図南の翼
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冬の気配が感じられる秋の夕暮れに、ある一人の男が町を訪れた。その当時、腰に細身の洋刀を差した警官や、日常的に着物を着用する人間が存在する昭和の時分である。世の中に科学技術が蔓延し、にわかに軍靴の気配を感じる、米国との大戦の少し前のことであった。

自動車が荒く喧しい音を立て走る大通りに、大きな手提げ鞄を持った一人の男が悠々と道を歩む。その男は電車を乗り継ぎ、今しがたこの町に到着したばかりである。町に到着する前は、本島から少し離れたある島に滞在していた。本来ならば、その島から離れる予定はなかったが、お上からある命令を下された為に上京せぬばならなかった。

男はホテルで部屋を取り、ボーイに余分な荷物を預かってもらった。男は再びブラブラと外に出る。寒さに縮こまるように肩を窄み、雑踏の中へ踏み入った。行き先はバーである。耳に喧しい呼び鈴を鳴らしながら店のドアを開き、カウンター席に腰掛けた。室内は賑わう......とまでいかないがソコソコ人が入っているらしく、ざわめく声がボソボソ響く。

男は焼酎と適当なおつまみを注文した。数分したところで、燻製チーズと、水割りが提供される。男はチビチビ飲み食いしながら、使い古した黒革の手帳を取り出し、時折万年筆で記していく。その様子にバーの常連客の一人が、興味津々に話しかけた。

「おっと、どこかから逃げ出したのかな? フフ......おかしいったらないぜ。あんた余所者だろう? 見慣れない顔をしている。何をしているんだ? 帰らなくていいのかね」

「......? こんにちは。依頼人の指示で、ちょいっとこの町に用があってやって参りました。しがない私立探偵をやっております。探偵の腕前は辣腕とまではいきませんが、結構腕が立つ方でございますよ」

男は微笑みながら、得意げに云う。バーの常連客はキョトンとした顔した後、大きく口を開いてゲラゲラ笑った。探偵や腕が立つといった発言を冗談か法螺とでも思ったのだろう。常連客は数分間、肩を震わせ腹を波打たせた。呼吸すらままならない大爆笑である。

「そりゃ重畳。フフ......自分でやり手とか云っちゃうんだもの。私立探偵かぁ......俺も何か依頼しようかなあ」

「密室殺人などは勘弁くださいましね? ところで......探偵らしく活動しますが......この町で、何か変わった事件はございませんでしたか?」

「あったよ。ツイ先日......五日前のことだったかしらん......一応、新聞沙汰になったんだがね......」

「新聞沙汰......」

「運が良いか悪い事か新聞の三面記事には、余所の大火災の見出しで目立たなかったんだねぇ。......いや実際、その火災は奇妙な事件だったな。住民全員が自分が誰で己が何なのか分からない......記憶喪失を起こしてたって云うじゃないか」

「ええ。記憶喪失だけでなく、顔面や身体に麻痺の症状が出た......予言を云い出した......生首だけで動いた......など、色々なことをお聞きします。噂話には尾鰭がつきものですが、確かにヘンテコな事件でありますね」

「科学製品でも流れ込んだのかねえ? まあ、ともかく、だ......俺たちにはソッチ話題よりもコッチの事件の方が注目すべきモンでね。まだ噂は風化しちゃいないんだ。皆、あの事件のことを不安そうに口にしている......」

「......どんな事件なんです?」

「狐憑きだよ」

......狐憑き......。男は常連客が口にした言葉を耳にして、丁度良い機会と捉えた。実は、この男が島から上京した理由というのは、その狐憑きの事件を解決するため赴いたのである。バーへ向かったのは単なる気まぐれであり、本気で情報収集をしようとは思っていなかったが、渡りに船だ。右手にペンを、左手に手帳を携え聴取の姿勢を取る。詳細に情報を聞き出すべく、促すような言葉を向けた。

「周囲の言葉から察するに......若い細君が狂ったそうですね。......狂ったというぐらいですから、人でも殺して、煮て焼いて食ったりしたのでしょうか?」

「煮ても焼いても食えない事件さ。単純に正気を失っただけだが、今回のはちょっと凄くてね......実はこの町には、ある狂い筋の一家があるんだ。狂い筋といってもね、判でも押したように生まれた瞬間から狂っているわけじゃない。突然、おかしくっちまうんだ」

「かわいそうですが、そういうのは脳病院にいれていた方が良いでしょうな」

「単純に一個の人間が狂人になろうが、痴れ者なろうが、知ったこっちゃない。だが、最悪なことにその狂いが、一族外の人間に伝染するんだと。そこが一番恐ろしい。明日は我が身にならないか、みんな怖くてたまらないんだ」

「難儀なことだ」

男はぐいっと水割りを呷る。咽喉がゴクリと音を立てた後、更に詳しく調査すべく常連客に「狐憑き」の話を伺った。



翌日、男は狐憑きの噂の元である家に向かった。そこは古く大きな屋敷で、堅牢そうな門が備え付けられている。それは厳重な戸締りのためではなく、その家の人間を封じ込めるため厳重な仕切りを作ったとしか思えなかった。その証拠に豪邸であるにも関わらず、周囲には乞食の姿すらなく、茫々と乱れる野原があるばかりである。コスモスが愛らしく咲いているが、より一層この家の持つ陰鬱さを強調しているように感じた。

