ったのだけど」

「それは残念です」

ふと気付くと、助手席に座った少年めいた娘が、碧の瞳でラインハルトをじっと見ている。
その存在になぜか気を取られながらも、若者は、最愛の姉のかけがえのない友人に対して、努めて慇懃に応対した。

「そういえば、今日は一人なの?珍しいわね」

「キルヒアイスなら、佐官たちの戦略研究会に出席しております」

「そう、彼にもよろしくね。私のサロンにも、遊びにきてと伝えてちょうだい」

「承知しました。必ず申し伝えます」

「ところで、ミューゼル閣下。あなたにちょうど、彼女を紹介しようと思っていたところなのよ。マリーンドルフ家のヒルダちゃん。来年は大学生になられるそうよ。ヒルダちゃん、こちらがラインハルト・フォン・ミューゼル少将よ」

「あの、はじめまして。ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフです」

男爵夫人の証言によれば、この時、17歳の女学生は、軍の礼装に身を包んだ美貌の若者に、興味と憧憬が綯い交ぜになった視線を送っていたという。
一方、ラインハルトはと言えば、ああ、またくだらない貴族のパーティで、くだらない会話をしなければならない相手が一人増えてしまうのかと内心鬱陶しく感じながらも、儀礼的な挨拶を返していた。

しかし、伯爵令嬢の膝の上に置かれた書物を目にした瞬間、ラインハルトは彼女に対して、他の貴族の娘とはいささか異なる印象を抱くことになる。
というのも、その本が、マキャベリの「君主論」だったからである。

時に、帝国歴485年6月。
後年から見れば、この年はゴールデンバウム王朝と自由惑星同盟という、敵対し合う恒星間国家の末期にあたり、歴史は新しい時代へ向けて鳴動していたはずである。
けれども、未だ半睡状態にある人々は、門閥貴族から"金髪の孺子"と呼ばれ蔑まれていた若者が成すことを、知る由もなかったのである。
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

少将という地位を得ても、ラインハルトは幼馴染みのジークフリート・キルヒアイスと共に老姉妹の家の2階で質素に暮らすことに、いささかの変化もなかった。
ことさら吝嗇というわけではないが、貴族とは名ばかりの貧しい家に生まれたせいで、倹約が身に染みついているのである。

そのリンベルグシュトラーセの下宿に、ラインハルトが酔いに顔を紅潮させて帰ってきた。
アルコールよりも怒気に酔っていることは明白だったが、キルヒアイスはとにかく冷水を満たしたグラスを渡し、事情を聞いてみる。

胃と神経が多少なりとも冷えると、ラインハルトはその夜、グリンメルスハウゼン邸のパーティーで何があったのか説明した。
リューネブルグ少将に侮辱され、あわや決闘という事態に至ったこと。
すんでのところで、会場の警備にあたっていたケスラー大佐に止められてしまったこと。

「ケスラーという奴が余計な真似をしなければ、リューネブルグの良く動く舌を引き抜いてやれたのに。奴め、言うに事欠いて、俺のことをかぼそい象牙細工だなどとほざいたのだぞ!」

覇気を封じ込められたラインハルトは、悔しさも露わに声を荒げる。
他人の下に付くということが、すでにしてラインハルトにとっての難行であることを、キルヒアイスは知っていた。
しかし、親友を宥めながらも、その一方で、腕力沙汰に及ぶ前に事態が収まってくれたことに、ホッとするものを感じてもいた。

ラインハルトが、いかに優れた運動神経と体躯の持ち主であったとしても、18歳という年齢からくる線の細さ、体重の軽さは、素手の格闘においては圧倒的に不利に働く。
数年先ならともかく、今の段階で白兵戦のプロであるリューネブルグと渡り合えば、無傷で済む保証など全くないのだ。

先の惑星ヴァンフリートにおける戦闘で、図らずもローゼンリッター連隊の一員と直に刃を交えたキルヒアイスは、彼らの恐るべき実力を肌で感じ取っていた。
曲がりなりにもリューネブルグは、そのローゼンリッターの連隊長だった男だ。

まさかラインハルトに、「叩きのめされていたかも知れない」などとは絶対に言えないが、今夜のところは、その仲裁に入ったケスラー大佐に感謝すべきだろう――。
などと考えるうち、キルヒアイスは、ケスラーの名が、すでに頭の中の人名録に記されていたことに思い至った。

かねてより、ラインハルトは人材を求めていた。
彼の野望を実現するため策を立て、それを実行する、様々なタイプの人材を欲していた。
キルヒアイスにしても、人に会う度、この人物はラインハルトにとって有益か、好意的か、味方にすべきか――といった視点で、人物の価値を判断してしまいがちだ。

かくして、キルヒアイスは、"敵にまわせば厄介だが、味方にすればもっと始末が悪い"とリューネブルグを評するに至ったのだが、ケスラーの名は、"味方にすべし"というリストの方に載っていたはずである。

「ラインハルトさま。もしや、そのケスラー大佐とは、憲兵本部に出向していた折、不敬罪で捕らわれた老婦人を救おうとした、あのウルリッヒ・ケスラーのことですか」

「ああ、そうだ」

ばつの悪さを感じているのか、金髪の若者は渋々という風に認める。

ラインハルトは深呼吸して気を鎮めると、軍人というより少壮の法律家めいた男の風貌を、あらためて思い浮かべてみた。
酒に罪を着せることで、戦意旺盛な二人の少将と、邸宅の主と、三者の名誉を一度に守ったその手腕は、今にして思えば、非の打ち所がないほど見事なものだった。

かつての老婦人の件で見せた手法といい、やはりケスラーという男は、単純な正義漢というよりは、臨機応変の才に恵まれた、なかなかに味わい深い人物のようだ。

先ずは、期待以上の人材なのであろう。
それは確信に近い推測だったが、ではケスラーの方は、一回り以上も若い自分にどのような感情を抱いているのか――となると、ラインハルトはまるで見当がつかないのだ。
ミュッケンベルガー元帥のように、寵姫の弟であるがゆえに皇帝に贔屓され、ろくな経験もないのに将官たり得ていると、内心では苦々しく思っているかも知れない。

と、その時、ラインハルトはあることを思い出すと、誰に問うでもなく呟いていた。

「そういえば、あの男、別れ際に、俺に向かって一礼した・・・・」

耳ざとく聞きとめたキルヒアイスは、安堵したように応える。

「ラインハルトさまと友好的な関係でありたいと、その気持ちを態度で示したのでしょう」

「ふん、そんなものか。まあ、敵意は感じなかったが・・・・」

「ケスラー大佐とは、近いうちに再会できるような気がいたします。ラインハルトさま、どうかその時はわだかまりを捨て、ぜひとも今夜のお礼をなさって下さい」

「キルヒアイス、俺は説教されるのは嫌いだ」

「申しわけありません」

「なぜ謝るのだ。お前は俺に助言してくれたのであって、説教したわけではあるまい」

ラインハルトはいやに意地悪な口調で言い放ち、直後、秀麗な顔に後悔の表情をひらめかせると、かえって怒ったように自分自身の発言を修正した。

「冗談だ、キルヒアイス」

ちゃんと分かっていますよと言うように、赤毛の親友は微笑んでいる。

「それにしても、お前はなぜ、ケスラーと近く再会すると思うのだ」

「彼とは、縁があると思ったからです。運命のめぐり合わせとでも言いましょうか、8年前にラインハルトさまとアンネローゼさまが隣りに引っ越していらしてからというもの、私はそういう考えに捕らわれております」

「縁、か・・・・」

その耳慣れない言葉に記憶中枢が反応したものかどうか、ラインハルトは道すがら姉の友人に紹介された、少年のような格好をした伯爵令嬢を思い出していた。
パーティーの騒動のせいで、一時きれいさっぱり忘れていたのに、今また彼女の姿が記憶の表層に浮かび上がってきたのは、また会いたい、もっと話をしてみたいという気持ちが、心のどこかで燻っていたからだろうか。

「ならば、あのフロイラインとも、また会えるということになるな・・・・」

ラインハルトは、声に出さずに言ってみた。
これまで、自分の前方正面だけを見据えて早足で歩いてきた若者は、この時はまだ、脳味噌がどうやらバタークリーム製でないらしい貴族の娘がこの世に存在することを、ただ物珍しく感じていただけかも知れない。

ラインハルトにとって、ゴールデンバウム帝室と、それを取り巻く門閥貴族は、すべて敵であり、社会に寄生する毒虫であった。
その基本的な認識は、教条主義的な共和主義者と、さほど異なるものではない。

が、マリーンドルフ伯爵令嬢のいきいきと輝くブルーグリーンの瞳を思い浮かべることは、自分を屈服させようとするリューネブルグの不機嫌そうな顔を思い出すことに比べれば、千億倍も心地が良かったのである。

* * * * * * * * * *

「今日は、国立図書館に行って来ました」

夕食の席で、ヒルダはその日の出来事を、父親にそう報告した。

「あまり根を詰めるなよ。何も、オーディン帝国大学を受験しようというのじゃないのだから」

休日ともなれば、同級生の友人と連れだってショッピングやパーティーに繰り出すのが、貴族の娘が通う女学校の生徒の、ごく一般的な日々の過ごし方である。
時に羽目を外しすぎて、世間から眉を顰められることもある彼女たちと同じ事をしろなどと言う気は更々ないが、図書館通いに明け暮れる我が娘もまた、相当に偏った人生を送っているのではないか――との思いが、マリーンドルフ伯爵にはある。

食後のコーヒーをすすりながら、父親は何か言いたそうにしていたが、ヒルダはその夜、普段より早めにおやすみなさいを言うと、そそくさと自室に引き上げてしまった。
そして、一人になった途端、彼女はハァと溜息を付く。

まだ恋人は出来ないのかと、ヴェストパーレ男爵夫人に尋ねられた時、ヒルダは弱みを知られたくない一心から、つい誰か紹介して下さいなどと言ってしまった。
そんな気は、まるで無かったのに。
しかも、男爵夫人は、その後すぐに、本当に若い軍人を彼女に紹介してきたのだ。

ラインハルト・フォン・ミューゼル。
あの後、図書館のデータベースで調べてみた。
グリューネワルト伯爵夫人の弟だという。
帝国騎士の出身ながら、フリードリヒ4世陛下の寵を得て爵位を賜った女性の――。

その姉君が、皇帝に働きかけてでもいるのか、ミューゼル少将が、人に倍するスピードで出世してきたことは否めない。
それにしても、彼の戦場における実績そのものは、非の打ち所のないものだった。
あえて身分の違いを押して、男爵夫人が紹介して下さるくらいだから、よほど立派な方なのだと思う。
友人として接するなら、きっと楽しい時間が過ごせるはずだ。

でも、それ以上の付き合いをするとなると、ヒルダにはどうしても恐怖感の方が先に立つ。
覇気がある、と言えば聞こえは良いが、野心的な男性のギラギラとした眼差し。
それが、彼女を臆病にしてしまうのだ。
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

宮廷という場所は、噂や流言にとって理想的な繁殖地でもあるが、最近、そこにまた一つ、新たな種が蒔かれた。
皇帝の寵姫の弟のラインハルト・フォン・ミューゼルが、爵位を賜る。
名跡の絶えていたローエングラム伯爵家を、あの"金髪の孺子"継がせるよう、陛下が宮内省に指示した――という噂である。

子が生まれなかったり、娘が嫁いだりして名跡を絶やした貴族の家が、皇帝の指示によって家計を復活させた例は、過去にいくつもある。
しかし、今回の件を耳に入れた門閥貴族の一部は、ルドルフ大帝以来の名門の家名を、成り上がり者に下賜するとは何事かと、激烈な反応を示した。

