クレジット
歯を食いしばり、荒い息を噛み殺す。頬にこびりついた血が乾き始めて、肌がひきつれたような感覚になっていた。口元に押し当てたマイクはもう、オペレータには繋がっていない。この建物の中に入った時点で、外部とは情報的にも物質的にも完全に遮断されていた。
「現在時刻、11:48。作戦開始から48分経過。記録者は機動部隊██所属、デルタ。本部隊は壊滅状態。アルファ、チャーリー、エコーをロスト。ブラボーは生死不明だが生存は絶望的と判断する。規則に則り、コードネームデルタが指揮権を継承する」
誰にも届いてはいないが、録音は続いている。もし後続の部隊がこれを見つけてくれる可能性がわずかでもあるならば、知りうる限りの情報を吹き込んでおかねばならない。
薄汚れた通路に窓はなく、光源たる頭上の蛍光灯がちかちかと明滅を繰り返す。埃を被った床も、原因のわからない染みがついた壁も、廃棄された研究所のような無機質な質感をしている。
だが、この建物は生きている。
通るたびに道が変わり、侵入者に記憶されることを許さない。ゆえに機動部隊は変容し続ける迷路に呑み込まれ、食い殺された。
「状況報告。侵入した入口は異常な機構により消滅。帰還は絶望的。内部は不定形。圧殺による死者一名」
エコーは突如出現した壁によって分断され、競り上がった床と天井に押し潰されて死んだ。
遺体は確認できていない。しかし、あの断末魔と骨の折れる音を聞けばその必要がないことは誰にでもわかる。
その顛末は機動部隊の誰も見ることは叶わなかったが、分厚い壁越しに聞こえた彼の叫びから、その死の理由は克明に理解された。
「加えて、敵対的生物、多数を確認」
迷宮には怪物がつきものだ。
敵対的なのが建物だけならばまだ良かった。不幸極まることに、ここには奇怪な形にねじくれた、超常の力を有する獣達が跋扈している。
目視出来ただけでも四体。それぞれが違う体と異能を持ち、侵入者への敵意だけが共通している。辛うじて倒せたのは一体だけだ。
ここで自分たちは狩る者ではなく、狩られる者だった。
「一体目。哺乳類らしき生物。体高は1.7m以上。頭部は大型の狼に──」
突如、背後に感じた気配に、頭よりも先に体が反応する。味方は全滅した。動くものは敵だけだ。
振り向きざまにショットガンを構えようとして──銃身が、動かせない。
掴まれている。
左下に押し下げられた銃口を、動かすことができない。
「落ち着け」
その声の主を見た瞬間、デルタの息が一瞬止まった。
デルタの銃身を掴んでいるそれ──彼女はありえない姿をしていた。頭から血を被ったように赤黒く汚れているのも、機動部隊用と全く同じ装備をしていることも、この際どうでもいい。
──私と瓜二つの姿。
瞬時に混乱から脱せたのは、日頃の訓練の賜物だろう。
動かせない銃から右手を離し、太腿に括りつけているナイフへと伸ばす。
しかし、その手が届く前に手首を払われた。そのまま手首を掴まれ、流れるように関節を極められる。デルタがどう動くか予め知っていたかのような反応の速さだった。
「落ち着け。私は1時間後の君だ。君の任務を完遂させに来た」
掴まれた手首の痛み。自分と同程度の体格、握力。幻覚にしては存在が鮮明に過ぎる。無理に抜けようとすれば関節が壊れる。
ならば変形能力持ちシェイプシフターの類か。会話可能なほどの知性のある敵対的存在なら──
「幻覚か変身かと考えているな。私もそうだったからわかる。おい、自爆を考えるのはやめろ。愚かな選択はするな。君が望むならこの作戦の要旨だろうが昨日の日記だろうが誦じるが、時間の無駄だとだけ言っておこう」
敵意は感じられない。鵜呑みにはできないが、その仕草も口ぶりも、嘘だと切り捨てることができないほどに自分と瓜二つだった。どうせここで死ぬのなら、この罠かもしれない藁にすがっても良いかもしれないと思ってしまった程度には。
「......どうやって」
「異常な物品も異常な手段も、ここには山ほどあるだろう。任務を遂行しなければならない。走れるな?」
