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スター育成!

一回の放送で平均1770万人が見た。イギリスのテレビ界を席巻する「Xファクター」という番組。2010年はなんと、視聴者数でサッカー・ワールドカップ、イングランド対ドイツ戦を上回ったそうです。( ☆1 ) 日本で昔流行った「スター誕生!」のようなもの?視聴者が投票で参加できる、新人歌手の勝ち抜き選手権選。言って見れはそれだけのこと。なのに、この番組の何がそんなに受けているのかしら。 1:自分だけが贔屓にできる、歌手を選ぶ楽しさ。 2:パトロンのような気分で特定の新人に投票し続ける喜び。 3:イギリスのような階級社会で、労働者階級出身の無名歌手がスターとなっていくカタルシス。 なるほど。そういうこと。 でも、こういうものって、昔からありませんでしたっけ? 京都の祇園で言えば、芸妓さんの親代わりになっちゃう旦那衆。特定のお相撲さんをバックアップする谷町筋。それから、歌舞伎役者や落語家に「おひねり」を投げるご贔屓筋。要するに、人間というものは、いつの時代にも「誰かをお世話して育ててあげたい」という美しい欲望を持っている。そう言うことでしょうか。 そしてこの「欲望」に応える企画がつねに存在する。「ご贔屓エンターテイメント」とでも申しましょう。これは、芸能・スポーツ界における、永遠の定番企画ジャンルなのかもしれません。 なるほどなるほど。「Xファクター」は、「スター誕生!」というよりも、「スター育成!」なんだ。最近の日本でこれに当てはまるのは、AKB48の「総選挙」でしょうね。AKBのシングルCDを沢山買いまくって、特定のメンバーに投票するファンが沢山いるんでしょ?これは完全に「ご贔屓筋の心理」だ。さすがは、秋元康さん。新企画でありながらも、古典的定番にきっちりはまっているぞ。 しかし「ご贔屓」エンタメも、度が過ぎると大変なことに。「独占欲」にかられたにストーカーが生まれてはいけません。「ミザリー」っていう怖い映画がありました。自分が大好きな作家を監禁しちゃう熱狂的ファンの話でしたよ。 テレビ番組としての企画では、ファンと歌手の関係が適度に近くて適度に遠いという、微妙な「距離感」のキープが重要なんでしょうね。 ( ☆1 ) 週刊ダイヤモンド 1月15日号より

やり残した事はない

もう〜、人生満足! アメリカで、第一次ベビーブーマー世代の上端が、ついに65歳に達した。アンケートによると、彼らの大半が自分の人生を振り返って「やり残した事はない」と思っていることが分かった。彼らはみな、自分はとても幸せな人生を送ってきたと考えているらしい。( ☆1) なんで? ティーンの時は豊かなアメリカ社会で、いいお坊ちゃんお嬢ちゃんで、静かにすごせた。( 学校での銃乱射事件なんてなかった )それで二十歳を超えるといきなり「理由なき反抗」開始。まずは「いちご白書」的インテリ学生になって、それで反体制活動家に。教室をバリケードで封鎖して、縁石なんか投石しちゃう。先生も追放。さらに、フリーセッククスだ、ドラッグ、瞑想だ。自由を求めて、社会ルール逸脱のやりたい放題。なんて言ったって、自らを解放するんだもんね。とにかく。 そして、ラブ・アンド・ピース。世を捨てて、自堕落な放浪者になった。と思いきや、突如ヤッピー( ☆2 )に転身。やおら社会の中枢に乗りこんでは、ビジネスを仕切る。そして今度は、バブルだ。ネットだIT革命だ。ビジネスの種は尽きず、資金集めも投資も思いのまま。マンションも家も買う、車買う。株買う、貯金する。潜る、スノボする。子供達もみんな大学にいれました。 確かにこんな感じの成功者がたくさん出現した、いい時代だったんだな〜。ビル・ゲイツとか、スピルバーグとか。そうそう、映画「フォレストガンプ」に出てくる世代の人達、こんな感じですね。「オレの人生いろいろあったんだよね〜」とかいいながらも、なかなかどうして人生満喫してる世代。 だけど。本当にこれでいいの? そんなわけないだろー。と私は思う。 勝ち逃げベビーブーマー。彼らは最後まで、キリギリス的な楽観人生を送れるの?人生の大半を好きに過ごした彼ら。これからも、極楽とんぼでいられるの? そんなわけねーだろう。 やっぱ、神様がゆるしませんよ! 彼らの人生も、そろそろあやしくなってきたようです。いままではちょっと無駄が過ぎたのではないか、と、ちょっと不安になっているという。そうだよね、いまの若い人たちがこんなに苦労して、将来の不安を抱えているというのに。おじいちゃん世代だけがいい思いはできないだろうね。 - - - - - - - - - - - - - - - -...

