第〇〇八六番
評価: +63

クレジット

タイトル: 第〇〇八六番 - 「村正病」
著者: ©︎indonootoko indonootoko
作成年: 2019

評価: +63
評価: +63

村正病蒐集物覚書帳目録第〇〇八六番

一五七三年七月捕捉。按察司"明智光秀"が発見。村正病は戦国時代当時、日本全土に蔓延していたが明智の尽力により被害は最小限に抑えられた。当時の研儀資料の多くが失われているため村正病の詳細な症状は明らかになっていないものの、明智は複数の密書や手記にて村正病に関する記述を残しており、「罹患者の付近で何者かが殺傷されると、罹患者の思考能力が著しく低下し凶暴化する。」というものであると説明されている。村正病の来歴については不明な点が多いが、明智はキリスト教の宣教師に紛れて入国した"壊神教"と呼ばれる宗教団体に齎された厄災であると結論付けており、この蒐集物を巡って当院と壊神教は対立していた。この宗教団体は十五世紀当時の"壊れたる教会"系の分派、或いは模倣団体であると思われる。現代では当院が管理・把握している蒐集物以外に村正病は存在せず、村正病は事実上根絶されている。

現代でも謎が多い村正病ではあるが、明智は複数の村正病に関する文書を残している。以下の文書群は、明智が村正病について按察した際に本院へ送付した報告密書や明智本人の手記の抜粋であり、可読性のために一部現代語訳されている。原文及びすべての資料は添付文書群を参照のこと。

明智から蒐集院本院へ送付された密書-1


足利義昭を利用することで、足利と織田への両属という都合の良い形で織田に接近することに成功した。三好の後継者争いに織田を巻き込む形になり、少々手荒であったと反省するところもあるが無事に織田に取り入ることができたのは収穫だった。義昭の上洛が済めば義昭は織田の権力を背景に将軍へ、信長はその後見人となるのだが、信長にそのような権威が与えられるのは火種の燻りを感じる。三人衆や阿波三好の同行と共に気を配る必要があると思われる。

本院からの情報通り、この一触即発の緊張の陰で、信長を訪ねて謁見を願う外国人が織田領を出入りしているようだ。キリスト教なる異国の宗教の布教を目的としているらしく、信長もこの宗教に興味を示している。今のところ信長は一応警戒しているようで、謁見は実現していないが注意を払う必要を感じる。

何か動きがあったら追って連絡する。

(永禄十一年)



織田信長は、父の信秀が死去する際「祈れば救われる」と説いた僧侶二名を殺害しており、蒐集院本院より要注意の扱いを受けていた。明智はこの時点で謎の宗教団体の存在を目撃しており、予兆を感じ取っていたと思われる。しかし、三好家の後継者争いの後処理に追われ、宗教団体の行動の追跡には成功していなかった。

明智から蒐集院本院へ送付された密書-2


京での出来事である故に既に耳に入っていると思われるが、義昭の上洛後、仮の御所としていた本圀寺の警護中に三好三人衆率いる約一万より急襲を受けた。こちら方は二千程度の手勢であり、本圀寺の構造は堅固とはいえず、陥落を覚悟したものの突如発生した異常現象と思われる事象により救われることとなった。

正門に殺到する三好の軍勢により兵卒が一名殺められると、若狭国衆として本圀寺防衛に加わった山県源内と宇野弥七という二名の男が突如として激昂。武勇ある勇士であるとは聞き及んでいたものの、その激昂っぷりは聊か異様であった。この二名の活躍ぶりはあまりに目覚ましく、半刻も持たずに陥落するかと思われた本圀寺はこの日ついに陥落せず、翌朝特着した織田の援軍により三好軍一万は撤退。その後も織田は追撃を行い三好三人衆は敗走とあいなった。

私個人の所感を根拠とするため忍びないが、敵に包囲され士気がみるみる内に下落していたあの現場で、あの二名の異様な激昂の不可思議さは筆舌に尽くしがたい。二人を拘束し本院へ送る故、研儀へ掛けていただきたく思う。

追伸 信長が義昭の行動に制限を掛け、傀儡としようと試みており、両名の関係は飛躍的に悪化している。対する義昭も諸勢力へ密書を送付していると思われ、場合によっては武力的衝突に発展する可能性がある。本院の方でも朝廷を通じ、義昭の手綱を握るなど当然の事態に備えるようよろしく願う。

(永禄十二年)


明智から蒐集院本院へ送付された密書-3


例のキリスト教とかいう宗教に動きあり。ルイスフロイスという外国人が、二条城建設のため京に訪れていた信長の元へ押しかける様に推参し接触。2か月後を目途に領内での布教を許可した。信長が西洋国との外交にて利益を得ようとしているのは明らかであり、そのために外国の宗教を引き入れる行為は到底看過できないものである。

神仏を足蹴にするような大うつけ者が絶大な権力を得て、その武力を背景に外国の宗教勢力が日の本にのさばる様な事態はなんとしても避けねばならず、飛ぶ鳥を落とす勢いの信長を早い段階で失墜される必要がある。
蒐集院本院は朝廷を通じ、義昭から諸大名へ働きかけることで、信長討伐のための簡易同盟を作るよう打診頂きたく存じる。