これは確かに自分だ。そう思ったからこそ、努めて感情の抑えられた、淡々としたその口ぶりに、怒りが湧いた。
「なら、......なぜ、全滅する前に来れなかったんだ!?」
「オブジェクトには制約が多い。私も、戻れるものならばもっと前の時間に戻りたかった。だが、これが私にできる最善だったんだ。受け入れろ」
聞き慣れた声が自分のものではない喉から発せられる気持ち悪さ。
その冷徹な口調と視線の中に、どこか疲れや諦念のようなものが滲んでいるような気がして、デルタはそれ以上の追求をやめた。
これは自分なのだと、何故か納得できてしまった。これからの1時間が自分をこれにするのだと。
「......目標は。帰還か、それとも」
「建物内の異常存在の殲滅、無力化。この異常建築の心臓部の破壊。脱出経路は知らない。私の過ごした1時間の中では発見されなかった」
「了解」
聞く前から、その答えは予想できていた。この短時間で隊員の死を目の当たりにしすぎて、生存欲求は麻痺していた。もしこれが本当に自分であるのならば、過去の自分を逃すためだけに異常な手段を用いてまで時間遡行をするとは思えない。
可能なのか、とは問わない。遂行可能とはとても思えないが、そう言ったところで他にできることもないのだ。機動部隊の中でも部下の立ち位置だったデルタにとって、自分以外の存在が曲がりなりにも指揮してくれることはありがたくも感じられた。情けないことに。
そしてこれは、元々の任務内容にも沿うものだった。デルタの機動部隊の任務は偵察の比重が大きかったが、司令部はこの施設の破壊・無力化を視野に入れているようだった。この建物から湧き出た異常生物、及びヒューム変動により、民間人にも多くの被害が出ている。多種多様な異常生物が定期的に湧き出し続けるこの場所を、彼らが一刻も早く処理したがっていたのは、隊員の誰の目にも明らかだった。
「ついて来い」
そう言って、彼女はデルタを解放した。強く捻られていた腕にまだ痛みが残っていて、デルタは軽く腕を振った。
変容し続ける迷路のような廊下を、未来の自分が迷いなく足早に歩いていく。彼女は接敵の危険性のある丁字路すらほぼ減速せず無警戒に通り抜けた。その度にデルタの心臓が嫌な具合に跳ねた。
「早く。二つ先の通路までは敵はいない」
その背を追いながら、未来から来たと言うのは本当らしい、と思った。敵地でこのような進み方をするのは、自殺行為のはずだった。
三度目の十字路で、『止まれ』のハンドサイン。
軽く振り向いた自分に対し、短く頷く。
続く『伏せろ』の指示。考える前に体が反射的に従う。脅威の居場所を探して視線を走らせ、── 一瞬だけ遅れて、目の前の自分が持つ手榴弾に気づく。
安全ピンは外されていた。
角の向こうに向かって、勢いよくそれが投げ込まれる。咄嗟に安全のための姿勢を取る。重いものが硬質な床に落ちる音。微かな水音。否、水よりも粘着的な──
音の正体を想像するよりも前に、爆発音が腹に響いた。爆風、そして火薬の匂い。
立ち上がった『自分』は、爆発直後の通路へとずかずかと足を進める。銃を構え、その後を追う。濁った煙に混じる磯の匂い。何かの焼けた匂い。角を曲がった瞬間に、廊下を埋め尽くす蛸のような触手の群れが視界一杯に広がる。
さっきの音から、頭の隅で予想できていた光景だったのに、それでも驚かずにはいられなかった。
それの表面は無惨に裂け、焼け焦げ、粘液なのか体液なのかわからないものが体表を濡らしていた。床には赤黒い水溜りができており、それはデルタの目の前で見る間にも広がっていく。
動きが鈍い。
反撃する間を与えずにチャーリーを屠ったあの素早さを、今のこの怪物は持ち合わせていなかった。
『自分』は手にしていたアサルトライフル──ブラボーが所持していたはずのものだ──を、力無く蠢く触手の間に捩じ込む。鋭い発砲音。注意深く見てみれば、その中には歯のような物体が無数についていた。おそらくは口腔にあたる開口部だったのだろう。
発砲のたびに触手が揺れ、ねじれ、のたうち、──四度目の発砲で、完全に停止する。