迷言366日

境港・水木しげるロードにある、水木先生のブロンズ像 「一日一言」とか言って、365日の「日めくり形式」にまとめた本がある。 私は、結構このタイプの本に弱い。書店で見かけるとつい買ってしまうのがこの手の本だ。1日に1ページだけ読めば、それで頭が良くなりそうな気がするもんね。だから、家にはさまざまな「○○365日」とか「一日一言・○○○」といった「日めくり本」が積まれている。 そのくせ、それも毎日読み通したことなど、まず無い。だいたいが、買った日付から読み始めて、翌月にはとびとびになり、あっと気づけば半年経過。たまに思い立って、その日を開くと、それは昨年もたまたま開いた同じページだったりして。うちの「日めくり本」は、だいたいがこんな感じで、まだらに扱われていると思います。 だが、昨年ついに、ある「日めくり本」を一気に読み通してしまった。一日一話と読み切りになっているのに、あまりに面白くて、次のページを翌日に持ち越すことができない。トイレに持ち込んだら最後、20日間分くらいがあっという間。それどころか、トイレの中でウフフ、ヒヒヒと笑いが止まらなくなってしまう。電車の中で読んで、笑いをこらえられずに、向かいの乗客の方に怪しまれた。 その本は「水木サンの迷言366日」という。 ノンフィクション作家の大泉実成さんがまとめた、水木しげる先生の「名言集」なのです。水木先生の著作や、雑誌連載の原稿などから、選りすぐりの「名言」を、一日一言形式にならべた、大変な労作です。それをあっさりと「迷言」と言い切るところが見事。選ばれた内容も、編集も、ちょっとした注釈も見事です。366の「迷言」を読み終えると、なんとも言えない幸福感と脱力感を同時に味わうことができます。 例えば、12月19日には次のような一節があります。失礼して、一部紹介させていただきます。昨年の暮れにトイレで、うっかりこのページを開き、ウヒヒヒヒヒ、とやって家人に怪しまれました。この一節の原典は、 「妖しい楽園 ー 水木しげるができるまで」 です。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - (戦争中、坊主になると女にもてると聞いて) 僕は軍隊が終わったら、坊主になろうと思って、日曜日の外出のとき、 岩波文庫の『佛...

後もどりできない

地上デジタルは前にすすむ おまえは後もどりできない。 わたしたちの道が 「昨日」に架ける橋だと信じているなら おまえはここで生きることはできない。 「今」は過去のやり方とは違うのだ。 「今」は美しい、 なぜなら、この世で大事なもののすべては わたしたちに至る道を見つけてしまったからだ。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ナンシー・ウッド著 / 金関寿夫訳 「今日は死ぬのにもってこいの日」より - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - はじめからやりなおしたほうがましってことありますよね。 例えば出来の悪い企画書。途中までできたものを、あれこれいじっていてもだめ。研究計画書なんかもそうかも。もともとのアイデアや構想が良くないのに、とにかく完成させようとして焦っても、ロクなものにならないんだ。そういうときは、いっそのことすべてをポイッと捨てて、はじめからやりなおしたほうが早い。えいっと、リセットしてやりなおし。 最近の映画やテレビ番組では見かけなくなったシーン。作家、小説家、いわゆる「物書き」という人たちが、ボサボサの頭をかきかき、うんうん言いながら原稿の執筆中。書きかけの原稿を、やおら「ぐしゃぐしゃぐしゃ」とまるめて「ポイっ」とクズカゴに。ふーっと深呼吸をひとつ。そしてまた、真っ白な原稿用紙に向かう。 今はこれ、映画で見ないだけでなく、実際になかなかできませんね。「ぐしゃぐしゃぐしゃ」って、原稿用紙を揉みくちゃにしたくても、そもそも原稿用紙自体がない。企画書って言っても、要はデータなんだもん。マックが、システム・サウンドで「ぐしゃぐしゃぐしゃ」って言ってくれるだけ。リアルな「ぐしゃぐしゃぐしゃ」はできないんだ。 私たち人間の体にも、はじめからやりなおしたほうがいいパーツがあるんだって。例えば盲腸。進化の過程で、消化管の一部にそういう腸があったほうが良いときがあったんだろうけど、現在の私たちの体には不要なもの。だからといって、いまさら簡単には無くせません。私たちが日々お世話になっている「眼」。これにも設計上の問題が。視神経が眼球から出て行くところの配線が良くない。...

