芙蓉姫 (寇鴻安)
どうしても理解したかったらここに何かヒントが書いてあるかもしれないし、ないかもしれません。
芙蓉 姫(ふよう ひめ ♀ 生年不詳 - 没年不詳)は、中国の三国時代に在命していた女性である。彼女は正史の『三国志』には登場せず、吉川英治、横山光輝の『三国志物語』のみに登場する人物とされる[1] 。劉備の先妻で劉封の生母とされる。
人物・経歴[編集 ]
あらすじ[編集 ]
彼女は上谷郡の豪族の「寇恢」[2] の娘、姓は「寇」で、諱は「鴻安」...らしい。あの張飛は彼女の幼なじみでよく遊んでいた。やがて、涿郡にいる後漢の宗族(広義の皇族系)の劉備の許嫁者となったらしい。しかし、劉備は遊び好きでプレイボーイだったので、なかなか結婚できなかったらしい。
劉備に翻弄された人生?[編集 ]
184年に劉備は黄巾党の乱に対抗すべく、旧知の中山国の富豪・張世平らの軍資金と母方の簡(耿)氏と扶養姫の生家の寇氏の援助によって、いとこの劉徳然と関羽らととも挙兵した。しかし、ライバルの曹操と比較して目立った功績はなく、師匠の盧植が宦官の左豊に対して「キショい!!女男はキエロ!!」暴言したため、喧嘩となり、讒言のため更迭された。残された劉備らは左豊から「田舎モンはさっさと帰りなさい」と言われて"プッツン"と来て「なめんなや!!このオカマ野郎がああ!!」と叫んで、左豊をボコボコにして郷里に戻り、上谷郡にいる舅の寇恢を頼ったのである。
やがて傷心の劉備は、いきなり芙蓉姫に向かって「芙蓉たん。俺と結婚しよう!!!」といっていきなり結婚したのである。やがて、劉備らは上谷郡に隣接する代郡にある五台山付近で夫婦そろって、当然ラブラブの状態で劉備夫妻仲良く暮らしたのである(劉備の場合は居候が正しいかも...)。
だが、このころ芙蓉姫は病に罹っていて、床に伏してたのである。劉備はそんな妻の心情を理解してないのか、先輩の公孫瓉と一緒になって近郊の女のコに「ねーちゃん。俺と遊ばない」ナンパししまくって謳歌してたのである。それでも彼女は健気だったという。
187年、平原郡の豪族・劉平が劉備の下に訪ねて「君を青州刺史の(皇甫嵩?)が派遣した北軍中候(前職は校尉)の鄒靖に推挙した。大将軍の何進が洛陽から派遣した毋丘毅(毋丘倹の大叔父)の従事として加わってくれるそうだ...」といった。劉備はこれを喜び、間もなく軍勢を率いて青州に行った。当然、芙蓉姫はお留守番だった...
程なくして劉備はだらしなく負けながらも、鄒靖と毋丘毅らに評価され、朝廷から中山国安喜県の尉(警察副署長クラス)赴任の沙汰があった。劉備は郷里にいる芙蓉姫ら家族を呼び寄せた...らしい。
ここで前述のオカマの左豊が再登場した。彼は「盧植も劉備とやらも、私に楯突くムカつく師弟だわね。この際は痛い目にあわせないと」と言い、腹心の督郵(名ではなく州郡の監察官)を中山国に派遣した。督郵が安喜県に到着すると、たまたま芙蓉姫を見て「ねーちゃん、俺の妾になんねえ〜」と迫った。当然彼女は嫌がったが、督郵はわざと彼女の頬の「チュー」したのである。
これを見た劉備は怒涛の如くに激怒し「モルアアアアアアアアーーーーーー!!!!!俺の女房にナニしやがる。てめっ!!!生かして帰さねえぞ!!!!!」と拳を「ボキッベキッ!!」と鳴らして、北斗神拳もどきの「玄徳炸裂拳」がうなりながら「ほぉあたたたたたたたたたたたたーーーー!!!!!」と督郵をボコボコにしたのである。しかし督郵は切り札を出し「ワシは左豊さまの腹心なるぞ!!!このことを左豊さまに直訴し、盧植ともどもに飼い殺しにしてやるぞーーー」と叫んだ。これを聞いた劉備は「なんじゃい!!こんな官職なんぞ未練はないわい。ほらよ、印綬は返すぜ」と言って印鑑を投げた。劉備は督郵の脳天を目掛けてK1なみに蹴り、「芙蓉、ここからおさらばしょうぜ!!!」と言って、一家揃って退散した。
劉備は青州にいた鄒靖を頼って「オイラ...ヘマして、無職になっちまいました...何かコネとかはないっすかね〜」といった。そこで鄒靖は他の官職に推挙したが、だらしがない劉備は職場放棄を繰り返したという。しまいに鄒靖も呆れ匙を投げてしまった。
劉備は再び、郷里に戻り、居候生活に戻った。旦那のいい加減な行為についに芙蓉姫はキレてしまい、父の寇恢に夫の行為を愚痴ったという。ある日、劉備は岳父の寇恢に呼び出されて「玄徳どの、娘の立場を考えてくれ...あんただっていずれは子供ができるはずだし、そろそろ身を固め、官職に就いておくれよ...」と諭された。すると劉備は「てへっ...すんません...お義父上〜おいらは元来女たらしでさあ...お義父上や妻に悪いことしました〜。」と適当に言った。さすがの岳父の寇恢も「この男は何を考えているのかわからん...」と呆れたのである。
