化け物
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クレジット

タイトル: 化け物
著者: ©︎watazakana watazakana
作成年: 2025

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この学寮では、夜更かしを許される条件がある。それは、勉学に励むこと。図書館はいつでも解放されており、精進する者を歓迎した。

そこには、ある勤勉な少女が居る。皆、その少女を好いていたが、夜半に彼女を訪れる者は居なかった。邪魔になってはいけないし、皆それぞれの明日があったからだ。


────それは、ある種の勇気であり、逃避であり、願望だった。

ある晩夏の夜半、どうしても私は眠れなかった。暗い部屋で一人きり、というのも悪くはないが、人と居たいという寂しさは拭えず、そういえば、あの人は消灯時間を経てもなおあの場所に居るはずだと思い出す。

風が強くて、外では肌を刺すような空気がしきりに渡り廊下を吹き抜けていた。一足先に冬が来たみたいだ。暗闇の回廊を小走りで駆けて、図書館の扉を開く。

風が無くなり、今度は温い空気が私を包んだ。扉を閉めてしまえば、中は静寂そのものだった。私の靴の音だけが響いている。それ以外には、私の息遣いと衣擦れの音しか聞こえない。真っ暗な闇が、柔らかな電球の光と混ざり合って、図書館という暗色の空間を照らし出していた。冬は、この部屋特有の空気が好きだ。

「あら、今は消灯中のはずよ。後輩さんは悪い子ね」

書架の左手から声がした。振り向けば、安心する姿がそこにあった。艶のある黒く長い髪。まどろむような、人を溶かすような褐色の瞳。包容力のある長身。きちんと正された制服。その笑みは、人と話すには完璧で、絶えることがない。いつの日か言っていた。「年下と接する時は、ついそんな表情になってしまう」と。気恥ずかしげに言っていたが、その物腰柔らかな態度と温和な表情のおかげで、後輩からは接しやすいと評判だ。

私もその評判に賛成の票を投じる一人だ。彼女と目が合えば、耳が嬉しさを表現する。

「......まあ、眠れなかったというか」
「ええ、そうね。この時間、少し寒いものね。暖かい紅茶はいかがかしら?溢さないと約束してくれるなら、今用意するわ」

無駄なごまかしをしてしまった。耳の動きは私自身制御できないのだ。私の感情に従って、無意識に動く。それは心臓が止まれと願っても止まらないように、夜更かしをしてもいずれは眠ってしまうように、なってしまったからにはそういうものなのだ......と、かかりつけのお医者様からそう教わった。だから、眠れないことなんてただの言い訳だと、誰の目にも明らかだった。

しかし、彼女はこう言うのだ。

「どんな理由でも、私は貴女に会えて嬉しいわ。貴女はどう?」

私の耳には言及しない。視線も、耳に行くことがない。私の頭頂部に生えている耳は、まるで初めから無かったかのように語ってくれる。目尻を上げて笑う彼女に、嘘はつけない。

「......うれしい」

私は、その歓迎の視線を正面から受け止めきれず、とっさに口元と頬を隠して顔を逸らした。きっと耳は、外に向かってぴこぴこと動いているだろう。それでも彼女は、私の目を見て笑ってくれる。それがとても、安心できるのだ。

────アニマリー。私を形容するのに便利な蔑称。

正確に、客観的に言えば、イエネコの形質が発現した奇蹄病罹患者。変異部分は頭頂部の耳と額に右の頬、それに胸から腹、背中にかけての皮膚、そして歯が数本牙になっただけ。生き残った上に、耳と頬以外は直接見えることがない。他の奇蹄病罹患者に比べれば、私は幸運なことこの上なかった。

そして更に幸運なことは、彼女と知り合えたことだ。花灘(はななだ)せつな。優等生で、私の一つ上の先輩。彼女はアニマリーを人と分けて考えない......というよりも、そういう態度を決して見せない、という方が正しいだろう。それが演技や打算なのか、それとも素なのか。そんなことはどうでもよくて、私は事実、せつな先輩と一緒に居る時間が一番安心する。それが大切なことだった。

「今日も勉強?」
「いいえ、今日は息抜きに童話集を読もうと思って」

これは内緒ね、と人差し指を口に当てるせつな先輩。その仕草と言葉は少々意外だった。目を丸くしているということに気付かれ、言葉を先取りされる。

「意外だったかしら?」
「......ごめんなさい。勤勉に数学や物理の参考書と対峙している姿をよく見るものだから、せつな先輩もそんなことするんだなって思って」
「謝ることないわ。そういう姿しか見せてないのは、確かな事実よ。もし貴女が幻滅したって思うなら、それは申し訳ないけれどね」
「そんなことない!」

欠片も想わなかったことを言われて、驚きのあまり食い気味に反論してしまった。耳が少し垂れる。気付けば、自分の声が広く反響していた。誰も居ないことを願ったが、反応がない辺り本当に誰も居ないようで、後には静寂だけが残った。今度はせつなの目が丸くなり、しかし完璧な笑顔は元に戻った。

「......ごめんなさい。声、大きすぎて」
「いいのよ。気にしないで」
「でも、私は幻滅なんてしない。むしろ......知れて良かったと思う」

私が幻滅したと思われたくなくて出た言葉を聞いた先輩は、少しの間を置いてほっとしたように笑った。

「それが聞けて、安心したわ」

後は、寮母の先生に聞かれていなければ満点だ。寮母の先生はルールに厳しいという噂が絶えない。この前だって、門限を過ぎても戻らなかった生徒に対して言い訳すら碌に訊かず謹慎の罰を与えた、という話を聞いた。

この場が見つかってしまえば、先輩すら巻き込んでそういった罰を貰ってしまうかもしれない。それだけは避けたいことだった。

しかし、外から人が来る気配はない。私はため息を吐いた。私の耳も、張っていた糸がたるむように軽く垂れる。

「......せつな先輩は、童話が好きなの?」
「ええ、好きよ。童話ってね、色々な時代に合わせた、色々な物語と表現があるのだけれど、言っていることはだいたい一緒なの。メッセージそのものと、童話たちの持つ普遍性と一貫性が好きなの」
「それって、どんなこと?」

よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに、彼女は目を細めて笑った。

「『人に優しくしなさい、悪いことをしてはいけません。信心と道徳を忘れず、人に施し、努力を続け、感謝される人になりなさい』」

唱えるように諭す彼女は、何かしらの聖性を帯びているように見えた。

「私、疲れてしまったら童話を読むようにしているの。童話が示す道を歩けば、それだけ多くの人が私の手で助けられるの。それは、素敵なことだと思うから。ふと自分を優先したくなった時にこれを読んで、ああ、まだ頑張っていたいなって、思うから」
「せつな先輩の志望校って、医学部だっけ」

彼女は首肯した。

「そんなところ。1年後には受験会場ね。でも、その話より、私はもう少しだけ童話のお話をしたいわ。わがままでごめんなさいね」

しまった、と私は思った。せつな先輩は今疲れているというのに、わざわざ現実に引き戻すことはなかった。

「それに、息抜きは何か月もないことだってあるわ。もしかしたら、これを最後にこんな私ともお別れになるかもしれない。今のうちに色々知っておいた方が、思い出になるのではないのかしら?」
「え」

ふふ、と悪戯っぽく笑う姿も、こう言っては大袈裟な気がして気恥ずかしいが、愛しいと思う。

「貴女は、どんな童話が好き?」

その言葉を受けて、少し、逡巡する。

「小さなころに読んだ、『人魚姫』が好きだった。愛を受けられない運命の中で、殺したいほど愛したいのに、それでも凶行に走らなかった。人魚姫の王子様を想う心が、愛しいと思った」

その話を聞いたせつな先輩は、とても満足したような表情を浮かべた。

「人魚姫は、私も気に入っている話よ。私はね、最後に人魚姫が報われるところが好き。その善性に報いるかのように、人の魂を得る道に就く......。苦難の末に、いつか救いの手が差し伸べられる世界は、何よりも尊いわ」

せつな先輩は、本の表紙を撫でる。つられて私の指にも力が入った。

「そういう意味では、私は『幸福な王子』が好きよ。貴女は知っているかしら?」

私はかぶりを振った。私はこの人にとって、どう映っているのだろうか。その目からは、伺い知ることができない。

「ある貧しい町に飾られていた王子の像が、南に渡ろうとしている燕に手伝って貰って、町民に施す話よ。王子の像は、美しい宝石や金箔で飾り立てられていたのだけど、やがてその全てを与えてしまって、鉛の心臓だけしか残らなかった。燕もそれに付き合っていたものだから、最後には南へ渡り損ねて死んでしまうわ。でも、ごみ箱に捨てられた彼らを天使様が見つけ出して、その苦難の報いとして、天国にて永遠の幸せを許し給う......そんな話よ」
「......良い話。私は、王子様の像と燕の友情が好き」
「ええ、私は特に、燕が好き。本当は、王子を見捨てて南に渡ることができたのに、それをしなかった。それは、王子よりも覚悟が必要だったと思うわ。単に動物が好きだから、かもしれないけれど」
「動物、好きなんだ」
「ええ、特に飼われている動物が好きよ。あの子たちは、私たちが尽くした分だけ返してくれるでしょう?」

そうしているうちに、本格的に夜が更けてきた。紅茶も冷めてきて、「私もそろそろ休もうかしら」という彼女に、私の耳は外側にぺたり倒れてしまう。その動きに、別れを惜しむ以上の意味がある。そんな曖昧にしていたいことが、無理矢理はっきりさせられてしまう。すると、せつな先輩は私に童話集を差し出した。

「そういえば、貴女が来る直前にまた読み終えたの。よければ、借りていきなさいな。この本を通して、今日この時を思い出せば、きっと、戻った後のけだるさも和らぐわ」
「でも、悪いよ......」
「大丈夫よ。他にも童話集はいっぱいあるもの」
「......ありがとう」

私の遠慮を見抜く聡さはあるのに、私の症状について触れることはない。その優しさに甘える私が少しだけ嫌になりながら、私は本を受け取って渡り廊下をぱたぱたと走り抜けた。

そして、学寮の廊下へ駆け込み、自分の部屋へ抜き足差し足で向かっている時である。

「そこ、消灯時間中ですよ。どうかしましたか?」

背後から声がして、肩が跳ねた。寮母の先生の声だ。振り返れば、皺の深い顔が、消灯された廊下の闇からこちらを見ていた。黒い服装も相まって、ぼんやりと浮き出るかのような姿に、少しびっくりしてしまう。

「あ、いや、その、お手洗いに......」

ここで図書館に行ったと正直に言えば、先輩の邪魔をしたとか言って叱ってくるのは想像に難くない。そう考えた私は、何とか言い逃れをしようと下手な嘘でごまかした。問い詰められたらすぐに露見する嘘だ。あまり深堀りしてくれないことを願う。しかし、寮母とは学寮の管理者のこと。

「お手洗い、ですか。渡り廊下の先は図書館です。図書館にお手洗い処はありませんよ」
「うぅ......」

責任者として、逃がしてはくれなかった。私の耳は臆病にも下がり切っていた。はあ、と吐かれた溜め息は、「......本当のところは?」という言葉につながった。......白状するべきだろう。

「ごめんなさい、あまり眠れなくて、安眠の手がかりを図書館へ探しに......」
「眠れないのですか」
「......すみません」

嘘は言っていない。だから耳も余計なことはしないはずだ。先生はその刻まれた皺を微動だにせず、ただこちらをじっと見つめていた。

「もし、眠れないのなら。謝ることではありません。私でよければ相談に乗りますよ」
「えっ」
「......何を呆けた顔してるんですか。私は寮母です。『私の平安を、あなた達に授けましょう』......生徒の皆さんの生活が健全であること、これが第一なのですから。相談したい旨を言ってくれれば、力の限り応じます」

想像していたよりも、ずっと優しい寮母の先生には、正直に言えば驚いた。私に向ける目はそう優しいものではなかったから、これが所謂「ギャップ」というものなのだろうか。

「......ありがとう、ございます」
「今日のところはもう寝なさい。今度寄り道をしたなら、とびきり怖い話をして、夜の間廊下を歩けないようにしますからね。今回の寄り道については、明日廊下の掃除を一部やって頂くということで」
「え」

独特なユーモアに乗じて、先生は罰を言い渡す。私は目を丸くした。この学校は、大規模な宗教施設を改修する形で作られた。寮もそれなりの広さだ。入寮者全員に個室を用意できて、なお部屋が余って使い道を考える位には。私の目の前、そして背後。暗闇に隠れているだけで、広く、複雑に、廊下は張り巡らされている。

「一部って、この寮広いですよね......」
「抗弁は認めません。規則通りなら、今週末の外出を禁じていたのですよ。明日、放課後から2時間。できる範囲をやりなさい」

それはそれとして、厳しいという噂は正しかった。しかしこれは完全に私が悪いので、抗弁する気はなかった。「お行きなさい」という先生の手振りで、私は先生に一礼し背を向けた。

「ああ、最後に」

私が一目散に部屋へ戻る直前に、先生は私を呼び止める。

「花灘さんの邪魔はしていませんか?」
「していません」

これも、嘘ではない。むしろお互いに理解が深まったくらいだ。耳も、きっと怪しい動きをしない。

「......よろしい。お行きなさい」

先生の表情は暗くて見えなかったが、しかし意外な優しさだった。何時になるかはわからないが、次に先輩と話すときの話題ができたことに、私は胸を躍らせて寝床に就いた。


それからしばらくは、せつな先輩と話さない日が続いた。というのも、普段の先輩は問題集や参考書に向き合っている時間がほとんどだからだ。私はそんな先輩のそばに座って、無言でその真似事をする。

「眠れない」という言い訳を先生に使った手前、消灯時間前から会うことはしばらくなかったが......それでも私は図書館へ足繁く通った。もちろん、先生にはバレないように。普段の先輩とはあまり話すことはなかったが、時々童話について話すときは、小さな声で大盛り上がりした。

私は勉強が苦手だ。授業だって付いて行けていないし、勉強そのものはまるで楽しくない。それでも図書館でせつな先輩と一緒に勉強している理由は......耳が口よりも雄弁に伝えていた。せつな先輩こそ話すことはないが、私が来ると嬉しそうな顔をする。

かつて、「しばらく二人で黙っていれば、その沈黙に耐えられる関係かどうかわかる」と言った人がいる。私は、この言葉に意味はないと思っていた。仲が良いからこそ言葉がいくらでも湧く人もいるだろうし、沈黙が2人の間に居座っても気にならないほどの信頼がある人もいるだろう。それがどういう関係か、明言しないのは奥ゆかしさではなく、卑怯さだと思っていた。

けれども、この沈黙には意味がある。この沈黙は何時間経っても良い。そう思える。そんな関係は、確かに明言を避けるべきだった。


私の感じる世界は、私にとって居心地が悪い。

私の頭頂部の耳は、人の耳よりもずっと多くの音を拾い集めて、脳に届ける。耳栓をしてもなお訴えかける世界の音は、私のキャパシティを破壊するのだ。

正直、学校では勉強どころではない。耳もずっと不機嫌を表明しているので、同級生からは距離を置かれている。同級生は悪くない。歩み寄ろうとした結果、私の気持ちに気付いて、朗々と話しかけることができなくなってしまっただけだ。私の状態を理解しているかはさておき、露骨に不機嫌な人に話しかけることはそうそうできることではないだろう。

理解した故の悲劇が、そこにはあった。同時に、これが最善に思う。私の都合で、授業も雑談もよしてくれ、などとは言えない。私に話しかけてこないだけ、まだマシなのかもしれない。

いつしか存在した気遣いは、いつの間にか私を背景として扱うに至った。少なくとも関わらなければ、私の怒りが飛ぶことはない。そう解釈したのだろう。その解釈は正解だった。

────そういえば、せつな先輩と話している時は、全く不愉快に思わなかった。この猫の耳が、雑音を拾わなかった気がする。ずっとせつな先輩の声を拾うことに集中していた。そんな気がする。図書館の音があまりにも静かだったから?

......試してみようか。

私の好奇心がせつな先輩の教室に向かう直前。私は寮母の先生に呼び出された。その皺の深い顔が私の前に来る時、決まって仏頂面になっている。

「どうかしましたか」
「入りなさい」

有無を言わせず、職員控室へ連れ込まれる。こんなことをする人ではないと思っていたのだけど、現実は私の想像といつもずれる。

臆病な心臓が、これはいけない予感がすると警鐘を鳴らした。耳は既にぺたんと外側に閉じていた。いくらか音が遮断されて、余計に静寂が私の警戒を高めた。

「......先日の夜、消灯時間を破っていたでしょう。花灘せつなさんと一緒に」
「......ごめんなさい」
「ごめんなさい、ではありません。それ以来、頻度が増えているのが気がかりです。あなた、花灘さんに何もしていませんか?」

流れが変わった。私の規則違反に対する軽い説教で終わらない予感は薄々していたが、これは本格的にまずいかもしれない。先生が座り、人間としての視座で直立する私を睨みつけた。

「してません」
「嘘を言うな!!」

ドンっと机を殴る音が、私の身体を跳ねさせる。

「......その耳を見ればわかります。私に恐怖している耳......誤魔化しようもないほどやましいことがなければそんな耳の動きはしません。あなたが動物の似姿を得た理由など簡単なこと、その倒錯的な......同性を愛するというより根本的な過ちのためではないですか?」

────私のことを、何も知らない、知ろうとしない人だっている。アニマリーがこの世に生まれてからというものの、色々な差別、偏見が息を吹き返してきた。理解できないもの、人とずれた嗜好、そう認識されるものを持つ人たちがアニマリーだと、「ああ、道理で」という反応をする人はいる。

あるいは、獣性が人を変えてしまった証として表出する症状の一つなのではないか、と考える人も。

「そんな、そんなのじゃないです!私は───」

それにしても、この先生の言うことは的外れだ。感染経路だって、10年前に奇蹄病だと隠して登校した同級生と泥遊びをしたからだ。適当なことを言って責める人間に、反感を抱かない道理はない。しかし、先生はそんなことを知ったことかというように続けた。

「最初こそ、あなたが入って来た時は品行方正でした。私も信じかけました。本当に人間なのかもしれないと。しかし、その信用を崩したのはやはりあなたです。その罪深さ......正に理性のない畜生の行い、気色悪い倒錯!聞けば力も獣のそれだとか。それで子女と同じ学び舎に居られると思えますか?力では完全な上位にあり、理性も足りない。そのような獣が!」

違う。そんな風に決めつけて欲しくない。私は......!

「本当に何もしてません!言いがかりです!私は、ただ一緒に勉強をしていただけで────」
「私の叔母は、何十年も前に同じことを言いながら私を襲いました。花灘さんもそう言っていましたが、被害者に何が言えましょうか?言えるわけがないのですよ!花灘さんは苦しんでいるはずです、このような、人になり切れない化け物に狙われていること!」
「違います......私は」
「他のアニマリーだって同じことを言っていましたよ。しかし、本当に何もしていないなら誤解などすぐに解けます。アニマリーなどと蔑まれないのです。正直に言えば済む話ですよ。花灘さんを襲いました、と」
「やめてください......違うんです......」

熱が冷めていく先生の声音に、どうしようもなさを感じた。ふと、足の力が抜ける。

その場にへたり込んで、頭を抱えた。もう、立っている気力もない。すると、急に先生の態度が急に軟化する。

「......しかし。あなたは仮にも学校の生徒。機会を与えた方がいいでしょう」
「......え?」

手を合わせた先生の目尻が上がった。

「『神は、人の子を神の御姿に似せて作り給うた』......故に、人の魂は神の御許に帰り、獣はそのまま土へと帰るのです。獣でなく、人であれば......痛みと恐怖をこらえるという人間の理性、そして人の姿があれば、獣の戯言ではないと信じることもできるでしょうね」
「そ、れは......」

腹の底から冷え込む感覚がした。この先生は、何か他の意図があるのではないかと勘繰ってしまうほどに、悪辣な笑みを湛えていた。


「これから、夜に様子を見に来ます。もし達成できなければ......花灘さんだって、栄えある進路が待っているというのに......誰も得をしません。それは望ましくないことだと、思いませんか?」

この意味がわからないほど、私は愚鈍ではなかった。

2000円もかければ、きっと私の肌を削ぐのに上等なカッターとそれなりの包帯が買える。斬りつけるのではない。これからやるのは「削ぐ」ということ。......これは試練なのだ。人魚姫だって、人の姿をしている時は歩くたびに激痛が走っていた。声すら出せなかった。だからこの程度......そう言い聞かせて、私は自分の部屋の扉を閉めて、自分の口を布で縛った。声が、漏れないように。

ブラウスのボタンを外す。私の、普段なら見られることのない、そして意識して見ることもない斑の毛皮が露になる。そこへ刃を当てる。左の腹。どうやら本当に上等なものだったみたいで、すぅ、と刃が入った。反射で手が引っ込む。同時に、これなら、という確信を持つ。

あとは、思い切り、やるだけ。

切れ込みの入った場所にもう一度刃を入れて、もう一度、今度は力の限り押し込む。

痛みが遠い。肉が触れた空気は、熱いのか冷たいのかもわからない。下を見れば、葉書程度の大きさをした赤い毛皮が落ちていた。

まだ、ずっと残っている。あれだけ勇気を振り絞って、半分も削げていない。道の遠さに絶望し、許してほしいと神様に願った。

こんこん、扉を叩く音がした。────先生が来る。結局、許すのは先生だ。神様じゃない。不器用ながらも簡単に傷を塞いで、扉を開けた。

先生は満足げだった。「どれだけかかっても、最終的に人へ成ればいいのです」と、刻み込まれた皺は深いまま、笑顔を浮かべた。

「ただ、1日でも速く人になれることを願っていますよ」

夜に図書館へ行くことは、できなくなった。学校に行くこともできなくなった。毎夜の喜びと胸の高鳴りは、恐ろしさと、痛みと、切迫した拍動に置き換わった。

誰か、誰かが私を庇うのではないだろうか。そんなことはないのだろうか。だとしたら、王子様の像と悲しいほどに似通っている。違いは、王子様の像がその身を削って施せたのに対し、私の身体から削ぎ落した毛皮は何の価値にもならないところだ。

で、あれば。私は幸福な王子様にはなれない。私は施せない。この献身は、私の不始末を庇うためのものだから。

数日かけて、腹、胸の粗方は落とした。腹の方は既に膿交じりの瘡蓋ができ始めている。人の生命力はすごいなと、他人事のように思う。

次は頬。いよいよ自分の目では見えないところだ。大丈夫。鏡の前に立ち、目をうっかり切り込まないように、右の瞼を閉じる。息を吐く。削ぐ部分に干渉するから、今回は轡を噛まない。どうか、私の声が誰にも聞こえませんように。

やはりカッターは上等で、私の頬だって抵抗なく進む。声は出ているかわからない。痛みは遠い。大丈夫、最近は上手くやれてきた。大丈夫。大丈夫だから。

「最後は、耳......」

あと30分で先生が来る。だから、少しでも進めないと。手が届かない背中は先生がやってくれると言っていた。だから、最後の最後に取っている。

────耳に切れ込みを入れた。次、息を吸って、吐く勢いで引き切ろう。痛いから、速くやってしまおう。

息を吸い始めたその時、ノックの音が聞こえた。こんこん。先生?まだ30分もあるのに。頬だけでも削げて良かった。でないとどうなるかわからなかったから。

鍵を開け、扉を開ける。その先には深い皺がなく、せつな先輩の、現実を疑うような視線があった。先輩は口で顔の下半分を覆って、息を呑む。数秒遅れて、私がどんな格好でせつな先輩の前に現れているのかに気付いた。

「あ、や、ちが、これは、ちがくて」
「......来て」

有無を言わさず、せつな先輩は私の手を引いた。

「とにかく、私の部屋で手当てよ。話はそれから。誰にされたの」
「自分で、やったよ......人になりたかったから」
「......人よ。貴女は人。獣なわけあるものですか。他でもない貴女が」

そこには、義憤があったように見える。私がこの数日で殺した感性が、せつな先輩の手を通じて蘇っていく。何を言うべきなのかわからない。でも、善意にはお礼を言うべきだと思った。私はそういう教えを受けてきたから。

「......ありがとう、せつな先輩」
「良いのよ無理に言わなくて。そのお腹、痛むでしょ。お顔だって......速く治療しなきゃ。私のお部屋で手当てしましょう」

恐怖で真っ白になっていた頭が、せつな先輩に繋がれた手で、色彩を取り戻す。視界ははっきりと鮮やかな赤を捉え、遠かった痛みが襲い掛かって来た。毛皮の1枚や2枚でこんなに痛いとは思わなくて、また涙があふれて、引きつって上手く出せなかった声は、再び空気を震わせた。声が、抑えられなかった。


山ほどの包帯とガーゼが赤く染まっている。私はベッドに運ばれて、手当てを受けていた。

「......良かった、思ったより傷は浅かったわ。できることはやったから、止血が終わったらすぐに病院へ行きましょう。膿んでいる場所なんて、特に危ないんだから」
「先輩......本当にお医者様みたいだった。ありがとう」

私がお礼を言うと、せつな先輩は先ほどの取り乱したような切迫した表情から、一瞬目を丸くして、切り替えるように笑った。

「そう?ありがとう」

人を安心させる、あの完璧な笑顔だ。

「......私の妹もね、奇蹄病罹患者だったの。生死を彷徨った末に、腕に鹿の蹄、頭に角、そして体内に幾つかの胃を授かったわ」

先輩の身内の話を聞くのは、初めてだった。

「それからの妹の身体の構造は特殊になって、何かあっても、誰も彼女を治せなくなってしまった。私は何とかして治し方を探ったわ。だから、貴女の処置にも時間はかからなかった」

「それでも結局、あの子は逝ってしまったけれど」と、せつな先輩は悲しげにはにかんだ。その先を聞くのは、憚られる気がした。しかし、この話から目を背けてはいけないと思った。黙って、話を聞いた。

先輩は、私の隣に座った。

「......こんなことを言ってはいけないというのはわかってるわ。それでも、ありがとうって言いたい。私は、この件で貴女を救けられて、良かった......本当に、ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ。せつな先輩が居なかったら、今頃どうなっていたか......」

そこまで言って、気付く。せつな先輩が泣いていることに。

「ごめんね、私が、弱いから......あなたを......」
「......先輩」

気付けば私は、せつな先輩の首に両の腕を回していた。

「駄目よ、血が止まらない......傷が開くわ」
「大丈夫だよ、先輩。私を妹さんと重ねて見ていたわけじゃないと思うから。あなたは私を見てくれた。私の耳に触れないで、私と言葉を交わしてくれた。私がアニマリーだって文脈を、あなたは会話の限り無視してくれた。そのやり取りが嬉しかった。沈黙が嬉しかった。笑顔が嬉しかった。私はね、とても助けられたんだ。せつな先輩に」
「違う、違うのよ。私は貴女が思っているような人じゃない。私は偽善者よ......貴女にそう接することで、私の妹にしてあげられなかったことをしているだけなの」
「......先輩。私の耳、すごく音を拾うんだ」
「い、いきなり何を」

言っているのとは言わせない。せつな先輩の自責の念を、今は私だけが解決できるから。畳み掛ける。

「猫の耳って、不便ばかり。感情は嘘を付けない。方便が意味を無くしてしまう。それに、人が聞けない音まで拾って、私の頭を埋め尽くすんだ。毎日うんざりしてる。でも、先輩と話すときだけは、あなたの声でいっぱいになる。童話でも、静寂でも、決して解決できないことを、せつな先輩が解決してくれたんだ。今、私の耳はどうなってる?」

きっと、外側に開いてぴこぴこしているはずだ。耳が動くたびに、切れ込みに貼られた絆創膏が気になって仕方がない。

これは友愛の、そして安心の証。それがわからないはずなんてない。他でもないせつな先輩が。しかし、返答はあまりにも簡潔で、思考を感じられないものだった。

「......可愛らしいわ」

私は目を丸くして、顔が熱くなって、思わず吹き出してしまった。

「......ふふ、何それ。もう少しよく見てよ先輩」

少し血に汚れた先輩のカーディガンに、私は頭を擦りつけた。やや鉄臭い、けれども安心する匂いが私の鼻腔に充満する。せつな先輩は、困りながらも笑っていた。

「もう、ちょっと、止血できたなら病院に行くわよ!」

思い返せば、ここが分水嶺だったのだろう。ここで彼女の心が飼っている怪物について、正確に理解できていたのなら、私はこの話の結末のようにはならなかった。そう思う。けれど、理解が遅れて良かったと、心の底から思っている。


病院に行けば、たちまち大騒ぎだった。警察はもちろんのこと、親までやってきてしまった。問題が大きくなってしまう様を直視すれば、少しだけあの夜半の日々を後悔するかもと身構えたが、ずっと付き添ってくれたのはせつな先輩で、だから後悔することはなかった。

親は何か言うかと思ったら、特に何も言わなかった。学校と親は形式ばかりの謝罪を行い、私に「帰る?」とだけ訊いた。「帰らない」と答えると、簡単な返事だけして帰っていった。先生は警察からの聞き取りに連れて行かれた。せつな先輩曰く、現時点で黒はほぼ確定だそうだ。久々に、かかりつけのお医者様のお世話にもなった。お医者様は丹念に、丁寧に追加のケアをしてくれた。先輩は私が頼み込んだ甲斐あって、できる限り傍に居てくれた。その間雑音は弱まって、せつな先輩が居る限り、感情の発露が人の迷惑になることもなかった。私は、その間、ずっと幸せだったのだと思う。

削ぎ落した皮が元通りになることはなかった。瘡蓋が取れた場所には、新しく猫の毛皮が形成されていた。遺伝子の改変、だったかどうかはうろ覚えだけれど、それが怪我程度でどうにかなることはなかった。腹、胸のあちこちには傷痕が残った。顔は......元通りとはいかずとも、先輩の処置の甲斐あって、ほとんど目立たない。私はきっと間が良かった。そう思う。

数週間後。私の削ぎ落した皮が治って、ようやく学校に行ける、という春の頃だった。

私の部屋からこんこんと軽い音がした。扉を開けると、そこには、いつも通り、その場に合わせて完璧な笑顔を湛える先輩が立っていた。

「完治おめでとう。これでようやく、明日から学校ね。お顔も、傷痕が目立たなくてよかった。本当は、痕なんて無いのが一番良いのだけれど......本当に、もっと早くに気付けたら......」
「そんな、せつな先輩が謝ることはないよ。むしろ謝るのはこっちの方......ごめんなさい、こんなに迷惑を掛けちゃった」

それに、勝手に幸せに思ってしまった。彼女の気持ちを考えてなんて、いなかったように思う。散々振り回したと思う。それについては、少し申し訳なく思っている。

「いいえ、いいのよ。私も、貴女と居ることができて嬉しかったわ」

はにかむ彼女は、本当に嬉しく思っていたのだと思う。それは、とても幸せなことだった。

「あら、その指......」

せつな先輩が、私の湿布に包まれた指を見た。

「ああ、これ?これは気にしないで。多分塗っていた軟膏にかぶれただけだから」
「......そう?なら、ちゃんとケアしないと駄目よ。指は大切なんですもの」

私の手の下に、せつな先輩は自分の手を合わせた。

「ねえ、良ければ、私の部屋に来てくれないかしら?貴女の為に、ちょっとしたお茶会をしようと思うの」
「願ってもないことだよ、行く行く、ありがとう、せつな先輩!」

そうして、私は彼女の部屋に招かれたのだ。

せつな先輩の部屋は、いつの日か見た、血塗れの包帯とガーゼが積まれていた時とは違って、清潔そのものだった。あまり洒落っ気はないものの、ベッドは白く、それを中心に、彼女の黒髪や褐色の瞳にも似た色がタイル状に構成され、全体的に落ち着いた雰囲気の部屋だった。所々に動物の......犬や猫のぬいぐるみがあるのは、一層愛嬌を引き立てる。

「お茶会って言ったけれど、コーヒーもあるわ。どうしましょう?」
「うーん、折角のお茶会だし、先輩と一緒にするよ」
「そう?じゃあ、甘いのとさっぱりしたもの、どっちがお好みかしら」
「甘いのかな......」
「じゃあ、ミルクティーにするわね」

そうして出てきたのは、少しビターなお菓子と湯気の立つミルクティーだ。二人でカップを取って、乾杯のような仕草で飲む合図とした。まろやかな甘みが、私の口の中に広がる。なるほど、これはビターな味が良く合う。
2人で落ち着いた空気を共有することに、耳が最大限の嬉しさを表現する。喉が変異していたら、間違いなくゴロゴロと鳴らしていただろう。

「......そういえば、童話集はどうだったかしら」
「面白かったよ。『人魚姫』も、読み直したら新しい発見があったし、それに、考えることもあった」
「どんなことを考えたのかしら?」

私は、カップを置いた。

「人魚姫は、どうすれば彼と結ばれたのか。小さなころは、ただ悲しくて美しい愛の話だと思っていたけれど、それだけじゃなくて、可能性を考えるようになったの」
「......どんな可能性を考えたの?」
「人魚姫が、もし人魚のまま王子様と会っていたら」
「それは......」
「もちろん、難しい話だと思う。人魚のお婆様の話の方が、あの時点じゃ信憑性があった。好きな人に好かれる努力をするのは当然。嫌われたくないって思うのも自然な話。だけどあの時、わかってくれると信じて、人魚のまま王子様と関わるというのも、ある種の勇気だと思うの」

せつな先輩がつぶやく。

「化け物でも、人が愛すると信じる勇気......」

それは、分の悪い賭けだ。やる合理性は欠片もない。だけど、そこにしか道のない運命があるかもしれない。

「人間になって、もし愛し合えたとしても、いずれ人魚だとわかる時が来る。そういう意味でも、最初から勇気を出して自分をさらけ出すという選択が、もしもできていたなら......そう思わずにはいられなかった」

沈黙。先輩は言葉を練っているようだった。ようやく絞り出した言葉は、その完璧な微笑みに似合わない、少し不安のような陰りが見える声だった。

「......ねえ、もし貴女が王子様だったとしたら、そんな人魚姫と恋に落ちることができたと思う?」
「......わからない。でも、その勇気を持って私のことを好きだと言ってくれたなら、きっと、その好意を受け入れることができると思う」
「そう......そうなのね。私、貴女のそういうところに、救われたんだわ」

彼女も、ティーカップを置く。向かい側に居たせつな先輩は、テーブルを回り込んで、私をぎゅっと抱きしめた。

「私ね、妹を助けられなかったの。妹にしてあげられなかったこと、沢山あるの。妹にできなかったこと、一杯あるの」
「......もう、聞いたよ」

私も、先輩の背中に手を回す。

「今更、妹を貴女に見出すことはしないわ。でも、やっぱり情が特別湧いてしまうの。嫌わないでね、こんな自分勝手な私の事」
「嫌わないよ。せつな先輩」

きつくなりすぎない程度に、彼女の力が強まった。

「『人に優しくしなさい、悪いことをしてはいけません。信心と道徳を忘れず、人に施し、努力を続け、感謝される人になりなさい』......」

それは、自分に言い聞かせるような声音ではない。くびきのような教えに、さようならと伝えるような声だった。

「私ね、飼われた動物のことが好きなの。人がお世話しないと、自分のご飯も用意できないし、自分のしたことの後片付けもできないから。年下の子に、頼られるのが好きよ。沢山の先輩がいる中で、私を選んでくれたという事実は、信用と信頼の証だから。病気を患った人も好きよ。私が尽くせば、それだけ感謝されるから」

これは、きっと誰にも言っていないことだ。それだけで、私が特別扱いされているようで、心が舞い上がってしまう。そんな心持ちを隠すように。私は回している背中の手を重ねた。

「尽くしている間は、童話が......王子の像が、燕が、私を褒めてくれる気がするの。私が何もできないとき、彼らが私を苛むようで、とても辛かった。だからね、貴女に手を尽くせたこと、すごく嬉しかったわ。私がお医者様を目指すのは、そういうことよ。私は、自分が救われるためにお医者様になることを夢見てるの」

ただ、私は聞いていた。それは告解にも似ていた。まるで、それは罪であるかのように言うのだ。

────けれど、それの何がいけないのというのだろう。その罪で私は救われたのだ。人を救ってもなお偽善と称されるそれは、果たして罪と呼べるのだろうか?

「だから、もう少しだけ......どうか、もう少しだけ、このままで居させてくれるかしら?」
「......せつな先輩が良いなら」

本心だった。先輩には数えきれないほど助けて貰った。私も、先輩を助けたかった。少しだけ、回した腕を締める。

「ありがとう......この時を、ずっと待っていたわ」

その瞬間。私の感情と思考が吹き飛ばされた。「私」が他人として弾き飛ばされたような、それは刺激なんかじゃなくて、内から湧き上がる衝動。

全部壊したい。全部傷つけたい。私の外側にある音という音が邪魔で仕方がない。

「獣変化欲求障害って、知ってるかしら。正しくは、後天性精神的ストレス獣変化欲求障害。特定条件を満たすと発症する、奇蹄病罹患者最後の症状。患者の理性も、尊厳も、全てを奪い、獣の本能だけを残すの。私の妹が死に至った原因よ。焼きついた本能は、二度と消えない」

異常事態にも関わらず、せつな先輩は落ち着いた声で目を伏せた。我を忘れる瀬戸際の中で、その表情の切り替え一つ一つが際立って美しい。

「でも、貴女が死ぬことはないわ。私が看病するもの、きっと幸せを約束できる」
「......な、に?」

しかし、もはや抑えられない何かが、彼女の完璧な笑顔に怪物を見出させていた。

「貴女は、ずっとストレスを溜めていたわ。学校では雑音があなたを苦しめ、それに誰も気付かない。何日も、何ヶ月も、何年も続く騒音は、ゆっくり、じわじわと、貴女も気付かないうちに、貴女の心を壊していたの。加えて、あの寮母の先生の圧力」

......私の、全身の毛がよだつ。それだけ理解しておきながら、先輩は何も言わなかった。気遣いだと思っていた行いに、それ以上の意味があった。それは純粋な好意、ではなかった。

「貴女......気付いてなかったのね。あれから、夜はずっと壁を掻きむしっていたのよ。貴女の指は軟膏でかぶれたわけじゃない。そもそも、軟膏はちゃんと拭き取っていたでしょう?」
「......そんな、こと」

そんなことない、とは言い切れなかった。思えば、爪を最近切っていない。ささくれが少し目立つ。指先が痛む。全部かぶれのせいだと思っていたことが、急に証拠として私の理性を突き刺してくる。

「それに、耳の動き。イエネコ形質が発現した奇蹄病罹患者が無意識に動かすのは尻尾よ。基本的に、耳は自分の意志で動かせるわ」

頭を殴られたように錯覚した。自分の身体から、人のものではない声が出た。

「......でも、私と居た時、その症状は抑えられた。私が居るときは耳の制御ができていたわ。私なら、この症状を抑制できる。どうすれば貴女が猫としての本能を抑えられるのか。どうすれば貴女が猫にならざるを得ないのか。私は全部知ってるの。今、私の手で条件を満たしただけ。だから、安心して。いつでも戻せるし、貴女の牙でさえ、私は愛することができるわ」

目の前のコイツから、醜い考えが聞こえる。その拍動は、言動と違って雄弁に、高鳴っている。

「ねえ、私、頑張ったのよ。妹が逝っても、私はこんな日を夢見て勉強し続けてきたの。先生はきっと見逃すはずがないとわかっていたわ。信心深い先生ですもの、獣の特徴を持った貴女に矛先が行くことは、想像できたことよ」

彼女の口は止まらない。それは強迫的で、「全てを話さなければならない」という強張りがあった。

「ああでも、最後の一押しとしては、お腹の皮一枚削ぐ程度で大丈夫だったのに、ここまで傷つくのは考えもしなかったわ......こんなになるなんて、それだけは私の失敗だった。本当にごめんなさい。もっと早くに訪ねれば良かった。可愛いお耳が切り落とされる前に助けることができて、本当に良かったって思っているわ。本当よ?貴女のことだけは絶対に守り抜くって決めていたのよ。だって、私に話しかけてくれる奇蹄病の子なんて、貴女しかいなかったもの!」

恍惚とも、悪辣とも違う。形容しがたいその目を前に、私は言葉を繰り出すことができなかった。傷つけてはいけない身体に、無い爪を突き立てる。その音が煩わしくて、しかしそれでも綺麗な姿を、噛み千切りたかった。耳がどうなっているかなんて意識の外だ。ただ壊したかった。どれだけ探しても否定の言葉が見つからない、そんな身体を滅茶苦茶に壊してでも。そんな身体から成る音が、怖くて、仕方がなかったから。

「っ......大丈夫......大丈夫だから。貴女がけだものになっても、私は絶対に離れないわ。だって、そうすると貴女が死んでしまうから。私は絶対に、絶対に死なせない」

ぽんぽんと叩かれる背中から、急激に『私』が引き戻される。頭は冷めて、口の中に広がる鉄臭さを理解し、血の気が引いていく。私はつい先輩を押しのけて、壁まで後ずさった。せつな先輩へ及んだ凶行の味がいつまでも引かない。せつな先輩が流すのは私の罪であり、獣性だった。

「わ、私は、ちが、ご、ごめんなさい、せつな先輩」

せつな先輩は、怯える私の頭を撫でる。その笑顔は首から痛みの中でもなお完璧で。

「いいのよ、貴女は悪くないわ」

「むしろ悪いのは私」と、苦笑の微笑みを向けながら続けた。

「私はね、こういう化け物よ。身体は人そのものだけど、その心の中身には、悍ましい怪物が居るの。弱者に依存されないと生きていけない怪物。献身できないと死ぬ、弱くて醜い、寄生虫みたいな化け物。......一番好きな貴女に、私の正体を告白するわ」

────本当なら、私はこの怪物を拒絶するべきなのだろう。私自身が人であるためには。せつな先輩が、人であり続けるためには。

「せつな先輩......あなたが化け物だってこと、すごくびっくりした。先輩がこんなことできて、私がこうなるまで助けてくれなかったこと、全部わざとだって......想像できなかった」
「......」

けれど、せつな先輩は、意を決して明かしてくれたのだ。自分の罪の一切と、自分が怪物であることを。私をこんな風にしたのも、いつかきっとわかってしまう謀り事だった。本当なら、きっとずっと、露見するまで黙るという選択の方が、簡単だっただろう。

しかし、明かしてくれたのだ。私は恨むなんてことはできなかった。あの晩夏の夜半から、せつな先輩との毎日が、楽しくて仕方がなかったから。あの童話の話がなければ、もっと、とっくの昔に、私はどうにかなってしまっていただろうから。

「先輩......」
「......赦して、とは言わないわ」

沈黙の中、私の瞳を窺う眼は、まるで粛々と判決を待つ罪人のようでもあり、しかし祈りをささげる荘厳な修道女のようでもあった。

だから私は、あなたに問う。

「......たとえ私が他人のことを殺してしまっても、先輩が目を離した隙に私が殺されてしまっても、先輩は......許してくれますか?」
「そんなこと、起こりえないけれど......貴女のことは、きっと許してしまう。そう確信しているわ」
「違う、そうじゃないよ......先輩は、先輩のことも、許してくれますか?」

────あの幸せが、まだ欲しい。私も私で、独善的だった。

「許せなかったら、あなたはきっと同じことを繰り返す。私の他にも、何人もアニマリーを壊して、そのたびにお世話してお墓を作る。『次は上手くやる』ってあなたは思う!私が沢山いる動物の一人になるくらいなら、私は今ここで飛び出して人を殺して、殺される」

その時、先輩の完璧な笑顔が初めて崩れた。それは純粋な悲しみの困り笑いだった。

「......ずるいわ。とってもずるいことを言うのね」
「私は、あなたのことが大切だから。あなたといる幸せが欲しいから。せめて独り占めさせてよ、せつな先輩」

先輩の抱える恐怖と勇気と好意を、どうして拒むことができるだろう?私は再び、せつな先輩のもとへ歩み寄る。腕を広げて、誓った。

「先輩、好きだよ」

これは、私なりの独占欲だ。

私たちは、王子様の像と燕のような、高潔な存在ではない。飾り立てられたものは何もない。私たちで施すような相手もいない。だから、その行く末は人の言う「天国」ではないだろうなと、かすかに思う。けれど、私の天国はここ以外にないとも確信していた。先輩はどうだろう。せつな先輩の天国は、私の抱擁の中にあるだろうか。私の内にある獣が、持ち合わせているだろうか。

せつな先輩の返答は、抱擁だった。ぽろぽろと先輩の頬を伝う涙のことは、黙っていよう。今は衝動も沈黙している。

「好きだなんて......そんなの、私もよ」

天使様は、私たちを見出し給うた。


それからというものの、私は何事もなく登校して、何事もなく授業を受けている。獣変化欲求障害の症状が暴発することはない。

その症状が現れそうな時......つまり、ひどく嫌なことがあった時は、せつな先輩に頼っている。その時こそ、彼女の褐色の瞳は恍惚とした光を湛え、完璧な笑顔でまどろむ。安心できるその顔が、私は好きだ。

私の耳栓は、今やイヤホンとなって先輩のポケットに潜むマイクと繋がっている。先輩の受けている授業を受けている、それだけで、先輩が傍に居る気がして、気が多少楽になるのだ。

......とはいえ、先輩の授業に集中しすぎて、こちらの授業はほとんど耳に入っていないし、やはりせつな先輩が隣に居ないと雑音に悩まされる......ということもそこまで変わらないが。

不機嫌そうな耳の動きは制御できないまま、同級生を寄せ付けなかった。どうやら、これは一度意識から手放してしまうとなかなか元には戻らないらしい。感情のコントロールや警戒心と直結しているため、獣変化欲求障害の寛解にここの治療は必須らしいのだが......

別に、それは治らなくても良いかなと思う。

治るということは、先輩との関係の切れ目の始まりだから。あの完璧な笑顔のために、私の幸せのために、私は少しばかりの不幸は許容できる。

私たちは今日も夜半に逢う。

温くなった空気が渡り廊下に居座っても、私は図書館へ向かう。

今日は、沈黙の日だろうか。それとも、童話について語るのだろうか。

抱擁を経て、一言二言の挨拶をして、ティーカップが並べられる。

化け物二人は、今夜も幸せを享受する。

ページリビジョン: 5, 最終更新: 17 Feb 2025 10:25
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