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Architect 20/08/12 (水) 03:48:52 #982732
school.jpgハイヤー・マインズ小学校
こういうタイプのフォーラムに書き込んだことは一度も無い。もし私の文体が少し気取っているように見えたら申し訳ない。私は自分では、地に足の付いた合理的な人間であり、パラウォッチのユーザーではないと考えている。それでも、私の人生はいつもあらゆる面で私の精神に歯向かい続けてきた。私はニュージャージー州の、老いも若きも特権と財産に恵まれた人々ばかりが集うゲーテッド・コミュニティで育った。この種のコミュニティには1つの共通点がある。親同士の学問的・社会的なドングリの背比べで、他よりも優位に出るために、何も知らない子供同士を間接的に対立させる傾向だ。子供たちはみんな、そこそこ上手にこなせるものが見つかるまであらゆるスポーツに取り組んだ。食物連鎖の上位に立つ奴らの影響力の恩恵にあずかるために遊びの約束をした。友情は強引に破られ、特定の家庭との付き合いは恣意的で馬鹿げた理由で禁止された。年齢に関係なく、子供を公立学校に通わせるなんて問題外だった。
私はハイヤー・マインズ小学校に通っていた。添付の写真がそれだ。壁画が見えるだろう? ここを運営しているのがどんな連中かはっきり分かる。ハイヤー・マインズは"才能ある"子供のための芸術家肌な"オルタナティヴ・スクール"だった。自由奔放な学習活動や、実験的な教育方針を推進する類の機関だ。私が知る限り、その手の学校は近所に少なくとも3つあったが、ハイヤー・マインズが私の母校だった。私にとっては過ごしやすい学校だった。友達はできなかったが、7歳の子供はそんなのを意識しないし、気にも留めない。一人だけで遊び、"6年生レベル"の本を読み、その他色々な手段で暇を潰した。両親を引き裂きつつある離婚の兆候に気付くにも、私が他の子たちと交流しないのを心配した先生が家に電話してくる理由を理解するにも幼すぎた。私の幼少期は概ね幸福だった。
やがて私は3年生になった。進級した最初の週に、40人ほどいたクラスの全員が統一テストを受けさせられた。スーツ姿の男2人がやって来て、担任の先生にブリーフケースを手渡し、問題用紙を配布した。以前にその男たちを見かけた覚えは無かったし、そいつらが身にまとう堅苦しい態度には、目を合わせるのが怖くなるほど動揺させられた。テスト自体はもっと悪かった。不条理か否かの際どい問題ばかりだった。4つの似たりよったりな円には、四角形を探せという指示。車に轢かれたと思しき様子で道路に横たわる男のピクトグラムには、彼がもう一度立ち上がれるかどうかという質問。乱数の列の下には、どの数字が"目立って"いるかを書く空欄。沢山の奇妙な絵とセットで出される、ロールシャッハ・テストのような解釈質問。おやつ休憩の時間も含めて2時間かかった。スーツ男たちは去り、私は早々にテストのことを忘れた。
鳥の夢を見始めたのはこの時期からだと思う。敢えて"思う"と言うのは、その辺の記憶が曖昧だからだ。とにかく、私は1羽の鳥が現れる夢を見ていた時期があった。特に奇妙な鳥ではなくて、普通のハトが普通のハトらしく振る舞うだけだった。その鳥を見かける場所はいつも違った。自宅の裏庭、祖母の家、学校、その他諸々。やがて鳥は地面に墜落し、酷い怪我を負った様子になる。首が変な方向にねじれたり、私の目の前で胃袋がはみ出していたりする。私は両手を差し伸べ、鳥を抱擁する。私がその身体を撫でてやると、鳥は自己再生し始め、傷が癒される。完全に元気を取り戻した鳥が飛び立ち、私は目覚める。そんな夢を毎週1回、もしかしたらもっと頻繁に見たかもしれない。
ある日、私は昼食後に担任から - 仮にB先生とするが、呼び出された。校長室へ連れて行かれ、他にも私のクラスから5人の生徒が集められた。私たちは、統一テストの成績が"優秀"だったので、TAGと呼ばれる上級学習プログラムを受けることになると説明された。"実地的・理知的に才能あり"talented and giftedの頭文字だ。ハイヤー・マインズはもう既に"才能ある"子供のための学校だった。それ以上教育課程を加速して何の意味があるのだろう? 私たちは家に持ち帰るための権利放棄書を渡され、後はいつもと同じように過ごした。