191年、劉備は兄弟子の公孫瓉を頼り、身を固めて官職を得るために北平郡に向かった。今度は芙蓉姫らも同行した。間もなく二人の間に劉封が誕生したという。195年には劉公仲(名は「悳」)が誕生した。
193年に曹操が亡父の曹嵩の仇討ちのため徐州の陶謙を討伐し、大虐殺を行った時に、公孫瓉は陶謙の援軍要請で青州刺史・田楷を派遣した。その副将に平原国の相(太守補佐)の劉備が田楷を補佐して徐州に進撃した。しかし、曹操は参謀の陳宮が曹操の親友の張邈と組んで、呂布を迎えて反乱をおこしたため撤退した。
劉備は陶謙らに手厚く迎えられ、上司の田楷と話し合って駐屯し、田楷は引き揚げた。翌年に陶謙が餅を喉に詰まらせて亡くなると、劉備は周囲の勧めで臨時的に徐州刺史となった。
195年、夫の劉備が徐州刺史の時に、呂布に敗れて妻子を放置して逃げた時に、子の劉封とともに呂布の捕虜にされるも、紳士の呂布に大事に扱われたという。まもなく劉備にもとに返還されると、劉備から「おめぇ...まさか、呂布とXXXXXしたんじゃねぇだろうなあ?!」と疑われて、そのため徐々に夫婦の仲の溝が深まったという。
やがて、劉備が豫州牧となった時に、新参の劉琰が、劉備の心情を察して「わが君はまだお若いのです。別の女性を伴侶として、新たにお子を儲ければよろしいではありませんか?」と囁き、沛の人で未亡人だった甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后)を側室に勧めた。未亡人マニアの劉備はこれを喜び、甘夫人を溺愛したという。
これを聞いた芙蓉姫は劉琰や旦那に対して、怨恨丸出しの不快感を剥きだしてしまった。劉備はこれを聞いて「これはやばい...」といって、秘かに関羽を召しだして、何かの秘策を授けた。
まもなく、関羽は芙蓉姫の寝所に赴き突如、剣を抜き出し「わが君の厳命で、貴女には死んでいただく!!」とおそろしい鬼の形相で言い出し、剣を振りかざし、彼女の寝所は鮮やかな紅血で染まったという[3] 。
余談[編集 ]
そのため、芙蓉の子・劉封は母の仇とする関羽と折り合いが悪く、また父劉備とも微妙な関係のためにこれが後年の劉封の破滅につながったらしい...。また、劉琰の最期(234年)に関しては、エロ ジジイにありがちな女絡みで、激怒した劉禅によって刑死したのである。これは、芙蓉姫の怨霊の祟りだったともいわれる。
まさに、運命に翻弄された美女薄命の芙蓉たんの悲劇的な生涯であった......。
230年、孫の劉琳が臨邑侯から甘陵王に昇格した時に、「先主皇后」の諡号を贈られたという。
芙蓉姫からのお願い[編集 ]
- もっともっとわが子の封を労わってください!!
- (母の叫び)
まめちしき[編集 ]
- ^ 吉川英治が創作したとされる鴻氏の娘・芙蓉姫。モンゴル王朝の元代の大徳年間に刊行された野史『元本』(大徳元本/著者未詳)や『三国志斐註述』の著者・林国賛(清の光緒期の人)は、「劉封は劉備の「実子」で、その母は『後漢書』「寇恂伝」に記してある後漢の雲台二十八将のひとり寇恂(字は子翼、後漢の雍奴威侯。寇壽、寇損、寇張の三子があり、甥(姉妹の子)は谷崇である。おそらく封の母系は長男の寇壽の系統と思われる)の末裔ではないか?」と述べている(ただし盧弼は「それは厨房・電波に過ぎない!」と先輩の林国賛をハナっからバカ扱いしている)。その根拠は、寇恂は劉備の郷里の涿郡からやや西北にある上谷郡昌平県出身であると記されている。また、当時の「寇」と「鴻」は同音だったとされる。余談として、彼女は久保田千太郎、園田光慶の『三国志』にも登場し、芙蓉に手を出した督郵を劉備が斬る設定となっているが、フィクションである。
- ^ 羅貫中(羅本)の『三国志演義』では代州(代郡)の富豪の劉恢。後に劉備を幽州牧劉虞(光武帝の長男・東海恭王劉彊の末裔)に推挙する設定となっている。
- ^ これが、『三国志演義』に記されてある、沛の猟師の劉安の逸話の因となった。...豫州牧だった劉備が呂布に惨敗し、劉安の家に厄介になった。接待した劉安が自分の妻を殺害し、それを「人肉料理」として劉備のご馳走としてを差し出した。事情を知った劉備は驚愕しその報酬として、劉安の子・劉封を養子にした...という、信憑性の怪しい美談を参考とした真実の出来事...らしい。
関連項目[編集 ]
この項目「芙蓉姫」は、ゼブラの丸ペンAのような 加筆が必要なのだ☆たはは
え?誰に向けて喋ってんのかって? ナーンセンス! 細かい事は気にしないのだ☆ (Portal:スタブ)