インドカレーの食べ方

インドは神秘の国。人々はガンジス川で身を清め、来世の存在を信じる。しかし一方でITパワーも高まり、若者たちは向上心とバイタリティーに溢れている。


「嵐にしやがれ」で、ムンバイのカレーの味を探して、銀座にあるカレー専門店を三カ所巡っていた。先日そのうちの一軒の「オールド・デリー」に行ってみた。バターチキン・カレー、多彩なスパイスが素晴らしかった。これはインドだー。

こういう食べ物を食べていると、気持ちがゆったりとして、悠久の時に身を委ねているような気分になる。じっくりと煮込まれたスープには、時のかけらも一緒に溶け込んでいるような気がする。そんな気分でいたところ、せわしそうな感じのビジネスマンが、突然隣りにやってきた。

彼は、汗をかきながら、超スピードでそれを平らげていってしまった。時間がなさそうで気の毒。僕自身、御飯を食べるスピードはかなり早い方なので、人のことは言えないのだけど、ちょっともったいない気がした。

分単位単位のタイムテーブルをつくり、分単位でものごとを動かす日本社会。その正確さによる高い生産性が看板。しかしこれじゃ社会全体が工場だ。生産性が高くともモノが売れないのなら仕方がないし、なにより人々の精神が不幸になっているのが困ったことだ。

僕は、迅速過ぎる社会へのささやかな抵抗として、このバターチキン・カレーくらいは、ゆっくりといただくことにした。インドの悠久の時間とともにね。そしてその日は、インドのような土曜日になったのだった。

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レイチェル・リンド

宝石のようなカップ / 小伝馬町のカフェ華月で レイチェル・リンドというおばさんのことを覚えていますか? 「赤毛のアン」に登場する、わりと重要なキャラクターですよね。アンが住むグリーンゲーブルスから丘を下っていったあたりに住んでいました。だから、アンの養父母である、マリラやマシューが街へ向かう時には、どうしてもこのレイチェル・リンドさんの家の前を通ることになります。 家事全般を完ぺきにこなす主婦であり、人の行動倫理を極める教育者でもある。こういう人だから、マリラのアンに対する教育方針にもなにかと口を出す。悪い人ではないんだけど、真面目過ぎてちょっと困った人です。 彼女は、自分の家の周囲で何か変わったことがあると、それが何なのかが理解できるまで、徹底的に調べないと気がすみません。マシューがちょっと正装して通っただけで落ち着かなくなってしまう。 「ああ、これで私の一日は台無しだわ」 いったい何があったのだろうと、行き先をあれこれ詮索しないではいられません。家事も、なにも手につかなくなってしまう。 カナダの田舎アボンリーに住むレイチェル・リンドですが、SNSに時間を費やす僕たちによく似てませんか。 誰がいま何をやっているのか、どこへ行っているのか、何をつぶやいているのか。仕事をしているのか、休暇をとっているのか、誰と食事しているのか、タイムラインをチェックせずにはいられない。 まわりが何をやっているのかいつも気になる。 でもそのくせまわりと同じ事はやりたくない。 みんなそういうものですよね僕たち人間って。

クリングゾルの最後の夏

ヘルマン・ヘッセは、生涯の旺盛な読書を通じて、中国、日本などの東洋思想に惹かれていた。実際に南アジア方面への旅行を通じて著した「インドから」という本もありますし「シッダールダ」という本も書いています。 「クリングゾルの最後の夏」(☆1)という小説は、四十二歳で生涯を閉じようとする一人の画家を主人公にヨーロッパの没落を扱った異色の小編だそうです。読んでみたいけど、なかなか入手できないです。この小説に出てくる主人公たちは、お互いを「杜甫」「李太白」などと呼び合う。彼らの会話は、まるで禅問答。

帝国ホテルについて知ったかぶり

スェーデンで大学教員をされている我が同輩H氏は、フェースブックでほんとに面白いことをつぶやく。彼のお話には、いつもいろいろと考えさせられる。このたび彼は、アマゾンのKindle版で 「ゴッホ-崩れ去った修道院と太陽と讃歌」 という立派な、デジタル本を出版したという。その手際の良さと行動力に感服するわけだが、それより面白かったのは、彼の感想。 キンドル版への登録はそれほど大変ではなく、本ができていれば30分もかからず登録できるという。そして彼はいまのこういうデジタル的な作業と、昔の作業をくらべて振り返る。彼が会社にはいった当時(それは僕がはいったころと一緒だ)は、学会発表の原稿は原稿用紙に手書き、会社の大部屋でチェリーかなんかをスパスパ吸いながら手書きで書いていたって。