男は門前から来訪の意を告げると、若い女中が出てきた。彼女は顰めっ面になりつつも、すぐに取り繕い、客間へ案内する。その最中、女中はチラチラと男を振り返った。客人がよほど珍しいのだろう。案内された客間は洋室であった。男はドッカリとソファに腰掛ける。物珍しそうに調度品を眺めていると、屋敷の主人が現われた。かなり若い男だが、精神的に疲弊しており、顔には若々しさと瑞々しさがなかった。

「依頼人の春日部と申します」

「どうも。私は、退治屋の峠というものです」蒐集院の隠れ蓑の一つである偽の名前を出す。「狐憑きの祓いに来ました。よろしくお願いします」

「あなたが、ですか......」春日部の主人はジロジロと男――峠の顔を眺めた。「......まあ、そういう人でなければ、務まらないのかもしれませんね」

含みのある言葉である。峠は頭を傾げながら、「話は大体伺っておりますよ」と口火を切った。

「細君が発狂し、他の者も狂ってしまった......だとか。まずお聞きしたいのですが、狐憑きの由来や因縁はありますでしょうか? 誰かを呪った......もしくは呪われた......謂れ曰くの品がある......穢れや祟りを受けた......。何でも良いんです。教えて下さい。祓うといっても、種類によって対処が全く異なりますから」

「そう、ですね......。実は、この家には、曰く謂れの品があります。......丁度江戸か明治辺りの時分に、山伏でも虚無僧でもない身分不詳の人物から、珠を預かったのだそうです。何でも、玉藻前の殺生石......であるとか。私はその珠を実際に見たことがあるのですが、ただの石塊であるように見えました」

「見たことがある? 何ともありませんでしたか?」

「......別段、何ともありません。......自分がいつ、妻と同じように気が狂うかわかったものじゃありません......信用のない言葉でしょうが、こうして人と話が出来、人間のように暮らせているのであれば、大丈夫なのでしょう。いや......しかし、私がそう思っているだけで......どこかが......狂って......」

主人は己の意識や認識が疑わしいのか、過去の記憶を探り始めた。峠は主人を安心させるように、専門家としての意見を出す。峠がこれまで仕事に携わった幾つかの実例を引き合いに根拠を示せば、主人はほっと安心した顔をした。

「ところで、奥さんは......親戚か何かか? 失礼ですが、妻を娶ろうにも狂い筋の噂が......」

「家内は、親戚でも遠縁でもありません。血統なんてもういませんから......。彼女は、私の家が狂い筋でも好いてくれる、小さい頃からの関係です。全て承知の上で嫁いでくれました」

「ハアア、おしどりですね。......奥さんが狂う前と、他の方がおかしくなる様子......それと、珠の詳しい話をお願いできますか?」

「......えぇ、お話し致します」

主人は、以下にその様子を語ってくれた。

......少し前にお話ししましたが、狐憑きの珠は江戸か明治の頃に受け取ったものだそうです。珠は木箱の中に収められてあり、蓋を開くとそこには灰色をした真ん丸い石が入っていました。春日部の祖先は、珠を取り出そうと箱の中に指を入れた瞬間、狂いました。これが第一の事件、発端です......。

......第二の事件は、先祖の息子が父の仇を討つべく、箱ごと珠を破壊しようと、日本刀を振り下ろした時に発生しました。一太刀あびた珠は、ヒビどころか瑕一つ入りませんでした。それが口惜しかったのでしょう......入れ物ごと珠を蹴り飛ばし、中身が外に転がると、その場にいた全員が前人と同じように狂乱の有様となったのです。......キット、珠を破壊しようとした祟りが降りかかったのでしょう......。

......呪いの力はすさまじく、狂気に触れた人は一生涯、正気を取り戻ることはありませんでした。しかし春日部の人間は、それでもなお執拗に珠を破壊しようと躍起になって奮闘し、その度に返り討ちされ、今日に至ります。私達は大狐の呪いを治めるべく、後生大事に奉って参りました。屋敷の奥の間に安置し、月の初めと終わりに坊主を招き、経を読んでおりました。妻には、「このように慎重に接することで、私達は当たり前の人間のように暮らしていけるのだ。罰当たりなことはしていけない」と、何度も云い聞かせておりました......。

......しかし、嫁ぎ先が嫁ぎ先です。妻は悪くないのに......噂がヒソヒソと立ち、好奇の目にマザマザと曝され、ストレスを抱えるようになりました。普段は痛くも痒くもない顔で、気丈夫に振る舞っておりましたが、いつまでも知らんぷりすることができなかったのでしょうね。好き好きに話す野次馬、思い思いに喋る好事魔達を打倒すべく、勇み足で家に戻り、箱を開いて床に珠を叩きつけるとタチマチ......。

「妻は、風伝と逸話を絶つため、勇ましい真似に出たのでしょう。私は彼女を責めません。出来ることならば救いたい......可能ならば以前のように戻ってほしい。彼女だけではありません。私の頼みで、発狂した妻を押さえつけようと働いてくれた屈強な男衆までもが......」

「......何故、人に預けたり、早々に俺たちに対処を求めなかった?」

「預けようと、何度も何度もあなた方にお知らせしました。だが......『ただ狂うだけの珠』だとかおっしゃって、退治屋さんは一蹴されたではありませんか......っ!」

突如、春日部の主人は目を青白く光らせながら峠を睨み付けた。彼はその事実を知らなかったが、素直にペコペコ平謝りする。春日部の主人は長い間、拳をワナワナ震わせていた。昂ぶった感情を沈め、冷静になるため深呼吸を繰り返す。頃合を見計らって、峠はそっと訪ねた。