(永禄十二年)


蒐集院本院から明智へ送付された密書-1


明智殿
日々の奮励ご苦労。

包囲網が完成しつつあり、諸大名が裏で連携している中、朝倉が表立って信長の上洛命令を無視してしまったのは誤算でした。更に誤算だったのは浅井が朝倉との義理のため、信長との同盟を破棄し金ヶ崎にて織田の軍勢を撃破してしまったことです。更に更に誤算だったのは姉川にて朝倉浅井両氏が信長に完全粉砕されてしまったことです。包囲網に綻びが生じており、出鼻をくじかれています。

朝倉浅井両氏のとその軍勢は延暦寺で匿いました。信長という男、評判通り神や仏なぞお構いなしといったところでしょうか、延暦寺を堂々と包囲しているようです。しかしこの窮地に対して、予てより信長と対立している三好三人衆が援護を行っているようで、信長の気を反らしてくれています。さらに本願寺の法主、顕如も伊勢の一向衆へ働きかけて大規模な武装蜂起を行ってくれています。少々予定は狂いましたが信長を消すことは不可能ではないでしょう。

明智殿がこの急展開において板挟みの役をかってくれており、本院としても大変助かっています。今後も励んでください。

追伸 明智殿が以前研儀の依頼をかけた二名ですが、研儀結果がでました。結果から言いますと二名の脳髄から鉄でできた蜘蛛のような機械仕掛けの虫が発見されました。詳しくは次に本院を訪れた際に説明します。お待ちしています。

(元亀元年)



この時点で村正病は発見されていなかったとされているが、明智が遭遇した山県源内と宇野弥七が最初の村正病罹患者であると考えられる。当時の研儀資料は財団との合併及び当院の内部分裂により紛失しており、確認することが出来ない。

この頃、壊神教はキリスト教を騙りに村正病の流布を行っていたが、その行動理由には諸説ある。中でも有力な説とされているのが、村正病を利用し戦乱を誘発させることで諸国の政治を不安定にさせ、布教の行いやすい地盤をつくることにあったとする説である。事実、各地での戦闘行為が長引き、織田家のように外交手段として諸大名に取り入るケースが多く確認された。中でも豊後国の大友家は、当初は外交手段として取り入れた筈の壊神教に当主の義鎮が心酔し、家臣団に改宗を迫ったという記録が残されている。このためか現在の大分県周辺では、現代でも壊神教に纏わる蒐集物が多く発見されている。

明智は所謂信長包囲網の攻防の最中も村正病に関する報告を複数蒐集院本院へ送付している。その内容によると年代が進むにつれて極まる戦国時代の混迷に比例するように、蒐集物の観測件数を増えているのが確認できる。年代が進むにつれて村正病の改良がおこなわれていると思われる部分にも注目したい。

明智から蒐集院本院へ送付された密書-4


信長の行動には疑問しかない。越前が冬に閉ざされ撤退できなくなることを気にした朝倉に対し、絶妙な間で講和を持ちかけるところには軍略家としての才を感じるが、そのあとの一向衆への攻撃や比叡山焼き討ちはただの虐殺と評価せざる得ない。敵の投降を認めず自らに噛みついた腹いせと言わんばかりに虐殺、結果としてヤケになった敵が捨てがまりの突撃を食らい、いらぬ損害を軍に出している様をよく聞くようになった。なにより比叡山は酷すぎる、女や子供まで皆殺しにするとは正に鬼畜の所業。否、例え本当に鬼畜であったとしても民忠を考えたら実行できるようなものではない。信長の残虐ぶりにも驚きを隠しきれないが、それより驚きなのがあれだけやられている伊勢長島の一向衆が未だに抵抗を続け、あろうことか善戦しているということだ。

伊勢長島を隠密に按察をさせたが、その報告はやや異様なものである。"孤立した一向衆が敗走し、織田の軍勢が追撃を行ったが、敗走は偽装であり実際は釣り野伏せによる伏兵作戦だった。しかし伏兵の様子は妖しく、全員が異様に激昂しており勇猛という凶暴に織田の軍勢を攻撃した。"というものであり、報告を行った隠密の所感では、"農民や、鍛錬しているとはいえたかが坊主が勇猛果敢に槍を奮い、組織された織田軍を手玉に取る光景は異様としか形容できない。"と称されている。

合戦上に残された一向衆の死体を調べさせたところ、例の蒐集物が発見された。以前私が見たものは「突如凶暴化し、猪武者がごとく捨てがまりを働く。」というものであり、今回の確認された症状とは少々異なる。しかし誰かの死を引き金に凶暴化しているという共通点を無視することはできない。私は例の蒐集物について、より重点的な按察・調査が必要だと感じる。

追伸 焼き討ちにあった比叡山延暦寺から蒐集物のみを回収し、現地の僧侶たちを見捨てた本院の判断に苦言を呈したい。延暦寺は蒐集物封印を長年にわたり協力してくれた重要な協定関係先である。一朝一夕では成らない義理というものがあったであろう。周辺の寺院からの評判もある故、これからはよくよく考えられた行動をされたし。

