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SB風間球打を諦めない 甲子園投手→ドラ1も...記者も疑問の苦難に「僕もそう思う」 新感覚で初の1軍へ

[ 2025年1月4日 21:30 ]

地元山梨での野球教室に参加した風間(撮影・柳内 遼平)
Photo By スポニチ

山梨県出身のソフトバンク・風間球打投手(21)が4日、山梨市内で野球教室を開き、小学生を中心に約80人が参加した。21年ドラフト1位でソフトバンク入りも昨季までに1軍登板はなく、4年目の今季は育成選手として背番号155を背負う。「1軍に出ないとプロ野球選手としてやっていけない。若手がどんどんベテランの方たちを追い抜く気持ちでやらないと埋もれてしまう。まずは1イニングを完璧に抑える投手になりたい」と決意を新たにした。

記者はちょっとだけ選手評に自信を持っていた。11年から16年までNPB審判員を務めた経験があり、日本ハム時代の大谷翔平、ソフトバンク時代の千賀滉大らの球道を目に焼き付けた。20年にスポニチ記者となってからも投手のボールを見ればプロでどの程度通用するか、おおよその見当がついた。入社以来、アマチュア野球担当記者一筋。数多くの好投手を見てきたが、高校生投手ではノースアジア大明桜(秋田)時代の風間球打投手がNo.1だった。

風間の3年夏を忘れない。秋田大会準々決勝の秋田戦、真上から投げ下ろすフォームから世代最速の157キロをマークし、150キロ超えは17球も記録。超高校球威の球威と絶対的な決め球のスライダーを備えていた。高校最後の夏に自身初の甲子園出場も果たし、同年のドラフトでは1位指名でソフトバンク入り。荒削りだが、フィジカル、投手としてのセンスに長け、順風満帆なプロ野球生活が待っていると思われた。

それから3年がたった。結局、風間は1軍デビューを果たせないまま昨季限りで支配下登録を外れ、今季から育成契約で背番号155を背負う。プロ入り1年目から故障が相次ぎ、制球難にも陥り、本来のピッチングができなかった。アマチュア野球の業務にまい進しながら、風間の投球内容を追ってきた記者は「自分の目は曇っていたのか...」と引っかかっていた。

この日、風間とは久々の再会。野球教室を終えた右腕に直球で質問をぶつけた。「高校時代を見ていた記者からすると、そのままファームに入っていけばある程度の結果が残せると思っていた。一体、プロでは何があったのか」。風間は「僕もプロに入ったときはそう(結果が残せると)思っていました」と即答した。

転機はソフトバンクに入団したばかりの1年目春。右肘を故障し、投球の感覚に微妙な変化が生じた。従来は指先の感覚でボールを操るタイプだったが、故障後は「高校のときのような感覚でいけなくなった」。それから制球に苦しみ、打者よりも己と勝負することが続いた3年間だった。背番号が3桁となることが決まった今オフは現状、原因に正面から向き合った。冬の自主練で掲げたテーマは「下半身を使って制球力をつける」。指先で制球をつけることから脱却し、再現性のある制球力を身に付けることが狙いだった。

野球教室が終わった後はキャッチボールに励み、新たな好感触も得た。「野球が上手くいかない時間の中で考え方が大事と思えた。支配下登録を目指して今年こそは1軍登板できるように」。「ドラ1」を勝ち取った成功体験がある"感覚"に見切りをつけることは簡単ではない。それでも風間はノースアジア大明桜時代の自分、そして背番号1に別れを告げ、這い上がることを決意。勝負の1年が終わった後、「やっぱり風間は凄かった」と言わせてほしい。(柳内 遼平)

◇風間 球打(かざま・きゅうた)2003年(平15)10月11日生まれ、山梨県出身の21歳。ノースアジア大明桜(秋田)では3年夏には甲子園に初出場し、2回戦で明徳義塾(高知)に敗れるも152キロを計測。21年ドラフト1位でソフトバンク入団。1メートル84、92キロ。右投げ左打ち。

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