「......奥さんをおさえるべく助けを呼んだのだそうですが、どうしてその人たちに呪いが降りかかったのでしょう?」

「......わかりません......男衆が奥の間に足を踏み入れると、何故か妻と同じようになったのです。キット私達は、大狐の怒りを買いすぎてしまったのでしょう。呪いは強烈になっているようです。峠さん、あの珠はあなたに差し上げます。しかるべきところに保管していただけませんか?」

「預かるのは構わないがね......」

峠は後頭部をガリガリと掻き、手荷物を探った。手提げ鞄の中にあるのは、商売道具と幾許の金である。

「狐憑きになった人達はいまどこに? 脳病院に送っちまったか?」

「部屋から飛び出したところを押さえ、地下の座敷牢に閉じ込めております。お祓いのために病院へは送りませんでした」

「そうか。良い判断だ。呪物はどこにある?」

「奥の間に放置したままです」

峠は頷きながらテーブルの上に、大きな木箱を取り出した。留め金を外して中を開くと、そこには様々な薬品や小道具が詰まっている。興味ありげに注視する主人に、峠は薬箱だと簡潔に述べた。

「効くか分からないが、飲み薬を煎じてみよう。状態が良くならなかったら、脳病院に移送した方が良い。えーと、これこれ......あったあった」

薬箱から取り出したのは、大きめのアルミ缶である。缶にはラベルが貼られているが、そのイラストを見た瞬間、春日部の主人は即座に立ち上がり、峠を指差して大声で怒鳴りつけた。額に青筋をウネウネ走らせ、怒り心頭である。

「それはダチュラの花じゃないか! お前は私の妻や他の人たちに狂い茄子を飲ませるつもりなのか!?」

「落ち着いてくれ、これは特別な薬で......」

「ダチュラはダチュラだろう! 狂った人を更に狂わせれば元に戻るとでも? 取り返しがつかなくなるだけだ! 帰ってくれ帰ってくれ! 何故、あなた達まで私達を苦しめるのか!」

今にも殴りかかってきそうな鬼気剣幕に、峠はたじろいだ。峠は誤解を払拭すべく、春日部の主人の目をじっと見ながら真摯に訴える。

「これはダチュラではない。確かに缶に描かれている開花はソックリだが、異なるものだ。よく見てみろ。ダチュラは白い花弁をしているが、こいつは赤みを帯びた紫色をしているだろう?」

峠はその他に、薬の元になる植物の説明を長々と口にした。存分に説明したところで、主人は不承不承、座り直した。峠の言葉を全て鵜呑みにしているわけではないが、繰り返し説明することで、ただ危険な薬でないことを承知してくれたらしい。

「......すみません。大声を出して」

「マア、ハハ......確かに素人目では、ダチュラに見える。ややこしいから、缶のイラストを変えてもらうように云っておきます」

峠は苦笑を浮かべながら、浅く息を吐く。額にはビッショリ汗をかいていた。いらぬ誤解を回避するために為された労力は、甚大なものであった。しかしその疲労は、単純にそれだけではなかったように思える。缶の絵を見ると、無性に胸騒ぎがした。......何故だろう......。

「これは水に混ぜて使います。火に炙り煙を呑む方法もありますが、効きすぎますので。主人、薬の処方のために、薬缶......熱湯と常温の水......砂糖、木箆を用意してもらっても良いですか?」

不安を断ち切るよう溌剌快活に云うと、主人は傍らに控えていた女中に、注文した品を持ってこさせるよう云いつけた。女中が戻ってくるまでの間に、峠は十二人分の粉薬の準備を終わらせる。女中から薬缶や砂糖等の品々を受け取ると、峠はまず、空の薬缶の中に粉薬と砂糖を入れ熱湯を注いだ。湯気に混じって漂う薬の臭いは雑草よりも青臭い。砂糖と粉薬を木箆でかき混ぜ、常温の水を注ぐと、数分で水薬が完成した。

「地下室に案内してくれ」

主人の案内で、客間から座敷牢に移動する。座敷牢の中を開くとそこは地獄にも聞かれぬ、狂乱の宴が催されていた。捕縛された数十名の人間が白目をひん剥き、泡を吐き、爪をキリキリ立たせ、妄りに狂っている。峠は怯むことなく、狐憑きの皆に薬を飲ませていく。大きく開いた口に薬を注ぐのだが、舌に伝わる味に激しい拒絶を示す。強烈に苦いらしい。味を誤魔化すために砂糖を混ぜていたが、大した効果はないようだ。峠は皆が薬を飲み終えるまで、吐き出されても噛みつかれそうになっても、懇々と熱心に作業を繰り返し、二時間程で配布が終わった。薬を飲まされた人達は先ほどの錯乱を忘れたように大人しく、静かに静かに、こっくりこっくり舟を漕いでいる。

「一週間ぐらい、夢遊病のような状態になりますが、チャント効いている証拠です。おそらく狂った状態から脱すると思うぜ」

「ほ、本当に妻は......皆は......」

「心配なら坊主に経を唱えてもらうと良い。......ところでご主人、一番問題の珠について伺いたい。何度も何度も聞くが、見ただけでは問題はないんだな?」

「恐らく。......私は、自身が正気か否か......モウ分かりません......信用ならないかもしれませんが......」

「そうやって自分の正気を疑っているうちは大丈夫だ。自分は正しい、正気なんだと思い始めたら危ねえ。......そして次に、狐憑きになった人は、部屋に入るとそうなったんだな?」