「......これで、信じられるだろ」
ぼそりとした声に、肯定せざるを得ない。本物だ。こいつは未来を知っている。
自分と同じ顔を見つめる。鏡の中で散々見た顔であるはずなのに、血を被っている異様さからか、それとも今の無力化の手並みを見たからか、気圧されそうになる。意識的にぶっきらぼうな口調で問いかけた。
「聞きそびれていたが、時間移動のオブジェクトはどこに?」
「これだ」
『自分』は襟元に指を突っ込み、見覚えのない細い金色の鎖を取り出す。ネックレスというには妙に長い鎖がずるずると引き出され、最終的に現れた末端には懐中時計のようなものが吊り下げられていた。
ぱかり、とその蓋が開かれると、内部もやはり時計と似たような形状をしていた。針と、円形に配置された目盛り。明らかに普通の時計と違うのは、金色の針が五本も存在している点だ。
オブジェクトがこれから手に入るものだったならば、諦めもついたし目の前の『自分』の行動も理解できた。しかし、今、手元に時間遡行のための道具があるなら、全ての話が変わってくる。
「それなら、今戻れば──」
全滅する前に助けに行けるじゃないか、という言葉は、苛立たしげな自分の声に遮られた。
「起動のトリガーはわかっているが、それが必要条件かはわからない。材料の問題でトリガーたる儀式は一度しか行えない。ここで同じ儀式をしたとて不発に終わる可能性もある。ゆえに前の自分と同じことを同じ手順で行う」
不機嫌ながらもすらすらとした返答は、予め考えていたものを読み上げているかのようだった。実際には、予め「聞いていた」というのが正しいのだろうが。
「使い方は?」
「複雑な手順だから、実際に使う時に説明する。ただし、すべて前の自分から聞いた受け売りだ。情報の出所はわからず、ゆえに真実である保証はない。実はこの時計もどきには何の異常もなくて、この空間自体の異常性による時間遡行である可能性すらある。ただ、少なくとも、私の経験した事との矛盾はないから、それなりに信用できる情報だと思っていいだろう」
「もう一つ、聞いても?」
未来の自分は片眉を上げる。質問の内容はとっくに知っているのだろうが、続きを促すように軽く顎をしゃくった。
「君は過去を変えに来たのか。それとも変えないために戻ったのか」
「後者だ。私は一度、未来の自分と共にこの建物内の怪物を全滅させた。私が見た『未来』は最適解だった」
『自分』は思い出したように付け加える。
「再構築シナリオは気にしなくていい。少なくともこのオブジェクトでは、過去も未来も変わらない」
その言葉の内容が、時間をかけて脳に染み込んでいく。その言葉は信じ難い事実を含んでいた。この建物の怪物を全滅させることが可能であること。それを自分二人で成さねばならないこと。
そして、未来が確定したものであること。
「......私は何をすればいい?」
「ワイヤーを出せ。向こうの廊下に張る」
言われるがままに、備品として持ってきていた鋼線を取り出す。猟師がくくり罠に使うものよりも更に頑丈なこれは、大抵の生物の動きを封じられるはずだったが、それでもこの建物内の怪物どもに通用するかは確信が持てなかった。
指示された場所に近づけば、都合よく壁が破壊されており、鋼線を固定するのに適した鉄骨が露出していた。この破壊痕には覚えがないから、自分の隊ではなく、怪物のうちのどれかが壊したのだろう。手早く作業を終えて、脇に置いていたショットガンをまた握り直す。この敵地で銃を手放すのは落ち着かなかった。
「弾の再装填。手前から順にバードショット3発、バックショット2発、残りはスラッグ」
間髪を容れぬ、端的な指示。マガジンチューブから残弾を排出し、指示通りに詰め直す。
「行くぞ」
またも迷いなく、『自分』が歩き出す。
「次に出くわす異常存在は比較的小型。体高は1.2mほど。異常な迷彩効果を有しており、目視不可能。だが、体液には迷彩効果がない。ゆえに──」
