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薬物乱用者の手記

目次

体験談1 順調なサラリーマン生活を送っていたA男

A男は、ごく普通の家庭に生まれ、何不自由なく育てられました。そして、都内の私立大学を卒業した後に、ある商社に入社しました。仕事は忙しかったですが、学生時代から交際をつづけている恋人に支えられ、何とか仕事をこなしていました。
入社して1年を経過し、仕事にも慣れてきた23歳のとき、ある宴席で同僚に勧められ、ごく軽い気持ちからはじめて覚せい剤を加熱吸煙(あぶり)で使いました。この当時は、何週間かに一度、友人とのパーティの際に使うという断続的な使用にとどまっており、仕事や家庭に支障が出ることなく、うまくコントロールして覚せい剤を使うことができていました。1年後、A男は恋人と結婚し、これを機に実家を出て妻との生活をはじめました。

家庭生活の破綻

結婚生活は最初のうちは順調でした。A男の仕事も順調であり、共稼ぎということもあって経済的にも裕福で都心のマンションに住むという優雅な暮らしぶりでした。
そしてA男が27歳のとき、妻が妊娠しました。
けれども、この頃には覚せい剤の使用頻度はかなり増えていました。「仕事の疲れをとるため」と自分に言い訳しながら、いつしか週3回は覚せい剤を使用する状況となっており、会社を欠勤することが多く、仕事上のミスも多くなりました。さらに、子どもが生まれた頃には、A男はほぼ毎日、覚せい剤を使用するようになってしまっていました。ついにA男はとりかえしのつかない仕事上のミスをしてしまい、会社を解雇されました。仕事を止めたA男はますます覚せい剤にのめり込み、生まれたばかりの赤ん坊の世話をする妻に対して、被害妄想による暴言や暴力をくりかえすようになりました。妻は、「私と結婚したことがストレスで、A男はこんな風になってしまったのか」と自分を責め、誰にも相談できずに苦しい毎日を送っていました。

家族教室に参加

しかし、とうとう耐えかね、妻はA男の両親に相談することにしました。妻は、混乱したA男の母親から「あなたがしっかり支えないからこうなった」と非難されましたが、父親に制され、最終的に3人の意見は、「とにかく専門家の意見を聴こう」ということにまとまりました。妻とA男の両親は精神保健福祉センターに相談に行き、そこで開催されている薬物依存症家族教室に参加しました。このときA男の妻は、家族教室に参加した感想として、「同じような家族が他にもたくさんいて、『自分たちだけではないんだ』と思い、少しだけ目の前が明るくなりました」と涙ながらに語りました。
さらにA男の妻と両親は、精神保健福祉センターの相談員から教えてもらった民間薬物依存回復施設ダルクの家族会にも参加するようになりました。そこでは、薬物依存症がどういった障害であるのかについて理解を深め、A男の行動にどう対応すべきかについて、多くのことを学びました。

ダルク(DARC)入所

ダルク家族会に通い始めて半年を経過した頃、妻と両親はA男とこれからのことについて話し合う場を持つことになりました。家族会でのアドバイスにしたがって、妻はA男に離婚したいと切り出し、両親も今後いっさいA男の面倒はみないことを伝えました。と同時に、A男に薬物依存症の治療を受けて欲しいと伝えました。A男はいつになく神妙に妻の話を聞いていました。この日、2人の離婚が決まりました。
29歳になったA男は、ダルクに入所することを決意しました。けれども、入寮してまだ3ヶ月しか経っていない頃、A男は「もう治った」といいはって施設を出てしまいました。A男は退所した足でそのまま元妻のところに向かいましたが、施設からA男退所の連絡を受けた元妻は、家族会の仲間に相談した結果、実家へ緊急避難することにしました。A男は、2日ほどかつての自宅の近くに潜んで、元妻が現れるのを待っていましたが、いつになっても現れないので諦めて、今度は自分の両親の家に向かいました。けれども、すでに家族会の仲間からA男退所の情報を知らされていた両親は、A男を家には上げないことに決めました。そのうえで父親は、近くの喫茶店でA男と話し合い、「施設が回復したというまで、おまえとはいっさいのかかわりを持たない」という意向を伝えました。
家族のこうした対応の結果、A男は行く場所を失い、しかたなく自分からダルクに戻ることにしました。その後、A男は、回復のためのプログラムを再開し、1年半の入寮生活を経たのちに、ダルクのスタッフの手伝いをするようになりました。
A男がダルクのプログラムに励んでいるあいだにも、両親は月一回開催されるダルク家族会への参加をつづけました。そこでは、A男の回復のためとはいえ、A男とかかわらないでいることの辛さを支えてもらいながら、少しずつ本来の心の落ち着きを取り戻していきました。