「ええ、珠に近寄るとそうなるのでしょう......部屋に入った瞬間に様子がおかしくなったのです」

「ずっと前の先祖は珠を取り出そうと箱に指を入れると、狂った。先祖の息子は箱を蹴り飛ばして部屋に中身が転がるとたちまちおかしくなった......間違いないか?」

「ハイ、そうです。それが一体......?」

「大事なことだ。とてもとても大事なことなんだ」



その後の峠の行動は迅速だった。それは的確に行動したというよりも、迷いがないと表した方が適切かもしれない。彼は珠が放置されている奥の間へ行き、珠の所在を確かめた。ブツの外見上は、河川や山道に転がっている普通の丸い石のようにしか思えない。峠は主人に用意してもらった空の桐箱を、部屋の縁に配置する。峠は部屋の中に髪の毛一本入らないよう気をつけながら、長い棒を使って珠を弾き飛ばし、地味な努力をして、桐箱の中に納めることに成功した。

峠は珠を収めたことを主人に知らせ、報酬としていくらかばかりの謝礼を貰い、ようやく仕事を終えた。時間にして三時間ほど掛かったが、早々に終え上々である。峠は屋敷から出た後、煙草屋にブラリと寄り、ホテルに戻った。仕事達成の脱力と業務中の疲労のために、今晩は早めに寝ようとドアを開く。島に帰って、真中に珠を渡そうと考え始めた瞬間、峠は立ち眩みを感じた。

ベッドの傍には小さなソファが置かれているのだが、そこには立派な軍服を着た男性が座っていた。入室者の顔を見ようと目を凝らすが、どうしても眼球が意に反して動き、直視することができない。峠は純粋な疲れではなく、その人物を一瞥してしまったがために、視界がぐらついたのである。峠は深くしつこい浮遊感を味わいながら、男から顔を背ける。手で額を押さえながら、唸るような声でその男の名前を呼んだ。

「三川......だな?」

「あぁ、そうだ。久し振りだな」

「いきなり何の用だ......」

三川は峠の返答を耳にして、何事か引っ掛かったのだろう。小首を傾げながら、足を組む。少しの間、重苦しい沈黙が続いたが、ややあってボソボソと。

「...... "戦争を間近に控えた大事な時期なのに、いつでもできそうな仕事"を指令され、無事に終えたようだな。ご苦労。蒐集品を出せ。私が預かろう」

ズイッと片手が差し伸ばされる。峠は数秒躊躇したものの、素直に桐箱を差し出した。三川に木箱を受け渡したとき、差し出すことに何故ためらったのか考えるが、答えは出なかった。峠の思案を他所に、三川は箱を縛っていた紐をスルスル解いて蓋を外した。

「これはなんだ?」

「狐憑きの珠だそうだ。頭がおかしくなるんだとよ」

「......、ただ狂うだけか? それなら、狐憑きじゃなくても良さそうなものを」

「......確かに狂うだけで、予言なんかしなかったな......だが、威力は本物だ」

「して、他には? この妖物の詳細を教えてくれ」

「......。精神錯乱にはある一定の範囲がある。箱の中から取り出そうと、指を入れると狂う。箱から部屋に移すと、部屋の中に居た者が......小箱に納めているときは、小箱に肉体の一部を入れた者に......部屋に出すと入室者に......といった具合だ。あの部屋から出すと、何がその効果範囲の"区切り"になるかわかりゃしねえ。俺の身も危ない。俺は珠のあった部屋に髪の毛一本入らないように気をつけて、地味に苦労してその箱に納めたんだぜ。絶対に外に......いや、箱に指を入れるなよ?」

「威力は本物といったな? 疾患者にはどんな処置をした?」

「普通にダチュラを処方した。記憶を喪失させることで、影響から脱することができるみたいだ」

三川は春日部の主人に、自分が処方しようとした薬は「ダチュラ」ではないと否定したが、それは嘘ではない。そして、今しがた述べた言葉も嘘ではない。もっと正確に云うならば、「往来のダチュラを品種改良した薬」ということになる。峠は話のついでに、春日部の主人が缶の絵に対して反発的な態度であった事を述べ、缶のラベル変更を要請した。これは春日部のほかにも、同様の件があったからだ。対処すべき問題と思われたので......。

「包装を変えようにも、蒐集院お抱えの薬師がいないからな。島の半分以上が焦土と化したそうじゃないか。マァ......他所に、種も畑も人もある......影響はあっても問題はないだろう......が......しかし......」

三川は珠を見詰めながら感情と抑揚のない声で云う。それは無関心というよりも、自身の荒々しくなる気持ちを制御するために、押し殺されたものであった。しかし、三川は完全に感情を制御できていない。その証拠に木箱を破壊せんが如く、強く握り締めた。

「オイオイ乱暴に扱うなよ、この部屋に転がり落ちたら二人ともおじゃんだぜ?」峠は肩を竦める。「火事の件は三面記事に出ていたな。何でも、『火事収束後、生存者全員に記憶喪失』......『顔面、身体麻痺等の症状有り』、『予言を言い出した』......『斬首した生首が動いた』......だとか......根も葉もない尾鰭がついて回っている」

両者が話す火災は、バーの常連客が口にしていた"話題の事件"のソレになる。記憶喪失の真相は、畑で生育していた特別製のダチュラが燃え、その煙が島に充満することによって起きたものだろう。記憶喪失の薬は水薬よりも煙の方が効果があった。必要以上に吸引すると、身体や脳に致命的な症状が出るのだ。