今度は先ほどとは違い、歩きながら未来のことを語り出した。相見える怪物の順番、その殺し方。仲間を殺した怪物もいれば、まだデルタが見てもいない怪物もいた。そんなあっさり言うなと言いたくなった。あれらは全て隊の脅威で、自分の隊は倒すどころか、逃げることすらも困難だった。
それでも、全てが予言されていたから、『自分』が廊下に設置されていた消化器を手にしても戸惑うことはなかった。
安全ピンが抜かれ、トリガーが弾かれる。淡い色のついた粉末が盛大にぶちまけられる。消火薬剤が床一面を覆い尽くし、舞い上がったままの粉末が廊下の先を霞ませる。
煙る粉末は大気の流れを示す。噴射されたガスの流れ、狭い廊下の中で渦巻く煙。──その中に混じる、違和感。
発砲。
装填したばかりのバードショット弾が煙を貫く。ショットシェルの中に大量の小粒の弾を含むこの弾丸は、発砲後に弾が広がるため、広い範囲を叩くことができる。歪む空気と、床上の粉末に現れた不自然な乱れを頼りに、連続して三発の発砲。何も見えない空間を貫いた弾丸の後に、赤い液体が飛び散る。
──『体液には迷彩効果がない』
先程『自分』が語った予言は、全て正しかった。
続いて放ったバックショット弾は、バードショットよりも粒数が少ない代わりに、粒径が大きい。弾の大きさは貫通力に直結する。空中を伝う赤い体液を目安に照準を合わせ、殺傷力の高い弾を叩き込む。
肩で反動を受け止めながら、引き金を引くこと、二度。
見えなかった『何か』──今は赤い斑模様になったそれが、重い音を立てて横転する。迷彩効果が乱れ、燻んだ色の体表が表れる。
緩んだ緊張と共に細く息を吐きながら、自分が息を詰めていたことに気付いた。
殺せた。
先程まで逃げ惑うことしかできなかった、自分が。
「もう死んでるぞ」
「知っている。さっき聞いた」
銃口を降ろしながら返答する。自分の声には、意図しない興奮が混じってしまっていた。
「わかっただろ。やり方さえ正しければ、私らで殺せる」
奇妙な光を宿した『自分』の目を見つめる。血に塗れた顔の中で、白目がよく目立っていた。
「そしてこの未来は、最適解で安定している」
◇ ◇ ◇
全ては驚くほど手際良く行われた。急所がなく動きも俊敏な巨大アメーバは、上階で床に開けた穴から液体窒素を注ぐことで凍結、破壊した。階下に降りて異形の犬の群れを殲滅。ショットガンの弾が尽きてすぐに、ブラボーの遺体からアサルトライフルとマガジンを回収。悼む余裕はなかった。実感もなかった。周りの全てが異常な中でまともな感情など持てるはずがないと、心の中で言い訳をした。
「マスクを」
その言葉に従って、機械的に酸素マスクを装備する。この建物内の研究用備品から、アメーバ攻略用の液体窒素と共に強奪してきた代物である。
先程撒き散らした液体窒素が気化しているエリアに近いはずだった。
敢えて足音を隠さずに歩けば、程なくして、予言通りに怪物が姿を現した。大ぶりの角を持つ鹿のような獣。奈良で見たことがある鹿とは比較にならないほど大柄で、胴体は緑を帯びた異様な色彩をしていた。
2人分の発砲と突進の開始が同時。突如、何かにぶつかったかのように、獣がつんのめる。その理由を知るデルタは、ここぞとばかりに狙いを定めて胴体を撃ち抜いた。しかし、動きが止まる気配はない。足に絡んだワイヤーを引きちぎろうとしている。貫通力の高い弾で急所付近を撃ち抜かれてなお、まだ動ける獣の生命力は驚異的だった。
獣の足を止めたのは、蛸の撃破後に張ったワイヤーだ。設置したのは階段を降りる前だが、この変幻自在の建造物の中では、「階」という概念は意味をなさない。
照準器の中で獣がもがき、痙攣する。異形の怪物であれど、生き物には違いない。充満した窒素で酸欠に陥り、動きが鈍くなったところを、二丁のアサルトライフルが仕留めた。
呆気なかった。
動かなくなった死体に『自分』が近づき、念押しに眼窩越しに脳を撃つ。
「──次、行こうか」
『自分』の声が鼓膜を貫く。
怪物を仕留めるたびに、『自分』の纏う空気は鋭利になる。まるで自分が相手の照準器の中にいるかのような錯覚をするほどに。