家族関係の回復にむかって

A男が入所して2年を経過したとき、A男、両親、ダルクスタッフで話し合う場を持ちました。そして施設の許可を得て、A男は、家族の再構築を図るために1泊の予定で実家に帰りました。それ以後、A男は、定期的に施設からの1〜2泊の実家に外泊をくりかえし、何度も家族と今後について話し合う機会を持ちました。そうした話し合いのなかで、A男はダルクのスタッフになることを決意しました。

現在、A男は、リハビリ施設の回復者カウンセラーとして社会復帰をはたしています。A男がダルクに入所してから3年の月日が流れています。一時は、A男とかかわることから手を引いた両親でしたが、いまではかつての親子の関係を回復しつつあります。

厚生労働省資料「ご家族の薬物問題でお困りの方へ」より

体験談2 覚せい剤乱用者の母親

子ども?といっても、今年で31歳になる立派な?大人です。
私は5年半前に、息子がクスリを使用しているのを知り、気が動転し、警察の手から逃れるために、息子の苗字を変え、そして住んでいる町を2人で出ました。苗字を変えたのは、私たちの生活のため...。そして世間の目から逃れるため...。何よりも、法を犯した子だからでした。それでも、いずれきっと、何かの罰はある。そう思いながらも変えました。住んでいる町を出たのは、時を待とう。時が経ったら、警察に捕まることもないかもしれない。そんな思いからでした。
町を出てから、私と一緒にいられたのは、8日間でした。クスリが切れ始めたら、狂って、狂って...。女の私では、どうにも押さえが利かなくなり、それでも何とかしなければと奔走しましたが、「何処に?」「誰に?」と相談することも出来ず、ただ泣くしかありませんでした。息子はと言えば、泣いている私に目をくれることもなく、「金をくれ!」「金を出せ!」それのみで、知らない町で毎日パチンコ、ゲーム三昧でした。この人だったら、ここだったら相談できるかもしれないなどと思って行ってみても、いざとなると"覚せい剤"という言葉を口にすることが出来ず、「何しに来たんだろうこの人?」というような目で見られました。そして、どうすることも出来なくなり、日に日に狂っていく息子を目の当たりにし、主人と2人、自らの手であれほど嫌だった警察に我が子を売ることにしました。警察に連れて行かれた挙句、精神病院への入院でした。

当時は、本当に狂ってしまいたかった...。今考えれば、私も十分狂っていたのかもしれません。この時は、本当に辛く、苦しい時期でした。どうにもならなくなったとき、自分を責め、息子を責め、主人を責め続け、心も体もボロボロになり、いっそ一家で死んでしまおう...。いやいや、息子だけ死んでもらおうかと思ったものでした。人間、ここまで卑屈になれるものなのですね...。
やがて、息子はダルクへ。
私と主人は家族会へ行きました。
ダルクに入寮させたからと言って、息子が落ち着いたわけではなく、1ヶ月経ったとき、ダルクから逃げ帰ってきたときの話です。
「家に入れてくれ。」
「入れることは出来ない。」
1時間、これの繰り返しをして、そして息子が、
「ガソリンを撒いて家に火をつけてやる!」
と言って、ガソリン20Lを撒き始めました。本人が本当に火をつけるならそれでもいい。実はもうすべて終わりにしたかった。息子も私たちも、すべてこの世から消えてしまいたい。これが本音でした...。それでもまだ、どこかに理性が少なからずともあったのか、近所周りに迷惑がかかってしまう。そう思って、主人が車のキーと携帯だけを持って、外に出ました。
主人はクスリで完全に狂ってしまった息子を車に乗せ、ダルクに戻すまで24時間もあちらこちらと連れ添い続けました。
疲れ果て、最後には埠頭で、「頼むから死んでくれないか? 1人では逝けないだろうから、俺も一緒に逝ってやるよ。」などというやりとりがあり、本人も納得してダルクに戻りました。
あれから5年経って、息子はダルクでスタッフをやっています。学校講演などで、やはり主人とのやり取りが頭の中にあるらしく、埠頭へ連れて行かれたときの話などをしているらしいです。自分もクスリを使った人間ですから、「使うな」とは言えず、啓発の意味でも、たった1人家族の中にクスリを使った者がいると一家がバラバラになってしまうということを、身をもって体験した者として話をしているようです。