控えめに言っても、TAGクラスは和やかな場所だった。生徒はたった6人で、普通のクラスより遥かに自由が与えられていた。私たちは映画を視聴し、楽器を演奏し、様々な話題を何時間も話し合った。教室が理想とすべき環境だった。たった一人の教師だったP先生は古典文学、世界史、上級数学などの高度な学習指導要領を一手にこなしていたが、教え方が風変わりだった。一日の初めには、私たちは輪になって座り、手を取り合い、目を閉じた。前夜に見た夢をできるだけ詳しく思い出し、皆に話すように言われていた。シェイクスピアのハムレットの道徳性を巡る授業では、それほど慎重でない手段を通して自力で問題を解決しようとするハムレットの傾向は、ポジティブな特性だと教わった。名前に"大王"と付く征服者たちについて学ぶ時間もあった。彼らの立ち居振る舞い、成功して人生を自力で切り開く意欲を身に着けなさいと教えられた。特定の歴史的な人物や存在との繋がりを確立するという名目で、第二の"綽名"を与えられた。私は"アポロ"だった — 間違いなく、瞑想中に説明した夢の内容のせいだろう。私たちが宗教を勉強する時、幾つかの側面は事実として扱われた。奇跡、天使、ジンは明確に実在するものとして、ただし異なる用語を使って教えられた。授業のほとんどは、より高次の力についての議論へと立ち返った。子供だった私はこの奇抜さを呑み込むのに苦労したが、あの教室で人生の他のどの時期よりも多くの事柄を学んだ。
金曜日は"自由な日"だった。休み時間は延長され、クラスパーティーが開かれ、映画を見た。まぁ、少なくともその日の後半はね。お楽しみは前半を乗り切ったご褒美だった。金曜日になると、私たちは保健室で色々なパフォーマンス・テストを受けさせられた。統一テストを実施したスーツ男の1人がやって来て、嘘発見器のような見た目の機械を準備する。目の検査では、ヘッドホンを付けて抽象的なシンボルや文字を読む。文字は屋外環境や、都市や、世界各地の記念碑に重ねて映し出された。その次は聴覚検査で、信じられないほど高い周波数から言葉を聞き取るように伝えられる。ヘッドホンを外すと、どんな音が聞こえたかを完全に忘れてしまう。最後に、私たちの間で"モップ頭"と呼ばれていた奴と対峙しなければいけない。
最初の金曜日、私たちが最初の検査を終えると、P先生から学校の地下室に連れて行かれた。明かりは消えていて、長い廊下の中心に蝋燭が1本だけ。廊下の奥には、恐らく物置部屋に通じる青いドアがあった。あの時のP先生の言葉は一字一句覚えている。「モンスターは実在します。今から1人ずつ、あのドアを通ってモンスターに向き合いなさい」。彼女は私たちを放置し、ドアの向こうにいるはずのモンスターがどんな姿かを想像するように言い残して去った。その後30分間、私たちはモップに魂を束縛された用務員の幽霊の物語をでっち上げた。くだらない話だったが、照明と雰囲気と多感な精神の組み合わせは見事に恐怖を煽る。少なくとも、私には効き目があった。私たちがくすくす笑いながら恐怖を隠そうとしていると、P先生が戻って来て、先へ進むように言った。上辺だけの勇気は消え去り、最初の1人がドアをくぐった。彼女はドアを閉め、私たちは待った。10分後、P先生は次の生徒に入るように促した。そしてもう一度。やがて私の番になった。目に涙を浮かべて、私は青いドアを開き、視界は暗転した。
真っ暗な部屋、金属の拘束具の感覚、昆虫が私の身体を這っているという束の間のフラッシュバック、繰り返し点滅する1つのシンボルを覚えている。かつて感じたことが無いほどの恐怖心とアドレナリンの高まりを覚えている。P先生の腕に抱かれて頭痛と共に目を覚まし、良くできましたと言われたのを覚えている。クッキーとケーキでその体験をあっさりと流してしまったのを覚えている。それが毎週金曜日に必ずあったのを覚えていて、忘れることができない。
Architect 20/08/12 (水) 03:50:32 #982733
classroom.jpgハイヤー・マインズ小学校
TAGプログラムがどれほど徹底的にイカれていたか、ずっと後になるまで気付かなかった。私は青いドアや、その奥で何が起きたかをほぼ忘れかけていた。忘れやすく、埋もれやすい、そんなトラウマ的な経験だったらしい。どうにも気掛かりで、昨年から記憶分野が専門のセラピストの所へ通い始めた。いや、セラピーを受けた唯一の理由ではないが、この記憶を掘り返すのは私とセラピスト双方の主な関心事になった。ここ数ヶ月間は、比較的新しい回想方法を実践して順調に前進しているし、ますます多くの断片的な記憶を繋ぎ合わせることができるようになった。以下は、もしかしたら当時起きたかもしれない出来事の大まかな要約だ。
