2023年12月11日
自由というものの底なしの不安
先週、小豆島を訪ねた。俳人の尾崎放哉の話を本にまとめるためだった。放哉は41歳で死亡する前の8ヵ月を小豆島の南郷庵という小さな庵で暮らしていた。
放哉は山頭火と並び、自由律俳句を代表する俳人である。僕は10年以上、ある句会で俳句をつくっている。そこでつくる俳句は有季定型という制約がある。季語をひとつ入れ、上五中七下五、つまり17文字で句をつくらなくてはならない。自由律俳句は、そういう制約をすべてとり払ったものだ。
──咳をしても一人(放哉)
──入れものが無い両手で受ける(放哉)
──どうしようもない私が歩いている(山頭火)
──まつすぐな道でさみしい(山頭火)
どれも季語がなく、17文字を無視している句だ。
ふたりはもともと有季定型で句をつくっていたが、自由律の世界に飛び込む。そしてふたりとも酒で身をもち崩し、放哉は小豆島、山頭火は愛媛の庵で死んでいく。ふたりとも困窮を極めた寂しい死だった。
山頭火は晩年の日記にこう書いている。
「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」
自由律俳句は魔物だという人がいる。定型を離れ、自由になったとたん、底なしの不安に苛まれるからだという。そこで酒に手がのびる。放哉は東大出というエリートから足を踏み外し、山頭火は泥酔し数々のトラブルを起こす。世間から見放され、放哉はお遍路さんが落とすわずかなろうそく代にすがり、山頭火は物乞いに身を落とす。
僕は俳句をつくっているから、有季定型がいかに不自由なものかを知っている。もう5文字あったら......といつも思う。しかしそこから離れ、自由になったとたん、魔物が待ち構えているらしい。
コロナ禍は人々に多くの制約を強いた。その不満を多くの人が口にしたが、皆、同じ制約のなかにいると、それに守られていくようなところがある。そしてコロナ禍が収束し、さあ、これからは自由ですよ、といわれたときの不安に似ている。コロナ禍前のあのストレスフルな環境に戻る自信がない。仕事がうまくいかない理由を、新型コロナウイルスのせいにすることもできない。
僕は自由業という世界で生きてきた。旅行作家などという肩書きはもらっているが、つまりはフリーランスである。自由業者には毎月の給料がない。来月、いくらの収入があるのかもわからない。それは勤めるという形態から自由になった代償である。出勤時刻というものもないが、残業手当もない。
フリーランスになったとき、先輩からこういわれた。
「フリーになったら、サラリーマンの3倍は稼がないと人並みの暮らしはできないよ」
はじめの頃は自由という言葉に惑わされて浮足だっていたが、いまとなるとその意味が痛いほどわかる。つまりは、「自由と引き換えに放り込まれる貧しさに耐えられるか」ということなのだ。
放哉が小豆島で送った8ヵ月は切ない。結核にかかっていた放哉は、日に日に衰えていく体を自由律俳句で支える。最後には足腰が立たず、目も見えなくなるのだが。しかし放哉を代表する句のほとんどは、小豆島で詠んだ216句に含まれている。
自由とはそういうことなのか。
■しかくYouTube「下川裕治のアジアチャンネル」。
https://www.youtube.com/channel/UCgFhlkMPLhuTJHjpgudQphg
面白そうだったらチャンネル登録を。。
■しかくツイッターは@Shimokawa_Yuji
放哉は山頭火と並び、自由律俳句を代表する俳人である。僕は10年以上、ある句会で俳句をつくっている。そこでつくる俳句は有季定型という制約がある。季語をひとつ入れ、上五中七下五、つまり17文字で句をつくらなくてはならない。自由律俳句は、そういう制約をすべてとり払ったものだ。
──咳をしても一人(放哉)
──入れものが無い両手で受ける(放哉)
──どうしようもない私が歩いている(山頭火)
──まつすぐな道でさみしい(山頭火)
どれも季語がなく、17文字を無視している句だ。
ふたりはもともと有季定型で句をつくっていたが、自由律の世界に飛び込む。そしてふたりとも酒で身をもち崩し、放哉は小豆島、山頭火は愛媛の庵で死んでいく。ふたりとも困窮を極めた寂しい死だった。
山頭火は晩年の日記にこう書いている。
「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」
自由律俳句は魔物だという人がいる。定型を離れ、自由になったとたん、底なしの不安に苛まれるからだという。そこで酒に手がのびる。放哉は東大出というエリートから足を踏み外し、山頭火は泥酔し数々のトラブルを起こす。世間から見放され、放哉はお遍路さんが落とすわずかなろうそく代にすがり、山頭火は物乞いに身を落とす。
僕は俳句をつくっているから、有季定型がいかに不自由なものかを知っている。もう5文字あったら......といつも思う。しかしそこから離れ、自由になったとたん、魔物が待ち構えているらしい。
コロナ禍は人々に多くの制約を強いた。その不満を多くの人が口にしたが、皆、同じ制約のなかにいると、それに守られていくようなところがある。そしてコロナ禍が収束し、さあ、これからは自由ですよ、といわれたときの不安に似ている。コロナ禍前のあのストレスフルな環境に戻る自信がない。仕事がうまくいかない理由を、新型コロナウイルスのせいにすることもできない。
僕は自由業という世界で生きてきた。旅行作家などという肩書きはもらっているが、つまりはフリーランスである。自由業者には毎月の給料がない。来月、いくらの収入があるのかもわからない。それは勤めるという形態から自由になった代償である。出勤時刻というものもないが、残業手当もない。
フリーランスになったとき、先輩からこういわれた。
「フリーになったら、サラリーマンの3倍は稼がないと人並みの暮らしはできないよ」
はじめの頃は自由という言葉に惑わされて浮足だっていたが、いまとなるとその意味が痛いほどわかる。つまりは、「自由と引き換えに放り込まれる貧しさに耐えられるか」ということなのだ。
放哉が小豆島で送った8ヵ月は切ない。結核にかかっていた放哉は、日に日に衰えていく体を自由律俳句で支える。最後には足腰が立たず、目も見えなくなるのだが。しかし放哉を代表する句のほとんどは、小豆島で詠んだ216句に含まれている。
自由とはそういうことなのか。
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Posted by 下川裕治 at 12:09│Comments(0)
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