島原の乱
島原の乱(しまばらのらん)とは、江戸時代初頭の1637年に起こった江戸幕府VSジーザス・クライスト&ヤハウェ及びその他キリシタンの全面戦争である。ヤハウェの日本領土への侵攻のために引き起こされ、ヤハウェの不甲斐なさのために敗北した。
経緯[編集 ]
勃発まで[編集 ]
16世紀におけるキリスト教徒にとって、日本は極めて旨みのある侵略しがいのある土地であった。なにせ金も銀も出るし、文化もある。宣教師たちはキリスト教への改宗をもってこの国をのっとろうとたくらんでいた。事実、フランシスコ・ザビエルは「次は日本国王に会い、改宗させてくる。この国民は理知的でキリスト教徒化させるには最適だ」との報告を出していた。彼らの持つ鉄砲などの技術を餌に、戦国大名たちの下へ続々とその尖兵を繰り出していたのである。
そして織田信長が天下に躍り出た際に、彼らの目論見は半ば成功する。イエズス会宣教師たちは陰謀をめぐらせ日本の旧宗教勢力、比叡山延暦寺や石山本願寺を自分の手を汚さず滅することに成功し、後は信長がキリスト教を国教と定めるのを待つだけであった。しかしながら、キリスト教に理解のある信長が本能寺で非業の最期を遂げたことで、その目論見は失敗する。信長の後を継いだ豊臣秀吉は、サルだったのでキリスト教の教えを理解する事ができず、またキリスト教側が九州でやっていた人身売買が秀吉にバレてしまい両者の仲は徹底的に悪化する。九州の大名が行なっていた火薬樽ひとつと娘数十人の交換という無茶な人身売買兼交易が、若い娘大好きな秀吉の逆鱗に触れたのである。こうして致命的にキリスト教のイメージは悪くなり、日本の教化は難しくなった。
秀吉の後をついで天下に覇を唱えた徳川家康も、キリスト教にはあまりいい顔をしなかったため、日本の教化は一向に進まなかった。これにキリスト教の親分であるヤハウェは痺れをきらし、「高々島国ひとつにどれだけ時間をかけるのか、このままでは私の威厳にもかかわる。とっとと日本国に賛美歌を響かせよ。出ないとお前ら全員地獄に落とすぞ」と啓示を与えた。神様の言う事には絶対服従するキリスト教徒たちは、無謀な布教策に出ることになった。
焦ったイエズス会側は幕府に思い切った提案をする。キリスト教お得意の恫喝外交である。国内には既にかなりの数のキリシタンがおり、勝算はあるはずであった。「今すぐキリスト教を認めて国教に定め、悔い改めなさい。そしてこの部屋の腰ぐらいの高さまで黄金で埋め尽くし、キリスト教に改宗しなさい。そうすれば貴方を火あぶりにするのはやめてあげましょう」この手段は南米では功を奏した手段であり、キリスト教に改宗せねば縛り首という結末が待っている問答であった。しかしながら三河武士にこんな戯言は通じるわけもなく、幕府は(当然のことながら)この使者をとっ捕まえて火あぶりに処し、同時に強烈なキリシタン狩りも始まった。既に外交戦の時点でイエズス会は負けていたのである。
乱の勃発[編集 ]
一方、九州の島原藩領主である松倉勝家は苛酷な年貢の取立てとキリシタン迫害を行っていた。これに対し、とうとう地元の農民がキレて一揆を起こすことになる。これに目をつけたのが抜け目のない全知全能の神ヤハウェである。「もうあの無能なヨーロッパのキリスト教徒どもの力など借りん。わし自らが打って出て日本を制圧してくれるわ」とばかりに農民を神の教えで統制し、配下のイエス・キリストを天草四郎という少年に乗り移らせ、軍を率い幕府に一大決戦を挑んだのである。キリストの憑依した天草四郎は驚異的なカリスマで農民やキリシタンを組織し、領主の城を攻め始めた。このカリスマは恐ろしいもので、天草のほとんどの農民を駆り立てたほどであったという。
幕府はこれに対し、幕府軍と九州の大名軍を連合させて討伐軍を立てる。しかし、ここにもヤハウェの計算があった。その頃の幕府軍は、本多忠勝のような洒落にならんほど強い武将はことごとく鬼籍に入っており、九州においても鬼島津だの恐妻家といった化け物武将はいなくなっていた。せっかく訪れた太平の世が仇となり、かつての武士はヘタレサムライに成り下がっていたのである。討伐軍は数こそ多いものの、強くなく、統率も取れていなかった。その上、ヤハウェの天罰と称する怪しい攻撃に幕府は総崩れとなり、幕府側の総大将である板倉重昌まで無謀な突撃を行い戦死するしかないほどであった。