「俺が島を出た丁度後で、正直驚いた。真中が無事だと良いんだが」

「......。私はお前に命令で、真中に"これから"のことを話すために島へ行ったのだったな。どうして島を離れた?」

「仕様がないだろう。上からの命令だったし」

「二度も云うが、戦争を間近に控えたこんな時期にか? お前は島で何をしていた? ......いや、何をされた?」

「? 何もされちゃいねーよ。物騒だな、オイ」

「真中は記憶喪失の薬を持ち、そして精通している。私の質問に答えるお前の返答は、型にはまった例文のようにしか感じられない」

「あ?」

峠は苛立った顔を一切隠すことなく、三川を睨み付けた......が、一分も経たない内に目線を逸らした。首をゆるやかに振り、浮き沈む視界の不安定さを正す。目頭を押さえながら、露骨に話題を別のものへ持っていくよう、喋り出した。

「真中がいなくなって、記憶喪失でというよりも、外科的な意味で麻酔薬が少なくなったのが苦しいな。戦争に怪我は付き物だからな......痛みが残った手術はさぞ苦しかろう。治療なのに拷問だ」

「話を逸らすなよ。どうして真中は火事を起こしたのだと思う?」

「意図的に燃やしたことが前提なのか? 案外、寝煙草が原因かもしれないぞ」

「私は、意図的に己の存在を消すためにダチュラ畑を燃やし、島民に記憶喪失を起こしたと思うがね。なあ、知っているか? 住民票を元に島民の名前を当て嵌めて個人を特定していったが、人間が二人どうしても足りないそうだ。更に火災から翌日、島近くの本島で、『骨壷を持った人間』の目撃談がある。確実に真中だと思うのだが、それが兄か姉の方なのか、私には分からない」

「姉がいたのか......」

「お前は数年前からよく、記憶喪失剤を貰って懇意になっているだろうに......。真中は恐らくなんらかの理由で葦舟、ひいては財団に繋がっていると思われる。そうでなければ、あんな真似はしないだろう......」

三川はそこまで云うと、衣擦れの音を立てながらゆっくりと立ち上がった。木箱の蓋を閉め、紐を巻き戻す。峠の前から立ち去ろうと、二、三歩進んだところで気でも変わったのか、ニヤニヤ笑いながら話しかけてきた。

「そうそう......真中はダチュラの更なる改良を加えていた形跡がある、疑惑程度だがな。あの薬は記憶を消去するだけで質としては良いとは云い難い。十年前の記憶を消すなら、十年分記憶を消さなくちゃならん。効率の悪い。......もしも消去ではなく捏造......改変が出来たらどうだろう。情報隠滅の手段としてはナカナカ上等ではないか。ところでお前......」


「島に行く前は誰にでも敬語を使う礼儀正しい奴だったが、その口調はどうしたことだろう?」


「え......」

「言葉が荒々しく、態度が不遜だ。こんな短期間に人格でも変わったか? 記憶でも違えたのか?」

「え? え? ......?? ............????? ???????????????」

「虚を突くと思考停止し襤褸が出ることから、捏造技術は完全ではないらしいな。私の顔を見ると、脳にストレスが掛かるためか、直視できないようだ。お前は、自分の口調が変化していることに違和感を覚えているか? ヤレヤレ......自分で自分を疑う内はまだ大丈夫なのに、それが正しい、正常なのだと思っているとイヨイヨ危ない」

......そうやって自分の正気を疑っているうちは大丈夫だ。自分は正しい、正気なんだと思い始めたら危ねえ......。

それは奇しくも、峠が春日部の主人に対して云った言葉である。まさか、このような形で返って来ようとは......。

「フン......それじゃあ、お達者で。戦争の収集時にでも逢おうじゃないか。そこまでお前が正気を保っているか、分からないが」

三川は軽く高笑いしながら、部屋から出て行く。峠は三川の言葉が外国語か未知の言語を聞いているような、曖昧な態度でいた。明らかに日本語であるにも関わらず、理解できなかったのだ。思考が止まって、言葉がスルリと抜けていく。阿呆のような顔でポカンと直立し、言い知れぬ恐怖を自覚した。


峠が狐憑き事件を解決する以前に滞在していた場所は、本島から少し離れたところに位置する小島である。島には三十数名ばかりの住民と四名の薬師が生活しており、その医者こそ蒐集院に仕える薬師の一族であった。薬師の出す頓服は、胃腸薬から外科用の麻酔薬など多岐に渡る。その中で特に珍重されたのが、記憶処理の薬......品種改良されたダチュラのソレである。極僅かの島民に対してダチュラ畑は広大であり、薬師以外の島民は奴隷のように齷齪働いた。島民は過酷な労働に対して、文句や愚痴を一切訴えなかった。皆、奇妙なぐらい無口で大人しい。思えば......記憶消去の実験や改変のために"おかしく"なっていたのだろう。

しかし、ある日のこと......薬畑の世話人の一人の大男が、慌てたように「大きな火の玉が二つ落ちる」と、予言めいたことを薬師に訴えた。それから十日後の先日未明......秋の夜空を焼き焦がし、月に届きそうなほど轟々うなる火の海が、あやかしの狼煙を上げた。島の異変に気付いた本島の水夫は、人助けのために海を渡ろうとしたが、荒れ狂う強風と乱れ猛る荒波のため、船を出すことができなかった。炎を一層激しくするよう、悪天候が加勢しているようだ。漁村の水夫や子供達は、固唾を飲みながら島民の無事を願ったという。

