山縣有朋

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山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年 6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日)は、日本の成り上がり者、勲章 フェチ

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経歴[編集 ]

後に日本の最高権力者となる山縣であるが、生まれは卑しいものであり、下級武家の奉公人の息子として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。武士どころか足軽以下というその身分の卑しさから剣術を学ぶことが叶わず、彼が日本刀を憎む一因ともなった。

もちろん身分の低い人間である山縣にまともな友人はおらず、狂介という救いのない名前は更に人が彼を避ける理由となった。明治維新後に有朋と改名したことは、表向きは「論語」からとったとか格好のいいことを言っているが、本当は友人がいなかったことのコンプレックスによるものである。

久坂玄瑞の紹介で吉田松陰松下村塾で学んだ、とされる。山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたが、もちろんただの自称であり、松陰本人は「狂介?誰それ」てな感じであった。

そんなぱっとしない前半生であったが、大した功績もないのに戊辰戦争明治維新のドサクサに紛れてまんまと明治政府に自分の居場所を確保した山縣はそれまで下っ端の身分にいたために満たされてこなかった欲望を次々と満たすこととした。まずは金銭欲である。山縣は陸軍出入りの商人、山城屋和助に陸軍の公金を不正融資して焦げ付かせる、山城屋事件を引き起こす。この事件は近代日本初の大規模な汚職疑惑であり、戦前戦後を貫く日本の汚職まみれの政治史は彼が先鞭をつけたともいえよう。流石に彼も観念したのか辞表を提出したが、またすぐ復活を果たし、陸軍卿となった。ちなみに、このときわざわざ山縣を救ったのは当時参議の西郷隆盛だった。(削除) 余計なことを (削除ここまで)

その後も順調に出世を重ねた山縣は、ついに第3代総理大臣に就任。ここから彼の数ある欲望の一つ、征服欲の更なる充足を求め、軍備拡張を進める。それがために、価値の乏しい朝鮮半島の併合を唱えて軍事予算の拡大が必要であると説き、軍事予算の削減を求める議会と熾烈な戦いを繰り広げた。 彼は生涯一貫して欧州列強怖い病に罹患しており、それがこの行動の原動力になったとも言われている。

しかし、強欲な彼であったが、その欲に見合う才能があったというわけではなく日清戦争日露戦争における戦争遂行の指揮は的外れのものが多く、日清戦争時は「天皇に軍情報告せよ」という名目で第一線から呼び返されたこともある。その割に本人は生涯一武官でありたいと言っていた。 むしろ陸軍の統制と陸軍内に留まらない派閥の形成という点で非常に秀でており、一時期の貴族院は山縣派の牙城とまで呼ばれた。

そんな山縣がここまで出世出来た理由としては、木戸孝允西郷隆盛大久保利通ら維新の三傑の相次ぐ死去や、征韓論を巡る政争で板垣退助江藤新平などが失脚して政権中枢に空白が出来たからであろう。あと同じ長州閥で有力な対抗馬であった山田顕義を陸軍から追い出すのに成功したのも大きい。 ちなみに山縣本人は木戸孝允の後継者を自称していた。泉下で木戸がそのことをどう思ったかは不明である。

1899年(明治32年)、文官任用令を改正、文官懲戒令、文官分限令を公布した。もちろん中央官庁から政党員を締め出して権力を独占するためである。

1900年(明治33年)3月10日、治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。これもまた自分の権力を脅かす者を根絶するためである。

内閣総理大臣を辞めてからも、元老として桂太郎寺内正毅清浦奎吾平田東助らのソックパペットを操って政治に関与するようになる。また、同郷の伊藤博文松永久秀暗殺されたことにより、山縣の発言力はさらに増大した。