(元亀二年)


明智から蒐集院本院へ送付された密書-5


私が自治に預かる坂本の領内にてキリスト教の宣教師を保護した。先に結論から書くと、今現在諸国で布教を行っているキリスト教はキリスト教ではないらしい。

家臣の一人が学舎建設のための視察を行っていたところ、外国人同士の小競り合いに遭遇。両者を捕らえ事情の聞き取りを行うと、片方の外国人が「キリスト教の名を騙り、誤った教義を布教していた外国人を怪しく思い問い詰めていた。」と証言した。もう片方の外国人へも聞き取りを行おうとしたところ、その外国人が突如自害してしまった。自害した外国人の持ち物を検めたところ、例の収集物に似た蒐集物の入った小瓶が発見された。この密書と併せて本院へと送付する故、研儀のほどよろしく願う。

保護した外国人は、日の本でキリスト教が解禁されたという噂をきき渡来してきたポルトガル人宣教師であり、日の本で布教されているキリスト教は実際の物と大きく異なると証言している。件の宗教はエゲレス語で"The Church of the Broken God"と書き、直訳を壊神教という宗教の教義と類似したものを布教しているらしい。身分を偽ってまで布教しているのだから邪な腹積もりがあるのだろう。

(元亀二年)


明智から蒐集院本院へ送付された密書-6


私も身の振り方を考え直さねばならなくなった。

打倒信長の同盟に甲斐の武田氏が呼応し、織田と同盟関係にあった徳川を三方ヶ原で完全粉砕したのは喜ばしいことだったが、それを聞いた義昭が信長へ時期尚早にも挙兵してしまったのは大誤算だ。つい三か月前にも挙兵未遂があったため警告のつもりで、武田軍が織田軍と衝突するのを待つように進言はしたものの聞き入れられることは無かった。将軍家と織田家の二足の草鞋という立場は、按察司としての任務を遂行するにあたり大いに役立ったが残念である。義昭には暇を出したため、今後私は織田家一本で行かねばならない。

しかし義昭の挙兵の時点で武田信玄が病死していたとは。義昭は最初から梯子が外れているとも知らずに挙兵したことになる。どうして信長にはこうも風が吹くのか。

(元亀四年)


蒐集院本院から明智へ送付された密書-2


明智殿
日々の奮励ご苦労。

信長について朝廷から直々に依頼がありました。蒐集物関係ではありませんが全く無関係という訳でありません。

先の信長による朝廷に対する改元要求、朝廷は大変お怒りです。朝廷は信長の抹殺を希望しています。つきましては明智殿で信長を始末できないでしょうか?

無暗に人殺しを行えという訳ではありません。信長を始末する理由は我々にも十二分にあります。件の宗教団体が信長の権威に乗っかって勢力を持つことを許すことはできません。また、件の蒐集物流布の容疑もあります。信長があの宗教団体を保護している以上、やはり消えてもらうしかありません。良い返事を期待しています。

また、以前明智殿に研儀依頼を受けていた例の蒐集物について研儀結果がでました。やはり以前から発見されていた蒐集物と同種のものでした。果心居士はこの蒐集物を蒐集物覚書帳目録第第〇〇八六番「村正病」と命名し、その特異性を「鉄でできた機械仕掛けの虫に寄生されることで発生する寄生虫症の一種であり、殺傷された人物を罹患者が発見すると罹患者が凶暴化する。」と定めました。

(天正元年)


明智から蒐集院本院へ送付された密書-7


出来れば最初からやっている。あの男はそんなに甘い男ではないのだ。寝首を掻くなど不可能だ。

(天正元年)

村正病という呼称が初めて登場するのは天正に改元された直後である。当初明智が懸念した通り、織田家の躍進に便乗する形で壊神教は勢力を伸ばしていると思われ、この時点で村正病の罹患者は膨大な数に昇っていたことが予想される。

織田家への士官以降、明智は大量の密書を蒐集院本院へ送付しており多くは現存しているが、天正に改元以降、現存している密書の枚数は極端に少なくなっている。信長が足利義昭を京から追放し政権を握って以降、壊神教は以前と異なり堂々と活動していたことを示す文書が按察司"荒木村重"により作成され現存しており、壊神教が蒐集院に対し妨害工作を行っていたと推測されている。

復元された按察司"荒木村重"が明智宛に作成した密書の書き損じ


明智殿
御武運長久にて誠に祝着。

この密書を書くのは四回目になる。本院や他の按察司との密書が何者かに盗難されているようだ。我々の存在が敵対する組織に知られていることを示しており、由々しき事態である。

手前は犯人を壊神教と睨んでいる。織田家家臣団の中に壊神教と密かに通じているという情報を入手したのだが、蒲生氏郷の按察に当たらせた隠密が帰ってこないのだ。蒲生が壊神教に対して寛容な立場を取っていたのは周知の事実であるが、ここ最近になって壊神教との間に不審な金のやり取りが発見されている。

