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社会学のすゝめ 第12回「〈会話分析〉とは何か―「定性調査」との比較から」

2012年08月29日

タグ:小林祐児 社会学 会話分析

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 小林祐児(コバヤシ ユウジ)

今回は、まず、次の表を見てもらいたい。これは筆者と知人(仮にAさんとする)が、それぞれインタビュアーと被験者になり、「自分の受験勉強」についての擬似インタビューを行った時の会話記録になる。


多くの人の目には、見慣れない表に映ったはずだ。
前回のエントリー「エスノメソドロジーとは何か」の文末において、エスノメソドロジーの〈会話分析〉という方法論に少しだけふれたが、上の表は、その〈会話分析〉において使われる会話の記録(トランスクリプション)の一例である。

本メルマガ読者の方は、グループ・インタビューやデプス・インタビューといった一般的なマーケティング・リサーチの定性調査手法に慣れている方も多いと思われるので、通常そこで作成される発言録と、上記の記録の仕方を比べてみて欲しい。ところどころに見慣れない記号が点在している。この記号群は、それぞれ次のような意味である。


今回のエントリテーマである〈会話分析〉は、「人と人との対話を材料に調査・分析する」という点では、マーケティング・リサーチの各種面接法とも近い部分をもちながらも、それらとはまったく別のところに主眼をおきながら人びとの相互行為を観察してきた。

〈会話分析〉は、70年代ごろから、エスノメソドロジーから分化するように発展してきた歴史的経緯がある。そのため、「人びとが日常生活を秩序づけている方法の探求」という目的をエスノメソドロジーと緩やかに共有しており、その目的に沿って人びとの会話を出来るだけ正確に記述しようと、上のような特殊な記号を開発してきた。(ただ、毎回上のようなトランスクリプションを作るのではなく、都度の必要性によってかなりの幅がある。)

本エントリーでは、そうした〈会話分析〉について、マーケティング・リサーチの定性調査との比較を試みつつ、代表的な業績を紹介してみようと思う。


しかく話し手の順番交代(ターン・テイキング)


まずは、〈会話分析〉が発見した会話の基礎的なルールについて紹介したい。

私達の日常会話は、その場に何人参加していようとも、一度に話すのは一人に限られる、という原則がある。ということはつまり、「話し手は交代する」必要があるわけだ。ここで紹介するのは、その「交代の仕方」についてのルールである。

マーケティング・リサーチにおけるグループ・インタビューなどでは、モデレーターによって「次の人はいかがですか?」「思いついた人から話してくださいね」などといった促しが入ることで、話し手の交代は統制・管理され、整然と行われていくのが定石である。

だが、日常的シーンでは、そのように話す順番を整理してくれるモデレーター役は存在しない。つまり、「いま誰が話し、次に誰が話す(べき)か」ということは、対話者間で自然に秩序づけられる必要がある。

アメリカの代表的エスノメソドロジストであるハーヴェイ・サックスらは、この点に着目して研究・観察を行った結果として、会話の順番交代には次のようなルール(守るべき規範)があることを発見した。やや長いが引用しよう。


ここで言われている「区切り」とは、一つの話題の収束のことだと思ってくれていい。一読して当たり前のことが書いてあるようだが、一度実際に周りの人を観察してみると、このルールの面白さがわかる。おそらく殆どの人はこのようなルールを意識したことすら無いにもかかわらず、ほとんどの日常会話でこのルールは驚くほど忠実に適用されている。

そして、上のルールのもう一つのポイントは、このルールが会話の「内容」から独立して適用される、という点である。

奥様方の犬の体調についての井戸端会議でも、企業の経営施策についての重役会議でも、このルールは概ね会話者の中で(無意識にか意識的にかに問わず)共有され、実践され、まるで会話の順序交代を支配しているかのように、会話者たちの背後に鎮座している。(特に、マス・メディアの中では、このルールへの違反を見る機会は少ない。ちなみに、メディア空間の中でこのルール違反を最も頻繁に観察できるのは、皮肉なことに「国会中継」である。)