だが、肝心の陸軍長州閥の後継者として有望視されていた児玉源太郎の急死とその代わりに後継者になった寺内正毅の能力値がかなり微妙だったこと、そして西園寺公望の台頭でその地位も危うくなり、桂の死もあって彼は権力を失い始める。起死回生をはかって、皇太子の旧薩摩藩主・島津家の血を引く皇太子妃との結婚に反対してみたが(宮中某重大事件)ものの見事に失敗する。ただ、この事件は西園寺が山縣をはめたものだとも言われている。また、部外者のクマー右翼とかが勝手に乱入してきて、よけいややこしくなったと言われている。ともかく彼の政治的な権威は大きく衰え、まもなく側近・桂と同じように失意の中で死ぬこととなった。

人物像[編集 ]

本人について[編集 ]

いろんな人に嫌われている凄い人。ここまで嫌われるのは、おまえネタだろ・・・と思って調べると納得してしまう人物である。しかも忠実な部下も嫌われていているやつも多く、後世に悪影響を及ぼしているやつも少なくは無い。ここまでくると最早なんと言えばいいやらわからん・・・。

周囲の評価[編集 ]

今まで述べてきたように欲の強い人間であったことが災いし、また大して面白味のあるキャラでもなかったことから圧倒的なまでの人気のなさを誇り、その死に際しては、一応功臣であったから仕方なく国葬が行われたものの、参列したのは義理で来た陸軍や警察の関係者がほとんどだった。当時、新聞 記者だった石橋湛山はその死を「死もまた、社会奉仕」と評した。要するにいないほうがいい人間であったということである。

皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は女より勲章のほうが好きな山縣よりも、助平仲間でもある伊藤博文を信頼していた。また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。要するに何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。大正天皇が勅書を丸めて遠眼鏡にしたのは、お土産作戦が山縣に通じなくなったから気違いの振りをしてやり過ごそうとしていたのだともされる。しかも、この2人はとにかく仲が悪かったらしく、大正天皇=バカを言い出したのが山縣有朋という噂まである。

しかし、昭和天皇軍人として山縣のことを高く評価していたようである。陸軍内部の統制という点についてはそれなりに定評があったため、山縣がもっと長生きしていたら、軍部の暴走を止められたとも言われている。しかし太平洋戦争当時に生きていたら100歳以上あり・・・、あれ?どうみても無理じゃね・・・・・・?

とは言え、こんな人間でも地元では英雄であるのだろうか、時々こういう崇拝者が余計な注釈を加えたりもする。 ちなみに山口県での山縣は、大体高杉晋作のオマケ程度の扱いであることが多い。

地元・長州出身者に対する贔屓[編集 ]

山縣は長州藩出身の人間ばかりを寵愛して陸軍長州閥を形成し、その長州バカさ加減を嫌う者も非常に多かった。

特に有名なのが長門有希の登用であり、山縣は彼女の長門という苗字だけで彼女を自分の側近にした。さらに山縣は彼女を愛人としたため、彼女は伊藤博文と違ってア〜ン♥♥なことにはあまり興味を示さなかった山縣が信頼する数少ない女性となった。どうやら自分の生まれにコンプレックスを感じていた山縣にとっては、彼女と毎晩ア〜ン♥♥することはまるで長州を支配しているかのような快感を覚えるらしい。というわけで、「長門は俺の」と主張する諸君らは全員山縣の穴兄弟なのである。

これらの藩閥を嫌ったと言うよりオヤジの東條中将が陸大優等なのに大将になれなかったのは長州閥のせいだ!と言う事で、報復の為東條英機は長州出身の者を能力に関係なく徹底的にいじめ抜いた。(事実、東條が陸大校長の時の山口県出身者は0人と言う珍記録がある。) 結果、山縣有朋死後に長州藩の影響がなくなってから陸軍は暴走状態となり日中・太平洋戦争に突入することとなる。

また、これらの依怙贔屓の割に長州出身者全てから好かれていたという訳でも無く、伊藤博文を筆頭とする憲政派とは政体を巡って激しく対立し、腹心だった桂太郎が二度目に組閣したときからはこれとも対立し、奇兵隊時代から仲の悪かった三浦梧楼にはしばしばその皮肉や毒舌のオチとして使用された。他に元長州藩遊撃隊総督の河瀬安四郎からは、「山縣とは仕事上の付き合いはありましたが、友人ではないです」とはっきり言われている。友達いないの?

