Posts

原始力復興委員

いろいろのせました おいしそうに描けてるでしょうか。先日もご紹介した「プティ アクィーユ」のシャルキュトリーをいただいているところ。フランスパンに「パテ ド カンパーニュ」を乗せて、いろいろなお野菜やピクルスも。もちろん赤ワインも一緒である。 あまりにおいしくて、ふと変なことを考えた。これだけの食材だが、これをぜんぶ自分で揃えるとしたらどれだけ大変か。トマトを育て、小麦を挽いてパンを焼く。鶏を育てパテに仕上げる。ぶどうからワイン? いや無理無理。スーパーやネットですべてをまかなう僕の生活は、もう現代社会の流通機構にフルに依存している。恵まれ過ぎで、罪悪感さえ感じるほど... こんな僕が、 ビッグイシュー9月号 (☆1)の「原始力復興委員」という記事を読んだ。新潟県糸魚川市で古代人の生活を実践している山田修さん。彼は、磨製石器に木製の柄をつけて斧を作る。その斧で肉を切り丸太舟を作る。丸太舟で青森までの780キロの航海に出る。「縄文人の見習い」として生きることが、底抜けに楽しいのだそうだ。こういう山田さんの生き方、軟弱な僕には真似出来ない。だけど、いつかは僕もこういうことを、真剣に考えなければならない日がくるだろう。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: ビッグイシュー日本版 2015年9月号 奈良美智さんの巻頭インタビューもすごくよかったです。今回は、ものすごく暑い夏の日に八王子駅前の販売員さんから買いました。その直後にゲリラ豪雨が来たのを覚えています。

僕とアルフォンゾ先生

僕とアルフォンゾ先生 アルフォンゾ先生は、インドネシアのバンドン工科大学で美術やデザインを教えている。JICAの招きでこのたび来日。日本の大学を見学しにいらしたのだ。近藤先生の案内で、私の研究室にも遊びにきてくださった。私も美術デザイン担当なので、いろいろ楽しくお話させていただいた。 特に盛り上がったのが、いまどきの学生の作品についての話だ。デジタルツールの発達のおかげで、学生が「手抜き」をするようになってしまった。これは由々しき事だ。と、そういう話。オリンピックの騒動じゃないけれども、ひとのものをそのままコピーしたり、既存のテンプレート(☆1)を使って簡単に済まそうとしたり。 どんなツールを使っても、学生が作品に真剣に取り組むならそれでいい。しかしツールによって仕事が簡単になると、人間というものは「怠け者」になる。デジタルペイントは、もともとは「絵の具」の代用品ではないか。さんざん「絵の具」と格闘した人がこれを使うぶんにはいいのだ。しかし、デザインを勉強中の学生がいきなりこれを使い始めると、どこかいい加減になってどこか真剣味に欠けた作品づくりになる。 「まずいっすよねー」 「ほんと、まずいっす」 インドネシアの先生と、こんな会話をするとは。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:テンプレート すでに出来上がっているフォーマットに、きまった数値や文字、画像などをいれるだけで作品ができてしまうという便利な仕組み。学生だけじゃなくて、オトナだって結構使ってますからね、これ。

プティ アクイーユ

長年お世話になっている高校の先輩が岩手県で、 「プティ アクイーユ」 というシャルキュトリー(☆1)のお店を始めた。フランス料理シェフの息子さんのために製造しているのだけど、レストランへの卸し以外にもネットでの販売もしているとのこと。早速お試しセットを送っていただいた。この絵は「鳥レバーのムース」の瓶詰めです。 先輩に聞いたところ、防腐剤は使っておらず、岩塩や天然の発色剤に、もともと含まれる防腐効果だけで製品化しているとのことで、瓶詰めにする行程の管理は大変なものだと聞いた。それに材料も各地から新鮮で良質なものが入った時に作るということであった。 ふだん僕たちがコンビニなどで買っている食品の多くには防腐剤が使われている。広域での大量消費社会の宿命で、長時間保存できる食品だけが長距離の運搬に耐える。ほんとうは、この先輩のお店のようにな手作りで純粋な食べ物を、地元で消費するというのが理想なのだ。岩手県に住みたくなった。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:シャルキュトリー 細かく刻んだ肉類などを練り上げて成型したパテやテリーヌなど、赤ワインとの相性が良いおつまみとして、レストランやカジュアルな飲食店に並ぶメニューです。

