『犀賀六巳』という名前を名乗る機会が減り始めたのはいつからだろうか。砂時計を見ながら私は思った。
実働役を他に任せるようになってしばらく経ったある日のことだ。調査、分析、共有。その日のタスクを全て終えた他の者が揃って休憩に入った後。見張りの当番ももう終わろうかという時に、ずらりと並んだ計器のどれかから、2種類のビープ音が鳴るのが聞こえた。異常を知らせるそのサインを私は確認しないで済まそうとした。救うべき世界を救い、そのための犠牲を選び抜く。この部屋で管理されているのはその、犠牲の候補となる世界たち。消えても構わない世界から、他の重い価値を持つ世界が救われるためなら消す選択肢として選び得る世界まで、幅広い世界が集まっている。
もちろん、我々が掲げる救済にとってそんな場合分けは当然好ましくない。好ましくないが、如何せん世界は多すぎるので全体を見ればこんなビープ音は毎時毎分鳴るものだ。だから優先順位をつけてしまうのも仕方がないし、その後に更に優先順位をつけるのもある種仕方がない事だった。鳴り響く2種類のビープ音はその重要性の差を表す。残酷な選別だとしても仕方がない。そう言い聞かせる事が我々の精神を繋ぎ止めているのも、好ましくはないが仕方がない事の一つだった。
とはいえ、他にやる事がある訳ではなかった。そのようなタイミングであるならば、確認しない訳にもいかないのも事実。椅子に任せていた背中を持ち上げ、焦らぬようにゆっくりと椅子を回して立ち上がる。誰もいないのが良くなかった。誰かが話をしていればそれを理由に気づかなかったと言い張る事もできたのに。見回せば遠くで異常を示す警告灯が確かに点滅していた。遠くに一つ、それより少し前に一つ。そしてその音の発信源はこの広い部屋のかなり奥らしい。二つ同時というのは稀なことだった。
まずは手前の機器に向かう。これはごく最近配置されたものだ。他の世界との繋がりが極めて薄く、安定した世界だったために継続観察は後回しにされていた。だが、目の前で計器は確かに異常を示している。メーターは基準値付近を慌ただしく行ったり来たり。発生した事象を分類する多軸グラフは算出された予想値を大きく外れた値を示していた。他にも色々気になる箇所はあったし当然詳しく調べなければならないが、この様子なら多少は余裕があるだろうし、もう一つを放置するわけにもいかない。白衣から端末を取り出して情報を共有し、応援を呼んだ。既読通知を確認してから自分はもう一つの機器へ、部屋の奥の方へと向かう。
この部屋は日々拡張されている。観測可能な世界が常に増え続けているからだ。既存技術の進歩だけがその理由ではない。新たな人員。新たな概念。世界を渡る度に我々はその限界を押し広げてきた。最初に見ることのできた世界のなんと少なく、そして小さかったことか。あの頃積み重ねた犠牲は今はもうほとんど無意味に成り果てている。だからこそ我々はあの頃に戻ってはいけない。繰り返してはならないのだ。
広い部屋を早足で歩く。広さが増すと救済に優先順位が生まれた。危険な世界は手前に、安全な世界は奥に。大きな世界は手前に、小さな世界は奥に。しかし観測ができなくなった機器が処分されることはない。消滅した宇宙や全てが滅びた宇宙でさえも観測の対象であることには変わりない。壊れた箱の残骸や空箱といった類のものは何も無い空間よりも新たな宇宙や文明の揺籠となりやすいためだ。一応は一定期間後に観測を終了する規則だが、空間は拡張すれば良いので機器の処分をする暇が惜しく、古い機器が放置され続けているのが現状だ。
錆の浮いた配管をかき分け、機器の間の隙間を通り、やっとの事で目的地まで辿り着いた。この辺りはもう消滅した宇宙の観測機器しか無かったはずだが、問題の機器のパネルには微弱ながら反応がある。どうやら既に終わりが確認され、既定の観測期間も過ぎた世界が息を吹き返したようだ。
そうは言ってもその空間はどうやら空で、結局は中身の無い入れ物がただ無の中に浮いているだけでしかなかった。或いは空間すらもそこには無く、ただ純粋な無が境界線の表と裏に同じように佇んでいるのかもしれない。コードを確認して一人頷く。先ほどの宇宙に繋がっている数少ない宇宙の一つがここだ。こちらの宇宙が本来あり得ない方法で存在を証明している事によって、繋がった先の宇宙の法則が乱れているのだ。計器は2つの宇宙の溶け合う境界を認識し、異常値と正常値を反復横跳びしていたのだろう。
ともかく確かなのはそれを消さなくてはならないということだ。簡単なことだったが、私はすぐにはそうしなかった。その代わりに計器をその角度に合わせ、より綿密な調査を始めた。完全に消し去ってしまう前に計算が狂った原因を突き止める必要がある。計算通りならこの宇宙はもう消えているはずなのだし、再び生まれても同じ宇宙には繋がらない。何か一目では分からない事がここでは確実に起きていた。
広い部屋の中に機械音が静かに響く。手こずりこそしたが問題なく原因は発見され、速やかにその世界から取り除かれた。操作パネルから顔を上げ、装置に現出したそれを一瞥する。見れば小さな砂時計だ。くびれたガラス管の本体を4本の木材で囲み、木製の座で蓋をした、古臭い粗末な砂時計。その中に砂は僅かしか入っていない。巧妙に隠されたそれが世界を辛うじて生き返らせ、生かしていた。いや、生かしていたという言い方は正しくない。それは自身の存在それ自体によって、丁度その大きさと同じだけの大きさを持つ空間を繋ぎ止め、ただただ存在させ続けていた。愚かなことだ。浴槽が壊れたら風呂桶へ、風呂桶が壊れたらボウルの中へ。湯を移していったところで、最後に残るのはコップ一杯の湯冷しでしかない。最初にあった風呂はとっくの昔に失われている。
