一本道の向こうに

中央本線は新宿から塩尻まで伸びる長い鉄道である。千葉県から八王子まで通う私だが、八王子から先はなかなか行かない。ときどき「動物と衝突したため遅延」という表示が出る。遠く信濃の国まで繋がっているのだ。だが普段はその実感はない。

しかしある時、それが実証された。新宿から「あずさ号」に乗り、八王子で下車した私は、うっかり隣の席にジャケットを置き忘れてしまった。主人に見捨てられた彼は、その後一人で松本駅まで到達したらしい。親切な駅員さんの手で紙袋にいれられて、数日後に彼は、うかつな主人の元に戻ってきた。確かにこの長い線路は信濃の国まで繋がっている。

遠く伸びる一本道を見ると誰もがその先の世界を想う。
一本道は未来や過去といった時間のイメージにも繋がる。

この「長い一本道」の心理的効果を見事に使った映画がある。「第三の男」と「ペーパームーン」である。どちらもそのエンディングに印象的な「一本道」が登場する。(いずれも珠玉のモノクロ映像です。)前者は、ウィーン郊外にある墓地の枯葉舞う並木道。後者はアメリカ中部ミズーリ州の茫漠とした原野を横切る曲がりくねった道。

いずれのシーンも、物語のドンデン返しの最後に忽然と登場するところが実に効果的。あまりの展開に心を揺さぶられて我を忘れていた観客は、最後にもう一度、ここでじっくりと物語を振り返り、主人公たちの行末を想う。監督が最後に用意してくれた、とても贅沢な時間だと思う。映画はこうでなくちゃね。

私も時には、想像上の一本道をみつめて自分の人生という物語を振り返ってみよう。その一本道のずっと向こうにいつか、もう一度会いたい人たちの姿が見えるかもしれない。

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レイチェル・リンド

宝石のようなカップ / 小伝馬町のカフェ華月で レイチェル・リンドというおばさんのことを覚えていますか? 「赤毛のアン」に登場する、わりと重要なキャラクターですよね。アンが住むグリーンゲーブルスから丘を下っていったあたりに住んでいました。だから、アンの養父母である、マリラやマシューが街へ向かう時には、どうしてもこのレイチェル・リンドさんの家の前を通ることになります。 家事全般を完ぺきにこなす主婦であり、人の行動倫理を極める教育者でもある。こういう人だから、マリラのアンに対する教育方針にもなにかと口を出す。悪い人ではないんだけど、真面目過ぎてちょっと困った人です。 彼女は、自分の家の周囲で何か変わったことがあると、それが何なのかが理解できるまで、徹底的に調べないと気がすみません。マシューがちょっと正装して通っただけで落ち着かなくなってしまう。 「ああ、これで私の一日は台無しだわ」 いったい何があったのだろうと、行き先をあれこれ詮索しないではいられません。家事も、なにも手につかなくなってしまう。 カナダの田舎アボンリーに住むレイチェル・リンドですが、SNSに時間を費やす僕たちによく似てませんか。 誰がいま何をやっているのか、どこへ行っているのか、何をつぶやいているのか。仕事をしているのか、休暇をとっているのか、誰と食事しているのか、タイムラインをチェックせずにはいられない。 まわりが何をやっているのかいつも気になる。 でもそのくせまわりと同じ事はやりたくない。 みんなそういうものですよね僕たち人間って。

クリングゾルの最後の夏

ヘルマン・ヘッセは、生涯の旺盛な読書を通じて、中国、日本などの東洋思想に惹かれていた。実際に南アジア方面への旅行を通じて著した「インドから」という本もありますし「シッダールダ」という本も書いています。 「クリングゾルの最後の夏」(☆1)という小説は、四十二歳で生涯を閉じようとする一人の画家を主人公にヨーロッパの没落を扱った異色の小編だそうです。読んでみたいけど、なかなか入手できないです。この小説に出てくる主人公たちは、お互いを「杜甫」「李太白」などと呼び合う。彼らの会話は、まるで禅問答。

帝国ホテルについて知ったかぶり

スェーデンで大学教員をされている我が同輩H氏は、フェースブックでほんとに面白いことをつぶやく。彼のお話には、いつもいろいろと考えさせられる。このたび彼は、アマゾンのKindle版で 「ゴッホ-崩れ去った修道院と太陽と讃歌」 という立派な、デジタル本を出版したという。その手際の良さと行動力に感服するわけだが、それより面白かったのは、彼の感想。 キンドル版への登録はそれほど大変ではなく、本ができていれば30分もかからず登録できるという。そして彼はいまのこういうデジタル的な作業と、昔の作業をくらべて振り返る。彼が会社にはいった当時(それは僕がはいったころと一緒だ)は、学会発表の原稿は原稿用紙に手書き、会社の大部屋でチェリーかなんかをスパスパ吸いながら手書きで書いていたって。