カバの神殿

信仰の形としてのカバ 偶然だが、国立新美術館で開催中の 「ニキ・ド・サンファル回顧展」 を見た。素晴らしかった。やはりアーティストというものは、これくらい精進しなければならないという見本のようなものかな。精進というとちょっと違うのだが、若くして芸術家を志した頃から徹底的に自分を精神的に追い込んで、そのギリギリのところで炸裂する創作活動。その軌跡がそのまま残されているような、すごい回顧展だと思った。 会場でおゆるしを得て、数枚ほどスケッチをさせていたいた。さすがにインクのとぶペンは使えないので、ひさびさにエンピツを握ってスケッチをした。なんだか美大生になったみたいで、新鮮だった。今回の展示では、のびやかで陽性な「ナナ」シリーズのコーナーがもちろんメインなのだけど、それに続く「ブッダ」のコーナーのエネルギーも凄い。 前半で、ニキの若い頃の鬱屈した想念が画面にこびりついたような作品群を見たあとだけに、この最終コーナーの底抜けの明るさと、色彩の輝かしさは、泉の湧き出るオアシスのように感じられた。このアーティストの晩年のクライマックスなのだけど、日本人である私にもとても親近感が感じられた。 エジプトの神殿から抜け出てきたようなカバの彫像。からまってエネルギーを放出するヘビの樹木。インドのゾウ神のように踊る立像。そして、大仏を表現した巨大な「ブッダ」の座像。この世界になると、もう「宗教」的なイコンである以前に、アートとして自立した存在感に溢れていて、見るものとしては、自分の精神まで解き放たれたような気分になる。 こういうのを「多神教的」というのだろうか。そういえば台湾で見た寺院でも同じような感覚を持った。見知らぬ神様たちが鎮座しておられるのだが、なぜか自然な親近感がある。日本と同様に、多種多様な神がさまざまな形で奉られている。日本の神々よりもカラフルでエネルギーに溢れているが、それも大して気にならず、僕自身も手を合わせて拝むのが自然に感じられた。 台湾にしても日本にしても、寺院の祭壇に飾られている姿は違っても、そのむこうにあると信じられているものは同じなのではないかと感じた。僕たちは、それぞれ自分たちが理解できる形でしか信仰心というものを表現することができない。ニキ・ド・サンファルの作品もそのとおりで、彼女がその「造形的表象」の向こうに見ていたもの...

30年ぶりの市長就任

市長就任祝い! 参院でついに安保法案が可決されようとするその時に、まったくどうでもいい話で申し訳ない。珍しくあるゲームにはまった。 [ SIMCITY BUILDIT ] といい、伝説のゲーム「シムシティ」の最新版らしい。 「シムシティ」は、それを遊ぶためだけに、当時20万以上円もしたマッキントッシュを買いたいと思うほど、素敵なゲームだった。アップルⅡで、ウィザードリーなどロールプレイングの洗礼を受けた僕たち世代が、次に出会ってびっくりしたのがこの「シムシティ」だった。 その後ゲームは、フォミコンからプレステなどへ進化してリビングのテレビを占領していったが、この頃に登場したゲームのエッセンスやアイデアは、いまも全てのゲームにひきつがれているように思う。 仕事も忙しくなってきた僕は、ゲームを手にする時間がなくなっていった。だが、このエレクトリック・アーツ社によるシムシテイのシリーズだけは、常に視野のどこかで気になる光を放つ存在であった。 その後何回か、後継シリーズに触れてはみたが、そのいずれも初代バージョンに匹敵する高揚感感覚は得られなかったのだ。だから今回も、半信半疑で「とりあえず」という感じで、ダウンロードしてみただけだったのだ。グラフィックがすごいのに、動きにストレスもない。都市計画の数字を微妙に調整するスリルが、初代「シムシティ」に似ているぞ。市長に就任して、すぐに30年前の興奮を思い出してしまった。 しかし、何か?が違う。 「父さん、アプリ内課金は払っちゃだめだよ。きりないから」ダウンロードしてからすぐに息子から注意された。 「カキン?」 「まさかそんなワタシがそんな手に乗るもんかい。シムシティならお手のもんだから課金なんか使わなくともぜんぜんオーケーだよ」 ところが。ところがである。 やはり、最近のアプリというものは凄い。 市長就任後の顛末は次回またご報告(๑•̀ᄇ•́)و✧ 真上からのビューは初代シムシティとそっくり!