噂が噂でなく、すでに決定されたことだと知れると、彼らの不満の矛先は皇帝にも向けられ、大公時代から碌に帝王教育も受けてこなかった御方だから仕方がないと、嘲笑とも諦観ともつかぬ陰口が囁かれた。

国務尚書たるリヒテンラーデ侯爵は、彼らよりもう少し高い視点から鑑みて、「二十歳になり次第、ラインハルトに爵位を与える」という皇帝の意向を受け入れた。

彼は、新参者と古くからの貴族の間に心理的な軋轢が生じ、それが深刻な宮廷闘争に発展することを危惧しはしたが、ゴールデンバウム王朝の長い歴史において、そうしたことはしばしば起きてきたことでもあった。
だから、今回の"ローエングラム伯爵家再興"の件も、たとえ短期的な混乱はあっても、重大な事件とはなり得ず、いずれ時間の中に埋没していくだろう、そう考えたのである。

そういう意味で、最も正確に未来を予測していたのは、他ならぬフリードリヒ4世であった。
皇帝はグリンメルスハウゼン老人に、こう語ったとされる。

「箔が付くのはあの者ではなく、家名の方かも知れない」

そして実際のところ、"ローエングラム"は、ゴールデンバウムに代わる銀河帝国の王朝の名として、史書に大文字で記されることになったのだ。

当のラインハルトは、彼としてはめずらしく、皇帝の好意を素直に喜んでいるように見えた。
だが、さほど深い意図もなく、「ミューゼルという姓を棄てるのですか?」と訊ねたキルヒアイスは、一瞬にして、アイスブルーに煌めく雷光に直面することになった。

「ミューゼルというのはだな、自分の娘を権門に売った恥知らずな男の家名だ。こんな家名、下水に流したって惜しくはない!」

キルヒアイスは、ラインハルトの感性の熾烈さに改めて目を見張り、自分がまだ、彼の気質の全てを把握していないことを思い知った。
だから彼は、ヴェストパーレ男爵夫人から半ば強制的に展覧会への来場を求められた時、この話題がサロンで人々の口にのぼることに、一抹の不安を感じなくもなかったのである。

二人が男爵夫人の邸宅を訪れたのは、6月の最後の週末だった。

「お招きありがとうございます」

「まあ、二人とも良く来てくれたわね。あなた方には、ぜひ見て貰いたかったのよ」

夫人は夏服姿の若い軍人を笑顔で迎えると、彼らを絵画の展覧会場へと案内した。
ところが、意外なことに、客は二人の他にはもう一組しかおらず、しかもその一組も、口振りからして芸術アカデミーの関係者のようである。
彼らが入れ違うように帰ってしまうと、場違いな若者が、その場に取り残されることになった。

男爵家の広いサロンの一画にイーゼルが置かれ、10点余りの水彩画が飾られている。
どれも風景画で、未だ開拓されない辺境の惑星を描いたものらしかった。
画題となっているのはその惑星の衛星で、地球における月さながら、岩勝ちな砂漠の上空で、ある時は赤く、ある時は白く輝いている。

天空にぽつんと浮かんだ衛星は、孤高の存在でありながら、どこか寂しげだ――。
キルヒアイスは一連の作品から、そういう印象を受けた。
そして、「はて、水彩画家は、ヴェストパーレ夫人の何曜日の担当だったろうか」と考えを巡らせてみたのだが、それを察したかのように、夫人が近づいてきて言う。

「この絵を描いた人は、オーディンには居ないわ。2年前から、とある辺境の惑星に赴任しているの。この絵だって、1カ月もかけて送られてきたのよ」

「赴任と言いますと、職業画家ではなく、どこかの官庁の行政官の方ですか」

「いいえ、あなた方と同じ軍人よ。エルネスト・メックリンガー大佐。私の古い知り合いの・・・・。あなた方も、名前を聞いたことはあるのではなくて?」

「はい・・・・、ですが、その方は確か、ピアニストだったのではありませんか」

芸術家のパトロンとして知られた先代のヴェストパーレ男爵は、士官学校に通うある若者の才能に惚れ込み、公私の両面から援助していた。
それがメックリンガーで、男爵夫人も少女時代、彼からピアノを習っていた。
キルヒアイスが覚えていたのは、このような逸話だったが――。

「まあジーク、覚えていてくれて?そう、ピアノはもちろん、彼の才能の一端には違いないわ。でもね、彼はピアニストであると同時に詩人でもあり、画家でもあるの。帝国芸術アカデミーの、部門別年度賞も獲得しているのよ」

「ならば・・・・、それほどの実績があり、かつ貴族社会との縁故も浅からずあるのなら、本人が願い出れば、ずっとオーディン勤務で居続けることも可能だったのではありませんか。メックリンガー大佐はなぜ、辺境の警備などに就かされているのですか」

ラインハルトが、急に話に割り込んできた。
どうやら、メックリンガーの異才を知ったことで、人材収集癖が頭をもたげてきたらしい。

「辺境だけじゃないわ、最前線にも何度も狩り出されているのよ。それも、元はと言えば、彼がリッテンハイム候の身内の青年を、音楽コンクールで負かしたから・・・・。あれ以来ずっと、根にもたれているのよ」

10年前、コルネリアス1世記念ピアノコンクールにおいて優勝したメックリンガーは、批評家からも"大胆さと繊細さの完全な融合"とその演奏を絶賛された。
メックリンガー本人も、これでヴェストパーレ男爵への恩返しが出来たと喜んでいたが、それも束の間、リッテンハイム侯爵が軍務省の高官に働きかけ、彼をいきなりイゼルローン方面へ出征する部隊に転属させてしまったのだ。

ヴェストパーレ家や、すっかり彼の演奏のファンとなった音楽愛好家の貴族たちは憤ったが、相手が皇室の外戚でもある侯爵家では分が悪かった。
以来、メックリンガーは、ごく短い休暇の期間を除いて、前線と辺境の間を行ったり来たりさせられているのだという。

「リッテンハイム候も、負けた相手が貴族であったなら、あんな大人げない真似はなさらなかったでしょうに・・・・。ミューゼル少将、あなたは遠からず爵位を賜るそうだけど、逆恨みされないように気を付けなさいね。筋が通る世の中じゃないのだから・・・・」

男爵夫人の忠告に、若者たちは黙って頷くしかなかった。

ラインハルトが、大貴族も手を出せないほどの高みを目指していること。
それどころか、最終的にはゴールデンバウム王朝を打倒し、貴族制度そのものを一掃しようという野望を抱いてることを知る者は、今ところキルヒアイスの他にはいない。
しかし、貴族とは名ばかりの貧家出身の若者の異例の出世を、"乱の前兆"と警戒する貴族は、着実に増えているのだ。

「あら、せっかくのお目出度い話が、湿っぽくなってしまったわね。お詫びにサンルームでお茶でもいかが。招待した方はもう全員いらっしゃったし、展覧会の方はこれで店仕舞いするわ」

どうやら水彩画の展覧会は、もともと、ごく内輪向けのものだったらしい。
ならば、自分たちのような門外漢が招かれたのはなぜか。
二人が訝しげに顔を見合わせながらサンルームに入っていくと、くすんだ色の金髪が揺れて、すらりとしたシルエットが椅子から立ち上がった。

「ヒルダちゃん、すっかり待たせしてしまったわね。さあ、みんなでお茶にしましょう。ミューゼル少将はこのあいだ紹介したわよね。こちらののっぽさんは、ジークフリート・キルヒアイス少佐。ジーク、こちらのお嬢さんは、ヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢よ」

ヒルダも二人の来訪を知らされていなかったのか、驚いたように「はじめまして」と会釈する。

キルヒアイスは、丁寧に初対面の挨拶を返すと、「さては、ラインハルトさまと彼女を引き合わせるのが目的だったか」と、男爵夫人を横目で見た。
男爵夫人は男爵夫人で、口元を扇で隠しながら、ラインハルトの様子を伺っている。
そして、当のラインハルトはといえば、白いリネンのブラウスにスラックスという出で立ちの伯爵令嬢を、穴の開くほどじっと見つめているのである。

天窓から差し込む初夏の陽光が、伯爵令嬢のブルーグリーンの瞳を輝かせていた。
ラインハルトは、自分がなぜその娘から目が離せないでいるのか、理由が分からなかった。
世慣れぬ若者は、その理由を探そうとして、いっそう目を凝らしてしまう。

そんな状態があと数秒も続いていたら、キルヒアイスは、「女性をそんなにジロジロ見るのは、失礼にあたりますよ」と、幼馴染みに注意していただろう。
が、折良く、甘い香りを漂わせる焼き菓子が運ばれて、ラインハルトは関心を逸らす。

4人がテーブルに付くと、先ほどの話の流れから、自然と次ぎの出征が話題となった。
今年中にもう一度、イゼルローン方面への出兵がある。
11月ないしは12月を期して、同盟軍がイゼルローン要塞に大攻勢をかけるとの情報があるので、まず間違いないというのである。

「まったく、ワンパターンもいいところだ。毎年、同じようなことを繰り返すうちに、いったいどれほどの人命が損なわれるのか」

キルヒアイスは、ラインハルトの語気の強さを、常よりも用心深く計っていた。
初対面の、しかも門閥貴族の娘が同席しているのだから、彼女がラインハルトに関する悪い噂の発信源となる可能性も考慮して、もう少し発言を自粛して欲しいものだ――と、キルヒアイスは思わざるを得ない。
そのヒルダが、いきなり口を開いた。

「ミューゼル閣下、150年前の開戦以来、年間の戦死者の数は平均で86万4千人。20歳台、30歳台の男性の死亡原因の第一位を占めておりますわ」

瞬間、金髪と赤毛の若者は呆気にとられたように沈黙し、ヴェストパーレ男爵夫人はそんな二人を交互に眺めては、さも美味しそうに紅茶を一口すすった。
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

ああ、言ってしまった。
いいわよね、別に間違ったことじゃないし。
いけ好かない生意気な女だと、私のことを避けてくれればいい。
あんな目でジロジロ見られるより、その方がずっと楽だわ――。

ヒルダはすました顔を保ちつつ、紅茶にたっぷりとミルクを注ぎ入れた。
が、数秒と間を置かずして、蒼氷色の瞳が鋭く閃く。

「フロイライン。それをどこで知った」

「どこって・・・・、国立図書館の資料ですけど・・・・」

ラインハルトの尋問するような強い口調に、キルヒアイスはハッとした。
相手はうら若い女性なのだから、他にもっと言いようがあるだろう――と、彼は思うのだが、幸いなことに、伯爵令嬢が怯えているようには見えない。
決して愉快ではなかろうが、スプーンで茶碗を掻き回しながら、素直に答えている。

「戦死者に関する詳細なデータは、一般に公開されていないはずだが・・・・」

「公開されているデータを何種類か付き合わせて逆算すれば、ある程度の事は分かりますわ」

「ほう・・・・。では聞くが、フロイラインはなぜそうまでして、軍の秘密を探ろうとするのか」

「軍の秘密?」

ヒルダの手の動きが止まった。
この人は、まさか、自分をスパイだと疑っているのか。
酷い侮辱を受けたような気がして、それが彼女の貴族としての矜持に火を付けた。

「そんなもの、興味ありません。私が知りたいのは、徴兵されていく領民たちのうち、いったいどれだけの者が無事に帰って来られるか、どれだけの者が遺体すらない棺で葬儀を執り行わなければならないかということですわ」

「つまり、マリーンドルフ伯爵家の領地を耕す貴重な労働力を、叛徒どもの侵略から帝国を守るために費やすのは嫌だと、そういういうことか・・・・。なるほど、いかにも門閥貴族らしい、身勝手な考え方だな」