リアル落語家

とつぜん終わらないでくださいね さびしい。 立川談四楼師匠の連載がとつぜん終わっちゃった。日経新聞の月曜夕刊の「プロムナード」のシリーズ。このところ毎回楽しみにしていたのに。 12月24日のクリスマスイブに掲載されていた「サンタクロース現る」の回を、いつものようにニタニタしながら読んでいて、最後まできてびっくり。文章のおしまいでひとこと。「私の最終回です。いずれまたどこかで」って。 さすがは落語家。話は最後に軽くまとめまるんですね。「おあとがよろしいようで」とか言ってさっと消えてしまう。まあ、せっかくの「落ち」のインパクトを消さないようにという配慮。目立たないように消えさせていただきます、という謙虚さ。これが噺家さんの身上なのでしょう。 ところで、この回の「プロムナード」には何が書いてあったのか?それは、ネタばれになっちゃうからそのまま書いてはいけないよね。でもちょっとだけ書かせてください。「サンタクロース現る」の回のサンタクロースとは、ある熱烈な落語ファンのことなのです。豪華なポチ袋を置いて姿を消してしまった、いまどき珍しい粋なお客様のこと。 今でも落語には熱烈なファンが多いのだ。談四楼師匠によれば、地方にいけばいくほど、公演を心から楽しみにしている方々が多いそうだ。そして首都圏でもなんと一日平均で20カ所で落語会が催されているとのこと。(4軒の寄席をのぞいて)こうした会場には、「落語のうるさがた」を自認するファンもやってくる。 こうした、うるさいお客を前に、芸を披露する落語というものは、演じる者にとっては本当に「おそろしい」ものらしい。亡くなった昭和の名人、古今亭志ん生師匠も桂枝雀師匠も、高座に出るときには相当プレッシャーを感じていらしたようだ。しかしそのプレッシャーを跳ね返すように、芸のパワーが高座に炸裂する。それが名演となるのだって。噺家というのは、本当に大変な仕事なのだと思う。毎日毎日はまさに、お客の目に芸がさらされる、本番と修行の連続。 人気漫才グループ爆笑問題。最近はテレビなども忙しく生の舞台に出ることが少なくなり、ホール公演も映像中継でやってしまう。しかしプロデューサーで社長の、太田光代(太田光さんの奥様)さんは、爆笑問題の芸の「きっさき」が鈍らないようにと、年に一度は必ず生のステージを組むそうだ。生のお客さんの前...