また、壊神教の信仰を公表していたため、手元で飼い殺しにしていた高山右近も最近になって妙に私の周りを嗅ぎまわっているようだ。右近は古くからの壊神教の信者であり、宣教師たちへ顔も効く。うまく利用して情報を抜き出せないかと考えていたが、油断していたら逆に情報を抜かれてしまう可能性がある。

右近だけではない、最近小寺家の黒田孝高とかいう男が織田へすり寄り諜報活動を行っているようだ。また、黒田は諜報に辺り"蒐集院"という単語を口にし、情報を探っているというのだ。頭のキレる男だとは聞いているが、その本性は[墨を零したような痕跡があり、これ以降は何も書き込まれていない。]

(天正四年)


荒木から明智への密書


明智殿
御武運長久にて誠に祝着。

突然のことで驚いていると思う。倅に嫁いでくれた明智殿の長女を突如返還してしまったことの説明を致したくこの密書をしたためた次第である。

手前は本院と朝廷からの要請を受け、打倒織田の第三次包囲同盟に参画するため毛利家へ内通しようと思う。例の黒田とかいう小僧や右近らにしつこく嗅ぎまわられ、手前の正体は壊神教の連中に露見しつつあるのだ。であれば乾坤一擲織田にうってでて、院のために一働きしようと思う。

まったく勝算がないわけではない。しかし万が一のことがあれば手前に味方した人間全員が伊勢長島の一向衆達と同じ末路をたどり、手前は朝倉浅井と同じ末路を辿るだろう。であるから突然の返還となった次第である、手前は死んでも恩人である明智殿へ迷惑をかけることはできないのだ、理解してほしい。

恐らく戦場で相見えることになると思われる。ただし決して手を抜いたりすること無きよう願う。もし手前の首が取れる局面に居合わせたら容赦なく手前を討ち取られよ。

(天正六年)

天正への改元以降、一切発見されていない明智の密書類だが、荒木が謀反を起こし翻意に訪れた黒田孝高を捕らえて以降は再び発見されるようになる。そのため、荒木の密書で語られた"密書の窃盗"を指揮していたのは黒田孝高だと考えられている。また、この時黒田孝高が翻意に訪れた理由について、表向きには当時の黒田孝高の主君である小寺政職が荒木に呼応しようとしたため、織田家と友好関係を望んだ黒田孝高が謀反を阻止しようとしたとされているが、実際は偵察に訪れた黒田孝高を荒木が尋問目的で拘束した可能性が高い。

荒木の謀反から約4年後、明智は本能寺の変を起こし信長の殺害に成功する。しかし、織田家の後継者争いとなった山崎の戦いにて明智は羽柴軍に敗れ死去。村正病に関する情報は以降発見されていない。

明智から蒐集院本院へ送付された密書-8


母の葬儀、本院には格別の配慮を頂き恐悦至極。

今回の母の死、信長に殺されたと言っても過言ではない。信長が波田野を攻めろというから攻めてやった。波田野が降伏し、波田野秀治の安全を保障するために私の母を人質に差し出せと命じたのも信長。なのにあの男は八上城を[強い筆圧で書かれ文字が潰れており解読不能。]

以前ご相談いただいた暗殺の件、前向きに検討させて頂く。私は六月二日という日付を決して忘れない。

(天正七年)


蒐集院本院から明智へ送付された密書-3


明智殿
日々の奮励ご苦労。

石山本願寺の陥落。上杉政虎の死。武田家の滅亡。包囲同盟は完全に瓦解しました。しかし、朝廷は未だ信長の誅滅を求めており、明智殿の挙兵を期待しています。

良い返事を期待しています。

(天正十年)


明智から蒐集院本院へ送付された密書-9


(天正十年)


蒐集院本院から明智へ送付された密書-4


明智殿。
日々の奮励ご苦労。

織田の主な家臣団は明智殿を除き全員が遠征中。その中、信長を茶会と称し本能寺へ誘き出します。三大茶器の二つ"初花"と"新田"を持つ信長のこと、最後の一つの"楢柴"をチラつかせれば食いつくことでしょう。また、碁の名人として名高い本因坊日海を派遣し、深夜になるまで碁の接待を行わせます。茶会の後は宴会でしょうし、奇襲がより行いやすいことでしょう。

とりあえず、詳しい段取りは連歌会の時にでもお話します。愛宕山威徳院で会いましょう。

(天正十年)

上記文書が明智の残した最後の文書、並びに蒐集院本院が明智へ送った最後の文書となっている。本能寺の変から山崎の戦いまでの間、明智の足取りには不明な点が多いが、明智家重臣の齊藤利三は手記として最後の数日間をいくつか書き記している。

齊藤利三手記-1


光秀様より謀反を行う旨を説明された。羽柴殿の中国攻めの援軍を任されている光秀殿だが、中国攻めには参加せず直接信長様が滞在している本能寺を攻撃するそうだ。正直な感想を言えば謀反などするべきではないと思う。確かに信長様を殺害することは可能だと思う、だが問題はその後だ。朝廷という後ろ盾があるらしいが、いったい何人の大名が主君殺しの光秀様に手を貸してくれるだろうか?