「無意識に、だが当たり前に」守れられているこのルールを破ってしまった者は、会話の秩序を乱す者として、少し前なら「KY」とでも呼ばれ、会話の参加者たちから醒めた視線を浴びることになる。そのように、普段、わたしたちが持っている常識的ルールは、特にそれが破られた時に表面に現れてくるという性格があるが、それについては後述する。


しかく『サウンド・オブ・ミュージック』の会話劇


さて、次の業績を紹介する前に、いったん映画の話をはさもう。

ミュージカル映画の名作として名高い『サウンド・オブ・ミュージック』(監督・ロバート・ワイズ)に、つぎのような場面がある(鈴木2007)。ジュリー・アンドリュース扮する主人公の家庭教師マリアが、教えている子どもたちについて、クリストファー・プラマー演じる厳粛な父親トラップ大佐と口論になるシーンである。
子どもたちのために遊ぶ時用の服が欲しい、というお願いを大佐にはねつけられたマリアは、次のように懇願する。


この短い会話劇でマリアとトラップの間でどんな意味内容のやり取りが行われているか、〈会話分析〉が発見した〈成員カテゴリー化装置〉という概念を通して見てみよう。


しかく〈成員カテゴリー化装置〉とは何か


〈成員カテゴリー化装置〉とは、会話分析によって明らかになった、〈カテゴリー集合〉〈適用規則〉からなる会話の規範的ルールである。

〈カテゴリー集合〉とは、{男-女}、{親-子}、{夫-妻}、{友人-友人}{先生-生徒}のように、人を特徴づけるカテゴリーの集まりのことである。

〈会話分析〉で言う時のこうしたカテゴリー分けは、教室で教壇にたつ先生という〈役割〉の概念、とは少しニュアンスが違っている。
例えば授業中、先生が遅刻してきた生徒を「こら!」と注意するときには、{先生-生徒}というカテゴリー集合が用いられる。ここでは、先生が「先生」であるだけではなく、生徒が「生徒」としてカテゴライズされなければ、その「こら!」は注意として成立しない。このようにカテゴリーは「対」になって用いられており、ゆえにカテゴリー「集合」と呼ばれている。

また、この〈カテゴリー集合〉には、次のような〈適用規則〉があることも知られている。


これは、言ってみれば、「無駄なカテゴリー集合を持ち出さない」ということである。例えば、授業という会話の場では、「教授と学生」というカテゴリーが用いられる「べき」であり、{男性-女性}{高齢-若齢}といった他の属性は除かれる「べき」という規則である。


これは、例を出せばすぐわかる。例えば、甲子園のウグイス嬢による選手紹介で、「1番、センター・菊池くん、2番、サード・石神くん」のあとに「3番、福岡出身・加藤くん」などと実況すれば、会場はどよめきに包まれるだろう。そのどよめきは、この「一貫性規則」が破られたことによるものである。


しかくマリアの「子ども」と〈適用規則〉


さて、上述の『サウンド・オブ・ミュージック』の例に戻って、この会話で起こっていることを上記の規則を用いて説明してみよう。

マリアはここで{子ども-大人}というカテゴリーを明示的に用いることによって(マリアはそれ以外の言葉を話さない)、次のようなことを大佐に伝えようとしている。

「〈子ども〉はのびのび遊ぶのが当然であり、〈大人〉はそれを許し応援するべきだ」。

しかしそれに対しトラップ大佐は、{父親-子ども}というカテゴリーを持ち出すことで、

「〈父親〉は子どものやることに口出しする権利があり、〈父親〉ではない(=家族の集合に含まれない)マリアに口出しする権利はない」

ということを伝えている。

ここで、上の〈経済規則〉が利用されているのがお分かりだろうか。〈経済規則〉が背景にあるからこそ、トラップ大佐はマリアが持ち出した{子ども-大人}のカテゴリー集合を、{父親-子ども}へと「上書き」することができている。その2つのカテゴリー集合を同時に使って話すことは不自然だからだ。

もう一つのポイントは、この場面では、もう一つの適用規則である〈一貫性規則〉が破られているということである。マリアの{子ども-大人}という集合は、無慈悲なトラップ大佐によって不採用の烙印を押され、その後の会話において用いられることを禁止されている。