私は装置の中から役目を終えた砂時計をそっと掴み取り、光に透かしてじっと眺めた。砂は落ちた後、積み上がらずに消えていく。この砂粒を消費する事によって世界を無に飲み込もうとする虚空引力に抗い続けていたのだろう。涙ぐましい無意味な努力だ。
弱々しく、だが確かに落ち続ける砂からは一番最後に訪れた世界が思い出された。無意味な努力に意味を見出した愚かな男のいた世界が。
少しだけ進んだ科学、少しだけ異常な日常。そして決意を目に滾らせた、自分と同じ名を持つ男。朧げな記憶を辿りながら懐の端末をまさぐった。確か、ただの一員として勧誘を行った最後の日。もういつの事かも忘れてしまったその日の音声記録を私は未だに破棄できずにいた。
「世界を救うために協力してくれ。我々にならそれができる」
「......この世界はどうなる。もはや一刻の猶予も残されていないこの世界は」
「残念だが犠牲無くして前進は無い」
「私は人を救いたい」
「私もそうだ。そのために尽力してきたのだ」
「その口ぶりだと君たちは幾つもの世界を潰したらしいな」
「尊い犠牲と呼んでくれ。そのおかげで多くの世界が救われているのだから」
「その『尊い犠牲』とやらを顧みようとは思わなかったのか」
「思ったとも。だから前へと進んでいるのだ。我々が出す犠牲は回を増すごとに減っている」
「なるほどな。それで、救われた人々はそれを望んだのか」
「何?」
「どうなんだ」
「......我々の知るところではない。彼らの多くは何が起きたかも知らないだろう」
「話にならん。どうせ明かせば恐慌が起きるからとひた隠しにしたのだろう。真実が暴かれた程度で地獄に変わる救いなど、そんなものはまやかしに過ぎない」
「人の手が届く範囲は決して広くはない。だからこそリスクは減らすべきだろう。それが分からない君ではないはずだが」
「自己正当化の先に救いなど無い。間違いを知りつつ進むなら、君はいつか屍の山の頂点で最後の屍に背中を掴まれる事になる」
「見解の相違だな。残念だよ。きっと君とは上手くやれると思っていたのだが」
「そりゃあ君はそう思っていただろうさ。私にはダメだろうと分かっていたが」
砂時計を見つめながらあの世界がどうなったのかを思い出そうと試みるが、残念ながらその顛末は記憶の縁から零れ落ちたようだった。普通に考えればとうに消えて久しいはずだ。
だが、彼がまだ抗っているのなら。
『君はいつか屍の山の頂点で最後の屍に背中を掴まれる事になる』
突如聞こえた声に私は驚き、振り返った。そこには本体が砕け、穴が開いた砂時計がある。その隙間から確かに声が響いていた。
『君は私がこう言った事を果たして覚えているだろうか......君たちがこれを回収したのだと思うから、君に気づいてもらえるようにこの文言を最初に入れた』
今し方聞いた声だった。その声は確かにあの男に相違なかった。
『きっと君たちはこれを見て、下らないものだと思っただろう。それは否定できない。この延命が全体に及ぼした影響は、数多の世界を見たならば砂の一粒にも満たないだろう。ただ、これが誰の手によるものかという点について伝えておきたい』
「何を言うかと思えば───」
『我々が邂逅したあの日、私の知っていたところによれば、あの世界は既に終わっていなければならなかった。もっと言うなら私が生まれた日より前に終わっていなければならなかった。それを押しとどめていたのがまさに、君の目の前にあるこれだ。私より前にいた何者かが私より遥か前に気付き、そして拙いながらも対処した。その結果として世界は続き、私が生まれ、そして今、このメッセージが君の手元にある』
私の言葉を遮るように砂時計は話し続ける。
『この砂時計の元々の機能には手を加えないでおく事にした。私たちはここに生きている。本来存在しないはずだった私たちが。誰かが守った時の中で私たちが生まれたように、私たちが守った無意味な時も次の誰かの時となる。この砂時計はその証明だ。そして同時に我々が目指すべき未来の象徴として、あり得ざるSaigaから君たち揺るぎなきSaigaに向けてこれを贈ろうと思う。砂の落ち切った砂時計はひっくり返せば再び時を刻み出す。壊れて止まった時計とは違い、その当然の在り方として。君たちと私たち、正しいのがどちらかは分からない。だから、君たちが歩き続けるように、私たちも歩き続ける』
それを最後に砂時計は崩れ、虚空に消えた。
数瞬後、左腕から甲高いアラームが鳴り響いた。白衣の袖を捲り上げて震える腕時計を黙らせる。いつかのままに針の止まった、時間通りに音を出すだけの腕時計を。
過ぎ去る時は決して戻らず、流転する世界は閉じたガラス管の中には無い。彼らの描く前提は前提からして間違っている。そして、きっと彼らも我々に対して似たような感想を持っているのだろう。
けれど一つ、両者には変わらぬものがある。思想も方法も違えども、どちらかが間違っているのだとしても、ふたつのSaigaは同じ信念を抱いている。
腕時計の竜頭を回す。SaigaとSaiga。交わらぬ道の先に同じものがあると信じて。
───救済が為されるまで、ただ進むのみ。