"クスリやめますか?それとも人間やめますか?"
というスローガンを見ても、私たちには、関係のない話だと思っていましたし、息子には誰にも負けないぐらいの愛情をかけて育ててきたつもりでしたが、気がつけば、いつの間にか人間をやめていました。普通の子でいて欲しかった。健康な、元気な子でいて欲しかった。
現在、日本には300万人を超える薬物依存症者がいると言われています。その状況の中で、今私が出来ることといえば、「クスリを使わないで欲しい。使わないで下さい」と啓発すること。そして、「一家がバラバラにならないで欲しい。いつも温かい家庭であって欲しい。みんなが大好きな家族であって欲しい」と願い、「出来れば私たちのように辛く、苦しい思いをする家庭をつくらないで下さい」と、祈る気持ちで自分の恥をさらしながら啓発に努めて行きたいと思っています。
そして、もし既に薬物に依存してしまったのなら、治ることはないけれど、回復は出来ます。再発のある病気ではありますが、現状、再発することもなく働いている人はたくさんいます。息子も少しずつですが、確実に回復に向かって歩いています。いつ再発するかなど、先走って考えても仕方のないことなので、今は考えていません。
一度はクスリのためにバラバラになった家族ですが、回復に向かって歩き出した息子を見守りながら、私たち夫婦は、自分たちの生活を地に足をしっかりつけて生きて行きたいと思い、今再び、2人で歩き始めています。

厚生労働省資料「ご家族の薬物問題でお困りの方へ」より

体験談3 大麻乱用者(26歳、男性、運送業)

私が大麻を吸うようになったのは、クラブでDJをやっていた時に、友達から勧められたのがきっかけです。
外国の音楽が好きで、映画で観る外国人歌手のように大麻を吸ってみたいという興味もあって、最初は軽い気持ちで吸ってみたのです。
煙草とは違う大麻独特の何とも言えない香り、吸った後の身体が軽くなるような気持ち良さ、普段聞いていた音楽がいつも以上に良く聞こえ、大麻を吸わなければ落ち着かないようになり、気づいた時にはすっかり大麻の虜になっていました。
次第に、もっと効き目が強い大麻を吸ってみたいと思うようになり、大麻の種を購入して自分で栽培し、収穫した大麻を吸ったり、友達に売っては生活費や遊び金を稼ぐようになっていきました。

そして、とうとう私がやっていたことが警察にバレてしまい、逮捕されることになったのです。
逮捕されたことで、大麻を吸ったり、売っていたことが会社にも知られ、私は会社を解雇されました。
私の収入がなくなり、当時結婚したばかりの妻は、警察の留置施設へ面会に来る度に、「お金がない、生活できない。もう離婚したい。」と泣き崩れるのでした。
留置施設の中にいる私には何も言えず、ただうつむいて妻からの罵声を受け止め、「済まなかった、悪かった。」と謝ることしか出来ませんでした。
その時の私も妻も、本当に惨めでした。
私の軽率な行動が自分の将来や家族の幸せを奪う結果になり、反省しています。

もう二度と大麻や違法な薬物に手を出すことはありません。
私は現在、新しい仕事も決まり、妻とも少しずつですが、失った時間を取り戻しつつあります。
私の経験から皆さんに言いたい。
軽い気持ちで違法な薬物に手を出し、自分や家族の幸せを失い、人生を棒に振らないで欲しい。
その先には惨めな姿しかないのだから。

警察庁資料「DRUG2010」より

体験談4 覚せい剤乱用者(34歳、男性、建設業)

私が覚せい剤を使うようになったのは、仕事のことで悩み、精神的にぐらついていた時に職場で仲の良かった同僚から、「覚せい剤は、悩み事を忘れることができるよ。」と勧められたのが始まりでした。
私は、覚せい剤は違法なものだと知っていましたが、自分でも一度やってみたいという好奇心はあり、何よりも「この精神的な苦痛から解放されたい」という一心から『1回きり』と自分に言い聞かせ、覚せい剤を使ってしまったのです。
初めて覚せい剤を使った時は、これまで味わったことのない衝撃と快楽を受けてしまい、「一度きり」と思っていたはずが、その快楽におぼれ、「また打ちたい。」と繰り返し思うようになってしまいました。
覚せい剤が切れた直後は罪悪感でいっぱいになるものの、時が経てばすぐに「また覚せい剤をやりたい。」という強い衝動に駆られ、いけないことだとは分かっていながら、いつの間にか、それを止められない、どうすることも出来ない自分がいました。