それでも某は、某だけはどこまで行っても光秀様の味方で在り続ける。光秀様より受けた百万個の恩に報いる機会が頂けるとあれば日の本全てを敵にする覚悟がある。

光秀様が天下を取れるよう、某も何か一つ策を講じてみようか。考えておこう。

(天正十年)


齊藤利三手記-2


信長様、否、信長はあっけなく死んだ。信長は最後まで諦めずに抵抗、僅か三十程度の手勢で最後まで反撃を続けた。しかし弥作とかいう黒い人間が突然機械仕掛けの巨大な蜘蛛に化け、寺へ口から火を放つと信長方はあっと言う間に劣勢になり信長は火に巻かれて死んだ。光秀様は弥作だったそれを捕らえようとしたが叶わず逃がしてしまった。あの妖蜘蛛はいったいなんだったのか。

信長の首は本因坊日海が持ち帰る段取りだった。近衛前久様所縁の寺院である西山本門寺へ持ち帰り、そこで供養祈祷を行うらしい。正直光秀様の言う"朝廷の後ろ盾"は眉唾ではあったが、近衛家が一枚噛んでいるなら間違いないだろう。光秀様という人間の広さには感服せざる得ない。信長の首は後継者争いを行う上で大義名分の旗印になる代物故この隠蔽工作にも深謀遠慮の策を感じる。

気になるのは私の講じた策の行方だ。無事に逃げれただろうか?

(天正十年)


齊藤利三手記-3


光秀様は一日中諸大名への密書を書いている。私の悪い予感が的中してしまった、光秀様の味方となってくれる大名家など存在しなかった。光秀様と近しい細川家や筒井家までも光秀様の要請を無視している。頼みの綱だった朝廷の後ろ盾も、"主君殺しという大罪に朝廷を噛ませる訳にはいかない"と光秀様は明らかにしない方針だ。光秀様の朝廷への忠義が光秀様の首を絞めてしまっている。

また、早くも信長の後継者争いに動きがある。既に羽柴軍が毛利家と講和し光秀様を討伐するため京へ進軍しているようだ。斥候の情報では羽柴軍は既に姫路城へ入城し出陣の準備をしているらしい。姫路城といえば黒田孝高の居城だ、光秀様はそれを聞いて苦い顔をしていた。この早すぎる秀吉軍の行動にはやはり黒田の入れ知恵があるのだろうか。

悪い知らせばかりではない。徳川殿が無事に駿府城へ帰還できたらしい。某の策通りに行けば光秀様だけでも救えるかもしれない。

(天正十年)


齊藤利三手記-4


遺書になると思う。

こちらの手勢は約一万四千、対する羽柴軍は約四万。羽柴軍の士気は遠方からの行軍した軍とは思えない程異様に高い。おそらく決着に時間は掛からないだろう。

光秀様への恩は数えきれない。稲葉一徹と折り合いが付かず離反し食うに困った某を助けてくれたのは光秀様だった。娘が嫁いだ長宗我部家が織田家と良好な関係を築けるよう口利きしてくれたのも光秀様だった。某を重用してくれた上黒井城を預けてくれたのも光秀様だった。信長に某を稲葉に返すように強要された時殴られても某を庇ってくれたのも光秀様だった。信長が長宗我部家を裏切ろうとしたところ、光秀様が信長を討ってくれたのも、結果的に某の娘が助かることとなった。光秀様がいなかったら某と美濃斎藤家の今は無かったはずだ。

某は光秀様に最期まで忠を尽くす。美濃斎藤家は明智家への恩義を決して忘れない。

(天正十年)



追加資料群 斎藤利三手記-4より第肆号閲覧封印術式が施された文書が発見された。この文書により、斎藤利三がならんかの方法で蒐集院式霊術を会得していた可能性と、明智光秀が生存していたことが示された。以下の文書群は当院指定希少蒐集品として扱われ、原本は京都慈眼寺の宝物殿に蒐集院封印のもと蒐集されている。

齊藤利三手記-4


この文が読まれるということは、光秀様の同志達が某の手記を発見してくれたことだろう。見様見真似なので失敗していないことを祈る。

某は山崎の合戦場に光秀様の甲冑を着て出陣する。光秀様には成すべきことがまだ沢山在るはず、光秀様の影武者として討たれるならば本望。

光秀様は世間から姿を消し、村正病と壊神教について調査を行うつもりだ。恐らく光秀様が再び表舞台に現れるのはずっと先のこと、徳川家より忽然と現れるはず。我々が信長に謀反を仕掛けた直前、家康殿は信長からの接待を受けるため極僅かな手勢のみで京に入っていた。そこで謀反の直前に徳川殿に"信長が家康殿を暗殺しようとしている"と偽報を流し、その上で駿府城へ帰還するように助言をした。家康殿への恩売りとしては十分なはずだ。

光秀様の同志各位は徳川家の動向を気に掛けるとともに、支援をお願いしたく思う。

(天正十年)

山崎の戦いで敗戦した後、明智は天台宗の僧侶となり、南光坊天海へと名前を変えている。齊藤利三手記-4で語られたように山崎の戦いで消息を絶った後も村正病に関する按察・研儀を行っていたと思われ、発見されている文書等は極少量であるが有力な資料であると期待されている。

