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海を見つめて並んでる

ワインを飲みつつ紅白も見ながら、ポルトガルの風景を描く年越しとなった。ちょうど0時になる頃に描き終わりました。よかった。ここは、北大西洋に面した海岸で、ポルト・デ・アブリーゴ・ダ・トレイラという港に面したエリア。(グーグルですからね)きれいな海岸に面したリゾート地のようです。 世界のどこにいっても、うつくしい海岸沿いには、このように家がひしめきあって並んでいる。オーストラリアに仕事で出張していた時、ラッキーなことに「マンリービーチ」という砂浜に面したコンドミニアムに住んだことがある。この時は目覚めて窓の外をみると青い海、仕事から帰ると夕焼けの海、休日となればひたすら波を見つめるという生活だったが、とにかく人間として生まれ変わったような気分になったものだ。 こんなに色とりどりで、デザインもまちまちな家並み。家の形などはバラバラに主張しているけれど、海を眺める一番いい場所にいたい、という気持ちは一緒なのだ。仲良くならんで「海を見る」という共同体になっている。人間という生物は陸上生活になる前に、海に棲んでいた記憶があるから、海にあこがれる。 世界中の国々も、こんなふうに一つの共通のあこがれを持って、なかよく並んで暮らすことができればいいのに。暮らし方、生活のデザイン、色彩などはみな違ってもいい。海に憧れて並ぶこの家並みのように、共同体としてともに生きていく。そんな世界になればいいのにと思う。 さて、いよいよ年越しです。2015年。みなさま、良いお年をお迎えください(=゚ω゚)ノ 新年もなにとぞよろしくお願いいたします!

年越しのユリ

先日のクリスマス・パーティ用に活けられたユリです。なんでいまごろユリが元気に咲いているのだろうか。冬にこんなにも花の生命力を感じられるというのは、やはり現代のテクノロジーのおかげでしょうか。みなさんはどのように年の瀬をお過ごしでしょうか。 そろそろ2015年という年について考え始めました。21世紀の初頭にしてすでに、なにか新しい動乱の兆しを感じるような気もしています。ローマ法王もそのインタビューで、この世界はいま第三次世界大戦のさなかにあるとも述べています。考えようによっては、本当にそのようにも思えます。しかし私としてはこれからの新しい未来が、なんとかかんとか、平和で穏やかな時代として続いてほしいものだと思っております。 ひとつの鉢に植えられたユリやスターチス、スプレー菊、カーネイション、ガーベラがみんな顔を揃えて並んでいるような光景をずっと見ていたいものだと思います。万物合い並びて合い悖らず。別になにも争う理由はないのではないでしょうか? フェスブックで、トラフィックのデイブ・メイスンさんが紹介していた、ブッダのことばを思い出します。本当に良いことばです。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - In the end, only three things matter. How much you loved, How gently you lived, How gracefully you let go of things not meant for you. 最期となって問われるのは三つだけ あなたがどれだけ多くを愛したのか いかに穏やかに人生を過ごしたのか 関係ないことを静かに見送れたのか - - - - - - - - - - - - - - - - - -

オレンジのマイクロバス

映画をはじめて観たあとで、すぐにもう一度観たい、あるいはもう2〜3回は繰り返し観てみたいと思うものがある。「もう一度観たい」という理由は映画によってさまざまだ。スペクタル感あふれる特撮シーンのすごさをもう一度味わいたいという場合もあれば、特撮などとは関係なく、ただただ俳優たちの演技の細々としたニュアンスを味わいたいという場合もある。 「スター・ウォーズ」は前者の第一であって、これまで何度繰り返し観たか知れない。後者の第一は「ミッドナイト・ラン」である。「リトル・ミス・サンシャイン」という映画も僕に取っては後者に属する映画なのだけど、こんなにも繰り返して観るほどとは思わなかった。意外にブラックなところもあるし、ちょっと定番すぎる家族愛ストーリーが甘すぎるようにも思えた。 しかし、先日乗った飛行機の映画プログラムでたまたま再会して、改めてこの映画の良さをストレートに味わった。一人としてまっとうな(欠点の無いという意味で)キャラクターがいないフーヴァー家の家族。 やや太めで食欲旺盛。でもミスコンを目指している主人公のオリーヴ。厭世家の兄ドゥエイン。重度の鬱病の叔父のフランク。すれ違いと喧嘩ばかりの両親。身勝手で下品な祖父。 でも、このメンバーがこのぼろぼろの「フォルクスワーゲン・タイプ2 マイクロバス」に乗って旅をはじめる時、映画のマジックが人生の一瞬のマジックに重なる。うまくエンジンもかからないこの車の存在は、この家族そのものなのだ。ドアもはずれて転げ落ちそうな状態だけど、なんとかかんとかしがみついて走っていくしかない。 この劇用車。撮影では同じ型のものが5台も使われたそうだ。もしろん脚本も素晴らしく、俳優の演技も素晴らしいこの映画。しかし最後に魔法のスパイスをかけたのは、オレンジのこの愛らしいマイクロバスだ。それは間違いないと思うのである。