ヒルダに対してむきになっていることは、ラインハルト自身も、とうに気付いていた。
社交の場における彼のこれまでの貴族女性との接し方といえば、相手の目も碌に見ず、曖昧な返事を返すことだった。
アンネローゼの宮廷での立場を悪くしないために、最大限譲歩した結果がそれだったのだ。

だが、ヒルダはまるで違っていた。
生き生きと輝く碧の目に、吸い込まれそうな気がしたこと。
バラ色の唇が開いたと思ったら、有能な副官のようなことを喋り出したこと。
自分より年少の、しかも憎むべき大貴族の娘に虚を突かれて動揺したことを、ラインハルトは認めたくなかったのだ。

「そのように曲解なさるとは、心外ですわ。ミューゼル閣下も、たった今、軍は無益な戦いを繰り返していると、無駄に人命が損なわれていると、仰ったばかりではありませんか・・・・」

「私は、戦いがパターン化しているとは言ったが、無益とも無駄とも言っていない。フロイラインの方こそ、皇帝陛下が裁可された出兵計画に、反対しているように聞こえるが・・・・」

「まあ、不敬だとでも、仰りたいの?」

ブルーグリーンの瞳の中で、炎が踊った。
ヒルダは、思わず大きく息を吸い込んで止め、ややあって吐き出した。

大変なことになった。
ラインハルトさまは、フロイライン・マリーンドルフを怒らせてしまった。
キルヒアイスは咄嗟にどうして良いか分からず、二人を交互に見比べている。

「そうですわね。そのパターン化された戦いに出征するたびに武勲をたて、栄達してきた閣下のことですもの。出兵に反対される理由なんて、これっぽっちもございませんでしょう」

赤毛の青年は、もう少しで、「あっ」と声を発するところだった。

――いっそ、大きな戦闘が起こってくれないものか。そうなれば、こんな腐臭の漂う場所にいなくて済むし、階級も上がる。

ラインハルトからそう聞かされたのは、つい先日のことだ。

彼の発言は、門閥貴族と、平和主義者の双方から忌避されるものだということは分かっていたが、キルヒアイスはその時、親友の不遜さにただ苦笑するばかりだった。
よもや、うら若い貴族の娘から図星を指されるのみならず、真っ向から批判されることになろうとは、想像すらしなかった。

動揺がキルヒアイスにまで及んでいることを、ラインハルトは察した。
その原因が、己のどうしようもなく好戦的な性向と、それを門閥貴族の娘に見破られたことにあることを、彼は認めざる得なくなった。
それと同時に、ヒルダへのこれまでの態度が、ひどく恥ずかしく感じられた。
けれども、その滅多に訪れない感情とどう向き合えば良いのか、若者は分からなかった。

サンルームが、いきなり沈黙に支配された。

令嬢は、若い軍人からまた何か因縁を付けられるのではないかと、身構えているようだった。
ミルクティーを静静と口に運びながらも、時折キッとした視線をラインハルトに投げている。

この気まずい雰囲気を、どうやって修復したら良いのだろう。
キルヒアイスが、いよいよヴェストパーレ男爵夫人に助け舟を要請しようとしたまさにその時、これまで傍観に徹していた夫人が、オホホと笑った。

「ミューゼル少将もジークも、今日はまだお菓子に手を付けていないようだけど、ヒルダちゃんの前だからって遠慮しなくてもいいのよ。ヒルダちゃんも、どうぞ召し上がれ」

そう言って、男爵夫人がドライフルーツ入りのケーキを口にすると、それが合図であったかのように、ラインハルトとキルヒアイスはパクパクと菓子を頬張りだした。
それが、バツの悪さをごまかすためなのか、それとも根っから甘い物に目がないのか、ヒルダにはまだ判別がつかなかった。

ともあれ、ひと息つくと、男爵夫人はラインハルトに声をかける。

「お味はどう?我が家の調理人に、アンネローゼのレシピ通りに作らせてみたのだけど」

「とても美味しいですよ。ですが、キルヒアイスを誘き寄せようとの魂胆が、透けて見えます」

「あら、バレちゃたかしら」

ヒルダを除いた三人が、互いに顔を見合わせて笑った。
そうして空気が和らいでくると、男爵夫人はさりげなくヒルダの側にきて、そっと囁く。

「傍若無人なところもあるけれど、ミューゼル少将は悪い人じゃないのよ。軍隊育ちで、ちょっと世間からずれているかも知れないけど・・・・。だから、見捨てないであげて。お願いよ」

「えっ、私がですか。どうして?すっかり嫌われてしまったのに・・・・」

「いいえ、その反対よ」

ヒルダは狐につままれたような心地がしたが、理由を問う暇もなく、男爵夫人はサッと席に戻ると、もう次ぎの話題に移っている。

「ねえ、あなたたち、リューネブルグ少将を知っているでしょう。先日、おかしな噂を聞いたのよ。彼の実の父親が、先代だか、先々代だかの皇帝の落とし種で、逆亡命してきたのも、出生の秘密を知ったリューネブルグが、帝位継承の野望を抱いたからだって・・・・」

ラインハルトは、思わずキルヒアイスの顔を見てから、こう答えた。

「信じられませんね。ただ、もしその噂を流したのがリューネブルグ本人だったとしたら、なんて嫌な奴だろう。実力や才幹ではなく、血統を武器に地位を手に入れようとの魂胆か・・・・」

「男爵夫人、ご存じですか。リューネブルグに関しては、こんな話もあるのです」

キルヒアイスがそういって語り始めたのは、リューネブルグの妻エリザベートの、かつての婚約者に関するものだった。
その婚約者とは、フォルゲン伯爵家の四男、カール・マチアスであるという。

大学卒業後、父親の後押しで軍官僚となったカール・マチアスは、パーティーでハルテンブルグ家のエリザベートと知り合うと、たちまちこの令嬢を夢中にさせてしまった。
ところが、彼女との婚約が成立すると、急に彼は前線基地の主計官として帝都から転出させられ、しかもその基地が同盟軍の攻撃を受けたため、白兵戦に巻き込まれた彼は、ローゼンリッター連隊に殺害された――。

「それで、そのカール・マチアスを殺した張本人が、リューネブルグだというのです」

「話が、ちょっと出来過ぎていると思うな。キルヒアイスは、その戦闘の際にリューネブルグ何らかの形でエリザベートを知ったことが、彼が帝国に逆亡命するきっかけになったのではないかと言うのだが、まあ、因縁話が好きな奴は、いくらでもいるからな」

ラインハルトは肩をすくめながら、かねてよりの自分の見解を述べた。

「何だか、雲をつかむような話ね。ところで、ヒルダちゃんは、今の話を聞いてどう思う」

男爵夫人が、いきなり話題をヒルダに振ってきた。
自分はリューネブルグもカール・マチアスも存じませんがと前置きして、伯爵令嬢は言う。

「そのカール・マチアスという人物ですが、貴族なのに、婚約した途端に前線基地に転属になった経緯が、どうにも腑に落ちません。何か、余程の理由があったのではないでしょうか」

ラインハルトは、驚いたように大きく目を開けると、再び親友の方を見た。
キルヒアイスも、なるほどと言うように、頷いてみせる。
そうなのだ、自分たちは、誰がカール・マチアスを殺したのかという点に拘りすぎていた。
それは軍人であるが故、リューネブルグという男を良く知っているが故に生じた思考の偏りであったのだが、こうしてヒルダの意見を聞いて、目が拓かれた思いがした。

「フロイライン、そうだ、あなたの言うとおりだ。混戦の最中に、誰によって殺されたのかを詮索するより、もっと大切なことがあった。カール・マチアスを前線に送り込み、戦死するように仕向けたのは誰で、何のためにそうしたのかということだ。真相を解く鍵は、おそらくそこにある」

言い終えると、ラインハルトはヒルダに微笑みかけた。
湖面にキラキラと反射する初夏の陽光のような笑顔だと、ヒルダは思った。
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

国立図書館は、街路樹のセミが賑やかに鳴く大通りから、少し奥まったところにある。
研究者や、政策立案に携わる官僚の外は訪れる者も少ない分館の閲覧室は、夏の休暇の時期に入って、いっそう閑散としてしている。

ヒルダがこの分館を好むのは、様々なデータが閲覧できるという理由もさることながら、何よりも落ち着いて読書ができるからだった。
男のような飾り気のない格好をしてはいても、ヒルダの美貌は、多数の男子学生が出入りする本館においては、彼女を容易に一人にしておいてくれなかった。

その日もヒルダは、申し込んでおいた資料を受け取ると、窓辺の席についた。
その場所から、半径10メートル以内には誰もいない。
資料のディスクを机の再生装置にセットすると、モニターに膨大な数字の羅列が表れる。
彼女はそこから必要なデータを拾い出すと、今度は本を読み始めた。

数十ページも読み進んだ頃だろうか、テーブルの向かいの席に、人が座った気配がした。
だが、ヒルダはいつもの習慣で、あえてそちらを見ないようにする。

別館の利用者の、99パーセントは男性だ。
その男性が、他にも空いている席がたくさんあるにもかかわらず同じテーブルに付くのは、自分への関心――それは取りも直さず、性的な意味が多く含まれている――からだということになるが、そういった手合いを追い払う初期の手段として"無視"が有効なことを、彼女は経験から知っていた。

従って、向かいの席から発せられる視線を感じれば感じるほど、ヒルダは意地になって本に没頭することになる。
が、目の端にふと、そこにあるはずのないものを見た気がして、彼女は思わず顔を上げた。
黄金の波かと見紛ったのは、若者が掻き上げた頭髪だった。

「ミ、ミューゼル閣下!」

呆気にとられるヒルダをよそに、ラインハルトはしなやかな動作で席を立った。
黒地に銀をあしらった華麗な軍服は伝統的なものたが、この若者のためにデザインされたかのように、すらりと背の高い彼の容姿を引き立てている。
閣下と呼ばれた若者は、ヒルダの横までやって来ると、やや傲然と腕を組んで言った。

「やっと気付いてくれたか。ここに来れば、フロイラインに会えると聞いて来たのだが・・・・」

「あの、遠慮なさらず、声をかけて下さればよろしかったのに。それに、ご用がおありなら、屋敷の方にヴィジフォンを・・・・」

伯爵令嬢も、そう答えながら立ち上がる。

「いや、それでは駄目だ。直接会って言わなければ、意味がない」

「えっ?」と、ヒルダはブルーグリーンの瞳をパッチリと開け、さも不思議そうに首を傾げた。

瞬間、若者は、何かに心臓をつかまれたような心地がした。
胸がドキンと高鳴り、血液が体中を駆け巡る。
野望を現実のものとするために、脇目もふらずに駆けてきたラインハルトが、女性に対して"かわいい"という感情を抱いたのは、実にこの時が初めてだった。
しかし、世慣れぬ若者は密かに唾を飲み込むと、将官の威厳を装いつつ告げる。

「8月20日を期して、またイゼルローン方面に出兵することになった。だからその前に、先日のことを謝っておこうと思って・・・・。私はその、フロイラインを侮辱してしまったようだから・・・・」

「いいえ、閣下が謝ることなんて・・・・、私も言いすぎました・・・・」

「そうか、怒っているのでなければ、それで良いのだ・・・・。フロイラインに嫌われたままでは、どうにも悔いが残るからな」

自分に謝罪するために、わざわざこんな場所まで来てくれた。
そのことで、ヒルダのラインハルトへのわだかまりは跡形もなく消え、彼女は花がほころんだような笑顔を若者への返事に代えた。
それにしても、「悔いが残る」なんて言い方、大袈裟だわ――と思い、直後、あることに気付いた伯爵令嬢は、ハッとして若い将官の顔を見る。