火が静まったのは、翌日の正午過ぎのことである。炎は薬畑と家屋を全焼しただけでは治まらず、小島の領土の半分以上が烏有に帰した。人命救助と事件性の有無の確認のため、消防と新聞記者と刑事が島を往来し、数日でその数は五十近くとなった。激しい行き来の中に水夫や消防や公僕とは異なった、不審船がヒッソリ混じっていたことはあまり知られていない。火災の被害は、死者二十八名、怪我人五名、行方不明者二名と判明。大本の原因はストーブか寝煙草による不注意であると推測された。

大規模な火災だけでなく、生き残った数少ない生存者にある奇妙な点が認められた。怪我人全員に記憶喪失が発生したというのだ。島での生活を筆頭に、名前はおろか誰の元に生まれてきたのか分からない。世間や新聞がその奇怪さに注目している最中、蒐集院の人間は島から出てきた不審船に関心を向けた。その船には行方不明者の一人......真中が乗っていたと疑われている。更に詳しく云えば、生き残ったことを良いことに......もしくは、最初から逃げ出すつもりで火災を起こした......と考えられている。

真中姉弟の下の方が、骨壷を手に電車に乗車していた情報を皮切りに、三川は逃亡者を捕縛すべく、精密な情報網と迅速な包囲網を駆使した。......が、こちらの動向を承知しているが如く逃げられる。先手必勝のつもりが、後手敗戦だ。まるで予知のような動きを見せるので、ホトホト参った。真中一家は、彼を除き全滅していた。姉の遺体を発見できなかったので、彼は姉の遺骨を持ち歩いているのだろう。もしも、彼に姉を苛ませる意思を表示すれば、大人しく自ら捕まってくれたに違いない。人質の取れない状況が、更に三川を苛立たせた。

真中の動きはデタラメだった。北海道でカニとウニを食べていたと思えば、岡山に移動しきび団子を食べる。静岡で茶を飲み、京都で漬物を嗜む。長崎でカステラを食べ、瀬戸内海でフグを楽しむ。栃木で納豆......大阪でたこ焼き......青森で......鳥取で......。奴は豪勢な食い道楽をしていること以外、動きに法則性がない。三川は過敏な神経を、気楽な食い道楽をしているとしか考えられない真中に刺激され、見つけ次第全力で殴ることを一人で誓った。

三川は本来、神経質な性質ではない。神経過敏の理由は、米国との戦争に向けて本部から託された仕事が思い通りに進まないことが原因であった。三川の仕事は下等兵の教育である。皆が皆、国のために命を捧げるべく刷り込みを......要するに、洗脳的な教育を一任されていたのである。実を云うと洗脳自体は楽だ。一週間ほどの時間が与えられれば、正常な人間を完全に染め変えることができるだろう。

だが洗脳の効果は、恒久的に効果を齎す......それが故に敬遠すべきものであった。長く効きすぎるために、終戦後の影響が懸念されるのだ。自国兵の洗脳だけではない。外国を押さえ兵を従えるとき、言葉が通じず洗脳がうまくいかないことが予想された。それゆえ求められるのは、価値観もとい思想変更が好ましかった。そう......丁度、少し前に会った峠のように、記憶の改変でも出来たらよかろう......。

三川が真中を求めるのは、記憶改変の術を手に入れるためである。洗脳教育を成功させるためには、何としてでも手に入れなくてはならない。三川は「洗脳者の自暴自棄な行動が目に余る」と書かれた報告書を強く握りながら、そう考えた。

「えらいピリピリしよるな」

苛立つ三川を挑発するように云うのは、ある一人の醜い老人――葦舟である。杖を片手に、ニヤニヤ口元を歪ませながら笑っていた。三川は口元だけは愛想笑いを浮かべ、目元は"視認されないように"険しく吊り上げ、ジロリと睨みつけた。密かに行われる敵意丸出しの根源は、単純である。三川は葦舟のことを不快に捉えていた。具体的には、......裏切り者......老獪で不遜......獅子身中の虫、と......。

その考えは、根拠と証拠がない勝手な思い込みかもしれない......が......疑惑を払拭できぬ。奴は日本国と米国、ひいては蒐集院と米国との争いに敗北の要因を招きいれ、ガンのように侵食しブクブクと肥らせている。葦舟は戦争に対する準備として、驚異的な再生治療や不死性の実験を進めていた。実際、それら研究が実用化すれば、頼もしく有能な軍になることだろう。だが、葦舟は、私利私欲と還元を前提に動いている。

葦舟は米国との戦争が現実味を帯びる以前から、怪しい行動を繰り返していた。手下を外国に派遣する......葦舟の同行を探った人間が行方不明となる......書類改竄の痕跡......蒐集物の紛失......。奴は恐らく蒐集院を裏切る。そして、財団の中に入ろうとしている。三川は葦舟の決定的な裏切りの証拠を掴むために、真中を捜索しているところがあった。懐を探るのに、記憶改変は役に立つからだ。

「どうも洗脳教育がうまくいかないようです。いや、うまく行き過ぎるのですかな。人様を操るのは中々難しい。ところで、ヤエコトシロヌシ......未来予知の人体研究は進んでおりますかな?」

「今は実験段階かな。予言することが支離滅裂であかんわ。というか、まず喋る内容が、人間の言葉になってへん」

「お互いに行き詰っているようですね」

三川は冗談ぽく、朗らかに笑う。三川の胸中にどす黒い炎がメラメラと燻っていることを葦舟は承知しながら、調子を合わせるように大笑いした。眼球を動かすだけでも大変醜いのに、大笑いとなるとその老人の顔は凄まじい有様だ。三川は和やかな笑みの中に、ヒッソリ冷笑を混ぜる。