追いつめてはいけない

太平記絵巻 赤坂合戦 孫子の第八は「九変篇」だ。 以前このブログでも紹介した「火攻篇」よりもだいぶ前に位置している。攻撃に際して避けるべき九つの変法と、利益を守るべき五つの変則があると述べている。そのうちの九つの変法というのを、以下簡単に紹介しますね。 1:高地に陣取った敵を攻撃してはならぬ。敵は勢いを得て味方は労する。 2:丘を背にした敵を正面攻撃してはならぬ。 3:わざと逃げる敵を深追いしてはならぬ。敵になにか計略がある。 4:精鋭な敵を、まともに攻めてはならぬ。 5:おとりの敵兵にとびついてはならぬ。 6:帰ろうとする敵兵にとびついてはならぬ。 7:敵を包囲するときには、完全包囲してはならぬ。 8:追いつめられた敵にうかうかと近づくな。 9:本国から隔絶した敵地に長くとどまるな。 どれも、兵を率いる将の心得として重要なこと。この「九変篇」に述べられている法のうち、特に注目をひくのが、7番目の、敵を包囲するときには完全包囲してはならぬ、という教えです。原文では「囲師勿周 ( 囲地は周するなかれ )」という表現になります。 こちらが攻めている敵を包囲するときは、完全に出口をなくすのではなく、どこかに逃げ道を残しておくこと。通常の感覚だと、敵を全滅させてしまうためには、それを完全包囲して殲滅したくなるでしょう。こっちだって怖いしね。だけど孫子は、はりきりすぎてこちらの損害も多くては、仮に戦いに勝ったとしても意味が無いと教えています。 完全に包囲されてしまった敵は、死にものぐるいで抵抗してくる。それだけに、攻めて優位に立っている味方も、思わぬ損害を被る可能性がある。また、戦いというものは、要するに「勝ち」を決めれば良いのだ。逃げ道を見せれば、敵兵は逃げ道に殺到する。それで勝ちが決まればそれでいいのだ。 天正五年十月、別所長治を三木城に攻めた豊臣秀吉は、このことをよく心得ていました。秀吉勢が外まわりの塀をうちやぶって攻めこみかけたとき、城内からは笠がさし出された。(これは降参の合図です)秀吉側の寄手の兵は、これを許さず、あくまで全滅作戦を続けようとしました。 すると秀吉は、「そうはいわぬものだ。戦さは、六、七分勝てば十分なのだ。降参人を討ち取ったりすれば、敵は必死になる。相手に逃げ道を見せて、早く勝利を得るのがよい」と...

ライバルと戦え

大鵬も柏戸がいたからこそ 日本ハム・斎藤佑樹投手の経済効果がすごい。 地元札幌での観客動員数増は当然のこと。さらになんと、キャンプ予定地である名護市のホテルが、すでに女性客の予約で埋まりつつある。ファームの練習場である 千葉県の鎌ケ谷スタジアム までが、チケット予約殺到。 斎藤投手。彼の強みは、その甘いマスクだけではない。田中大将君という好敵手がいることだ。ライバルとして、ドラマチックな戦いの予感を盛り上げる。ふたりの戦いはどうなるのか?プロ野球ファンならずとも目が離せない。斎藤投手のような、スターアスリート登場のかげには、常にライバル同士の死闘がある。相撲界の大鵬と柏戸。巨人軍の王と長島。フィギュア・スケートの浅田真央とキム・ヨナ。 あのビートルズが偉大になったのも、ジョン・レノンとポール・マッカートニーという、強力なライバルが争って作曲したから。デビュー当時のふたりは、大の親友であり、いつも互いを支え合う良きパートナーだった。だがしかし、いつかビートルズは巨大な存在となり、グループに対するプレッシャーが大きくなるにつれて、ふたりの関係は劇的に変わっていく。 一発アイデアマンであり、飽きっぽい性格のジョンよりも、音楽の職人で、粘り強いタイプのポールのほうが、グループの音楽をひっぱっていくリーダーとしてはふさわしかった。だからジョンは、次第にそのリーダーシップをポールに譲るようになる。しかしジョンは、そのことを受け入れていながらも、ビートルズが、甘く優美なポール楽曲に独占されていくのを、快くは思っていなかった。 その不満は、ヨーコという援軍を得て、ジョンのリベンジの形となった。ホワイトアルバムのレコーディングの途中で、突然あらわれたヨーコは、ジョンの理解者でもあり代弁者でもあったのだろう。スタジオにベッドを持ち込んで居座るという、なかば「前衛アート」のようなパフォーマンスは、実はジョン・レノン自身のストライキだったのかもしれない。 ジョンの先鋭的楽曲は、さらにその度合いをエスカレートしていく。次第に攻撃的で気まぐれで、理解不能となるジョンの作品。ポールは、露骨に不快感を表していたようだ。ホワイトアルバムの実験作「レヴォリューション・No9」や、アビーロードA面最後の「アイ・ウォント・ユー」後半のエンドレスリフレインなどがそうだ。僕も、...