豊臣政権下の天海は延暦寺へ潜伏しながら研儀を行っていた。豊臣秀吉が参謀として黒田孝高を据えていたことから天海は政権を危険視し、監視を並行して行っていた。

天海手記-1


村正病を引き起こす蒐集物について一つ仮説がある。あれは長篠での合戦で起きた現象であるが、村正病罹患者と思われる兵卒がけたたましい鉄砲の音を聞いた瞬間態度をガラリと変え、急に恐慌状態に陥ったのを見たことがある。確かに鉄砲の炸裂音は兵を恐怖させるものではあるが、村正病罹患者が凶行に及ぶのを制止するのに特に効果的である可能性がある。また、密書の盗難が行われるようになったのが長篠の合戦の前後からである部分も注目するべきだろう。

私の仮説が正しいとして、検証できる場面は最早多くないと思われる。秀吉は勝家を破ってからというもの飛ぶ鳥を落とす勢いだ。このまま日の本を平定するかもしれない。急いで研儀を進めるべきだろう。

日の本を平定といえば、秀吉により天下が統一され安定した時代が訪れれば蒐集院にとってもそれほど悪くはない、村正病が発現することも少なくなるため悪い話では無いように感じるが、黒田を参謀にしているようでは野放しという訳にはいかない。黒田が奉行となり建築したという大坂城を見るとそれを強く思う。

(天正十二年)


天海手記-2


肥前の一部が壊神教の治める土地となっているようだ。黒田が壊神教信者であることを公言しているという情報もあるため、いよいよ本格的に動き始めたといった所か。

太閤秀吉という単語に失笑を禁じ得ないが太閤閣下様殿を存分に利用させて貰おう。この事実を太閤閣下様殿へ伝えれば、野心家の秀吉のことだからタダで済ますまい。

長らく連絡していなかったが本院へも報告するべきだろうか?否、万が一でも私の生存が露見し、それが秀吉の耳に入るようなことになれば村正病どころではなくなる。確認は出来ていないものの娘の玉が壊神教へ改宗したという情報もある、だとすれば私は壊神教から注目を集めている可能性もある。今はまだ耐える時。

(天正十五年)


天海手記-3



秀吉が急遽筑前箱崎へと入り棄教令を発布した。壊神教を宣教することを制限する内容であり、壊神教の輩へは十分な牽制となっただろう。しかし、発布時に"この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰する"という旨の宣言をしており、まるで私たちにも牽制を入れるかのような宣言だ。大方黒田の入れ知恵だとは思うが。

しかし今回で最大の収穫は、秀吉に対し匿名で助言をすることに成功したことだ。今後も利用させてもらおう。腰刀停止令に倣った法律でも提案できれば面白い。

(天正十五年)


天海手記-4


秀吉が遂に天下統一を果たした。村雨病蒐集物の研儀は完了しておらず途方に暮れる所だったが、流石は野心家の太閤閣下様殿だったようで、身の程も弁えず海外へ戦争を仕掛けた。海外への戦争では必然的に船を利用した海戦の機会があり鉄砲が利用されやすい。私はこの好機を逃さず研儀を行った。

やはり予想通り村正病蒐集物は鉄砲など破裂音や炸裂音を幾度となく浴びることで不活性化するようだ。まるで安全装置のように存在するこの特異性だが、壊神教の宣教師たちが大量の南蛮武器で日の本を転覆させることを計画しているとしたらこの特異性は理解しやすい。

後はこの蒐集物が如何にして人体に入り込むかであるが中々手掛りは掴めない。恐らく成虫は本能寺で見たアレなのであろうが……。

(天正十九年)


天海手記-5


豊臣秀次、すなわち秀吉の後継者候補が切腹させられた。養子とはいえ後継者候補である秀次へ切腹を命じたというのには正気を疑わざるを得ない。嫡男である秀頼が産れたから邪魔になったのか、そうだとしても跡取りの候補が少なすぎやしないだろうか?性交中毒者の秀吉に子供がこれほど出来ないのだからもっと大切にするべきだ。

このまま行けば日の本は再び戦乱の火に巻かれることになるだろう。私も人のことは言えないが秀吉ももう年寄りだ、それほど長くない。まだ幼き秀頼では豊臣を制御しきれないのは目に見えている。

これに乗じて壊神教が台頭するのだけは避けねばならない。

(文禄四年)


天海手記-6


扇動に成功。壊神教の信者二十六名が殺害され、再び禁教令が発布される結果となった。

黒田の出方が気になるところだ。秀吉も老王としての風格が出てきた、黒田如きには扱いきれまい。

(文禄五年)

豊臣秀吉が死亡した後、天海は齊藤利三の娘、"福"の仲介により徳川家へ接触している。この福の仲介には齊藤利三が生前に何らかの形で遺言を残していたとされているが証拠品の発見には至っていない。

徳川家において天海は参謀として重用され僧侶という身分でありながら関ケ原の戦いでは軍師の役割を果たしている。天海は関ケ原の戦いの際に発生した壊神教や村正病に関する事件を書き残している。特に村正病を戦場で利用したとする記述があり、明智が村正病の研儀成果を元に改造したと推測されている。