「激しい戦いになるのですか・・・・」

「いつものことだ・・・・。だが、私は軍人で、軍人としての器量と才幹をもって、自分の未来を切り拓きたいと思っている。だから、どんな危険な戦場からも逃げはしない。しかし、いつ死ぬとも知れぬからこそ、悔いが残らないようにと心がけてもいる」

蒼氷色の瞳が、ヒルダを見据えて言った。

常勝の天才とうたわれ、軍神もかくやと思うこの若者も、人である限り、不死ではない。
それは、至極当たり前のことであったが、ヒルダは強い衝撃を受けたかのように、すぐに言葉が出てこなかった。
生気に満ちたこの若者と死を、にわかには結び付け難かった。
彼女は吸い寄せられるように美しい若者を見ていたが、やがてコクリと頷いて言った。

「あの、どうかご無事で・・・・」

「ああ、そう簡単に、くたばるつもりはない」

「ミューゼル閣下に、大神オーディンのご加護がありますように」

「うん・・・・。フロイライン・マリーンドルフ、帰ってきたら、また会ってくれるか・・・・」

「ええ、よろこんで・・・・」

再会を約するふたりの頬は、ほんのりと赤かった。
それが、折からの夕日のせいばかりでないと分かるのは、もう少し後のことである。

* * * * * * * * * *

9月26日からの80日間を、ラインハルトはイゼルローン要塞とその周辺宙域で過ごした。
はじめ、帝国軍と同盟軍は回廊内で小規模な戦闘を繰り返していたが、12月に入ると、戦火は激烈なものなった。
その束の間の休息に、ラインハルトはケスラーと会談する機会をもった。
高等参事官となったグリンメルスハウゼンの代理として、彼が要塞に赴任してきたのだ。

「ケスラー大佐、オーディンでは奇妙な形で世話になった」

再会するなり、ラインハルトがそう述べたのは、ケスラーには唐突に感じられたかも知れない。
だが、ラインハルトにとって、親友との約束を果たすことは必然であった。
キルヒアイスの言った通り、ケスラーとまた会うことが出来た。
ならば、キルヒアイスの言うとおり、あのパーティーの際の礼をしなければならないのだ。

そのケスラーから、ある人物の訃報が届いたと聞かされた時、ラインハルトは真っ先に、グリンメルスハウゼン老人を思い浮かべた。
夏風邪をこじらせて以来、急速に衰弱が進んでいると聞いていたからである。
だが、違った。亡くなったのは、内務省警察総局次長のハルテンベルグ伯爵で、しかもあろうことか、実の妹に殺されたのだという。

伯爵の妹とは、リューネブルグ夫人のエリザベートその人である。
例のパーティーの夜、リューネブルグと決闘騒ぎを引き起こすそもそもの原因となった、あの美しいけれども弱々しく、どこか厭世的にも見えた夫人が、実の兄を殺した。
しかも、階段から突き落とした上に、重い植木鉢で顔を潰すという残忍な方法で――。

ケスラーが語り始めた事件の衝撃は、ラインハルトをして、要塞の外で展開されている流血をしばし忘れさせるに十分だった。

「なるほど・・・・。そして、連中の思惑通り、カール・マチアスは戦死したというわけか。つまり、この陰謀には、貴族、軍部、警察の三者が係わっていることになるな」

ケスラーは苦々しい表情を浮かべながら、深く頷いた。
カール・マチアスは、陰謀の被害者だった。
が、そもそも平民であったなら、サイオキシン麻薬の密売に手を染めた彼は、麻薬取締法という厳格な法にもとづき、公然と死刑が執行されていたであろう。
貴族社会の一員であったが故に、彼には"名誉ある戦死"が許されたのである。

ラインハルトは、ふと顎に手をやって言った。

「すると、リューネブルグ夫人が兄を殺したのは、婚約者を殺されたことへの復讐ということになるが、それにしても、得心がいかぬ点がある。夫人は、どうやって兄の陰謀を知ったのだ?」

質問を受けて、ケスラーはテーブルの上のブリーフケースを開けた。
中には、頑丈に装幀された一冊の書物があった。装飾のない黒い表紙が、印象的だ。

「それこそ、グリンメルスハウゼン閣下に係わることなのです。あの方は、76年の生涯で貯め込んだ多くの秘密、貴族社会や官僚、軍部のさまざまな裏面の事情を、克明に記録しておいででした。それをまとめたものが、これです」

帝国の検閲制度の下では、権力者に不利な実相が公開されることは滅多にない。
それらについて、グリンメルスハウゼンは知りうる限りのことを記述し、保管していたのである。
そして、迫りくる死に臨んで、その極一部を、エリザベートに明かした――。

「ところで、卿はその記録を、どうするつもりだ?」

「それは、あなた次第です。閣下」

「俺?」と、ラインハルトは思わず、公式の場にふさわしくない一人称を使用してしまった。
ケスラーは礼儀正しく、それを無視する。

「このグリンメルスハウゼン文書、仮にそう呼びますが、閣下はこれを、あなたに託されました。自分の死後は、ミューゼル閣下の役に立てて欲しいと・・・・」

役立てる、とはどういう意味か。数瞬の迷いの後、ラインハルトは理解した。

「グリンメルスハウゼン閣下のご厚意には感謝する。だが、私は脅迫者にはならない。貴族や高官から憎まれれるにしても、堂々たる憎まれ方でありたいと思う」

ケスラーは頷いた。ラインハルトの返答を、予期していたようであった。

「では、破棄いたしますか?」

ラインハルトは「否」と頭をふった。

「この文書は封印して保管しよう。歴史が門閥貴族の独占物でなくなる、その時のために」
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

ラインハルトが、リューネブルグ戦死の報を受けたのは、ケスラーと別れた直後だった。
同盟軍のローゼンリッター連隊は、強襲揚陸艦で帝国艦を次々と襲撃しては、その通信装置を乗っ取ってリューネブルグに呼びかけていた。
帝国に亡命したかつての連隊長と、この戦場で決着を付けようとしたのだ。

そのやり口に、敵ながら大胆なことをするものだとラインハルトは感心もしたが、それにしても、ミュッケンベルガー元帥ら帝国軍の上層部は、リューネブルグを見殺しにしたことになる。
敵が仕掛けた私戦の場に、たった一人で彼を送り出したのだから。
国を棄てた男が、今度は国に棄てられたのだ。

同情する気にはなれなかったが、リューネブルグの現実が、ラインハルトの無数の未来のひとつであったかも知れないと思えば、不快感は拭いがたくあった。
最愛の姉、アンネローゼが初老の権力者に身を献じるように強制された時、彼が10歳ではなく15歳であったなら、おそらく姉を連れて同盟へ亡命していただろうから――。

ともあれ、第6次イゼルローン要塞攻防戦は、同盟軍の全面退却をもって終息した。
ラインハルトは勇戦し、中将への昇進を確実なものとしたが、いつ終わるとも知れぬ混戦に終止符を打ったのが、"トールハンマー"という巨大なハードウェアであったことには、大いに不満を感じているらしかった。

しかし、それとて、新たな出兵計画について聞かされた際の、暴風を思わせる激烈な反応に比べれば、そよと風が吹いた程度のものである。
ラインハルトが、ようやく再会したヒルダに対して、門閥貴族への憤懣をぶつけないでいられたのは、偏に、防風林たるキルヒアイスからよくよく言い含められていたおかげであろう。

「来年早々?お戻りになったばかりなのに」

出兵と聞いて、ヒルダは心底驚いたように碧の瞳を丸くし、それから声を潜めてそう言った。
ここ国立図書館の分館には、二人の他は、かなり離れた場所に学者風の男性が一人座っているだけだが、さすがに大きな声を出すことは憚られる。

「ああ、しかも今度は、こちらから先制攻撃を仕掛けるというのだ」

「そんな・・・・。いったい軍の上層部は、どのような戦略目標を立てていらっしゃるのですか」

「知るものか!」

ついいつもの調子で声を荒げてから、しまったと思ったのか、ラインハルトは慌てて声を絞り、その代わり、隣席の方へいっそう身を乗り出すようにする。

「実際、戦略目標なぞ、ありはしないのだ・・・・」

思いがけず近い場所から声がして、伯爵令嬢はギクリとした。
ラインハルトはといえば、彼女の動揺などまるで意に介す風もなく、喋ることに集中しているようだったが、生温かい息が耳に掛かれば、ヒルダの脈拍はいやが上にも早くなる。

「フロイライン、聞いてくれ・・・・。今度の出兵はな、フリードリヒ4世の在位30周年を飾る、ただそのためだけに行われるのだ。即位以来、内政でなんら治績を上げてない皇帝に、軍事行動での成功という花を持たせてやるために・・・・」

「酷い・・・・。そんなことのために、多くの人命が失われるなんて・・・・」

「先の戦闘では戦死者が少なかったと、ミュッケンベルガーはそう言っているらしい。奴にとっては、40万に満たない人命なぞ、取るに足らないものなのだろうよ!」

また、知らず知らず、ラインハルトの声が大きくなっていた。
耐えかねたのか、学者風の男性が、「ゴホン」と非難がましく咳払いをする。

さすがに、これ以上話し続けるわけにもいかなくなり、二人はそそくさとその場から離れた。
図書館の建物から一歩外に出てみると、空には鉛色の雲が垂れ込め、刺すような風が道行く人々に容赦なく吹き付けている。
年をまたぐ頃、帝都は雪景色になっているだろう。

二人は、すっかり葉を落とした銀杏の街路樹の下を、連れ立って歩いた。
スラリと背の高い金髪の若者は、帝国軍の黒い防寒コートに身を包み、髪の短い娘は、毛足の長いフード付きのオーバーコートを着込んでいる。
はじめ、すたすたと大股で歩く若者の後を、書物を抱えた娘が、ときおり小走りになりながら追いかけているようにも見えたが、若者はつと立ち止まると、振り返って言った。

「すまない、フロイライン。私のせいで・・・・。何か、調べものの途中だったのではないか」

「いえ、どうかお気になさらず・・・・。もう済みましたから」

鷹揚に言葉を返しながらも、ヒルダは内心でやれやれとばかりに肩をすくめてみせる。
仕方がない。ラインハルト・フォン・ミューゼルという人は、こういう人なのだ。

だが、ラインハルトをそうさせる原因の一端が自分にあることに、ヒルダは気付いていない。
打てば響くように、言葉が返ってくる。
その心地の良いリズム感が、ラインハルトをして、あたかも姉や親友と話しているような錯覚に陥らせ、つい剥き出しの感情を表に出してしまうことになるのだ。

「それより、ミューゼル閣下、もう少しゆっくり歩いていただけますか・・・・」

「そうか、そうだな・・・・」

ラインハルトは、ヒルダの荷物を片手でひょいと持ち上げると、今度はゆっくりと歩き始めた。
そうするうち、相手に合わせるコツを習得したようで、若者は伯爵令嬢とポツリポツリと言葉を交わしながら並んで歩き、数分の後、コルネリアス帝記念公園に到着した。

入口脇のスタンドで、二人分の温かいコーヒーを買い求めたラインハルトは、ふと雑誌や新聞の並んでいる棚に目をやる。
見覚えのある女性の顔が、こちらの週刊誌、あちらのタブロイド紙と、表紙を飾っていた。
その周囲を、大きな文字で、おどろおどろしい語句が踊っている。

"警察幹部の兄を植木鉢で撲殺。稀代の悪女エリザベート"