せこくなっても当然だ

なんぞ人の非にかかわらん 昨晩のブログで、うっかりいまどきの高校生に苦言を呈するようなことを書いてしまったところ、FBのお友達諸子よりさっそく冷静なるコメントをいただいた。 「いまどきの高校生がもし、こころざしが低く、夢もちいさいというならば、それはまさにいまの大人(つまり僕のこと)のせこい生き方を真似しているだけなのではないか」 たしかにそうだった! 子は親の鏡というではないですか。いまの高校生とは、まさに僕たち大人を映す鏡だったのか。まったくそのとおりだ。オトナがせこいんだから、高校生がせこくなっても当然だ。やっちまった。 それでは、と考える。 僕たち大人は、いつからこんなに保身的でせこい生き物になったのだ? やはり思い出すのは構造改革と自由化の時代。生産性とか効率化とか言っているうちに、終身雇用や年功序列といった古い秩序が消えていった。心安かった社内がいつのまにかギスギスしてきた。雇用の自由とかいっているうちに、正規雇用からあふれて沢山の若者がフリーターとなるようになった。競争社会、格差社会という状態が定常化していった。 うっかりすると、落ちこぼれてしまう社会。そういう社会では誰もが、生き残りのために慎重にならざるを得ない。バブル期に至る高度成長期に、みんなが大きなことを言っていられたのは、実は社会が安定して将来の心配が少なかったからなのかもしれない。将来が保証されていたから、誰だって無責任にでかいことも言えた。 誰もが先行き不安な現代。将来の夢がせこく小さくなって当然。ああ、だんだん考えるのが嫌になってきた。そういう時代だけど、僕たち老人はあくまで元気にいきたい。こんな言葉もある。 「老い去れば、自ずから万縁すべて尽きる」 「なんぞ人の是、人の非にかかわらん」(☆1) 中国の古い教えです。おじいちゃんになったら、こういう世間の考え方とは別に、自由闊達に生きることができるっていうんですね。老人の特権ということだそうです。せいぜい自由で元気で無茶やって、若者への手本となるジジイになるのだ。よっしゃー。(๑•̀ᄇ•́)و✧ - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:酔古堂劍掃(すいこどうけんそう)巻五 「老い去れば、自ずから万縁す...

大丈夫か高校生

大象は無形なり 職業柄高校の教室にお邪魔して高校生とお話することがある。大学の先生の「出張講義」というものである。その際には、せっかくなので「将来はなにになりたいですか?」とか、「そろそろ進路は考えていますか?」などと、高校生に聞いて見ることにしている。 しかし最近は、彼らの答えには「ん?」と、ひっくり返りそうになることがある。分をわきまえた答えというのだろうか。夢のない、ちいさく現実的な答えばかり。 君たちって、まだ高校生だよね...  高校生というのは、もっといい加減というか、適当でいいから、大きな夢を追いかけていても許される年代ではないの? 「医療に携わって人を助けたい」とか、「芸術に関わりたい」あるいは「世界の紛争地で平和のための活動をしたい」など、僕としては「お前そんなこと言ってるけど、そんなんで本当にやれると思ってんのか?」みたいに突っ込んでみたい。こっちが突っ込める、そんな無謀な夢を聞いてみたいのだ。 それが、返ってくる答えというのは「とりあえず進学したいと思います」「公務員ならば安定していると思います」「やはり資格をとったほうがいいと思います」みたいな、つまりちゃんと食べていけるかどうか、そこを気にしているような、突っ込むどころか、フォローのしようもない、そんな答えが返ってくることが多い。 君たち、一体いつからそうなったの?夢を追いかけていた子どもたちが、突然に現実を知ってしまった小さな大人のようにになってしまうのはなぜ。いったいどこの誰が、彼らの夢を消しているというのだろうか。 大象は無形なり。ほんとうに大きな人間の偉大さというものは、簡単には知る事はできないものだ。老子の教えです。「量ることができないくらい大きな人間になる」ということ。それは、いまの教育では、子どもたちの目標としてはもう意味をなさないのだろうか。