天海手記-7


秀吉が死んだ。死因が性病という部分は大いに笑うべきだが、実際の状況は笑ってもいられない。石田三成や大谷吉継の文治派と福島正則と加藤清正の武闘派が昔から折り合いが悪いのは聞いていたが、その対立が浮き彫りとなりつつある。後継者争いは始まりつつあるのだ。

研儀はまだ完全ではないが急ぎ表社会へ復帰しなければならない。もちろん明智光秀としては復帰できない。復帰先に迷惑を掛けるのは必至であり、結果として私の居場所がなくなるからだ。本院へ連絡を取りたいところだがやはりここは慎重に動きたい。壊神教の脅威が消滅するまでは按察司という身分を隠して活動するしかないだろう。

(慶長三年)


天海手記-8


徳川家より参謀として迎え入れたいと連絡が入った。随分と複雑な経路で私にたどり着いたようだ。

徳川はそれほど遠くない未来に勃発するであろう秀吉の後継者戦争に向けて内通者を増やしていたようだ。その内の一人が稲葉正成という稲葉一轍の孫にある男であり、その嫁が私が隠居していることを知っており、稲葉正成経由で徳川へ参謀として使う様に打診があったそうだ。

その嫁というのが斎藤福、利三の娘だというのだから驚いた。私が信長を殺した時、福はまだ三歳だったのだから私のことを覚えているはずもない、おそらくは利三の置き土産ということか。

(慶長三年)


天海手記-9


家康の参謀を務めることが正式に決まった。他の家臣の前で手を取り 久しぶりです などと感激されてしまい目立ってしまった。また、家康は私に掛けた覚えのない恩義を感じているらしい。信長に暗殺されそうになったところを助けてもらっただとか、私の謀反を前もって教えて貰えたから逃げることができただとか、記憶にないものばかりだ。うまいこと話を併せたが一体どういう事だろうか?本院の援助なのだろうか、真相は不明だ。

(慶長四年)


天海手記-10


秀吉の後を追う様に五大老前田利家が死に、情勢は加速度的に不安定になっている。豊臣政権内で発生していた不和はここにきて一気に表面化しているようだ。石田三成への襲撃事件はこの不和を決定的なものにした。

怪しい動きを見せているのはやはり黒田だ。この不安な情勢に関わらずあまり目立った動きを見せていない、それどころか息子の長政を徳川側へ内通させているらしい。そもそも豊臣の重臣達も石田三成と折り合いが悪いというだけで家康と通じているようなのだが、長政はあの黒田の息子だ、警戒が必要だろう。

(慶長四年)


天海手記-11


開戦は決定的な情勢となった。家康を大老から弾劾する動きがあり、家康が抱き込んだ武闘派衆と石田三成率いる文治派衆の対立構造が完成、大老上杉の挑発に乗る形で家康は大坂から越後に挙兵、これに呼応する形で石田三成も挙兵した。伏見城が落城するなど少々石田有利の情勢を見せている。

城の奪還などを考慮したが、兵力の拮抗した中の攻城戦は難しいと判断し、佐和山城への進軍を進言した。居城には石田の父に兄に妻がいるはず、恐らく石田は街道を塞ぐように迎撃を計画するはずだ。そうなれば決戦の地は美濃の関ケ原か。

私を徳川家と引き合わせた稲葉正成は石田軍の小早川家の家老だそうだ。家康も方々へ内通せんと努力している様だし、私も策を弄してみるか。

(慶長五年)


天海手記-12


徳川率いる東軍と石田率いる西軍が関ケ原で遂に激突。石田の腹心、島清興による奇襲などで先手は奪われたが野戦に持ち込んだ時点で我々に分がある。石田の盟友、大谷吉継の陣を見下ろすように小早川の軍勢1万が控えており、私の策が作用しやすい布陣となった。小西行長など壊神教の信者も参戦しており、油断はできないが十中八九勝てる戦だろう。徳川秀家率いる徳川本隊四万が到着し次第いつでも攻撃を開始できるだろう。

(慶長五年)


天海手記-13


黒田孝高に動きあり。中津城にて急遽募兵、即席軍を率いて九州へ進軍開始した模様。既に大友軍と衝突したと思われるが既に密約により落城は決まっているそうな。関ケ原に注目が集まる中、九州にいる壊神教の勢力と連合し武装蜂起するつもりなのは解り切っている。これを許せば黒田・壊神教が豊臣政権を転覆させる機会を与えることになるだろう。

黒田の進軍を阻止するならば、関ケ原の野戦を迅速に終わらせる必要があるだろう。最早徳川本隊四万を待っている暇は無い、すぐに開戦しなければならない。幸い野戦ならば短期決戦は不可能ではない。

ここまで目立った動きを見せなかった黒田が突然動きだすとなると、小西行長の存在が不気味だ。この十万と十万のぶつかりあいすら陽動である可能性があるのではないだろうか。

(慶長五年)