"聖女の仮面に隠された恐るべき残虐性。伯爵家の家政婦が赤裸々に告白"

"因果応報。殺人鬼エリザベートの夫、戦場でめった切りにされ死亡"

メディアが、事件の猟奇的な面をことさら強調するのは、何より人々がそれを好んだからだが、リューネブルグ伯爵家の事件は、彼らに格好の素材を提供してしまったようだ。

ちなみに、同じ時期、"恋人を亡くして悲嘆に暮れるエリザベートを、嫉妬心から恋人を謀殺した警察官僚の兄と、ストーカー紛いの求婚者リューネブルグ少将が、代わる代わる陵辱する"という、事件を下敷きにしたアンダーグランドのポルノビデオも製作されているが、この作品は十数年を経た後、当時の発行物の中でもっとも真相に肉薄していたとして、再評価されることになる。

ラインハルトは、いかにも弱々しく儚げに見えたエリザベートという女性が、あれほどの凶行を成し得たことに大きな衝撃を受けたが、オーディンの巷間で、彼女だけが極悪人扱いされていることについては、割り切れないものを感じていた。
もとより、一連の事件の関係者の中で、法に則って裁かれるのは彼女だけなのだ。
そして裁判となれば、狂人と証明されない限り、彼女は死罪になろう。

コルネリアス帝公園には、高緯度地方から飛来した渡り鳥が羽を休めるのにうってつけの、大きな池がある。
その畔に置かれたベンチの一つに並んで腰掛けると、ラインハルトはヒルダに、ハルテンべルグ殺しの動機について、こちらでは報じられているのかと問うた。
ヒルダが首を横に振って怪訝そうな顔をすると、ラインハルトは説明する。

「以前、フロイラインが言っていた通りだった。カール・マチアスは、意図的に前線基地へ送り込まれていたのだ。そして、その陰謀を主導したのが、他ならぬハルテンべルグだった」

「では、そのことが、今度の殺人事件とも繋がってくるのですね」

「そういうことになるな。カール・マチアスは、サイオキシン麻薬の密売に係わっていた。それを知ったハルテンべルグは、警察官僚たる己の立場を守るために、妹の婚約者を抹殺した」

「じゃあ、エリザベートは、そのことで兄を恨んで・・・・」

ラインハルトは深く肯き、それからどこか沈痛な面持ちでコーヒーを飲み込んだ。

殺人の動機は、復讐だった。
そのことを世間が知れば、エリザベートもあのような、まるで得体の知れない怪物であるかような報じられ方をされることもなかったろう、とヒルダは思う。
が、同情を寄せるその一方で、ヒルダは彼女のことを、たまらなく愚かだとも感じるのだ。

犯罪に手を染めていると知ってなお、エリザベートは婚約者を愛し続けた。
思いあまって兄をその手にかけるほど、深く。
しかし、自分ならば、たとえ男性を好きになることがあっても、決してそうはならない。
悪い人だと分かったら、その瞬間に、恋も冷めるはずだ。

17歳のヒルダの倫理観に照らせば、それは自明のことだった。
よもやその信念が揺らぐことになるとは、この日の彼女は想像すらしなかったのである。

それにしても、ヒルダが不思議に思うのは、いかなる方法で、ラインハルトはハルテンべルグ家の秘密に迫ったのか――ということである。
イゼルローン要塞から帰ってきたばかりの彼が、オーディンの社交界で事情通と呼ばれるような人たちですら察知できなかったことまで、短期間のうちに知り得たのはなぜか。

伯爵令嬢のブルーグリーンの目が、何か問いたげにじっと自分を見ていることに気が付くと、ラインハルトの顔に表情が戻った。
そして、「あなたの聞きたいことは分かってる」と言うように、いたずらっぽく微笑む。

「ある老人が、人を介して私に教えてくれたのだ。その老人は、かつて皇帝の側近だったが、門閥貴族や官僚、それに軍の暗部を事細かに記録していて・・・・」

「あの・・・・、記録ということは、文書で残されているのですか」

「そうだ」と答えた刹那、ラインハルトは、ヒルダの瞳が異様に輝くのを見た。

「その文書、私にも見せていただけないでしょうか」

「なんだ、フロイラインは、歴史学者か歴史小説家にでもなるつもりか。確かに、小説のネタならば、あの文書の中に無尽蔵に転がっていると思うが・・・・」

「お願いします、ミューゼル閣下。小説のネタとか、そんな興味本位で言っているのではありません。私、ある貴族のことを、ずっと調べていたんです。でも、図書館の資料ではどうしても限界があって、なかなか尻尾がつかめなくて・・・・」

伯爵令嬢の言葉が、にわかに切迫を増す。

「このままでは、マリーンドルフ領は、遠からずあの男に乗っ取られてしまう・・・・」
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

その夜、佐官級の会議を終えて帰宅したキルヒアイスは、居間のドアを開けるなり、待ち構えていたと思しきラインハルトから、唐突にこう切り出された。

「何なのだ!フロイライン・マリーンドルフのあの態度は」

見れば、テーブル上に、中身がすでに半分になったワインの瓶とグラスが置かれている。
ラインハルトは、赤毛の親友に座るよう促すと、あらためて二つのグラスを液体で満たした。
そして、その一方をあおるように飲み干してから、憤懣やるかたないという風に言う。

「少しは見所があると思っていたのに、貴族の女はこれだから・・・・。なあ、キルヒアイス、お前もそう思うだろう?」

ラインハルトさまはいったい、マリーンドルフ伯爵令嬢の何に腹を立てていらっしゃるのか。
珍しく、ご自分から率先して逢いに行かれたくらいだから、彼女のことは憎からず思っているものとばかり思っていたが――。
まるで見当の付かないキルヒアイスだったが、努めて穏やかに問い掛ける。

「あの、ラインハルトさま。順を追って説明して下さらないと、私には判断しかねますが・・・・」

「それもそうだな。思い出すのも腹立たしいが・・・・、まあいい」

ラインハルトは、ふて腐れたようにそう言ってから、今日の出来事を親友に語り始めた。

ヒルダから、グリンメルスハウゼン老人から託された文書を見せて欲しいと頼まれたこと。
いったんは断ったものの、彼女が切羽詰まった様子だったので、部屋から持ち出さないこと、内容について他言しないことを条件に了承したこと。
ところが、いざ下宿までやってくると、彼女はどうしたことか、やっぱり今日は止めておくと言い残して去って行った――。

「人がせっかく見せてやると言っているのに!俺は結局、貴族の気紛れに振り回されただけだったのか」

キルヒアイスは、呆気にとられて三度瞬きをし、それから、心底から憤っている様子のラインハルトに、宥めるような口調でそうではないと説明する。
ヒルダの行為は、気紛れでも突拍子もないことではなく、女性にありがちなことであること。
そればかりか、世間一般では、今時の若い女性がそのように用心深く身を処すことを、むしろ褒められてしかるべきだとしている、とも言う。

ラインハルトははじめ、形の良い眉を寄せ、どうにも釈然としないという表情を浮かべつつキルヒアイスの話を聞いていた。
用心深くといったところで、いったい何に対して用心する必要があるというのだ――。
が、ややあって、キルヒアイスの言わんとすることを理解したラインハルトは、瞬間、椅子から立ち上がりかけて辛うじて座り直し、それから憮然として言った。

「馬鹿な!俺には、そんなつもりは全くないぞ!」

赤毛の親友は、再び感情の表出を上手にやり過ごすと、微笑みながら肯く。

「ラインハルトさま、ご安心下さい。フロイライン・マリーンドルフが行ってしまわれたのは、いきなり男性の部屋に招かれたことに、少々驚かれただけでしょうから」

「そうなのか・・・・。しかし、彼女に疑われるとは、はなはだ不本意だな」

「ラインハルトさま・・・・。ひょっとして、ラインハルトさまは、フロイラインに嫌われてしまったのではないかと、そのことを心配なさっていたのですか」

忽ち、ラインハルトの白皙の頬に朱が差した。
キルヒアイスの指摘は、あながち的外れではなかったようである。

「そ、そんなことないぞ。フロイラインのことは決して嫌いではないが、彼女といえども所詮は門閥貴族の一員で、俺たちはその腐敗しきった貴族を一掃することによって、ゴールデンバウム王朝が5百年の長きに渡って蓄積してきた社会的不公正を・・・・」

「・・・・・それはともかくとして。ラインハルトさま、覚えてしらっしゃいますか」

滅多にないことだが、キルヒアイスがラインハルトの話の腰を折った。
さすがの彼も、虚しい言い訳を聞かされることを耐え難いと感じたのかも知れない。

「以前、どういう女性が好みかお伺いした時、ラインハルトさまはこう仰いました・・・・。別に条件なんかない、頭が良くて気だてが良ければそれで充分だ、と」

それは、半年あまり前のこと、少将に昇進したラインハルトの転属先がいっこうに決まらず、二人が無為に耐えていた頃の話である。
キルヒアイスが冗談交じりに、ラインハルトならば他の者には難しい暇つぶしの方法、たとえば"恋をする"ことも可能だろうと、女性との交際を勧めてみた。
そうしたところ、意外にもラインハルトは怒りもせず、アイスブルーの瞳に真剣な光りをたたえて、議題について検討しはじめたのだ。

その際、ラインハルトが、"自分に相応しい女性"の条件として挙げたのが、「頭が良くて、気だてが良くて」であった。
ごく抽象的で、しかも贅沢なことをさらりと言ってのけたことから、まだ本気で恋愛する気がないのだろう――。
キルヒアイスはそう看取したが、世の中には不思議なことがあるもので、1ヶ月も経たぬうちに、条件にぴったりと合致する令嬢が、いきなり目の前に現れたのである。

「ラインハルトさま。私の知る限り、ラインハルトさまの仰った条件を十分に満たされている方は、フロイライン・マリーンドルフの他にはいらっしゃらないようにお見受けしますが・・・・」

「まあ、それはそうだが・・・・」

「ならば、ラインハルトさまがなすべきことはもうお分かりでしょう・・・・。でも、そうですね、今度フロイラインとお会いになる時は、場所をお選びになった方がよろしいかも知れませんね」

「ああもう、分かった。言う通りにする・・・・。お前の方がよほど、女性の心が理解できているようだからな・・・・」

「恐れ入ります」

「さすがに、俺より少しばかり早く生まれただけのことはある」

閣下と呼ばれる若者はそう言って、拗ねた子供のように口を尖らせた。

* * * * * * * * * *

その晩は、自室に戻ってベッドに潜り込んでも、ラインハルトはなかなか寝付けなかった。
目を閉じると、瞼の裏に、別れ際のヒルダの姿が浮かんでは消えた。

部屋から持ち出さない、内容については他言しない。
二つの条件と引き替えに文書を見せることに合意し、下宿まで連れてきたところ、彼女は急にそわそわと落ち着かなくなり、何か問いたそうに俺の顔を見た。
ブルーグリーンの大きな瞳が、戸惑ったように揺れていた。
きっと、文書見たさと、俺への警戒心の間で、気持ちがせめぎ合っていたのだろう。

それなのに、俺は苛々として、「どうした、見たくないのか」と急き立ててしまった。
いや、それだけではない。
手を伸ばして、腕を掴もうとすらした。
驚いた彼女が、逃げるように走り去って行ったのも無理はない。
どうも俺は、フロイライン・マリーンドルフと話していると、気の合う友人といるような気がして、彼女がうら若い女性であることを忘れてしまう。

