シャベル持っていきましょうか

世紀の大奇人?

リチャード・ファインマンといえば、典型的なマッド・サイエンティストかと思っていました。頭が良すぎて、一般常識の世界には生きられない変人なのだと。

だって、これまで読んだファインマン先生の話は、みんな奇想天外なエピソードばかしだったんだもの。科学読み物の中での彼は、周りの常識人を混乱と狂気の渦にまきこむ奇人。「精神異常」を装って兵役を免れたとか。ちょっと意地悪という感じで書かれていることも多いし。ノーベル物理学賞受賞者のくせに、本当に困った人という印象だった。(☆1)

ところが。最近、ファインマン先生に対する、私の印象はすっかり変わってしまった。「困ります、ファインマンさん」という本を神田で見つけて読んだから。抱腹絶倒のエピソードが満載の、このエッセイ集を読んで、私はノックアウトされました。今、私は思う。ファインマン先生は、まったくもって変人などではない! むしろまわりの常識人たちよりもよっぽどまともだ。ただ先生の心が、純真な子供のままなのだけだ。

物理学とは関係ない仕事でありながら、幼いリチャードを「絶対に偉大な科学者になる」と信じて(生まれる前から)科学する心を教えてくれたお父さんとのエピソード「ものをつきとめることの喜び」や、初恋の人アーリーンを、結婚直後に結核に奪われる体験をつづった「ひとがどう思おうとかまわない! 」などの感動の物語が、この本にはぎっしりとつまっていました。

シャベル持っていきましょうか?

1986年の夏、物理学会のために東大から招待を受けて来日。学会終了後に日本側主催者は、ファインマン先生に美しい日本を見ていただこうと、京都や奈良などの名所旧跡のホテルを予約しようとした。しかし、ファインマン夫妻(三度目の妻、グウェネスさんと来日)は、誰も聞いたことの無い伊勢奥津の、日本式旅館に泊まると言って聞かない。

伊勢奥津にある旅館の主人も、洋式トイレがないし、高名な外国人科学者をもてなすことは無理だと言った。しかし夫妻はひるまない。「私たちは前回の旅では、シャベルとトレットペーパーを持って穴を掘って用を足しました。なんならシャベル持っていきましょうか?」という。これを聞いて旅館主人は喜んで夫妻を受け入れた。伊勢奥津の地元の人々は、夫妻の心の美しさと気遣いに感動。神社の氏子あげて、心からのもてなしをしたとのことだ。

その後、癌との闘いを押して、スペース・シャトルの事故調査委員会で、獅子奮迅の活躍をする先生。これは、自分の生命を賭けての闘いだった。事故の原因となったシャトルの部品に挑む先生。そして美しい日本の残照を、純真な心で見る先生。どちらも純粋な子供のような心で世界を見つめる、リチャード・ファインマン先生なのだ。

ファインマン先生のような子供の眼で見れば、世界はいつも感動と驚きに溢れているんだ。こんなふうに。(☆2)

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波が打ち寄せてくる
膨大な数の分子が
互いに何億万と離れて
勝手に存在しているというのに
それが一斉に白く泡立つ波をつくる

それを眺める眼すら
存在しなかった遥かな昔から
何億もの年を重ね
今も変わりなく
波濤は岸を打ちつづける

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☆1:1965年、量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞

☆2:「困ります、ファインマン先生」 (岩波書店 リチャード・ファインマン著 / 大貫昌子訳) P.304 第三章 "科学の価値とは何か"より

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