天海手記-14


睨みあい状態だった両軍だが、井伊が福島を出し抜き一番槍を果たし開戦。東軍本陣の後方に布陣している毛利軍への対処が間に合わず、三万近くの兵を毛利軍の側面に控えさせることで応急的に牽制することとなったため、兵力差は十万対七万とやや徳川が不利な状況となった。先に布陣した西軍が有利な布陣を組み、東軍は包囲されつつあったのも不利に拍車を掛けた。

それでも東軍は善戦したものの家康の機能した策がうまく機能せず、内通していたはずの吉川広家や小川祐忠が寝返らなかった。そこで私は予てより仕掛けていた策を発動、稲葉正成を利用し小早川軍へ蔓延させていた改良型の村正病を起動するため小早川軍へ大筒を用いて砲撃、私の改良した村正病は炸裂音を聴いても沈静されず人が斬り殺された時のように凶暴化するため、突如小早川軍は狂乱。険しい松尾山斜面を猪の様に駆け下りた小早川一万五千は大谷吉継の陣へ殺到。呼応するようにして吉川広家、小川祐忠などの軍勢も一斉に寝返り西軍は物の数分で瓦解。石田三成は敗走し東軍が半日で勝利を収めた。

大勢が決まった後、少々予定外の事態が起きた。西軍に布陣したものの一切攻撃をせず不気味な様子を見せていた島津軍が東軍本陣に特攻、その様子はやはり村正病と類似していた。島津軍の隣には小西行長が布陣しており、島津が鉄砲玉にされた可能性は否めない。井伊直政や本多忠勝の活躍によりなんとか退けたが甚大な被害がでた。

ともかくこれで黒田の足も止まるはず、まさか黒田も十万対十万の大戦がたった半日で決着するとは思うまい。急ぎ佐和山城を陥落させ、石田三成を討つべし。

(慶長五年)



関ケ原の戦いの終結後、壊神教の活動は一気に小規模なものになる。小西行長の処刑や、黒田孝高の九州奪取失敗などが要因に挙げられる他、天海が蒐集院に復帰し、様々な研儀資料や情報資料を提供したのも要因の一つと言われている。

関ケ原の戦い終戦後、天海は徳川家康に征夷大将軍を名乗らせるため奔走。江戸幕府の設立、江戸の首都機能整備に尽力した。現在でも天海が江戸に施した風水結界は現存しており、鬼門と裏鬼門を塞ぐため建築された寺院群の規模は、蒐集院が設置した結界の中でも歴代二位の規模を誇る。その後幕府に壊神教の禁止令を発布し、壊神教を壊滅させた。

天海が蒐集院に復帰したことで天海に纏わる資料が大幅に充実したが、唯一関ケ原の戦いで使用された天海製村正病の研儀資料だけは発見されていない。

天海手記-15


小早川秀秋が不審死した。原因は明らかに私の村正病だ。関ケ原での狂乱は一時的なものだったが私の作ったものには深刻な後遺症があるようだ。巷では裏切られた大谷吉継の祟りだと囁かれているが、そうだったらどれだけ救われるか。蒐集院本院に報告し、他の村正病と同じく蒐集するべきなのだろうが私としても今更失脚するわけにはいかない。丁重に封じるとしよう。

村正病の特異性の背景には神霊性があった。件の壊神教が信仰対象としているだけのことはあると言ったところだが、私の結界で当分は封印できるだろう。私も齢百を超え按察司の分際で働き過ぎた、聊か疲れてしまった。この儀は次代の若人に任せるとしよう。

(慶長七年)

現代では法律や治安維持などでそもそも村正病の発現例は少ないが、村正病自体は現存している。天海の結界設置から400年近い年月が経過している為、結界の再設置が計画されている。なお、村正病を天海が利用したという記述は対外的には抹消すべき記述である。

天海が作成した村雨病に関する研儀資料の行き先として有力なのが齊藤福である。齊藤福は天海により徳川家光の乳母に任命されており、後の春日局として徳川政権内で絶大な権力を持ったことで知られている。齊藤利三時代からの繋がりであり、天海が信頼した人物として挙げられる。

旧明智家の居城である坂本城に建築された天海の墓や、京都慈眼寺に残された明智光秀の木像の内部や、日光東照宮の陽明門からは断片的な詩が発見されている。これらは齊藤福が研儀資料を封印した場所を示してると思われる。解読、並びに発掘が複数回行われたが発見には至っておらず、候補地のいくつかは既に財団の所有地となっており難航している。

かごめ かごめ

籠の中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴と亀と滑った

後ろの正面だあれ

(注記) "籠目"とは六芒星を指し、封印術或いは結界の暗喩である。"籠の中の鳥"と"夜明けの晩"は鶏が鳴くことと早朝の日光を暗喩しており、日光の鶏鳴山を指している。"鶴と亀"は敦賀と亀岡を指し、"滑った"は"統べた"を差す、両地とも明智が統治した場所である。"後ろの正面"については諸説あり、明智の出身地である可児から見て日光を背にした場合、正面に光秀の肖像画が唯一現存する岸和田本徳寺が存在する。



ページリビジョン: 18, 最終更新: 08 Sep 2021 15:12
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