それに、フロイラインはとても綺麗だ。
身構えていなければ、好きでもない男に見初められて、一方的に言い寄られたりもしよう。
そう、姉上のように――。

あの頃は、まだ子供だったから無理もないのだが、俺にとっては母親代わりでもあった優しい姉が、まさか他の男から、性の対象として見られているなどとは考えもしなかった。

「喜べ、君の姉上は、皇帝陛下に仕えるため宮殿へあがることになったぞ」

だから、あのコルヴィッツの野郎からそう告げられた時も、俺は、わずかな金と引き替えに姉が宮殿に奉公に行かされる、もう姉と一緒に居られなくなる、ただ、そのことが悲しくて、悔しくて、皇帝を恨んだのだ。
"陛下に仕える"という言葉の、真の意味も知らずに。

俺が、姉の身に何があったのか知ったのは、幼年学校に入って1年が過ぎた頃だった。
姉がグリューネワルト伯爵夫人号を賜ったのをきっかけに、俺が寵姫の弟であることも学校中に知れ渡った。
常日頃、俺の態度が気に入らないと目の敵にしながらも、いざ喧嘩となれば敵わないことを身に染みて知っていた上級生の一部は、このことを利用して姑息な嫌がらせを敢行した。

そして――、俺とキルヒアイスは全てを知ったのだ。
あの日、姉が答えてくれなかった理由も、その時になってようやく分かった。
姉は別れ際、俺を抱きしめて、こう言った。

「ラインハルト、あなたには未来があるわ、自分の未来が」

けれど、俺が「姉さんには?」と聞いても、姉は無言で、悲しそうに首を横に振るだけだった。
自分の未来が皇帝によって閉ざされることを、15歳の姉は知っていた。
知っていて、家族を守るために、犠牲となることを受け入れたのだ。

フロイライン・マリーンドルフは、伯爵領が、何者かに乗っ取られそうだと言っていた。
彼女も、自分の家を守るために、一生懸命になって――。

突然、ラインハルトががばと上体を起こした。
やはり、フロイラインは俺のことを、弱みに付け込んで無体なことを要求をするような、最低な男だと思い込んでいるのではないか。
断じて違うぞ、俺はあの皇帝のような男ではない。
ああ、何としてでも、フロイラインの誤解を解かなければ。一刻も早く。

ラインハルトは、そうしてまんじりともせずに一晩を過ごし、明け方ようやく眠りに付いた。
夜半の雪がオーディンを一面の銀世界に変えていたが、若者はむろん知る由もない。

翌日彼は、昼近くになって、「どうやら来客らしい」と、親友に起こされた。
キルヒアイスによれば、下宿の前に、付近では見かけぬ高級車が停車したので窓から様子を窺っていたところ、若い女性が降りてきたが、彼女は玄関の前を行きつ戻りつするばかりで、なかなか呼び鈴を鳴らさないのだという。

弾かれたようにベッドから飛び出したラインハルトは、あたふたと身支度を整えると、階段を転げるように駆け下り、勢いよく玄関のドアを開けた。
思いがけず、外は雪景色だった。
その真っ白な世界の中心に、頭からすっぽりとフードを被った女性がたたずんでいた。
物音に驚いて振り返ったその人は、マリーンドルフ伯爵令嬢だった。
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

湯気の立つマグカップが、ヒルダの目の前でコトリと音を立てた。

「ありがとう。キルヒアイス少佐」

「どうぞ、ゆっくりしていって下さいね。フロイライン・マリーンドルフ」

伯爵令嬢が礼を述べると、背の高い若者はそう言って愛想良く微笑んだが、すぐに入ってきた扉から出て行ってしまった。

ラインハルトとキルヒアイスが暮らす下宿は、新無憂宮から北へ3キロほど行ったリンベルグシュトラーゼにあり、一階では大家でもあるクーリヒ未亡人が妹のフーバー未亡人と生活し、二階には、若者たちのそれぞれの寝室の他に、共同の居間とバスルームがあった。
居間は8メートル四方ほどの広さで、古びた壁紙には、すぐに複製品と分かる風景画が数枚、無造作に掛けられているだけである。

その質素な居間の、質素なテーブルに向き合って、豪奢な金髪の若者と美貌の令嬢が、まるで親とはぐれた子供のように、所在なげに座っている。
二人はしばらくの間、黙々とチョコレートをすすっていたが、ヒルダが先に口を開いた。

「ミューゼル閣下。あ、あの、昨日は・・・・」

「そ、そのことはもういい!私の配慮が足りなかった」

昨日の件は、俺のせいなのだから、フロイラインには絶対に謝罪させてはならない。
意を決したラインハルトが凄い勢いで口をはさんで込んでくると、ヒルダははじめポカンとした表情になり、それから数秒の間を置いて、ボッと頬を赤らめた。
自分が逃げ帰った理由を、ミューゼル閣下はご存じでいらっしゃる――そう、気付いてしまったからである。

ヒルダは、つい昨日まで、門閥貴族の出身なずとも帝国軍の将官であれば、東苑の一画に豪勢な官舎をあてがわれるか、そうでなくとも広大な屋敷を高級住宅地に構え、大勢の使用人にかしずかれて暮らしているものと思い込んでいた。
だからこそ、家でなら文書を見せるとラインハルトから条件を示された時も、二つ返事で応じたのだ。

ところが、ここが私の家だとラインハルトに案内された建物は、店舗と住宅が入り混じった下町の一画の、二階建ての棟割り長屋に過ぎなかった。
お帰りなさいませと声を揃えて、使用人が出迎えてくれる気配もない。
とすると、彼はこの小さな家で独り暮らしをしていることになるが、高禄を食む将軍が、そんな不便な生活を、わざわざ好んでするものだろうか。

と、その時、ヒルダの脳裏に閃くものがあった。
これはもしかして、話に聞く"隠れ家"というものではないかしら。
立派な邸宅を構えているにもかかわらず、人目を避けるために、別の場所に密かに部屋を所有する男性は少なくないというが、それがこの家だというのならば、辻褄は合う、と。

それにしても、男の人が、人目を憚らなければならないことって何だろう。
陰謀をめぐらしたり、麻薬に耽ったり、いかがわしい女性を連れ込んだり――ではないのか。

そうした耳学問の成果もあって、ヒルダは、ミューゼル閣下に限ってそんな不潔なことをするはずがないという希望的観測と、文書を見るためには密室で男性と2人きりにならなければならないという厳然たる事実との間で、にっちもさっちも行かなくなってしまったのである。

だが、いったん屋敷に帰り着いてみると、ヒルダは、己がとてつもなく大きな間違いを犯してしまったような気がして、落ち着かないことこの上なかった。
我が身かわいさの余り、伯爵家を救う機会をフイにしてしまったのなら居たたまれない。
お父さまや家人、それに領民たちに何と言って詫びよう。
あの強欲な男が領主になったら、彼らはどれほど酷使されることか。

もとより、マリーンドルフ家が消滅してしまえば、自分の身もろくに守れなくなるのだ。
あの息子に結婚を強要されても、従わざるを得なくなるかも知れない。
あんな変態野郎に好きにされるくらいなら死んだ方がマシだと、何度思ったか知れないのに。

そうよ、そうだわ。死んだ気になれば、何だって出来る。
たとえミューゼル閣下に下心があろうと、それでマリーンドルフ家が助かるのなら――。

というような思考過程を経て、ヒルダは一大決心をするに至ったのだが、翌朝、覚悟を決めて自宅を出発し、再びラインハルトの部屋の前に立ってみれば、案の定、寒さと不安で体が震えて仕方がなかった。
家のため、領民のためと、己に言い聞かせてはみるのだが、そうしたところで、未知の領域へ足を踏み入れることへの本能的な恐怖が、そう易々と消えるはずもない。

そんなこんなで、ヒルダはなかなか気持ちの踏ん切りがつかず、しばらく歩道の上をウロウロと歩き回ることになったのだが、その時、いきなり玄関のドアが開いて、中からいきなりラインハルトが現れた。
そして、この家が下宿であり、入隊以来キルヒアイスと一緒に住んでいるのだと聞かされたヒルダは、雪の上にへたり込みそうになるほどの脱力感を覚えたのだった。

帝国軍の将官ともあろう人間が、貧乏学生のごとく、まかない付きの下宿の部屋を友人とシェアして住んでいるなど、常識では考えられないことだった。
むしろ、底辺から成り上がった者ほど豪勢な暮らしをしたがる――というのが、世間的には共通の認識となっていた。
ヒルダもまた、既成概念に捕らわれたせいで、取り越し苦労をする羽目になったのだ。

下宿を切り盛りする老婦人は、珍しい女性の客人、それも飛切りの美少女が寒さに震えているのを心配して、すぐにホットチョコレートを用意してくれた。
その温もりが、一時の興奮状態を収めてしまうと、ヒルダは、自分の想像力が、ある方面に逞しく、別な方面では貧弱だったことが、たまらなく恥ずかしく感じられた。

私の心の内を知ったら、ミューゼル閣下は軽蔑なさるだろう――。
ヒルダは、そう思って頬を染めたのだが、一方の当事者である若者は、伯爵令嬢がそうなる理由を詮索するどころではなかった。
ラインハルトには、ヒルダの沈黙の方が、よほど恐ろしかった。
かくして、話のとっかかりが欲しい若者は、半ば強引に本題に入ろうとする。

「ところで、フロイラインは、グリンメルスハウゼンの文書に用があったのではないか」

「そうです。あの男の尻尾がつかめるかも知れないと思って・・・・」

「確か、領地を乗っ取ろうとしていると言っていたな」

「はい。あの男は、兵器の生産を拡大するため、隣接するマリーンドルフ領の地下資源に目を付けたのです。自領は、掘り尽くしてしまいましたから。それで、鉱山の採掘権を売り渡すよう、我が家に圧力を掛けてきて・・・・。今のところ、父があれこれと理由を付けて断っていますが、そんな引き延ばしが、いつまで通用するか・・・・」

「ほう、伯爵家を脅すとは、いったいどこの何様なのだ、その男は」

「――カストロプ公爵です、財務尚書の」

瞬間、帝国軍の少将、もうじき中将となる予定の若者が、あっと息を飲んだ。
いったい、この令嬢は、自分が戦う相手の力を、分かっているのか。

過去に何度か皇后を輩出し、また皇帝がその娘を度々降嫁させてきた、皇室と血で強く結ばれた公爵家。
当代のオイゲンに関して言えば、公金横領の噂が絶えず付きまとっていたが、財務尚書の地位にある限り、国務尚書のリヒテンラーデですら迂闊に手を出せないとされていた。

「ミューゼル閣下。カストロプは数年前に、地下に大規模な工場を建設しました。そこで密かに、フェザーンの兵器メーカーから導入した最新の技術をもって武器弾薬を製造し、領地の武装を着々と進めています」

「それではまるで、反乱の準備をしているかのようではないか。しかし、フロイライン・マリーンドルフ、そんな重大な案件の割には、軍の調査資料では、一度としてカストロプの名を目にした覚えがないのだが・・・・」

「地下の工場のことは、父がカストロプ領を訪問した際に、建設に係わった領民がこっそりと耳打ちしてくれるまで、私たちも知りませんでした。ですが、軍の資料に何も書かれていないとなると、調査官の目が節穴でないのなら、おそらく買収されたかと・・・・」

「うむ、大いにあり得ることだ・・・・。しかも、公爵にまつわる噂を信じるなら、その買収に使った金も、秘密工場の建設資金も、フェザーンの技術を導入する費用も、カストロプが財務尚書の地位を利用して、不正に蓄えた金が出所になっているのでないか」