ただの妄想だ、と内心で一蹴して、デルタは『自分』を追いかけた。
◇ ◇ ◇
「時間の流れは一つだけだ。過去も未来も変えることはできない。過去に渡る方法があったとして、それも含めて安定するようになっている。知り得た未来から修正する余地がないように」
既に予言を終えていた未来の自分は、戦闘の合間の沈黙を埋めるように、ぽつぽつと語り出した。
「周囲の警戒で忙しいだろう。流し聞いていても構わない。真面目に聞いていようが記憶が曖昧になろうが、1時間後に話す内容は必ず同じものになる」
潜められた声は、まるで独り言のようだった。
「予定調和だ。このオブジェクトの有する世界観、時空の解釈において、自由意志は存在しない。決まった過去をなぞり、決まった未来に接続するだけだ」
「例えば私が今ここで意図的に転ぼうとしても、それは実現しない。それを実行するのは馬鹿げていると理解しているからできない。進むルートの変更も、これ以上改善の余地がないから行えない。結果として、今の私には、1時間前に見た『私』の動き、言動が、寸分違わずに再現されている。その確信があるんだ。君も1時間後にはこの感覚がわかる」
「意識は後付けのものだという解釈を聞いたことがあるだろう。手で物を取ろうとする時、『取ろう』と思う前から神経に準備電位なるものが現れているという話。思う前から決まっているんだ。私たちは行動の結果に対し、これを自分の選択だと、意識の産物だと思っているが、これはただの錯覚なのではないかという──」
「確定した未来をなぞっている身として、それは事実なのだろうと実感するよ」
その言葉に対して、反発する気持ちは起きなかった。
機動部隊の戦場には正しさも秩序もなく、神も仏も助けてくれない。精神論は命を救ってくれない。規律は単に生存率を高めるもので、最後に信じられるのは己の武器だけ。そんな唯物論で生きてきたから、元から自由意志の存在にすら懐疑的だった。
どれほど神に祈っても弾は曲がらないし、弾道を直角に曲げる現実改変能力にだって、それを規定する法則がある。──少なくとも、財団の賢い科学者たちはそう考えて研究しているらしいし、実際にそうであるからスクラントン現実錨などというものが存在している。
弾道は発射した瞬間に決まる。全てのものが物理の法則から逃れられないのならば、未来は決まっている。脳味噌も物質であるから、やはり物理法則の支配下だ。ミクロ世界の量子力学なるものには確率的な現象があるらしいが、予測不可能であることは未来が決まっていないことを保証するわけではない。
確定した未来というものは自分の感覚に沿うものだ。しかし、その未来を知れてしまうのは気分が良いものではなさそうだとも思う。自分が未来に対して諦念や絶望を抱いていないのは、それが見えないからこそだろうから。
次の任務で死ぬとわかっていたとしても、生き残れるとわかっていたとしても、どちらの予知も日々の演習への身の入り方を妨げるものにしかならない。
未来が確定した世界には、自由意志は存在せず、ひいては責任も存在しない。それでは秩序を維持できないから、意志という幻を信じて世界が回っているのだ。
未来が知りうるものになれば、その全てが崩壊する。
だからこそ、これから自分の使うオブジェクトの能力が限定的であることに、わずかばかりの安心すら抱いてしまった。隊員全員を救えるほどの遡行ができないことを悔しく思う気持ちと、この安堵は両立可能だった。奇妙なことだ。
「......そのオブジェクトを使う機会が、今回きりであることを祈るよ」
自分の未来を見ながら、デルタはぽつりと呟いた。『自分』はちらりとこちらを見ただけで、肯定も否定もしなかった。
◇ ◇ ◇
今や建物は、血濡れていない場所の方が少なくなってしまっていた。
まだ生暖かい死体と肉片が散らばる廊下を駆け抜けて、『自分』は迷いなく最深部へと向かう。血溜まりの中にこぼれ落ちている臓物片を靴裏に感じる。