地球の裏側のスケッチ紀行

だんだんブログのタイトルがいい加減になってきた。昨日と同じポルトガルの田舎道でみかけた(グーグル・ストリートビューです)家の前でスケッチしているのだ。夜になって、ひとり静かに地球の反対側の昼の景色を描いていると不思議な心地がする。心がひとりでに瞑想状態のようなものに近づいていくようだ。 このところずっと読み続けている横尾忠則氏の著書によると、横尾氏にとって絵を描く事はは、大人になるよりも、子供に戻ることに近いように思うと言っている。この「子供に戻る」という話は思いのほか深い話であって、良く言う「子供のように純真な気持ちで素直な絵を描く」といった単純なことではないのだ。 横尾氏はテレビにでていた天才的な子供たちが、みな図抜けた才能を発揮しているのを見て、そこにある種の共通点を見たという。まさに子供だからできる、自分を信頼しきった状態、あるいは自分の感じることを信じる状態のようだ。ここで言う「子供のように」というのは、近代的な知性の入る余地のない状態のことをさしているのだ。 近代によって築かれた「自我」に頼ることなく、東洋的な「無我」の態度になりきることなのだ。横尾氏は、これは人類にとって未知の段階であるが、そこに人類の未来を感じないわけにはいかない。そう言っている。最新の心理学に置ける「自己意識」に関する見地と一致していると思う。 「自己意識」というものは、実は人間の思考や行動をコントロールしているものではなくて、単に情報の要点だけをモニターしているものなのかもしれないのだ。それを「自己」だと信じるきるということは、人間が自分の能力のほんの少ししかを信じていないことに等しい。人間の能力というものは「自己意識」の知らない、広大なマインド全体に広がっているのかもしれない。

カンポ通り

冬休みにはいってから暇があるとポルトガルのある町をうろうろしている。カンポ通りという田舎道なのだが、色合いのきれいな瀟洒な外見の家が並んでいて散歩していて飽きない。散歩といっても勿論ほんとうの散歩ではない。グーグル・ストリートビューである。 iPhoneをあたらしくして記憶容量が以前の4倍になり、これまで我慢していたアプリのダウンロードができるようになった。グーグル・ストリートビューをひと味違う形で楽しめるアプリがいろいろとあって、試しているところである。今のところのお気に入りは「iMaps」というもので、ストリートビューで移動しながら、地図上のポイントを確認できる。 グーグルでスケッチポイントを探すのが目的なので「これは」と思った場所を、そこにまた来れるようにメモする機能がほしかった。これまでに何度も、素晴らしいスケッチポイントを見失ったことか。良いところが見つかって付近をうろうろしているうちに、うっかり操作を間違えると、もう二度と同じ場所には戻れなかったりするのだ。「iMaps」と「Google Map」の連携のおかげで、やっとその心配がなくなった。 ポルトガルの風景をスケッチしつつ、最近はずっと横尾忠則さんの本を読んでいる。前々からそうは思っていたのだが、改めて気づかされる天才ぶりである。やはり横尾忠則さんこそは、生まれながらの芸術家だ。こんな人はそうそういない。グラフィックデザインや画家としての才能はもちろんだけど、やはり神に選ばれた天才なのだろう。とてもじゃないが、こんな考え方や発想はできないという話がずらずらと出てくるのだ。この本を読みながら、僕はとんてもないことを思いついてしまった。

クリスマスに間に合った

盲腸手術の快気祝いにかわいいワインをいただきました。グリーンと赤のリボンを首にまいて、クリスマスバージョンで袋から出てきました。飲むのがもったいなくて、まだ飾ってます。実際にいま飲んでいるのは、コンビニで買ってきた、ビニャ・マイポです。 今月初旬に入院したものの、病院での的確な診断と迅速な手術をしていただいて、ほぼ最短時間にて職場復帰することができました。今日のクリスマスに、ワインをいただくことができるのは本当に嬉しいです。「間に合った!」という気分です。 キリスト教徒でもない僕自身でも、クリスマスは特別な日。この世に生きている幸せを分かち合う。いいじゃないかと思います。日本のクリスマス。灯りをつけて、心の中でクリスマスソングを口ずさんで、ひとときの平和を分かち合いましょう。 メリー・クリスマス(=゚ω゚)ノ

大きな魚をつかまえよう

トウガラシってクリスマス色だ ディビッド・リンチ監督といえば、どこか夢を見ているような不思議な映画を作る作家だ。先日、ある美術書専門店で監督の面白そうな著作を見つけた。「大きな魚をつかまえよう」という本だった。そのタイトルからは、本の内容の真意を汲み取ることも出来ないまま。不可思議な雰囲気につられて買ってしまっていた。 ぱらぱらと少し読んだまま、しばらく机に置きっぱなしになっていたのだが、今日なにげなく取り出して、少し読み進めてみた。すると、どういうわけか、昨日このブログで書いた「意識的ではない」プロセスについて語っているページに出会った。とても素敵な表現なので、少し引用させていただく。 「小さな魚は浅瀬を泳いでいるが、大きな魚は水底にいる。釣りをするコンテナ - 君の意識 - が広ければ広いほど、より大きな魚をつかまえることができる。その方法とはこうだ。どんな人間であれ、その内側は純粋な生気あふれる意識の大海だ。超越瞑想をして『超え』れば、この純粋意識の大海へ急降下する」 深く大きな意識の大海に(おそらくそれは無意識のこと)飛び込んでいくためには、普段つかっている、僕たちの表面的で小さな「意識」は、忘れてしまわなければならないのだ。このように「意識」の問題について、沢山のクリエイターたちが述べている。驚くと同時に、それはきわめて当然のことなのかとも思える。 今日はクリスマス・イブ。多少は「意識」から解放された、大きな魚の夢でも見られるだろうか。みなさまへ、メリー・クリスマス。