伯爵令嬢の碧の瞳が、我が意を得たりという風に、明るく輝いた。

「閣下も、そうお考えになりますか。カストロプの資金源は、まず間違いなく公金です。どういう方法でロンダリングしているのか分かりませんが、そのカラクリを暴くためのとっかかりが、グリンメルスハウゼン子爵の文書にあるような気がしてならないのです」

「庶民の納めた税金を横領して私腹を肥やすことすら許し難いのに、軍資金に転用して反逆を企てるとは・・・・。それが、皇帝の藩屏たる公爵家のすることか!」

ラインハルトは、カストロプの不正と権力濫用を心底から憎く思ったが、最後の一言に関しては、まあ、アリバイ作りのようなものである。

それにしても、領地の乗っ取り云々といっても、良くある"貴族同士の領有権争い"を想定していたラインハルトにとって、ヒルダの話は驚くべきものだった。
しかも彼女は、家を守るために、公爵で尚書という巨大な敵に立ち向かおうというのである。
10歳にしてゴールデンバウム朝の簒奪を決意したラインハルトとは比ぶべくもないが、17歳の少女にとってみても、それはとてつもなく大胆な挑戦であろう。

ラインハルトは組んでいた足を解くと、席を立って部屋の隅の方へ歩いていった。
そして、本棚の端から厚みのある黒い表紙の本を取り出すと、ヒルダの前のテーブルに置く。
それこそが、彼女の求めていた『文書』だった。

「見ても良いのですか」

「ああ。こんなものがフロイラインの役に立つなら、安いものだ。ただし、目的のものが見つかるかどうかは、保証の限りではないぞ。それに、たとえ記されていたとしても、それがその分厚い文書のどこにあるか捜し出すのは、至難の業だ」

要は、この文書は、皇帝の侍従武官を勤めてきたグリンメルスハウゼンが、日々見聞きしたことを記した、いわば裏の日記のようなもので、項目別に内容が整理されていたり、インデックスが付いていたりするわけではないらしい。

ラインハルトの言葉にコクリと肯いてから、ヒルダは表紙をめくってみた。
扉の「アウグスティンのために」という手書きの文字が、真っ先に目に飛び込んできた。
後で知ったことだが、アウグスティンとは、グリンメルスハウゼン子爵の、若くして戦死した息子の名前だった。
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

文書の冒頭に記された日付は、帝国歴445年10月だった。

今から40年も遡ったその時に、グリンメルスハウゼンは、大公時代のフリードリヒ4世付きの侍従武官に任命されたものと思われた。
酒場に付けた飲み代、一夜を共にした高級娼婦の源氏名などが、覚え書き風に淡々と書き連ねられている。
そうした記述は、確かに国家機密に属する事柄ではあろうが、ヒルダにとって意味のあるものではなかった。

皇帝陛下は、国事全般に無関心との評判だし、もしかしたらこの文書にも、身辺の細々としたこと以外は何も書かれていないのではないかしら――。

ヒルダは、やや落胆しつつも、どんどんページを飛ばしてめくってみる。
すると、単調な記述が、ある時点を境に、明らかに変化しているのが分かった。
一日の文章量が、目に見えて多くなっているのである。
日付を見れば451年、その日の文章は、先帝の後継者問題について触れられていた。

「閣下、ほらここに、こんなことが・・・・」

興味を覚えたヒルダは、当該ページを読み上げる。

「先般出回っている、皇太子殿下を中傷する怪文書の出所を探らせたところ、クロプシュタット候の秘書のベルトールトという男に行き当たった。クロプシュタット候ウィルヘルムは、公私ともにクレメンツ殿下と親しく、殿下のポロチームのメンバーでもある。また、妹を殿下に嫁がせると周囲に吹聴しているとも聞く。彼らの陰謀に係わるまいとして、大公殿下の足は宮廷から遠のく一方だが、そのことで陛下の不興を買ってしまっている」

ここで皇太子殿下というのは、フリードリヒ4世の兄、リヒャルトのことである。
翌452年、皇太子リヒャルトは父帝オトフリート5世の弑逆を計ったとして死を賜り、彼を取り巻いていた多数の廷臣も処刑された。
その3年後、リヒャルトの無罪が証明されると、今度は、兄を陥れたとして、三男クレメンツの一派が粛清され、クレメンツ自身も、自由惑星同盟へ亡命しようとして事故死している。

かくして、誰からも期待されず、誰からも警戒されなかった遊蕩児、次男のフリードリヒが帝位を継ぐことになったのだが、そのことは、学芸省も公認する、ごく近い歴史の一コマだった。
が、グリンメルスハウゼンの記録が正しければ、帝位をめぐる血なまぐさい骨肉の争いは、そもそもクロプシュタット候によって仕掛けられたとも考えられる。

フリードリヒの即位と同時に、クロプシュタット候が宮廷から追われていることから類推しても、文書の記述は信じるに値するものと思われた。
とはいえ、今や見る影もなく落ちぶれたかつての権門は、歴史学者ならざる若者の好奇心の対象とはなり得なかったのか、ラインハルトは手に顎を乗せて、伯爵令嬢の声を聞くともなく聞いているという風である。

ヒルダは、ラインハルトの関心の薄さを残念に思ったが、気を取り直して、カストロプ公爵が財務尚書となった472年を目指して、再びページをめくる。

14年前のその記述は、文書の後ろから数えた方が早い場所にあった。
そこにもカストロプの名を見出すことは出来なかったが、次ぎの一節がヒルダの目を引いた。

「3月18日。ベーネミュンテ夫人が懐妊とのこと」

因縁深い女性の名前を耳にした途端、ラインハルトの姿勢があらたまった。

「そういえば、チシャ、いや、ベーネミュンテ夫人は、陛下の御子を死産していたのだったな。彼女については、他に何か書いてあるか?」

より正確を期すならば、夫人は男児を死産した後、3度に渡って流産をしている。
ラインハルトは、先を読むようヒルダを急かしたが、この時の彼には、純粋に、敵について知りたいという以上の考えは無かっただろう。

「はい。・・・・懐妊とのこと。宮内尚書は、数日中にも発表するという。ご実家の子爵家は、夫人の年齢を心配したのか、はやばやと宿下がりを願い出たが、陛下は頑として認めず。ひとり寝が寂しい由・・・・」

読み終えてしまってから、ヒルダは自分が今、際どい内容を口にしていたことに気が付いた。
彼女はバツの悪さを隠すべく、文書の上で素早く視線を動かすと、再び読み上げる。

「えっと・・・・6月21日。ベーネミュンテ夫人の17歳の誕生日。夫人に侯爵号を贈ること、正式に決定される。それから・・・・7月24日にも記述があります。本日付けで、夫人の主治医キンブルグが辞任した。急なことで陛下も驚かれるが、宮内省の係官がやってきて、風疹に罹ったためやむを得ないと説明する。後任はデニケン医師」

今度はラインハルトが、訝しげに眉を寄せた。

「風疹?風疹というのは、三日ばしかのことだろう?幼年学校の時、同級生が罹ったことがあったが、本当に3日で治ったぞ。その程度の病気で、辞めるものだろうか」

「あの、閣下。おそらく、感染を警戒しての措置だと思います。妊婦が風疹に罹るのは良くないと聞いたことがありますし・・・・。詳しいことは分かりませんが、流産したり、死産したり、異常のある子供が生まれたりすることもあるそうです」

「ふん、そういうことか。さすがに、女性はそういう方面には詳しいな。では、ベーネミュンテ夫人が死産したのは、風疹のせいか・・・・」

「さあ、そこまでは・・・・」と答えつつ、ヒルダは数ヶ月分ページを飛ばしてみる。
すると、9月18日から翌々日にかけて、長い記述が連続している箇所が見つかった。

「9月18日。昨夜はデートリヒ男爵の養女が寝所に侍ったが、よほど気に召さなかったのか、わざわざ宮内尚書を呼び出して不平を言う。粗野だとのこと。近頃、陛下の要望に応えるのは容易ではないと、宮内省の役人がぼやくのを良く耳にする。ベーネミュンテ夫人には一刻も早く身二つになっていただかないと、こちらの身が持たない、などとも言う」

そこまで一気に読んで、ヒルダは溜息とも深呼吸ともつかぬ長い息を吐いた。
男の人って、奥方のお腹の大きい数ヶ月の間すら、禁欲することができないものなのかしら。
というか、それじゃ、そもそも独身の男性は、どうしているの?

ヒルダはそっと目を上げて、ラインハルトを垣間見る。
黄金の髪、白皙の頬、すらりとした長身、加えて帝国軍の将軍という地位。
ミューゼル閣下のような方なら、黙っていても女性の方から寄ってくるから、相手に不自由したりはしないでしょうけど――。

ふと湧き上がった寂寥感を、軽く頭をふって打ち消すと、伯爵令嬢は文書に目を落とした。
そして、再び読みはじめたところに、重要な記述があった。

「夜半過ぎ、ベーネミュンテ夫人の体調が急変したと、西苑より緊急のヴィジフォンあり。早産か?陛下も起き出して宮内省病院に向かおうとするが、症状が分かるまで留まるように侍従長に説得される。移る病気でなければ良いが、と侍従長。曰く、女はいくらでも替えが利くし、子供はまた作れば良い」

あれほど愛されながら、一番側に居て欲しい時には、居てもらえない。
皇后でも、寵姫でも、皇帝の伴侶と呼ばれるような女性たちは、華やかな暮らしぶりからは想像もできないほど大きな孤独を抱えている――。

そんな立場には、自分はとても耐えられないだろうと、ヒルダは思う。
そして、殊更"お后教育"も受けず、16歳で皇帝に見初められて寵姫となったベーネミュンテ夫人にも、その覚悟があったとはとても思えなかった。

「9月19日。早朝、病院から連絡あり。死産とのこと。夫人は無事なれど、処置のため入院を要する由。午後、見舞いに行く。夫人は興奮状態で、陛下が言葉を尽くして慰められるも受け付けず、ひたすら泣きじゃくっている。デニケン医師によると、診察した時、胎児はすでに亡くなっていたとのこと。死因は不明。陛下は、これで何人目かと珍しく怒りを顕わにされ、密かに調査を命じる。先ずは、前任のキンブルグ医師に事情を聞くことにする」

フリードリヒ4世は、皇后を含めて16人の女性を28回に渡って妊娠させたが、6回は流産、9回は死産、13人はとにかくも誕生したが、内9人は成人前に亡くなっている。
帝国における最高水準の医療の恩恵に与りながら、奇妙なことに、そうでない庶民と比べて、胎児、乳幼児の死亡率が極端に高いのである。

そこに、何らかの作為を想定するのは容易いが、宮内省が、謎の解明にまともに取り組んだことは一度としてなかった。
そればかりか、世間的にはむしろ、"ルドルフ大帝が障害児を殺した罰が、子孫に当たった"という因縁話が、幅を利かせているという実情がある。
貴族から庶民に至るまでが、そう言って、影で皇帝を揶揄しているのだ。

「9月20日。キンブルグ医師、行方不明。7月8日以降、病院に姿を見せず、自宅も引き払った後だった。近所の人の話では、居なくなる少し前に、目つきの鋭い男が何度か訪ねてきていたとのこと。男は黒い大型セダンに乗り、運転手はオリーブ色の詰め襟の制服を着ていた由。西苑の館も急ぎ調べてみたが、毒物らしきものは発見できなかった。キンブルグ医師も、デニケン医師同様、経歴に不審な点はない。脅されたか?」

聞き終えたラインハルトは、腕を組んで、何事か必死に思い出そうとしているかのようだった。
ヒルダには、それが、「オリーブ色の詰め襟の制服を着た運転手」であると、ピンと来た。
珍しいデザインだが、彼女自身も、確実にそれを見た記憶があった。
だが、それがどこで、誰のお抱え運転手だったか――。