そうなると覚せい剤を買う金が必要で、妻に生活費すら渡せない状態となり、次第に家族の生活は苦しくなっていきました。
そんな中、突然家に警察がやって来て、私は逮捕されてしまいました。
その時、妻は何も言わず、生後2ヶ月になる娘のそばで留置施設に入る私のために、着替えなどの支度を始めました。しかし、その後ろ姿は小さく震えており、妻が懸命に涙を堪えているのが分かりました。
逮捕されて、そんな妻と娘の姿を見て、私はようやく自分の愚かさに気づき、そしてがく然となりました。
「妻は生後間もない娘を抱え、これからどうやって生活するんだろう。」警察の留置施設で一人になると、妻と娘のことばかりを考え、いい知れない不安と絶えることのない後悔から、胸が張り裂ける思いでした。
留置施設では、私の他にも覚せい剤で逮捕されていた男がいて、幻覚を見て大声で叫んだり、暴れていました。

そんな男の様子を見て、私は「もしかしたら自分もあんな姿になっていたかもしれない。その前に捕まって良かった。」と素直に思えるようになり、「二度と覚せい剤は使わない。」と心に堅く誓いました。
覚せい剤は、自分の気持ちの弱さに入り込んでくる恐ろしい魔物です。一度手を染めてしまったら、自分からは絶対に逃れられません。
私はもう、二度と魔物に近づきません。同じ過ちは繰り返しません。
自分のために、そして大切な家族のために。

警察庁資料「DRUG2010」より

体験談5 覚せい剤乱用者の母親(62歳、女性、主婦)

ある日、裁判所からの娘宛の封書を受け取りました。
胸騒ぎがして封を切ると、『被告人』の欄には娘の名前、次の欄には『覚せい剤取締法違反』の罪状が書かれていました。
身体中の血が一気に逆流するような衝撃を受けました。
私は、裁判を告げるこの手紙を見るまで、娘が覚せい剤に手を染めていることを全く知りませんでした。
娘は大学を卒業後、10年近く一生懸命に仕事をしていましたし、ダンスの指導者としても活躍していました。離婚をしてしまいましたが、結婚もしていました。

小さい頃は元気で活発な、色々なことに前向きに取り組む子でした。
そんな娘に対する裁判では、執行猶予付きの判決が下りました。
裁判から半年ほど経ったある日、娘が突然、「お母さん、そっち向かないで、死神がいる。」というような意味不明なことを言いながら、私にすがりついてきました。
私の人生が崩れ落ちるような感覚に襲われたのもつかの間、娘の様子が見る間に変わっていきました。
何かに怯える様子で、「ウワー」とか「ギャー」と大声で叫びながら、あちらこちらを手で払いのけるのです。
その動きが激しさを増してきて、どうにもならない状態になった時、夫と次女、そして私の3人で、娘を畳の上に押し倒し、両手足を押さえつけ、口を塞いでいました。

娘の心臓は、胸から飛び出しそうな勢いで激しく鼓動を打っていました。
夫が突然、「その濡れたタオルじゃ、死ぬぞ。」と叫びました。
次女と私の手で塞いだ娘の口には、私がいつの間にか掴んでいた濡れタオルがあったのです。
「こんな修羅場を世間に知られたくない」という気持ちから、無意識のうちに娘の口に濡れタオルを押し当てていたのでしょう。
徐々に狂ったような状態が遠ざかり、やがて落ち着きを取り戻した娘は、「自首する」と言いました。
「執行猶予中の再使用、警察に自首すれば間違いなく刑務所行きになる。どうしたら良いのだろうか。」
家族全員で話し合いましたが、結局、娘を自首させることに決めました。

それは
「再び、あの修羅場を起こしたら、娘はきっと死んでしまう。」
と、本人も私たちも強く感じていたからです。
娘の『死』よりも、覚せい剤が絶対に使えない『刑務所』を選んだのです。
夫と私が付き添い、娘と一緒に近くの警察署へ行きました。
娘は現在、刑務所に服役しています。

今、私は薬物依存症を抱える家族のための家族会に通い、薬物依存や依存症について学んでいます。
そして薬物依存症が病気であることや、この病気は完治しないが、回復はすると教えられました。
娘の回復を待ち続けられる母親でありたいと思っています。

警察庁資料「DRUG2010」より

内閣府 Cabinet Office, Government of Japan〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1
電話番号 03-5253-2111(大代表)

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