この会話劇では、〈一貫性規則〉が「あえて」破られることによって、観客は一見すると不自然な印象を与えられる。だが、そこで生まれる不自然さゆえに、トラップ大佐の厳粛な性格はより強調され、言葉遊びにも似た洒脱なやり取りとして、印象的なシーンになりえている。名匠ロバート・ワイズが施した演出の妙と言えよう。


しかく期待と違背


以上、〈会話分析〉の業績のごくごく一部を簡略化して紹介してみた。

ここで一つ述べておきたいのは、会話分析者たちが発見してきたこれらのルールは、自然科学的な意味での経験的「法則」ではなく、むしろ、社会的な意味での「道徳的規範」に近いものだということだ。

ゆえに、『サウンド・オブ・ミュージック』で見たように、しばしばそれらのルールは「破られる」。しかし、正義が成り立つには「悪」の存在が不可欠なように、ルールが破られるためには、ルールが必要だ。だが、ふだん私たちは、「被害者」になったときに初めて加害者を探しだすように、ルールが「破られたこと」にばかり目を向けてしまう。

この「規範と規範破り(違背)」の関係を注視することを得意としていたエスノメソドロジー・会話分析の系譜の中からは、次のような面白い実験も行われている。


なんとも意地の悪い実験だが、ここで取り乱した被験者は「調子はどうだい?」という問いかけをしながら、「まあまあだよ。そっちは?」といった答えを予想していたのだろう。その予想が成り立つのは「挨拶-応答」という会話のセットが背後に期待されているからだが、その期待(規範)は見事に裏切られ、狼狽をあらわにしてしまっている。

しかし、被験者と同様に、わたしたちは普段、自分たちが依拠している背後の規範に全く気がつくことがなく、このような「異常な」事態が引き起こってから初めて目を向けがちだ。私達の「秩序」を成り立たせるために無意識化で用いている知識やルールを明示的に言語化すること。エスノメソドロジー、会話分析はこのような新鮮な驚きを与えてくれる。


しかく〈会話分析〉と定性調査


〈会話分析〉が見出そうとするのは、いわば、自然に行われている日常の会話に隠された「すごさ」である。私たちは、日常生活の中で、きわめて複雑な秩序付けを、無意識に、かつ共同で実践している。〈会話分析〉の知見を頭において暮らしてみると、誰に教わったでもなくターン・テイキングのルールやカテゴリー化装置を巧みに駆使しながら流暢に会話をこなしている私たち自身の会話は、なにか奇跡的に高度なやりとりにも見えてくる。

一方で、乱暴に対比してみれば、マーケティング・リサーチが着目するのは、工学的な意味での「情報」に近い。騒音や邪魔の入らないグルイン会場、モデレーターによる整序された順番交代、管理された時間配分、こうした通常ではありえない場の設定によって、発言に含まれるノイズを除去し、会話を「比較可能なリソース」にする。そして、通常の定性調査の発言録は、そのリソース=情報のみを整然と書き取っていく。

〈会話分析〉(エスノメソドロジー)とマーケティング・リサーチは、同じような対象を見つめながらも、こうした着眼点の違いを持っている。マーケティング・リサーチの「情報化」された発言録は、比較可能なリソースとして合理化されると同時に、日常の会話に存在する〈何か〉を必然的に取りこぼす。

おそらく私たちが意識すらしていないその〈何か〉とはどんなものか。それは果たして取りこぼしてもいい〈何か〉なのか。グルインルームで交わされる正常な会話に隠された「異常さ」に目を向けるためのヒントを、〈会話分析〉やエスノメソドロジーは与えてくれるように思う。




【参照文献】
鈴木聡志,2007,『会話分析・ディスコース分析――ことばの織りなす世界を読み解く』(新曜社)
前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編,2007, 『エスノメソドロジー――人びとの実践から学ぶ 』(新曜社)
西阪仰,2001,『心と行為――エスノメソドロジーの視点』 (岩波書店)
串田秀也,2005,「会話における参加の組織化の研究:日本語会話における「話し手」と「共−成員性」の産出手続き」 (京都大学大学院人間・環境学研究科博士論文)

2012年08月29日
タグ:小林祐児 社会学 会話分析
category:社会学のすゝめ
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