異常建築も動きを止めており、二人分の足音を阻むものはない。道中で破壊した壁や床の裏には、いずれもこの建物の動力の要であるらしい部位が存在しており、それらは二人のデルタによって無力化処理が行われた。変幻自在のはずだった建物は、今や廊下を組み替えることもできない。最深部へ向かう破壊者たちを止めるすべもなく、沈黙を保っている。これならば、二度目の任務後の『自分』は脱出できるだろう。
廊下の半ば、何の変哲もない扉を、『自分』は勢いよく開け放つ。部屋の中は、今までにこの建物内で見たどの部屋とも異なる様相をしていた。元はサーバールームだったのだろう。立ち並ぶラックの群れにはぎっしりとサーバーが詰まっており、冷却ファンの駆動音がけたたましく響いている。そして、それらの隙間を縫って部屋中を覆い尽くす、剥き出しの生肉のような異常物体。まるでアメーバのように壁やサーバーにへばりついており、それら全てと有機的に融合しているようだった。
一目でわかるほどの「心臓部」らしさだった。
未来の自分の動きは早かった。手持ちの銃火器を余すことなく使い、部屋の中で破壊の限りを尽くす。デルタも遅れることなく、その破壊活動に追随した。
「これで私の任務は終わりだ」
無惨に損壊した残骸の前、血と硝煙の匂いの立ちこめる中で、『自分』はどこか気怠げにそう宣言した。
首元から再び金の鎖を引っ張り出しながら、『自分』はもはや何の機能もない心臓部を後にする。デルタもそれに続いて部屋を出た。もうここには用がない。
「悪いが嘘をついていた」
前を歩く『自分』は、唐突にそう言った。
「複雑な儀式などいらないんだ」
振り返った『自分』は、長い金の鎖を手の中で弄んでいた。『近寄れ』という手の仕草に従う。その言葉から、目の前の存在へのわずかな疑念は芽生えていたが、「自分が過去に戻る」という未来自体への信頼は強固だった。未来が確定していることは、今までの道のりで十分に理解させられた。ならば自分の身に危険はないのは明らかだ。自分は遡行するのだから。
『自分』がデルタの首にも鎖をかける。二人の首にかけてもまだ余るほど、鎖には十分な長さがあった。
「このオブジェクトは、1人の人間の命を生贄として、1人の人間を過去に飛ばす」
感情の抑えられた声で、『自分』はそう告げた。
「原理は知らない。オブジェクトの制作者が求める対価なのかもしれないし、単に死という現象を動力に利用しているのかもしれない」
『自分』は重たげな手つきで拳銃を取り出す。
「──ああ、でもな」
未来の自分は諦めたように笑った。
「これだけは予定調和でなくて、使命のための気高い選択だと錯覚していたかった」
拳銃を咥え込む動きを、止めることはできなかった。
目の前のものを受け入れられない意識が体を硬直させ、結果として未来を拒否する道を取りこぼす。
破裂音が響く。生暖かい液体が顔に降り注ぐ。
背後へと倒れ込む死体に鎖ごしに引きずられ、体が傾ぐ。
反射的に、踏みとどまろうとした瞬間、不意に鎖にかかる重みが消えた。
ぼたぼたと、髪から赤黒い液体が滴る。
視界を濁らせる血液を拭って、目の前を見ようとする。床に崩れ落ちているはずの『自分』の残骸を。
死体はない。血痕すらもない。
過去に来たのだ、と理解した。
同時に、『自分』が血塗れであった理由も。遅すぎたのだ。どうして気づけなかったのか。
手の中のアサルトライフルが重い。先輩の遺体から強奪した武器。
もうすぐ逝くのだから、見逃して欲しいと、心の中で先輩に念じる。心底から語りかけられたのは、思い返せば、遺体を前にしてから初めてだった。
オブジェクトを慎重に服の内側にしまいこむ。
──『遡行直後は真っ直ぐ歩く。一つ目の角を右に』
耳にこびりついた予言に従って、足音を殺して歩き始める。振り返ることはできない。投げ出すことはできない。この未来は決まっている。これを放棄することは許されないし、許すこともできない。自分が生き延びる解は存在しない。
曲がった角の向こうには、自分の後ろ姿が見えた。己の姿をした1時間後の死に向けて、真桑 デルタは足を踏み出した。