私は入室してすぐ、自分が強引に椅子に座らされたのに気付く。私を着席させ続けるために、ある種の拘束具が使われている。1人のスーツを着た男が、心配しなくていい、画面を見てくれと言う。プロジェクターのスイッチが入る。画面に映るものは全て恐ろしい。這い回る昆虫、歪んだ顔、私の頭の中だけで響いていたと思しき大きな雑音。涙。止まらない。数秒ごとに点滅するシンボル。フラクタル。轢き殺された動物。またシンボル。悍ましいあれこれ。庭で水やりをしている私の母。住宅火災。スーツ男が画面の近くに歩み寄る。彼の顔にはシンボルがある。顔の代わりにシンボルがある。安全。肩に刺さった針が血を抜き取るのを感じる。私は穏やかな気持ちになる。シンボルが恐怖心を和らげてくれる。誰かが数字を読み上げる。私は解放される。私は教室に向かう。何もおかしくない。私はシンボルを思い出せない。知っているのに思い出せない。
それが終わった日も思い出した。2004年5月10日、月曜日、両親が死んだ日。私は下校した後、いつものように庭で遊んでいた。地面を掘り返し、レゴのために戦場を用意していると、誰かが垣根越しに見つめているのに気付いた。海沿いの町にいてもおかしくないごく普通の観光客のように見えたが、私は取り乱した。家に走り込み、すぐ両親に話した。勿論、確かめに行った時には、遠くの海水浴客以外には誰もいなかったし、その中に私が見た男を発見することはできなかった。5時頃、祖父母がやって来た。その夜、両親は外食する予定で、代わりに祖父母が私の面倒を見ることになっていた。その夜はずっと自室にこもり、ブラインドを下ろし、部屋の全てを見渡せる隅っこに陣取って過ごした。11時頃、祖父母は一緒に病院に行こうと言った。理由を説明してくれなかった。飲酒運転の車。母は死んだ。父は危篤で、朝まで持たなかった。どうして祖父母が私を連れて行ったのか分からない。
私は待合室に留まり、祖父の胸に顔を埋めて泣いた。そこからの記憶はぼやけている。一人で待っていなさいと言われ、祖父は父の容態を見に行く。現実味が全く無い。病院スタッフが私を別室に連れて行く。暗い部屋に、ランプが1個だけあり、解剖トレイを上から照らしている。腐乱した、悪臭を放つ、微動だにしない鳥の死骸がテーブルに置かれている。何をどうすべきか知ってるだろうと言わんばかりに、病院スタッフは私を身振りで促す。私は従う。他にどうしようもないから、従う。顔を鼻水と涙まみれにして、両手を鳥の上に乗せる。何も起きない。私は"前にやってみせたように"続けろと強く迫られる。何も起きない。私は泣き続ける。病院スタッフは照明を私の目に当て、私はシンボルを見る。それでも何も起きない。どれだけ長く続いたか分からないが、やがて手を洗って出て行けと伝えられる。祖父には何も言わなかった。
数日中に、私は祖父母と暮らすことになった。ハイヤー・マインズを去った。祖父母は、環境を変えて私の心を清めるために、公立学校を希望した。時々、居残っていたらどうなっただろうと疑問に思う。あれから二度と鳥の夢を見ることはなかったし、あの学校で対面していた恐怖は、最愛の家族を2人も失った傷のせいですぐに覆い隠され、忘れ去られた。完全に癒えることこそないだろうが、確実に良くなっている。それでも、なかなか慣れる気がしない。私は健康上の問題を幾つも抱え、余計な事を考えないために小売店で働き、余暇のほとんどは祖母の世話に費やしている。私がしてやれるのはその程度だ。ハイヤー・マインズやTAGプログラムについては、できる限り自分で調べてみた。何も掴めなかった。セラピスト以外には打ち明けてこなかったし、TAG時代のクラスメイトに連絡を取ろうとしてもダメだった。まるでクラスメイトは完全に消えてしまったように思える。ソーシャルメディアを使ってもいなければ、公記録さえ出てこない。5人全員がそうなんだ。もし興味があるなら、名前を挙げることだってできる。先週、セラピストと協力して大躍進を遂げた。正直な話、ここに書き込もうと決めたのはそのためだ。
私は記憶とシンボルの間の壁を打ち破った。何時間も描いてみようとした後、私から反応を引き出せる絵が完成した。そのものズバリではないが、確かに感じた。温かい、穏やかな感覚。私はシンボルを見つめ、完全に目を奪われながら、こう自問する。
found.pngこのシンボルは何を意味していて、私は何故これの傍で安心感を抱くように条件付けされたんだ。
Ratkinning 20/08/12 (水) 03:59:02 #982736
ライブRPG乙でした。才能ある子供の怪しい英才教育スレはもうお腹いっぱいですわ。
JKull 20/08/12 (水) 04:02:27 #982738
Redditの恐怖体験板が鯖落ちして流れてきたん?ww