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失踪したくなった時には

むかしむかし「蒸発」という言葉が流行ったことががある。真面目一徹だったサラリーマンが、ある日突然消えてしまう。一家を笑顔でささえていたパパがある日突然消息をたってしまう。誰しも「会社にいきたくない」とか「学校にいきたくない」という気持ちになることがあるだろう。 「男はつらいよ」シリーズ第34作、「寅次郎 真実一路」では、米倉斉加年演じる熟年トレーダー富永が失踪。残された美しい奥様(大原麗子)に頼まれて、人のいいの寅さんが富永の捜索に大奮闘する。牛久から大手町まで遠距離通勤するエリートサラリーマンが、ふと消えてしまいたくなる。マイホームの夢を達成した後、熟年男性を襲う空虚感。そんな当時の世相が鮮やかに描かれていた。

やはりそうか!

このところ、このブログもお休みがちだったのは、ある「お仕事」にかかりっきりだったからなのである。その「お仕事」というものが何だったかというと、それはなんとプログラミングなのであった。アナログ人間のわたくしとしてはガラにもないことである。しかしこれが実に「楽しい」のである。 なぜ楽しいのか。それは、そのプログラミングの作業が、とても創作的だからなのである。オブジェクト指向言語というのだそうだが、コンピュータの言葉による命令のしかたや、ルールの決め方などが、とてもわかりやすい。そして、とても自然界のルールに近いのだ。そこがとても気に入っている。

ただいま消去させていただきました

ただいま焼き上がりました 「ものは言いよう」ちょっとした言葉の使い方で、その印象は大きく変わる。「パイ焼けだぜー」と「パイ焼き上がりました」では、親近感や堅さが変わる。どちらがよいか悪いかは、その時の状況によるだろうけど、とにかく印象が変わる。 言葉づかいの善し悪しを感じるのは、脳のどのへんの部分なのだろうか。ロボットや音声認識装置にしてみたら、その違いを感じるのは大変なことだろう。なのに、僕たち人間は、ちょっとしたものの言い方で、喜んだり怒ったり、感情をかき立てられてしまうのだ。

一曲いかがですかとその楽団員は言った

バイオリンの形ってデリケート 音楽というものの効能は計り知れないものがあるらしく、精神的に落ち込んだ人をなぐさめるとか、ボケてしまったお年寄りが元気になるとか、はたまた動物園のキリンが落ち着くとか、または畑のジャガイモがよく育つとか。(☆1)やはり自然界のバイブレーションを模倣したのが音楽なので、自然界に生きるものたちに効用があるだろうか。 北京の空港で、滑走路で待機のまま長時間の足止めとなった乗客の中に、フィラデルフィア交響楽団のみなさんが乗っていたそうだ。「待っているくらいなら一曲いかがですか?」とおっしゃったかどうか知りませんが、とにかくその演奏は始まりました。ドヴォルザーク弦楽四重奏曲第12番アメリカ。周りのお客さん大喜びの画像がYoutubeにあがりました。最高のタイミングで電話も鳴ってるし(=゚ω゚)ノ(☆2)

次に生まれてくるときには

シロツメクサって謙虚な姿です 映画の世界などで「次に生まれてくるときには」と言うセリフを聞くことがあります。仏教で教えるところの「輪廻」という概念によれば、人生には前世も来世もあるはず。時に前世のことを覚えているという人がいて、性別や身分や出身地など現世のものとはまるで違うそれを知っているとか。 ワタシの場合は、そんなこと全く分かりませんが、何か想像してみると遥かな大宇宙に漂う存在としての自分の姿が見えるような気もします。自然界が営んでいる「世代交代と進化のプロセス」は、「輪廻」と呼ばれるものに似ているようにも思える。

探検する人しない人

イエローサブマリンの3D実写版あったら見たいなあ 東北大学には「探検部」という勇ましい名前のサークルがあった。(今もあるのかしら?)高校で仲良しだった先輩が所属していて、例えば、日本を北の端から南の端まで歩くとか、急流を手こぎゴムボートで下るとか、いろいろと無謀な「探検」に挑戦していた。(☆1) インドア派で危ないことが嫌いな(つまりビビリ虫の)私には、そんな自分の身をキケンにさらすことの何が面白いのか、まったく理解できなかった。しかし一方心のどこかでは、自分のやれないようなことにチャレンジする人たちが、どこかまぶしくうらやましく思えたものだ。

テレパシーの世界へ

東京タワー。この6月1日を持って、電波塔としての仕事は完全引退されました。これからは、純粋に見晴台として、そしてまた東京のシンボルとして、そこに立っていてくれればいいんんです。実は私も東京タワーと同じ昭和33年の生まれ。自分自身も「そこに立っているだけでいいんだよ」と言われる年齢であることを、強く感じる次第でございます。 電波というものは、本当に不思議な存在。目で見ることも触ることもできない。僕たちにはその存在を感じることすらできない。光というのもの一種だけど、光そのものは見ない。ものに反射して眼球に飛び込んでくる光の粒子が網膜に当たる。それを電気信号に変えて、僕たちの脳は世界を見ている。まあ、見ていることにしている。そんな感じらしい。