こんなことを体験したことはないだろうか?
朝からか、それともその前日の夜からかは分からないが、高熱を出す。
いつもは弁当や朝ごはんづくりであわただしい母も、このときばかりはつきっきりで私の側にいる。
時たま体温計を刺してくれたり、額に手を当て、今の気分はどうか、おかゆとかは口に入れられそうかを優しく聞いてくれる。
気分が悪いと言い出すと、背中をさすりながら一階への階段で体を支え、トイレまで連れて行ってくれる。
胃の中を全部吐き出してしまいたいような、否。もうトイレの便器に吐き出して後に残ったのは酸っぱく、固形物が少し入り混じった、薄い汁の残り筋。
二階に戻る度、かすかに体が崩れてしまうような感覚が遠くにたたずんでる気配を感じながら、寒気に耐えられず寝床に沈む。
かつての残り香をポカリスエットかアクエリアスで飲み込み、頭に氷嚢を置いたり脇に保冷剤を挟んだりする。
まったく味のないもの、舌に落とした途端に溶け出し、苦みをまき散らすものを問わず薬を水で追いやる。
ふと上を向けば、換気のために呼吸のように開け閉めされる窓からは、薄い方のカーテン越しに、日の光が電灯のように顔を照らしてくる。
外からは最初は学校に行く子供達や同級生の声、次第に車の音や自転車のベルがBGMとして流れる。
何も悪いことはしていないのだが、申し訳なく感じて目を閉じる。
そして目を開くと同じ景色・環境音だと思うのもつかの間、橙色の光に変色し、最後にはほの暗くなる。
こんな時間には勉強する気なぞそもそも持てず、スマホを取り出すのも億劫だ。
ただひたすら天井を見る他ない。
ただ
ただ
ただ
ただ。
急に視界が曲がる。いつも過ごしていた部屋の、本や宿題が積まれた机、部活動の小道具がかかった壁、赤本や漫画が重なっている本棚、それらすべてがまるで見慣れていた場所ではないように、一人だけ取り残されてしまったかのような印象を与えてくる。
目をこすり、もう一度目を閉じた後に見上げる。
天井とそれについている電灯から、何故か視線が来るかのように思えてくる。
勿論、顔の形に変形したとか、人が浮かび上がってきたであったり、幻覚でそう見える、ということではない。
目の前にはいつもの見慣れた天井があるだけである。
ただ、熱でぼやける頭が、「天井に見られている」という奇妙な感覚を覚えるだけか。
あまりにも不気味なので視線を下にずらし、ドアの方向を見る。
すると誰かがいるような気がしてならない。
毛布をかぶって気を逸らす。というより、一刻も早く寝ようと試みる。
視界は暗黒そのものになる。天井もドアも何も見えない。
一安心か、と思った瞬間、急激な寒さに襲われる。
風邪特有の悪寒、それと混じり何か別の感覚が入り込む。
それが、自分のことを誰かが見ている感覚だと分かる。
家に家族が居ようと居まいと、勇気を出して顔を出し、誰も自分のことを見ようとしていないと確認しても、その感覚が続く。
ただひたすらにこれも無視する。
ただ
ただ
ただ
ただ。
不安になり大声で母を呼ぶが、返事が来るだけでなかなか上に上がっては来ない。
目を覚ますと一面の夜の暗闇であり、いつのまにか熱が下がり、妙な感覚には襲われなくなる。
というのが、私が常に風邪やインフルエンザに罹った際に陥る症状、といってもいいのか分からない状態である。
親に聞いてもそんなことはあり得ない、臆病すぎだと慰めるし、傍目から見てすぐに寝落ちするから夢でも見てるんじゃない、とあしらわれるのが常である。
だから体調不良にはなりたくないな、以上の感想をそれに対して得ることは出来なかった。
今日までは。
三日前から母がコロナに罹ったのでつきっきりで看病していた。普段から忙しく家事や私達の世話をしてくれていたからだろうか。
しかしワクチンを4回接種していたので症状はひどくなく、少し重めの風邪のような感じであった。
そして、こんなときでも母は方便かどうかはわからないが、もし私から移ると申し訳ない、今はかなり楽なので心配せずに自分のやるべきことをやってくれと言う。
だが普段から世話をかけっぱなしなので、私の人生で初めて人の看病を行った。今日の昼頃までは落ち着き、熱も37.3度に下がったのでほぼ様子見であり、リビングで学校の宿題を片手間にやっていた。
ふと、母へポカリスエットが必要か、と訊ねる。母はいらないよと答えるが、何故か心配になったのでその声を無視し、ペットボトルとコップを両手に、二階の母が横になる部屋へと上がった。
扉を開けると、ベットの布団に入っている母の姿。
と。
天井から垂れ下がる直立立ちの黒い人が居た。
何故中空に浮いている、逆さまになっていないソレが「浮かんでいる」ではなく「垂れ下がって」いると思ったのかは分からない。
ただ写真の紙に習字用の墨汁で塗ったような、てかりのある人の形がそこにあった。
そして一番上の、頭に当たる箇所を母に向けてじっと佇むんでいた。
いつまでか。おそらく壁の時計から十分は経たなかったか。
奇妙な物がいつのまにか見えなくなり、寝息を立てる母に近づこうとしたその時。
母はいつもよりも二十歳ほど歳をとったような枯れた声で。やつれた顔で。
「別に後ろを振り向いても何もないよ?気持ち悪いのは見えるけどさ。」
居る
今度は後ろにも誰かが、来ている。
何か、反応をすれば良かったかもしれない。後ろを振り向くとか、逃げるとか、怒鳴るとか。
続いて母はむくりと顔を布団とベッドから生やし、馬鹿にしたような、当たり前のことを知らなかったから呆れたような口で。
「今まで気付かないでいられたのは誰が頑張ったからなのってさ、いつも怖いの我慢して世話してるのは私たちなんだよ。あなたに頼らないで自分で治したときは見えないのにいるのはわかってて怖いんだから。」
「風邪ひいてうずくまっているあなたに注目したままにさせて、もしもこっちに来ないように心配してたんだから余計なことしないでって。あんたはもうそこで怖い思いでもしてな。」
その顔に、言い草に、私は、ただ悪寒が走る背中を丸めることしかできなかった。