「報せです!」

男二人の笑い声が室内に浸透する中、廊下からドタバタと慌しい足音が向かってくる。数秒しない内に、蝶番が軋むほど乱暴にドアが開かれた。室内の壁に木目が強く叩きつけられたが、板が分厚いため壊れる様子はない。

「真中を発見したとのこと! 東京の下町でうどんを食っているそうです!」

転がり込むように入室したしがない一卒兵は、大声で背筋をピンと伸ばして云う。三川と葦舟は互いに視線を目配せし、同時に「またか......」と呟いた。その「また」というのは、食い道楽のことである。



最新の自動車と近道を駆使して、二十分足らずで葦舟と三川は真中の元へたどり着いた。奴はこちらが到着する前に、鋭敏な勘と予知の如き先見さを発揮し、さっさと逃亡しているものと思われたが、うどん屋から少し離れたところに位置する菓子屋で懐手をしながら突っ立っていた。自動車から降りた三川と葦舟の顔を見ると、嫌そうに顰めた。三川は荒々しく車のドアを閉めて、大股でツカツカと近寄り、真中の鳩尾を強打する......が......懐に隠されていた堅い物により、威力が軽減された。

「よう、久し振りやな。えらいことしてくれはって......ちょいと話しようか?」

葦舟は杖をつきながら、ヒョコヒョコ近寄る。真中は服の皺を正しながら、菓子屋の方に「オイ」声を掛けた。店員に用があるわけではない。店前の赤い長椅子に座っていた少女に話しかけたのである。

「ほらみろ、お前がモタモタしてるから捕まっちまったじゃねえか」

「わたしは知らんよ」

「......、その子は誰......いや、どうでもいい。早く来い!」

「少し待ってろ。ヒサシが家で甘い物食いたいって待ってるんだ」

「ヒサシはてめえだろ!」

三川の怒号を無視し、真中は三個入りのみたらし団子を四つ注文した。その一つを少女に差し出し、残り全てを一人でモグモグ食べ始める。団子を食べ終えると勘定を済まし、少女の手を引き車に乗車する。素直に捕まってくれるらしい。だが、観念した様子は一切なかった。

運転手は、助席に三川、後部座席に葦舟と真中と少女が座るのを確認した後、走り出した。真中が捕獲された今、荒々しく運転する必要がないので、一般的な速度で走行する。道中、真中は荷物を取りたいと云い出した。葦舟は承諾の意を示す。

真中が隠れ家にしていたのは、一般の家屋であった。老夫婦が暮らしているのだと云う。老夫婦は真中が帰宅すると、我が息子のように接していた。だが、真中の家族は既に死亡しており、顔立ちの相違から親戚でないことが分かる。聞けば真中は、無辜の老夫婦に"例の薬"を飲ませ、ぬらりひょんの如く厚顔に居座っていたのだそうだ。"例の薬"は云うまでもない。峠に飲ませた薬と同じ物だろう。老夫婦に真中と何時知り合ったのか尋ねれば、不自然にグルグルリと眼球を回す。返答も「アハアハ」、「オホオホ」と笑うだけで要領を得なかった。

真中は骨壷を手に戻ってきた。車が発車する少し前に、納骨堂に行くことを願う。

「好い加減、姉さんの骨をそれ相応のところに安置してあげたい」

しょげた風に云う。人情家なのか運転手は「行きますか?」と、進路先を促した。三川は注意深く真中の顔と奴の手元を注視し、納骨堂に行くことを許可した。納骨堂は行き先とは反対方向に位置している。行き来した道を逆戻り、真中を送り届ける。真中は数分後、出てきた。

「本部に戻るで」

有無を云わさない、強く堅い声で葦舟が述べる。それはこれ以上の寄り道を許さない、絶対的な命令であった。真中もそれが分かっているのか、これ以上余所への立ち寄りを表示しなかった。しかし呑気なのは少女である。険しい雰囲気を察していないのか、両足をブラブラ揺らしながら、注文を云ってのけるのだ。

「わたし、アイスクリームが食べたい」

「......大人しくしてろ」

「嫌じゃ。真中、嫌いじゃ。この人嘘吐きよ。わたしにみたらしクルミ味のアイスと、豆腐ドーナツ食べさせてくれるって云ったのに、紛い物のみたらし団子しか食べさせてくれなかった!」

耳慣れない奇怪な言葉に、真中を除いた三名が少女を振り返った。少女は小首を傾げ、のほほんと微笑んだ。次いで少女は窓の外に意識を向け、譫言か妄言か、夢幻に囚われたタドタドしい声を漏らす。

「マア......赤くてとんがって大きい塔ねえ......戦車を溶かして作ったのネエ......ア、運転手さん、わんちゃんが飛び出すわヨ......ウフフフフ」

運転手は、肩を揺す振って笑う少女にゾーっと身の毛を弥立せ、顔を青くさせた。身震いしていると、少女の"予言通り"、柴犬が飛び出してきた。運転手は、ぶつかる寸前でブレーキを踏む。

「............この子やね」ややあって、ポツリと葦舟。「予言者」

真中の逃げ足は、最早異常の域に達していた。内部に密告者がいることが無論疑われたが、絶妙な回避と巧妙な逃亡から、千里眼か神通力に類ずる便利な道具を所持していることが有力視されていた。それがまさか、年端もいかぬ少女とは思っていなかったが......。