二人は、そうして机を挟んでしばし思案顔をしていたが、ほぼ同時に声をあげた。

「ブラウンシュヴァイクだ!」

文書が語りかける事実の重苦しさに、息の詰まる心地がした二人だったが、この時ばかりは互いを見合って微笑んだ。
「この間、軍務省の前で並んでいたら、列に割り込まれた」とラインハルトが言えば、ヒルダは「デパートの駐車場で、ぶつけられそうになったことがある」と言う。

ブラウンシュヴァイクに対する、"選民意識が服を着て歩いている"という人物評価に、伯爵令嬢が大きく肯いて賛同すると、若者は心底から嬉しそうな顔をした。

「フロイラインと意見が合って良かった」

ラインハルトが輝くような笑顔でそう言うと、ヒルダの心臓は大きな音を立てた。
今日の若者は、厳めしい軍服ではなく、白いシャツの上にセーターを被った私服姿で、それが、彼の彫像を想わせる整い過ぎた相貌を、いくぶん柔和に見せていた。
そして、ヒルダはといえば、いったい自分はこの若者の何を恐れて逃げようとしたのかと、ついさっきまでのことが、まるで嘘のように思えるのだ。

「なるほど、見えてきたぞ。ブラウンシュヴァイクの夫人は皇女だ。奴には、皇位継承のライバルになりそうな、皇帝の血を引く赤ん坊を手にかけるだけの、立派な動機がある」

「風疹に罹ったというのも、作り話でしょうね。でも、ベーネミュンテ夫人が、私と同じ歳で、こんな辛い経験していたなんて、知らなかった・・・・」

変化は一瞬だった。
伯爵令嬢は、率直な感想を口にしたに過ぎなかった。
が、若者の顔から微笑みが消え、蒼氷色の瞳が凍てつく光を放った。

「あの女に、同情などするな!」
((注記)ライヒルが18歳と17歳で出会っていたら・・・・というパラレル小説です)

えっ、どういうこと?
怪訝に思ったヒルダが目を上げると、そこには何かに苛立っているような若者がいた。
しかし、正当な理由もなく、心の中のことまであれこれと強要されるのは彼女の最も好まざるところだったので、怯む間もなく、ほとんど反射的に言い返す。

「なぜです!なぜ、同情してはいけないのですか」

実際、ベーネミュンテ夫人を哀れと思ったのは、ヒルダの偽らざる気持ちだった。
少なくとも若き日の夫人は、陰湿で残忍な宮廷闘争と、皇帝の移ろいやすい心に翻弄され続けた、犠牲者であるように思えたからだ。

一方、思いがけず、碧の瞳に真正面からにらみ返された若者は、刹那ハッとしたような顔をし、それが見る見るうちにバツの悪いものへと変化する。

「な、なぜって・・・・、どうしてもだ」

アンネローゼに係わることの常として、束の間の激情に駆られたラインハルトだった。
が、同時に彼は、ヒルダを前にして、またしても己の気性をコントロールし損ねたことについて、少なからず動揺し、恥じてもいたのだ。
伯爵令嬢の質問攻勢に、若者はたじたじとなる。

「理由になっていません」

「で、では聞くが、フロイラインは、カストロプの少年時代が不遇だったら、奴に同情するか?」

「しません。どのような環境にあっても、やって良いことと悪いことは自ずとあります。・・・・ですが、閣下がカストロプの名前を持ち出してきたということは、ベーネミュンテ侯爵夫人の方にも、同情するに値しない何らかの問題があるということですね?」

「まあ、そうなのだが・・・・。ところで、念のためもう一つ質問するが、マリーンドルフ家とベーネミュンテ家が遠い親戚だとか、そういうことはないだろうな」

「ありません」

「そうか、それを聞いて安心した」

若い将校の秀麗な貌に、笑顔が戻ってきた。

「実は、キルヒアイスから再三注意されていたのだ。貴族の血縁は婚姻関係によって複雑に絡み合っているから、貴族の悪口を貴族に言う時は、用心の上に用心を重ねろと・・・・。でも、良かった。フロイラインは、誤魔化しきれないからな・・・・」

ラインハルトは観念して、自分とアンネローゼが、ベーネミュンテ夫人の放った刺客によって、何度となく生命の危険にさらされてきたことをヒルダに打ち明けた。
か弱かった小鳥は、いつしか、生肉を引き裂く猛禽へと変貌していたのである。

「あの女は、幼年学校を卒業したばかりの新兵を抹殺するのに、わざわざ極寒の前線基地にまで手を伸ばしてきたのだ。常軌を逸していると思わないか」

「上官に命を狙われるなんて、そんな恐ろしいことが・・・・。閣下やグリューネワルト伯爵夫人を排除したところで、陛下がベーネミュンテ夫人のところに戻ってくるはずもないのに・・・・」

「まったく、お門違いもいいところだ・・・・。だいたい、グリンメルスハウゼンの記述の通りならば、あの女が復讐すべき相手は、ブラウンシュヴァイクではないか。なぜ、何の罪もない姉上を攻撃するのだ!」

真相を知った伯爵令嬢は、今や若者とその姉の身を、心から案じている様子である。
フロイライン・マリーンドルフが、自分たちの味方をしてくれる。
キルヒアイスの外にも、仲間が出来た――。
すっかり気を良くしたラインハルトが夫人への口撃を強めたので、ヒルダは自然と宥め役に回ることになる。

「若くして後宮に入られたベーネミュンテ夫人にとって、皇帝のご寵愛は、おそらく彼女の人生の全てだったのでしょう。それを失った時、夫人には、グリューネワルト夫人への嫉妬心以外、何も残らなかったのではないでしょうか。それで、思い詰めて・・・・」

フリードリヒ4世の幼女嗜好からは外れてしまったにせよ、ベーネミュンテ夫人は、まだ30歳を過ぎたばかりの年齢である。
本来ならば、人生の最も芳醇で生産的であるべき年代だが、今の彼女は、皇帝がらみのお役目はもとより、心を許せる友人も、打ち込める趣味も、何一つとして持ち合わせていないのではないか。

それでいて、プライドの高さのせいか、自分の敗北を認めることが出来ない彼女は、寵を失ったかつての愛人たちのように実家に下がることもせず、西苑に与えられた館の、客の訪れぬサロンに独りこもって、迫り来る老いの足音に耳をそばだてながら、若い寵姫への嫉妬の炎を日々くすぶらせている――。
夫人をめぐる光景を想像すると、ヒルダはどうにもやりきれないものを感じる。

「ふん、嫉妬か。同姓への嫉妬の凄まじさは、異性の想像をはるかに超えると聞いたことがあるが・・・・。だが、あの女の置かれた境遇がどうであれ、姉上にこれ以上危害を加えようとするなら、生かしてはおかぬ・・・・」

かつてないほど、低く、凄味のある声をヒルダは聞いた。

ベーネミュンテ夫人のことでミューゼル閣下がつい感情的になったのも、唯一の肉親であるグリューネワルト夫人の命が脅かされているという背景があってのこと。
それを思えば、決して大袈裟な表現ではないと、ヒルダは認識せざるを得ない。
この若者は、姉を守るためならば、躊躇なく人を殺せるのではないか。

だが、ヒルダはこの時、身の内に戦慄を覚えながらも、反論することはなかった。
我が身を振り返って、もし父親に万が一のことがあったら、自分もカストロプに殺意を抱くに違いない――そう、認識したからかも知れなかった。

それを、ラインハルトがどう受け止めたのかは分からないが、若者は、視線をつと伯爵令嬢から外して雪のちらつく窓に目をやると、独り言のように呟いた。

「姉上とて、好きであの男の寵姫になったのではない。なのに、なぜこうまで・・・・」

グリューネワルト伯爵夫人の実家は、帝国騎士とは名ばかりの貧家で、飲んだくれの父親は、はした金と引き替えに15歳の娘を宮内省に売り渡した――。
宮廷に出入りする貴族ならば、もれなく耳にする類のゴシップである。
それが作り話でなかったことを、ヒルダは瞬時に悟った。

異例の早い出世を、戦場であげた実績ではなく、寵姫の弟ゆえに皇帝に贔屓されたと受け取る向きが多いのも、本人にとっては甚だ不本意なのだろう。
若者の呟きは、深い喪失感と、それに倍する憤りを孕んでいるように思える。
と、その時、伯爵令嬢の脳裏に閃くものがあった。
ミューゼル閣下の怒りの矛先が向いているのは、果たしてベーネミュンテ夫人だけだろうか。

あの男――。
皇帝を呼ぶには、あまりにも不適切な言葉を、たった今、耳にしなかったか。

それは、穏やかならざる事実だった。
グリューネワルト夫人がベーネミュンテ夫人に恨まれることになったのも、元を辿れば、フリードリヒ4世が権力づくで少女を家族の元から連れ去り、寵姫にしたからだ。
原因を作り出したのは、他の誰でもない、皇帝ご自身なのだ。

でも、ミューゼル閣下はなぜ、それを私に?

次ぎの瞬間、ラインハルトとヒルダは、互いの瞳を覗き込んでいた。
そこに何を見出そうとしたのか、二人はそれぞれ何か言おうとして言えず、そのまま数秒の時が虚しく流れた。

沈黙を破ったのは、勢いよくドアをノックする音だった。
ラインハルトが「どうぞ」と声をかけると、髪に負けないくらい顔を紅潮させたキルヒアイスが、居間に飛び込んできた。

「ラインハルトさま、辞令が出ました。例の件も、要望通りとのことです」

「そうか。やったな」

ラインハルトが立ち上がった。
重力を感じさせないしなやかな動作に、ヒルダは思わず目を見張る。
若者は、吉報をもたらした親友に労いの言葉をかけると、伯爵令嬢を振り返った。
血の気が昇った白皙の頬が、透き通るように美しい。

「次ぎの戦いで、半個艦隊、8千隻を指揮することになった」

「フロイライン。ラインハルトさまは、中将になられたのですよ。20歳に満たずして中将の階級を得たのは、過去には、ゴールデンバウム皇家の男子以外にいないそうです」

赤毛の若者がさも誇らしげに捕捉すると、金髪の若者が横から口を挟む。

「ふん、そんな大層な階級ならば、一個艦隊の指揮を任されても良いはずだがな」

キルヒアイスが、「全くです」と同意すると、彼らは顔を見合わせ笑った。
幼馴染みなだけあって、多くを語らずとも互いを理解している。
腹のさぐり合いをしなければならない自分たちとは正反対の、年月に培われた篤い信頼に裏付けられた関係――、少し羨ましいような関係だと、ヒルダは思った。

「ところで、ラインハルトさま。異例の人事ということで、軍内部でも何かと風当たりが強いようですから、エーレンベルグ元帥には、すぐにでも挨拶を・・・・」

「ああ、そうだな、軍務尚書殿の気が変わってしまっては、大変だ」

それから若者は、伯爵令嬢に対して、「申し訳ないが、今日はこれまで」と言いかけ、そこで何か思い立ったらしく、背の高い友人の方を見た。
キルヒアイスがこくりと肯くと、ラインハルトはあらためてヒルダに向き直る。

「そういうわけで、我々は年明けから忙しくなる。イゼルローン方面へ出発する前に、新たに麾下に加わった艦隊の訓練もしておきたいのでな・・・・。帰りも、早々に決着がつけば良いが、正直いつになるか分からない。だから、フロイライン・・・・」

口元だけ優しげに微笑みながら、若者は言った。

「あなたを信頼して、お願いする。それまで、この文書を預かっていてもらえないだろうか」
最新記事
記事検索
QRコード
traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /