第三任務に対する例外: イカボッド作戦が21世紀に再現されうる4つの理由
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タイトル: 第三任務に対する例外: イカボッド作戦が21世紀に再現されうる4つの理由
著者: islandsmaster islandsmaster

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20██年█月█日: 財団監督評議会は世界オカルト連合最高司令部に対し、日本国████の財団サイト敷地内で発生した事故により、全世界規模のプラン-デルタ"正常性再定義"が必要とされることを通達する。

20██年█月██日: 世界オカルト連合最高司令部ならびに108評議会は財団に対する最後通告を発するとともに、極東部門の関連排撃資産を起動し、超脅威に対する排除を試みる。

ひどい雨が降っていた。数日間の断続的な降雨は土砂崩れを引き起こし、峠道を寸断し、人口875人の山あいの小さな町を完全に閉鎖状態にしていた。

連日の蒸し暑さと多すぎる蚊が、デクスターの街での滞在を極限まで不快なものにしていた。ごく一般的な旅人はこの気候に耐えられないだろうことを、アルフォンソは悟っていた。トロントから遥々南下してきた若造には、なおのこと堪えたに違いない。

8名の精鋭は別々に宿をとっていた。タラハシーへ繋がる街道沿いのモーテルには監視カメラすらなく、評価班の面々は低気圧に邪魔をされたトレッカーのふりをして、自由に街を行き来した。都会風の気取った北部訛りを隠さない細身の男が、街に一軒しかないガソリンスタンドの売店でナプキンを探していた話を、バーに屯している住民全員が知っていた。班長は暗号化された携帯電話でボストンに連絡し、専門家の派遣を要請して、スナイパーと3人の工作員がそれに応えた。

刻限だった。熱帯夜は対象から睡眠の自由を奪い取り、完全にノックアウトしていた。男は賢く慎重だったが、今日は水のボトルを買ってくるのを忘れていて、渋々モーテルのバスルームで水を汲んだ。もちろん別の客の部屋で。彼は十分に注意していて、しかしその日の晩はモーテルの利用者全員が眠らされる運命にあり、まもなく彼は部屋の中で倒れ伏した。

スナイパーが1500フィート先の屋根の上から狙っていた。3人のエージェントはゆっくりと忍び寄った。屋根を叩く雨音に混じってテレビアニメのオープニングが聞こえる。マイリトルポニーの再放送? 清掃業者の制服に身を包む男たちは微かに笑い、拳銃をチェックした。誰も彼もが眠っていた。通りには誰もいない。雨がすべてを隠していた。オールクリア — 障害はなにもなし。

突入。

5歩目で目論見は崩れ去った。4万5千ヘルツの指向性を持った音波がエージェントたちの鼓膜を速やかに破壊し、最も近くにいたポイントマンのマーティンを即死させた。彼の鼻腔が破裂し、明らかに人体内には存在できない量の黒紫の濁流が噴出するのをアルフォンソは見た。死体は反動で吹き飛び、バスルームのドアを破壊して中に突っ込んでいった。彼は耳を押さえながらベッドルームに走り込んだ。

赤ん坊はリュックサックの中から這い出して泣き叫んでいた。部屋中が震えていた。現実性が刻一刻と歪められているのをアルフォンソは察知した — スクラントンのクソ野郎! 父親は両耳から血を吹き出してベッドの上で痙攣していた。一瞬だけ躊躇し、それからアルフォンソはトリガーを引いた。父親の頭、喉、心臓、それから赤ん坊にも同じように。

赤ん坊は泣き叫んだ。

瞠目するよりも先に、音速を遥かに超えるスピードの弾丸が窓ガラスを刳り貫き、赤ん坊を跳ね飛ばした。ちぎれ飛んだリュックサックからはじき出され、放物線を描いて飛んでいく14ポンドの丸々とした身体を視界に収めて、彼はあれを追いかけろと叫んだ — そして振り返った。

ライフルマンのジャスティンの下半身はアヒルのボートに置き換えられていた。汁を吹き出すオレンジの形の車輪は配置がめちゃくちゃで、両腕はねじれてポニーのたてがみのようになっていた。彼はもごもごなにかを言い、それはおそらく遺言だったが、彼らの鼓膜は既にものを聞き取れる状態ではなかった。涙を流し、それから彼はバランスを崩し、恐怖に双眸を凍らせたままゆっくりと横たわった。プラスチックの車輪がカラカラ回った。

アルフォンソは狂奔しながらも、訓練どおりに行動することができた。鮮やかな身のこなしで彼は崩壊した窓枠をくぐり抜けた。部屋の入口は紫の沼地に変わり、窓枠に残ったガラスの断面は虹色に輝いていて奥行きが20マイルはあった。部屋全体がシーツに残った汗染みの色に歪み、退路はなかった。赤ん坊の死体がクローゼットにあるはずだった。生存の望みはそこにしかなく、彼は呻きながらドアを開けた。

耳の後ろの骨伝導イヤホンが声にならない悲鳴を拾い上げた。スナイパーのチャン・リーの喉が押し潰され、彼の全身の骨が主人に耐え難い苦痛を与えながら擦れ合い成長していく音だった。自分の頭蓋骨を通じて部下の懺悔を聞きながら、アルフォンソはクローゼットの先になにもないことに気付かされた。そこにはエンパイア・ステートビルよりも巨大なテレビ画面があり、赤ん坊の泣き顔は6次元方向に歪んで彼の脳髄を突き抜け、成層圏でポニーのダンスを踊っていた。赤ん坊の母親がゆっくりと微笑みかけ、紫色の天使のモビールが頭上で揺れるさまをアルフォンソは赤ん坊の中から見ていた。彼はスナイパーライフルが部下の眉間を撃ち抜く音を聞き、"私のかわいこちゃん、お返事して"を聞き、雨音とべたべたした果物ゼリーの食感と硬い指先と溢れる湯船の温度とタクシーのクラクション。作戦中止を叫ぶ班長の金切り声はもう聞こえなかった。

彼はマガジンの中身がなくなるまで撃ち尽くした。

なくなってもまだ引鉄を引いていた。やがて引鉄と指だけが残った。

それがデクスターの街に最後に残ったものだった。

20██年█月██日: 世界オカルト連合最高司令部ならびに108評議会は財団との暫定停戦合意を締結し、プラン-デルタの修正適用ならびに財団資産を中心とした当該超脅威の限定管理体制の設置を承認する。

2031年12月20日: PLLP抽出技術の拡散に伴う排撃資産の相対的弱体化は、第三および第四任務に従事する物理部門所属排撃班員の任務中死傷率を10年間で約587ポイント上昇させる。


*


チューリヒは曇天の中に押しつぶされていた。季節外れの低気圧が強風と驟雨と湿った雲とを交互に差し入れてきたことで、道行く人々はみなどこか憂鬱な顔をしていた。

D.C.アルフィーネもその例に漏れない。鉄の規律で以て組織を統率する事務総長、かの高名なおっかな女の噂は連繋局の隅々まで行き渡っており、まだ本名を名乗っていた頃のヴィーナは幾度となくその立ち居振る舞いを想像した。美しく高慢な銀幕女優の風貌、時を止めた黄金時代の美。

そして実際に彼女の下で補佐官となって知ったのは、齢百五十を数える魔女もまた人間に違いないということだ。

ガラス張りのドアが音もなく開く。リノリウムの廊下は淡いパステルカラーに塗られ、よそよそしさを巧妙に隠している。12の国際機関が間借りする巨大なビルはそれ自体が福祉施設ということになっていた。その一角に設置された病棟は、ただ案内板の表記を頼りに歩いている限り永遠に辿り着けない仕掛けだ。

落ち着いた焦げ茶色のスーツ姿のアルフィーネは、株式投資に成功し若くして慈善活動に転身したやり手の実業家のように見えた。さしずめ自分は秘書か管財人か。悪くない配役だとヴィーナは微笑んだ — しかしその表情が場違いなものであったことを、数十秒後には悟っていた。

「具合はどうかしら、パークス」
「痛みは大分引いてきましたぜ」

それは幾度も繰り返されてきたやり取りで、おそらくは一言一句同じだったろう。奇妙なほど広いクリーム色の部屋で、ベッドに腰掛ける初老の男は右腕と顔面の半分がない。失われた頭蓋は22次元の果てに折り畳まれて帰ってこなかった。傍らに控えた医師が能面のような無表情で説明を始めたが、それは元兵士の陥った長年の苦境について語っているにしては、靄のように不定形で掴みどころがなかった。具体的イメージを持たない内向的現実改変の外的投射。存在していない状態への落ち込み

「ICSUTのお偉い学者さんが言うには、俺の腕はまだここにあるんだそうで。感覚もないし触れもしない、でも付いている。いつか帰ってくるかもしれないと。変な話でさ」

パークスは肩を竦め、剽軽な笑みを浮かべようとしたが、片方しかない口角が引き攣るだけだった。彼は目を忙しなく左右に動かしたが、結局ベッドの上で項垂れた。

「ヘグセスのやつが撃ったとき、あれは息をしてませんでした。標準手続きのつもりでした。脳天と心臓に二発。それで終わりだと思ったんです」
「君はよくやった。最善の判断をしたのでしょう」
「動き出すなんて思いませんでした。奴らはよく首を括る。母親の記憶をまっさらにしちまったとか、恋人をカエルに変えちまって戻せないとか、だけど死んだら人間と同じでしょう。あのときはそうじゃなかった」

心底恐ろしいという表情で、彼は痩けた頬を震わせた。ヴィーナは朝食前に読んだケースファイルを想起した。ずっと前に解決済みの判を捺された資料 — メスキートの郊外で起きた爆発事故。自殺したはずのタイプグリーンが動き出し、死体の回収に来たエージェント諸共に住民と自分を吹き飛ばした。死者45人は身元の特定に成功した数で、それにしたって現地政府の登記簿からの推定にすぎない。パークスが生き残ったのは、部屋を覗き込もうとした住民を追い立てていて、偶然にも街路の向こう側にいたからだ。グリーンはタナトーマを抜いていたが、公的な記録は何もなかった。

アルフィーネは年老いたエージェントの肩に手をやり、労りを込めて軽く揺さぶった。彼女の身体から仄かな魔法の気配が漂い、消毒薬と膿の臭いに溶け込んだ。賦活と癒しの奇跡。男の動揺は速やかに鎮まり、彼は脱力してベッドに横たわった。

「また来ます」兵士が眠りに落ちる直前、冷厳なる事務総長は優しく耳元で囁いた。「風邪を引かないようにしなさい」


病棟の空気は澄んで乾いている。空調設備は万全の状態で、20メートルごとのエアカーテンがウイルスの行き来を完全に遮断する。それでも腐敗した血の気配をヴィーナは感じた。それは並べられたベッドの上、表面上は何の傷もないように見える、かつては精強な兵士だった人々の成れの果てから漂ってくるのだ。

「彼らの多くは記憶がないんだ」アルフィーネの呟きを危うくヴィーナは聞き逃すところだった。「ここに運び込まれて以降の記憶が定着しない。自分がどこにいるかわかっていないんだ。精神療法も効果がない」

「それは......身体の一部を失ったから?」
「わからない。トラウマの克服には時間がかかる。タナトーマは精神の死を覆し難いようだから」

皮肉げな笑みを浮かべた次の瞬間に、彼女は病室に吸い込まれていく。その先には同じ光景が待っている — 顔馴染みの病人と感情のない医者。二十を優に越える病室で同じ会話が繰り返される。多くのベッドのサイドテーブルには花と共に写真が飾られていたが、紫外線に焼けて色褪せている。彼らの服はどれも古臭く、読んでいる本は二昔前の流行だ。見舞客がひとりとして見当たらないことをどう考えればいいのだろうか? 一言二言、当たり障りのない会話を交わしただけで苦痛に呻き、脂汗を浮かべる者もいる。言葉すら発せない者もいる。

傷跡、傷跡、傷跡。わずか2時間半の慰問は瞬く間に過ぎ去った。帰り際、先導する医師に何事かを告げて、アルフィーネは出口へと続く廊下を逸れた。ヴィーナと護衛が慌てて後を追う。階段を降り、左右に曲がり、認知を狂わせる数枚の見えない幕を越えて、いつの間にか壁は純白に染まっている。

突き当りの部屋は薄暗く、壁一面に扉があった。それはまるで地下墓地モルグのようで — そこがまさしくそのものであることに、一呼吸遅れてヴィーナは気付いた。白衣を着た老人が扉を開き、奥に安置されていた半透明な箱を丁寧に引き出してくる。いくつかのコードと輸液チューブ、温度計と酸素計が繋がれている。

「最初に私が訪ねた部屋に、パークスという老人がいただろう」

珍しく憂いを帯びた表情でアルフィーネが言った。「あの部屋は二人部屋だ。もう一人患者がいるんだ。彼は一度もこのベッドで寝たことがない」

「治療中だということですか?」
「広い意味で言えばね」

老医師が操作卓に手を触れると、半透明のガラス壁が通電し、見る間に曇りが消えていく。ヴィーナの目はその向こうに何かを認める。黄色がかった栄養液の中に沈んでいる小さな影。照明の下で色を失い、ぼやけた輪郭を持つ、白っぽい小さな肉の塊。

それは指だ。第二関節の先で引きちぎられた、指。

しかし......

「これが?」これまでに潜ってきた血腥い修羅場の経験が、辛うじて年若い補佐官を正しい判断に留めていた。「これが......患者なんですか? 生きていると?」

「君を選んだのは間違いじゃなかったな」年老いた魔女は薄く微笑んだ。「彼の名はアルフォンソ・リシャール。タナトーマの性質は知っているだろ」

「勿論です。しかし、これは......」
「過度な身体的苦痛を回避するための抽出規制基準がまだなかった時代だ。希望したエージェントは実験的なタナトーマ抽出を受けられた。致死的状況においても任務を遂行するために、想定されうる大半の死因を抽出した」
物理PHYSICS部門の基準では、MIAとなるはずでは」
「刺激に反応するからね。光と接触に対して応答を返す — 単純ではあるが」

まさにその時、それは僅かに身動ぎした — 輸液の中でゆっくりと跳ね上がり、それは水分を吸ってふやけた輪郭を歪ませた。ヴィーナはどうにかして悲鳴を堪えることができた。そしてなぜか、容器の向こう側でのたうつ指の、その動作に確かな既視感を覚えた。

「彼の身体は見つかっていない」淡々とアルフィーネが言う。「残りの全てが湖底に消えた。デクスターの街と共に。一般的な轢断死の超克症例では、切断された肉体の一部は飽くまでも肉片に過ぎない — しかしアルフォンソの場合、彼の指はどこかにある身体と繋がり、彼の生存を証明し続けている」

「戻って来る見込みは......」
「考えられる手段は全て試した」

それは直截的な表現を好むアルフィーネの、珍しい感傷の発露といえた。ヴィーナの驚くような視線に応えてか、魔女は緩やかに首を振った。

「今年で10年になる — 遺族は同意書にサインしたそうだ。倫理審査が終われば、彼にタナトーマが注入される」
「抽出した死因を、戻す」
「成功するか分からないがね。もう苦しませたくないそうだよ」

これが最後の機会になるだろう — アルフィーネは身を翻す。

上司の後を真っ先に追うのが自らの務めであることを、ヴィーナは誰よりもよく知っている。だがこのとき、彼女は暗がりに留まっていた。視線の先では、緩やかな撹拌の水流に乗って、指がキューブの内側を漂っていた。腱も骨も寸断されているにもかかわらず、いかなる働きによってか、2つしかない関節は強く曲がり、握り拳のような形を作っていた。やはり見覚えがあるように思われた。

「あの」

地下墓地の主たる老医師が振り向く。彼の背はひどく曲がっている。ガラス瓶の底のような厚い眼鏡の向こう側に、ヴィーナは自分自身にも理解できない問いを投げた。

「彼の指は、どれなんですか」
「右の人差し指」

利き手だよ。

それだけ言って、医師は背を向ける。操作卓に触れるなり金属の軋む音を響かせて扉が閉じてゆき、ヴィーナが慌ててすり抜けた次の瞬間には、寸毫の隙間もない壁がそこにあった。

アルフィーネの背中は既に見えない。彼女は自分を決して待たないだろう — しかし叱責もしないだろう。三段飛ばしで階段を駆け上がりながら、腹の中に得体の知れない感情が渦巻いていることをヴィーナは知る。それは恐怖に似ていたが、しかし熱があり、衝動を伴う。

彼女は畏怖している。あの指の動きに覚えた既視感は誤りではないと、彼女は確信を持って言えるからだ。世界オカルト連合の兵士なら、誰もがあの動きを知っているはずだった。

彼は引鉄を引いていたのだ。


*


フロリダ州の財団サイトが抱える異常存在の総数は、56年の統計開始以降、一度として減少に転じたことがない。財団は幾度となく保全サイトを建設し、向こう100年の収容の安定を期したが、そのたびに計画を修正してきた。しかし最新鋭の大深度収容チャンバーを建造するにあたり、施設の運営をGOCと共同で行うと決定した際には、少なからぬ混乱が巻き起こった。

いま、ジョシュア・アイランズは地下800メートルへ降下するエレベーターの中央にいた。彼は頭上に伸し掛かる地盤の圧力について思いを馳せたが、僅かな恐怖をすぐさま振り払った。万が一の事態が発生したとき、それは人類文明全体を破局から守護する防波堤となるはずだった — ゆえに安心するべきなのだ。それはどちらかといえば暗示に該当する心理で、彼はそれが非常に得意だった。

「81管区からいらしたお客ってのはあんたで?」

待ち構えていた技術士官はウォレスと名乗った。挨拶もそこそこに彼は身を翻し、マザー・グースに歌われていそうな芸術的肥満体を揺らして、狭い空中通路を器用に渡った。アイランズもおっかなびっくり続いた。

「ここを見学しようって人間は多いが、大体は技術屋か、管理官クラスだ」ウォレスは鼻を鳴らした。「握手するのが仕事の人間は地下に降りてこない。ビルの上かビーチにいるもんだろ」

「機会がなかっただけでしょうね」にこやかにアイランズは皮肉を躱した。「必要があればどこにでも訪問します。ここに来る前はクックフォンのジャングルにいましたので」

「そりゃいい。中国かね?」適当な相槌を打ったところでウォレスは止まった。「ここだ。俺たちは"玄室"と呼んでる」

唐突に視界が開け、アイランズは目を瞠った。広大な地下空間は、セントラルパークが丸ごと入りそうなほどだ。あちこちに輸送用のシャフトや懸架クレーンが張り出し、遠い天井を支えるための巨大な柱が突き立っている。白衣の研究者と作業ツナギを着た技術者たちが行き交い、彼らの背中には2つの巨大な組織を表す見慣れた印章が踊っている。

二人は小高い場所に設置された整備用の待避所にいた。眼下の地下空間は通路と柵で碁盤の目のごとく区切られていて、それぞれの区画の中央には円形の縦坑が掘り抜かれている。大半の縦坑は既に埋まっており、巨大な鉛コンクリートの蓋で厳重に封印されていたが、いくつかの縦坑は空のままだった。

「あれが"石棺"ですか」アイランズが訊き、ウォレスは緩慢に頷いた。

「そう呼ばれてる。タナトーマ過重抽出者の生体活動を凍結するには、現状ああするしかないからな」

二人はリフトを使って斜面を下りた。この小男が世間話を好まないこと、一方で会話自体は嫌いではなさそうだということをアイランズは見抜いていた。地上で渡された通り一遍の資料を片手に、いくつかの初歩的な技術的質問を投げることで、彼は容易に工学技師の胸襟を開くことができた。

「つまり、問題は中枢神経の活性なんだ」埋設エリアの麓に着く頃には、ウォレスは大げさな身振り手振りでもって感情を示すようになっていた。「致死的事象LPの閾値は個体ごとに異なる。閾値を越えて呼吸筋や心筋が麻痺すればそいつは死ぬ。するとどうなる?」

「窒息死のタナトーマは最も普遍的で抽出率が高い、ということは」

数年間にわたる討議を経て、統計データはアイランズの脳に焼きつけられていたが、彼は敢えて手元の資料をめくり、聡明だが経験不足の若手官僚を装うことにした。

「死亡すれば蘇生する。一般的なタナトーマ抽出症例では、毒性物質による死亡への抵抗において、原因物質は分解されるか一時的に感受性を失う......」

「つまり効果が切れる」男は頷いて傍らの柵を叩いた。地下空間を反響が渡り、周囲の人間が何事かと振り返る。「一度でも殺したらその時点で終わりだ。麻酔も筋弛緩剤も効果が消滅、猛獣が目を覚まし、牙を剥く」

「麻酔技師が大勢必要になるわけですね」ため息をついて、アイランズは柵に寄りかかった。

フロリダ州大深度秘匿拘禁施設、それがこの巨大な穴蔵の正式な名前だった。最初の10年で向こう見ずに死を投げ捨てた数千万人の中にどれだけの数のタイプ・カラーズ、すなわちヴェール体制への潜在的脅威が潜んでいるか、財団とGOCが大まかな数字を掴んだときには、事態はのっぴきならない状態に陥っていた。特に敵対的なCCCool Colorsは即座に問題になった。殺しても死なない現実改変者。悪夢に等しい存在。

タナトーマ抽出者は同等以上のタナトーマ注入で殺害できるので問題ない — ゼーバッハの、つまり財団の研究者の説明は、単なるポジショントークに過ぎないこともすぐにわかった。最高品質の抽出を施したおかげで死ねなくなった"死の貧者"、適合しないタナトーマが体内で暴れまわる"舞踏病マカーブラー"、横行する記録改ざん。少しでも頭の回るカラーズは自分の抽出記録を焼き捨てるか、担当医の脳を念入りに壊す。

だから血の滲むような試行錯誤の挙げ句、どうやっても死なない怪物たちを、標本よろしく閉じ込めている。

「凍死のタナトーマを抜いてる奴は少ない。事前スクリーニングの必要はあるが、8割方は無視できる」ウォレスは話し続けている。「それでも調整は必須だ。冷凍睡眠に対応した部分抽出は比較的新しい規格だから、初期の抽出者は低体温をトリガーとした覚醒リスクがある。代謝の完全停止は危険だし、最近は連中もここのやり方を対策してきてる」

「低温で低血糖状態に置き、ごく緩慢な代謝を維持しながら、数十年に一度麻酔剤を追加して眠らせる」
「その通り!」

SRAが根本的な解決策にならないことは、膨大な事例の蓄積ではっきりしている。正常性の再定義について合意して暫く経った頃、財団とGOCは一部の封印施設を共同で建設することにした。何度も死に損なったグリーンやブルーが、いわゆる"末期の火エル・フエゴ"、臨死体験の過程で新しい力を手にすることの危険性を理解したからだ。カイロ、バンジャルバル、サンタフェ、そしてここフロリダ。タナトーマは彼らに予期せぬ力を齎し、フェーズ4に進んだ数人の不死の神は、都市を丸ごと泥の中に沈めた。

今では世界中にSSDFがある。眠らせたカラーズを安全に運べる距離は限られているから、人口密集地から数千キロの位置には常に封印施設が必要だ。使い捨ての核燃料を埋めるように、財団は注意深く土地を選んだ。万一のときに土砂とベークライトで完全に埋め立てられるよう、何十もの殺人的フェイルセーフと共に — 最も、死を見限った人々に対してそれらが機能を果たすのかどうか、誰も確証が持てていなかったが。

ウォレスの案内は続いていた。管理通路から見える玄室の封鎖区画は7割方が既に己の主を迎え入れている。この施設が収容限界に達するまであまり猶予はない。もしかすると以前よりも良いのかもしれない、とアイランズはぼんやりと考えた。彼らは少なくとも殺されることはなく、死に類する苦痛を与えられることもない。

区画の端にクレーンで懸架された巨大な塊が鎮座していて、アイランズはそこで初めて"石棺"の全貌を見ることができた。SRAの力場固定器で両端を挟まれた縦の円筒は、鉛とベリリウム銅の被膜の周囲を絶縁樹脂とコンクリートの分厚い層で覆われている。傍らの銘板にネームカードが差し込まれていることに彼は気付いた。それが属する縦穴は、未だに主が不在のままだった。

「このあたりは"書棚bookshelf"さ」ウォレスはニヤリとした。「先約ありbookedってやつだ。逃亡中や行方不明の、ここにしか行き場のない札付きども」

十数か所もある空の縦穴が、アイランズの眼下に虚無の口を開けている。その中に入るべき名前は皆、南海岸のどこかに潜伏しているのだ。背筋に走る怖気を抑えて、アイランズは手元のカードを読んだ。

グーフィー・ベビーGoofy the "Babe" - 本名不詳。捕捉当時11ヶ月。タナトーマ過重抽出。タイプグリーン指定。
2028年6月22日 - デクスター・インシデントを発生させ行方不明。死者889名。


「いい経験になったかよ?」上昇するエレベーターの中で、呆れたように技師は笑った。「あんたも大変だね。あの辛気臭い穴蔵をいくら覗いたところで、大した意味があるとも思えんが」

「お気遣いいただきありがとうございます」アイランズも苦笑した。

「意味はありましたよ。少なくとも、私には」
「へえ、そうかい?」
「ここには決心の材料を求めてきたんです。ある大きなプロジェクトを進めるにあたって、私には足りないものがあった。それを見つけられました」

ならいいが、と気のない様子でウォレスは言った。周期的な揺れがやみ、三重の隔壁が順々に開くと、その向こうから陽光が差し込んでくる。

一礼し、アイランズは小舟から降りた。一度として振り返らなかった。


*


世界オカルト連合にとって、メキシコ湾は不可解な場所だった。いつからか南の汽水域は財団の伝統的な地盤とななり、GOCはその後塵を拝していた。フロリダに渡ってくれと言われたとき、なぜ断ろうとしなかったのだろうか? ヴィーナは機上で何度も自問したが、その答えを見出すことはできなかった。

アルフィーネは多忙だ。それでも彼女は時折、その地位がもたらすしがらみよりも個人的事情を優先させる。彼女にはそうできるだけの権力があり、そしてそのためのメッセンジャーとして選ばれたことを光栄に思うべきなのだろう。

それでも夜半、ヴィーナの胸の奥で、水中に揺れるあの指が無音のまま引鉄を引いている。そして硬いベッドから跳ね起きて、荒い息に肩を揺らし、自分の右手を見つめて、それが繋がっていることを確認するのだ。

「そこに行って財団の人間と会いなさい」

アルフィーネはいつもの調子で言った。「彼らの持ち掛けてくる取引に、あなたの言葉で答えるの」

「私の?」
「それがそのままD.C.の言葉になる。あなたが判断するのよ」

「待ってください」ヴィーナは慌てた。あまりにも早急に思われた。「私ではあなたの代弁者たり得ません。少なくとも今はまだ — チェレスタかコーダを」

「コーダは退役した」それは有無を言わせぬ口調だった。「あなたがやり遂げるの、ヴィーナ」

結局それが全てだった。アルフィーネはもう決断していたのだ。だからヴィーナは飛行機に乗って、またあの夢を見て飛び起きたときには、もうフォートローダーデール・ハリウッド国際空港の滑走路でタキシング中だった。


そこは小さな教会だった — 少なくとも80年代には。今は廃墟という言葉を通り越している。ヴィーナと護衛たちが到着したときには、きっかり同じ台数の車輌が門の脇に停められていた。夕陽に照らされて、一行は枯れ落ちたバラのアーチを潜り、穴の空いた芝生を通り抜けて、礼拝堂の扉を開け放った。

「こんばんは。お待ちしていました」

男が一人、崩れ落ちた屋根から差し込む西日を浴びて佇んでいる。ヴィーナはその顔に見覚えがあった。かつて幾度か、極東方面の実務者協議で顔を合わせた経験がある。

「ジョシュア・アイランズ」口をへの字に曲げる。「私は違う人が来ると聞かされていました。もっとその......大物が」

彼女はこういう場に慣れていなかった。連繋局は確かに交渉と調整の場ではあったが、歯の浮くような台詞を並べ立てる外交の場というよりはもっと直截的な......言語と拳を等価に扱うような場所だった。

「フランシスは来ません」彼の柔和な笑みに影が落ちていた。「フランシス・ヴォイチェホフスキは死にました」

沈黙。

「こちらもまた予想が外れたと言わざるを得ませんね」アイランズは呟いた。「あなたが来ることを知らされていませんでした、ヴィーナ事務次長。コーダはどうなさったのですか? この件の責任者だと聞いていました」

「退職したわ。今はもう別の名前で、養蜂か何かをやっている」
「なるほど」

頷き、彼は長椅子を手のひらで指し示した。「座りませんか?」

二人は通路を挟んで座った。陽光はますます赤くなっていった。

「つい先程まで、"石棺"を見ていたんです。我々が追うべき責任について考えさせられる場所でした」

唐突な言葉にヴィーナは困惑して、通路の向こう側にいる男の横顔を眺めた。アイランズは視線などどこ吹く風といった体で、背もたれに積もった埃を払った。

「現在の社会情勢に関して、財団は貴方がたに借りがある。我々はその一部でも返済しようと苦心してきましたが、今のところ負債が大きくなる一方だ」

この数十年の混乱の原因が彼らにあることは明らかだったので、ヴィーナは無言で頷いた。タナトーマは元より彼らの技術だ。漏洩と拡散、その後始末。彼らの言うところの社会的収容が正常性に与えた傷口は、常に膿み出血し続けていた。世界オカルト連合はその尻拭いを続けている。病院、血液、指先。増すばかりの苦痛。

「フランシスは死ぬ前に計画書を残しました。非常に詳細に検討された、ある種の......緩和策です。現状に対する打開の一助になりうる。監督評議会は評決に達せず、まだ実行はされていない」
「それを私たちに?」
「意見を求めるべきだという見解で一致しました。同盟的地位からのオブザーバーとして」
「ちょっと待って」

ヴィーナは眉を顰めた。奇妙な悪寒が彼女の背筋を撫ぜた。「コーダがこの件の責任者だと言ったわね?」

「それが何か」
「彼は物理PHYSICS部門の戦略設計者でした。第三任務の — 保護の例外を規定する。何が保護されるべき人類であり、何がそうでないのか」

「何を破壊するべきなのか」アイランズが継いだ。ヴィーナの悪寒はますますひどくなった。「あなたまさか — 」

「我々はイカボッドを復活させます」

財団の外交官が宣言した。連合の事務次長は押し黙った。


イカボッドはスリーピー・ホロウだ。それは存在しない — 公的canonicallyには。現実改変者の成長と能力の安定化に関する知識が不十分だった時代、カントがようやく彼の名を冠する有名な計測機器を開発し、スクラントンがまだ言葉すら発せなかった時代、タイプ・グリーンは未知なる脅威であり、彼らが完全な覚醒 — お子様神フェーズ4を迎える前に殺すことが局所的な最適解だった。

だから殺した。イカボッド作戦要項はタイプ・グリーンがその変貌を明確なものとする前に、すなわちカント計数機で観測可能な現実揺動兆候を示したその瞬間に、完全に根絶するシステムとして設計された。第三任務の完全な例外 — すなわち安定期に入るか否かを問わず、人類としての保護を度外視し、実行例の96%においては未成年であった対象を、狙撃ないしは致死毒によって排除する。

イカボッドはスリーピー・ホロウだ。存在しないが、誰もが知っている。彼らがコーンウォールで壊滅するまでの二十年間、世界オカルト連合は万に届く数の児童の脳髄を粉砕した。その結果は統計に表れている — 彼らが能力を発現させるはずだった次の二十年間は誰にとっても凪の時代だった。捕捉を免れたごく少数の能力者が引き起こした騒動に資産を集中させたことで、財団とGOCは貴重な安定的フェーズ3のサンプルを獲得し、スクラントンは輝かしき錨を創り上げ、それを武器ではなく部屋の壁に用いた。

そして時代が一巡した頃、既にイカボッドは不要になっていた。タイプグリーンは捕獲可能であり、殺害可能であり、そして一部の事例では喜ばしいことに、外挿的に安定化できるようになった。世界に張り巡らされた監視網が彼らの早期発見を可能にし、そして致命的な毒を持つコントロール不可能な株だけを切除して、そうでない株を閉じ込めることで、第三任務は再び達成された。

イカボッドはスリーピー・ホロウだ。それは過去の亡霊であり、GOCにとっては埋められた過去だった。


「ノーです」と彼女は言おうとした。それはコーダの言葉だった。かつてアルフィーネに対し、彼は確かにそう言ったのだ。イカボッドは無知と無責任が生み出したひとときの悪夢だった。それは掘り返してはならない墓だった。

何かが彼女の口を縫い留めていた。それはコーダの言葉だった — ヴィーナは踏み留まっていた。"ノー"は彼女の言葉ではない。彼女はまだ判断していない。

「資料を」やっとのことで彼女はそう言った。「フランシスがそう考えるに至った理由を教えなさい」

アイランズは滑らかな動きで足元の書類鞄を引き寄せた。プリントされた紙束と、ファイルが収められているだろうメモリチップがヴィーナの手に渡った。陰りゆく斜陽に照らされて、彼女は必死に文字列を追った。ほとんどの資料は打ち直されていたが、一部のメモ書きや図表は手書きのコピーで、神経質かつ不安定な尖った筆跡で綴られていた。

前提1: 老衰死のタナトーマ抽出は約4億人に普及しており、この数字は事実上減少しない。既知の研究によれば、生来の素質を有する現実改変者の30%は覚醒することなく人類の平均寿命を迎えるが、仮に160歳まで拡大した場合、未覚醒である確率は1%を下回る。

前提2: フェーズ2以上に到達した現実改変者のおよそ20%が能力の過剰または誤った行使の結果として死亡するか、または自らを不可逆的に改変する。先進国の児童に普及する6種の複合タナトーマ抽出は、これらの自己終了の大半を抑制するか、彼らが自らを修復するに十分な期間の意識保持を可能とする。

前提3: 臨死体験は現実改変能の覚醒トリガーであり、能力を有意に増幅または多様化する。これは過去の交戦事例の統計において確証されている。フェーズ4に到達した自覚的現実改変者は他の生命体に対する操作を通じてこれを代替し、一部は自らの肉体を使用するが、タナトーマ抽出はこの経験を明確に強化および易化する。

前提4: タナトーマ抽出済みの現実改変者を終了する方法は事実上存在しない。彼らが自身および自身の抽出したタナトーマの種別を隠蔽し、または自己改変によってタナトーマ抽出状態の変更を試みたとき、我々は対抗する術を持たない。

「......確かなのね?」

ヴィーナは静かに尋ねた。そこに書かれている内容を疑う気にはなれなかった。現実改変技術、特に殺害ではなく鎮静に関して彼らに一日の長があることは事実だ。目張りされた牢獄の中に閉じ込められた何百人ものグリーンを使って、彼らは日々実験をしていた。フランシスは全てを見ていたはずなのだ。

「彼以上にこの件に詳しい人物はいません」アイランズは断言した。「エージェント・ウクレレとしてイカボッドに従事した後、彼はその崩壊を見届け、財団に身を寄せて現実改変者への対抗鎮圧ドクトリンを構築しました。彼はすべてを知っていました」

「では......」
「時代は二巡目に入ったとのことです。イカボッドの遺産を使い切り、その上にスクラントンが塔を建てた。タナトーマが黄金時代を崩す。あなたがたと我々の総力をもってしても、いずれ破局が訪れ、正常性を維持できなくなる」
「だからその前に、予防せよと?」

予防的対処 — おぞましい響きだった。かつてそのようにして大量虐殺が正当化されたことをヴィーナは想起した。裁かれることのない犯罪の果てに、GOCは自らの仕事を思い出した。暴力と破壊は、必要とされる最小限度においてのみ振るうことを許されるのだ。イカボッドは明確に過剰だった。思考を廃し、責任を放棄した。だから枯木の中に封じられたのだ。

「評決は6対6でした」財団の外交官は肩を竦めた。「倫理委員会も結論を出せなかった。次の動議ではタイブレーカーが動く。その前に参考意見が必要です」

「我々には何も求めないと?」
「これは財団の問題ですので、財団が責任を負います」

それが詭弁に過ぎないことを二人とも理解していた。イカボッドはスリーピー・ホロウなのだ。子どもたちの午後のおやつに青酸を混ぜたとき、GOCは責任など負わなかった。子どもたちが狩り殺されているとき、財団はただ傍観していた。それが繰り返されるだけなのだ。

二人は押し黙り、最後の陽光が廃屋の向こうの丘に消えていく。忍び寄る寒気に震えながら、ふとヴィーナはあの指先を想起した。引鉄を引き続ける兵士。彼が何をしていたのかを彼女は調べ上げた。889人の生命とともに押し流されたデクスターの街で、見つかったのは彼だけだった。生きているのかも定かではない、意志だけで還ってきた存在。

そしてもうひとつの存在 — 名前すらわからない赤ん坊。タナトーマを多重抽出された覚醒者、そして洪水の中に消えた。タナトーマは少なくとも、彼を抱えて逃げた父親にとっては未来への希望だったはずだ。赤ん坊にとっては無論のこと、善悪の区別など存在しない。ただ本能に従っただけなのだから。

病院、血液、指先。膿み淀んだ恐怖。イカボッドを、そしてその結末をコーダは虐殺と呼んだ。それは事実だ。だがヴィーナの半分、D.C.アルフィーネに仕える連繋局補佐官としての部分が、冷静に指摘していた — これが財団の策略でないのなら、フランシス・ヴォイチェホフスキが真実を語ったのなら、イカボッドは絶対に必要だ。もしくはヴェールを失うか。

数万人の死か、70億人の混沌か? それは一体何百万人を殺すのか?

わざわざ比較するまでもないことだった。生命は常に計量できる。そうであるならば計量すべきである

結論はもう決まっていた。

「私がもし、貴方たちの一員だとするなら」

一言で言い切った。「答えはイエス。実行するわ」

暗闇がやってくる。紫色の空を海風が渡る。取り返しのつかない決断をしたことをヴィーナは悟る — それは間違いなく彼女の決断であり、後悔はなかったが、しかし背負った重圧は途方も無いものだった。それが正しいのかどうか、彼女にはわからなかった。涸れた喉から熱が抜けていく。パタンという鞄を閉じた音があまりに大きく聞こえ、彼女は小さく飛び上がった。

「確かに伝えます」アイランズはそれだけ言った。「ありがとうございます、ヴィーナ。私はこれで」

彼が何かを伝えたがっているのがわかった。暗がりの中で呆然と座り込んで、ヴィーナは彼が何度か振り返る気配を感じた。財団のメッセンジャーとして、アイランズは役目を果たし終えた — それでもなお、彼は何かを待っている。期待している。ヴィーナの言葉を。

今更何を? 半ば破れかぶれに頬肘をついてヴィーナは呻いた。彼女は無責任極まりないアドバイザーでしかなかった。それでいておそらく数万人の未来を今まさに決定づけたのだ。この上何が要求されているのか? あるいはそれは彼の個人的希望に過ぎないのか? そもそもここにヴィーナがいる事自体が、D.C.アルフィーネの個人的希望に過ぎなかった。彼女はずっと振り回されていた。彼女は一度も自ら動こうとしなかった。

私の言葉とはいったい何なんだ?

我々が追うべき責任について。

不意に頭の中でシナプスが弾けた。引鉄、ファイル、コーダ、アルフィーネ、フランシス、そして赤ん坊が一直線上に並び、ヴィーナはそれを見つめていた。まだできることがあるはずだった — 犠牲を最小化し、保護されるべき人類の範囲を最大化することが、世界オカルト連合が掲げる第三任務の真髄だ。それこそが彼女のするべきことだった。それをせずして、誰も無思慮と無分別と無責任の誹りを免れないだろう。

猛烈な怒り、そうとしか形容できない感情が湧き上がる。

一呼吸入れて、舌打ちと共にヴィーナは立ち上がった。通路に踏み出す弾みに長椅子を蹴倒して、夕闇の静寂を引き裂いても気にもとめなかった。小走りに礼拝堂の扉を通り過ぎ、芝生の穴を踏み抜き、枯れたバラのアーチを引っ掛けながら、ヴィーナは走ってついに追いついた。今まさに車に乗り込もうとしていた外交官は、折れたバラの枝をスーツの肩に突き刺したままの補佐官の姿に目を瞠ったが、彼女はそれに構わず彼の胸ぐらを引っ掴み、そのまま車の後部座席に押し込んだ。

「待って!」

その言葉は彼女ではなく、周囲の護衛に対してのものだった。ヴィーナの頭に突き付けられた6つの銃口は速やかに上を向いた。息を荒げながらもヴィーナはリムジンの座席に座り直し、肩に刺さったトゲを抜き、ついでにアイランズのスーツの衿を整えてやった。

「それで?」アイランズは焦っていたが、同時に張り詰めた期待に満ちていた。「何か重要なご提案があるのでは?」

「事務総長の合意は取っていません。すべて私の独断であり、あくまでもひとつの提案です」
「お聞きしましょう」

ヴィーナにはこれが正しいことなのかわからなかった。彼女は少しだけ躊躇ったが、しかし結局は言うことにした。この場にいる彼女には責任があるはずだった。物事を少しでも良い方向に導く責任が。

「原則として — 第三任務の例外は極限されねばならない」噛んで含めるように、自らに言い聞かせるように彼女は宣言した。「我々が手綱を握ります。思考を投げ捨て、判断を放棄したかつての轍を踏まないために」


*


夜半。

病院の空気は暖かく乾いていた。空調設備とエアカーテンが有害なウィルスを遮断している。消毒液の匂いは最小限だ。多くの感染症は致命的ではなくなり、人々は家庭医に薬の処方を受け、病院は都市部に集約されつつある。

新生児病棟のセキュリティは30分だけ無効化され、歓迎されない隣人の訪問は誰の目にも映っていなかった。彼らは白衣を着た鋭い目の男女で、服の下に隠された銃器を覗いては、常勤の医師たちと区別がつかないだろう。彼らは正規のパスを持っていて、通用門から堂々と入ってきた。

ナースステーションの向かい側の夜間待合で、無音のテレビ画面が煌々と輝いている。半年前に発覚した大悲咒タイピーチウのタナトーマ薬害スキャンダルが未だに人々の話題を攫っていた。十分に成熟していない児童、特に未就学児への過剰なタナトーマ抽出がいかに肉体と精神の成長に有害であるのか — 普及から数十年足らずの技術体系がどれほど不安定で危険なのか。人々はようやく未知への恐怖というものを思い出し、論争はもはや神学的領域に突入していた。

「信じられねえぜ」ひとりのエージェントが呟いた。「この期に及んでまだ赤ん坊に針を刺したってんだから」

「俺たちの時代には肩にスタンプを捺したぜ。抜くか刺すかってだけだろうが」
「そのせいで夜中に出張だ」
「仕方ねえだろ。誰だって子どもが可愛いよ」

暗がりを移動し、彼らはやがて目的の部屋に到達した。改良された保育器の中で、赤ん坊が寝息を立てている。健康診断に偽装されたカントボックステストは、将来的な覚醒の兆候があるタイプ・グリーンをまずまずの精度で選り分ける。この病院では彼女だけが対象になった。老人が巷に溢れ、新生児が減り続ける中で、ごく珍しく、そして致命的な症例。生後3ヶ月でフェーズ2 — おそらく本当にお子様のうちに神になる。

麻酔の効き目を入念に確かめて、それから彼らは作業にかかった。紅い液体が満たされたごく小さなシリンジが幼い身体に差し込まれた。彼らは目を逸らさなかった — 条件付けと後催眠暗示は、生命を冷徹に数字で換算し、彼らの独特の理念を全身に透徹させた。数十ミリグラムのPLLP、死そのものである概念が、乳児の肉体に浸透し、その弱々しい息吹を蝕んでいた。

「死なねえよな?」男が言った。「SIDSの擬液は嵩張るからな。致死量にはちっとばっか少ないぜ」

「死ぬかもよ」女が呟いた。「どっちだっていいさ。死ななきゃうちらのサイトに移す。それで覚醒したらやっぱり死ぬ。安定したって首輪付きだ」

「全部入った」シリンジのキャップを戻し、彼らは慎重に部屋を後にした。監視カメラには意図的な死角がある。それは病院が改装された当時から存在していた — 新生児病棟に死神を導くための、巧妙に制度化された殺意。

「俺たちゃリップ・ヴァン・ウィンクルだ。それか笛吹き男パイドパイパー?」
慈悲の天使マーシー・エンジェルだろ」
首なし騎士ヘシアンよりはいい」

口々に言いながらバンに乗り込む。車内で待機していた支援チームが彼らの装備を回収し、速やかにバンを発車させる。地下駐車場から出て、車通りのほとんどない国道へと乗り上げたところで、助手席の端末に着信が入った。

「俺だ」エージェントが受話器を取った。「ああ。確認を — そうか」

受話器を耳から離す。「死んだそうだ」

白けた空気が車内に漂った。エージェントたちは互いに顔を見合わせた。注入するタナトーマの種類と量はあらかじめ指定されている — これまで見逃されていたタナトーマ抽出の重篤な副作用を演出するために、ゼーバッハが新生児から抽出したSIDSのタナトーマは回収され、彼らの任務のためにストックされている。致死率は決して高くないが、逆に言えば無視できない水準でもある。

未覚醒期の児童に対するタナトーマ抽出の抑制。条件づけされた広報戦略とプロパガンダによる世論誘導。稠密にランダム化された死亡事例の創出と、生き残った被検体の隔離。経過観察 — 抑制 — そして殺害。

イカボッドは生まれ変わった。行き当たりばったりの亡霊ではなく、社会と一体化した挽き臼に。

「これのどこが前よりマシなんだ?」後部座席の誰かがそう呟いた。

誰もが無言だった。幾人かは彼らの教育を担当した人物の顔を思い浮かべていた。プログラムを組み立て、世論誘導と一体化した抽出忌避プロセスを考案した彼女は、GOCからの出向組だった。張り詰めた笑みを浮かべた女。第三任務の例外を規定する戦略設計者。D.C.アルフィーネの代理人。

尽くすべき最善、果たすべき責任とは何か — 彼女の言葉は明瞭だった。

「まあ」受話器を握ったまま、助手席のエージェントは呟いた。「前よりは死ななくなった。俺たちも、奴らも」

それで十分じゃないのか?

問いかけは夜闇に吸い込まれた。何の変哲もないバンは人気のない国道を走り去った。

後には何も残らなかった。

2042年3月1日: 世界オカルト連合最高司令部および財団監督者司令部は合同の特殊戦司令部を発足させ、イカボッド作戦の再開を公的に通達する。

20██年█月█日: 第三および第四任務に従事する物理部門所属排撃班員の任務中死傷率は前10年間比で約59ポイントの上昇に留まる。任務は継続される。

Footnotes
. Pseudo-Liquid Lethal Phenomenon: 擬液相性致死的事象
. Subterranean Secret Detention Facility: 大深度秘匿拘禁施設
. Sudden Infant Death Syndrome: 乳幼児突然死症候群
ページリビジョン: 2, 最終更新: 12 Feb 2025 01:08
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