「なんやお嬢ちゃん、えらい特技もってはるな。生まれつきなん?」

「オイ、待て。俺から引き剥がすつもりか? こいつは渡せねぇ。唯一の武器だ」

「この人は嘘吐きよ。あのね、わたしのことを牛女って呼んで、人様にソウ紹介するのよ......わたし名前に、ウシもオンナもないのに」

少女は再び、白い歯を僅かに見せながら笑う。三川は少女が、薬物中毒者か何かのように感じられた。一見、正常な反応を示しているように見えるが、どこかがおかしい。会話もかみ合っていない......葦舟の醜悪な顔に怯む様子もない......。もしかしたら、峠や老夫婦と同じように、記憶の改変が行われているかもしれなかった。

「きみ、受け渡しを拒絶できる立場と思うとるん? いや、別にええんやで。放火大量殺人でムショ入りしても。詳しく調査したら、証拠、仰山出てくるやろ。獄中で臭い飯食って死ぬか、帝国軍の実験体なってくれるか、選んでええで」

「............」真中は苛立ちながら笑った。「とはいっても、こいつには選ぶ権利があるだろう」

「せやな。なぁ、うちのとこに来ぃへん? お嬢ちゃん来たら、神様みたいに敬ってやるで」

「ホントウに......?」

「ほんまに」

「......、この人は嘘を吐かないのネ......嘘だとおっしゃらないのネ......」

少女は眉間にキツク皺を寄せ、泣きそうな顔で苦しげに呟いた。最前の予言と同じく声の音調が奇妙なことから、何かを予知したらしい。ガックリと項垂れながら、握り拳を作る。彼女は、自身の行き先が避けられないことを察知したのだろう。

「それと、きみ、懐の中に入れとる峠の手帳も寄越しや」

三川が真中を殴ったとき、堅い物が壁となりうまく殴ることが出来なかった。葦舟はその様子を見て、何かが入っていると踏んだのだろう。懐のスペースから小さな物......手帳が入っていると予測するのは大したことではないが、"峠の手帳"を所持していると見破った点は、炯眼である。俄かに驚く三川を余所に、真中は不愉快そうに顔を顰めさせた。ズイと片手を伸ばした老人に、半ば乱暴に叩きつける。葦舟は手帳を捲り、本物であることを確かめた。手帳には、予知に関する情報が記されている。

「ありがとさん。これでボクの研究も進むわ」

神経を逆撫でするというよりも、本気で感謝するように葦舟は礼を述べる。その言葉にほんの少しでも勝利に酔ったものが含まれていれば、真中は嫌味を返しただろう。真中はムッツリと黙り込み長い時間不機嫌さを抱えていたが、本部に戻る頃には葦舟に「歩き難そうだから杖を持とうか」と、軽口を云えるぐらい余裕を回復させていた。

本部に帰還した各々は独自に行動する。葦舟は、細々とした話し合い......と云うよりは一方的な命令を真中に与えはじめた。三川は両者の下に長居することなく、大急ぎで業務を片付け、ある場所に向かう。三川が赴いた場所は、真中が骨壷を預かってもらうべく立ち寄った納骨堂である。三川は周囲に人間がいないことを確認して、無断で侵入した。いざ見付かった時のために"表情を変え"手早く行動する。安置所に侵入すると、石造りの台に真中が所持していた骨袋と骨壷が放置されていた。

「あぁ......確かにあいつは嘘吐きだなぁ」

三川は白磁器の蓋を開かして、中に入っている物を確認しながら、くつくつと咽喉を鳴らして笑った。葦舟に少女が引き渡されるとき「唯一の武器だ」といっていたが、それは真っ赤な嘘である。骨壷に入っていたのは、骨ではない。ペン字で書かれた記憶改変の紙束と、それに用いるダチュラの種が詰まった紙袋が収まっていた。単なる記憶消去とその種ならば何の武器にもならないだろうが、"改変"となると話は別である。

三川は、しょげた風に骨を納めたいと述べた真中を怪しんでいた。疑惑になった点は、真中の表情ではなく、骨壷の方である。白磁器の入れ物と袋には見覚えがあった。数年前......真中の妻が亡くなった時に見た物と同じだったのだ。真中は姉のことを大切にしていた......だが、葦舟の機嫌を損ねるリスクを負うほど、姉想いではない。それに奴はリアリストである。感傷に浸り死者を想っても、ナカナカ長続きすることはない。

骨壷の調査はひょんな思い付きと山勘から来たものであり、まさか大当たりするとは思っていなかった。意外な拾い物に感謝する。紙束と紙袋を手提げ鞄に詰めた後、適当な棚を開き、空壷に他者の骨を入れた。このカモフラージュは、純粋に真中を手助けするために行われたものではない。自身の云うことを聞かせるため、細工したのである。骨壷の中に姉の人骨が欠片も入っていないということは、自然彼女は生存していることになる。こうしてその空の証を見た現在、人質を得たも当然だった。

三川は全てを元通りにしてから納骨堂の敷地を出、帰宅の道を進む。そして考えるのは、今しがた手に入れた道具の使い道だ。記憶改変......峠と老夫婦の様子から察するに、実用化まで時間が掛かるだろうが、その手がかりを我が手中に収めたことは大きな成果であった。

......下等兵の洗脳に限らず、外国兵を日本国のために戦うよう思想変更できたら、それはドレホドの貢献になるだろう......。葦舟が蒐集院を裏切るための決定的な証拠を掴めることができたら、ドンナに気分が良くなるだろう......。三川は仄暗い未来の楽しみに機嫌を良くし、密かに忍び笑いを漏らす。小暗い路地裏で笑う彼は、日本国と自身を勝利に導き磐石なものとするため、その手段を思い巡らすのであった......。

ページリビジョン: 3, 最終更新: 10 Jan 2021 16:29
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