権力欲と劣等感[編集 ]

山縣が名誉、勲章を飽きることなく欲しがったいたのは散々伝えたが、その異常なほどの権力への執心、勲章好きについて原敬は「あれは足軽だからだ」という一言の下に切り捨てた(ちなみに原は名義上は平民だが、元は家老の出身)。

実際、山縣も伊藤博文もあまり地元には帰らなかったらしい。地元に戻れば上級武士だった人間に頭が上がらないからである。

そのためか、山縣は今まで述べたとおり皇室さえも自分の下に見る傾向があった。明治天皇の娘婿北白川宮が直立して敬礼してきたのをじろりと眺めただけだったというエピソードからもこのことがわかる。こういった山縣の感情も前述の宮中某重大事件を招いたといわれる。

子供の頃は貧乏していたと思われる山縣は、庭園にも執着を示し、無学でわかりもしないくせに京都に無鄰庵、東京に椿山荘、大磯に小淘庵、小田原に古稀庵を築かせた。

さらに、自らの出自に劣等感を抱く山縣は、教養ある人間であるとの周囲の認識までも欲して茶道和歌に手を出した。

コレクション[編集 ]

  • 明治10年11月2日:勲一等旭日大綬章
  • 明治17年7月7日:伯爵
  • 明治28年5月26日:元老
  • 明治28年8月5日:勲一等旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章、侯爵
  • 明治31年1月20日:元帥
  • 明治35年6月3日:大勲位菊花大綬章
  • 明治40年9月21日:大勲位菊花章頸飾、功一級金鵄勲章、公爵
  • 大正11年2月9日:国葬

また、陸軍大将・従一位の位階も獲得している。更に、イギリスに泣いて頼み込み、メリット勲章まで貰ったという。

関連項目[編集 ]

帝国時代  1 伊藤博文 | 2 黒田清隆 | 3 山縣有朋 | 4 松方正義 | 5 伊藤博文 | 6 松方正義 | 7 伊藤博文 | 8 大隈重信 | 9 山縣有朋 | 10 伊藤博文 | 11 桂太郎 | 12 西園寺公望 | 13 桂太郎 | 14 西園寺公望 | 15 桂太郎 | 16 山本権兵衛 | 17 大隈重信 | 18 寺内正毅 | 19 原敬 | 20 高橋是清 | 21 加藤友三郎 | 22 山本権兵衛 | 23 清浦奎吾 | 24 加藤高明 | 25 若槻禮次郎 | 26 田中義一 | 27 濱口雄幸 | 28 若槻禮次郎 | 29 犬養毅 | 30 齋藤實 | 31 岡田啓介 | 32 廣田弘毅 | 33 林銑十郎 | 34 近衛文麿 | 35 平沼騏一郎 | 36 阿部信行 | 37 米内光政 | 38-39 近衛文麿 | 40 東條英機 | 41 小磯國昭 | 42 鈴木貫太郎
 GHQ‎統治下時代  43 東久邇宮稔彦王 | 44 幣原喜重郎 | 45 吉田茂 | 46 片山哲 | 47 芦田均 | 48-51 吉田茂
日米安保時代  52-54 鳩山一郎 | 55 石橋湛山 | 56-57 岸信介 | 58-60 池田勇人 | 61-63 佐藤榮作 | 64-65 田中角栄 | 66 三木武夫 | 67 福田赳夫 | 68-69 大平正芳 | 70 鈴木善幸 | 71-73 中曽根康弘 | 74 竹下登 | 75 宇野宗佑 | 76-77 海部俊樹 | 78 宮澤喜一 | 79 細川護熙 | 80 羽田孜 | 81 村山富市 | 82-83 橋本龍太郎 | 84 小渕恵三 | 85-86 森喜朗 | 87-89 小泉純一郎 | 90 安倍晋三 | 91 福田康夫 | 92 麻生太郎 | 93 鳩山由紀夫 | 94 菅直人 | 95 野田佳彦 | 96-98 安倍晋三 | 99 菅義偉|100-101 岸田文雄|102-当代 石破茂
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