神と人間の戦いなど、勝敗は誰の目にも明らかであった。ところが、この勝利が「サムライなど大した事はない」とヤハウェを慢心させることになったのである。
原城攻略戦[編集 ]
しかしながらここで幕府側は最終手段を持ち込む。目には目を、神には神をという事で東照大権現を担ぎ出してきたのである。その上、各地の八百万の神や、第六天魔王 だの豊国大明神 だのまで担ぎ出してきた。いかにヤハウェが全知全能の唯一神であろうとも、数の暴力にはかなわない。ヤハウェの怪しい魔力は封じられ、幕府は一転して攻勢に出て、一揆軍を原城に追い込むことになる。
ヤハウェに洗脳された農民たち一揆軍は強かったが、徐々に勢いが衰えてくる。兵糧不足である。神であるヤハウェは、自分が何も食べなくても霞を食べて飢えをしのげる身であることに胡坐をかき、兵の食料の事を一切気にかけていなかったのである。当然の事ながら農民は飢えに倒れて、戦争どころではなくなってきた。
さらにヤハウェを徹底的に落胆させる事件が起こる。なんとキリスト教徒であるはずのオランダ人の軍船が、キリシタンが立てこもる原城に向かって砲撃したのだ。実のところ、ヨーロッパ人たちはもうヤハウェとカーマの気まぐれにはもういい加減に辟易していたのである。神を裏切って実利に走ったオランダ人にヤハウェは絶望して、ここまでの騒ぎを起こしていながら、身勝手にも「もうわしは知らん」と一人天国に帰ってしまう。もっとも、本当に絶望するのは残された側であるのだが...
残されたイエス・キリストと天草四郎・農民達は懸命に戦ったが、とうとう篭城の飢えと渇きに耐えられなくなり、莫大な被害を出し降伏した。幕府側はこの降伏を許さず、たった一人の裏切り者を除いてなで斬りにしてしまう。イエス・キリストこと天草四郎は「またもや裏切り者とあのアホ神のおかげでこんな目にあうのか...」と主を恨みながら天国へと旅立っていった。
その後の影響[編集 ]
ほとんどの農民が参加した島原で、ほとんどの農民が戦死か飢死か刑死したため、島原からは人がいなくなり、ゴーストタウンと化した。幕府はキリスト教の禁制を強め、イエズス会宣教師も締め出され、日本国内におけるキリスト教の影響は極めて小さくなる。ヤハウェの目論見は完全に失敗し、それどころか悪い方向へと傾くばかりであった。日本のキリスト教はその後200年以上禁止され、さらにその後も人口の1%を超えられないぐらいの微妙な数しか増やすことは出来なかった。逆に幕府はこの後、島原の支配にこそ手を焼くものの、長い間太平の世を謳歌することに成功し、また諸大名に武力を見せ付けることとなる。
天国に帰ったヤハウェは配下の天使たちにこう述べたという。「なあに、あの島にもゴルゴダの丘を作ってやっただけさ」そして裏切ったオランダ人たちを寛大な心で罰することもなかった。なにせ裏切られたのがバレたらそれこそ大事だからである。ただ、どこぞのバカのおかげで散々な目に逢わされたイエス・キリストは、天国に帰還してからしばらくはヤハウェと口をきかなかったという。だいたいの天使は「ああ、またか」と空気を読むと同時に、気まぐれに付き合わされたキリストに同情したと言われる。
そもそものところ、下界の戦争の何たるかをまったく知らないヤハウェが対外戦争を仕掛けるのには無理があり、深刻な被害が生じる事が目に見えている戦争を軽々しく引き起こすべきではなかった。孫子が「故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む。此れ国を安んじ軍を全うするの道なり」と言っているのに、全知全能の神はこの一文を知らなかったのである。もちろんヤハウェは反省していない。
その後もヤハウェはキリストが止めるのも聞かず、日本への侵攻作戦を練り続け、ことごとく失敗した。唯一1945年にアメリカを操った時だけは、天照大神の生理休暇などの関係で何者にも邪魔されずに日本侵攻に成功したが、操っていたアメリカが長崎の教会の上に原子爆弾を落とし、せっかく占領した日本は焼け野原だったという本末転倒な結果に終わった。
なお、これらの後始末は全部ドクターミンチによって行われ、死んでいったもの全員が蘇生できた。ちなみに、本人は無宗教派というより、こんなことやって神を信じるわけがないのだが。