12.24.2013


岸 政彦
第1回 イントロダクション


本ブログで2013年末から1年間にわたって連載していた『断片的なものの社会学』が、このたび書籍になります。2015年6月はじめから書店店頭に並ぶ予定です。これまで連載を読んでくださってありがとうございました。書き下ろし4本に、『新潮』および『早稲田文学』掲載のエッセイを加えて1冊になります。どうぞよろしくお願いいたします!(編集部)


もう十年以上前にもなるだろうか、ある夜遅く、テレビのニュース番組に、天野祐吉が出ていた。キャスターは筑紫哲也だったように思う。イランだかイラクだかの話をしていて、筑紫が「そこでけが人が」と言ったとき、天野が小声で「毛蟹?」と言った。筑紫は「いえ、けが人です」と答え、ああそう、という感じで、そのまま話は進んでいった。


*  *  *


私は社会学というものを仕事にしている。特に、人びとに直接お会いして、ひとりひとりのお話を聞く、というやり方で、その仕事をしている。主なフィールドは沖縄だが、他にも被差別部落でも聞き取りをしている。また、自分の人生で出会ったさまざまな人びと、セクシュアルマイノリティや摂食障害の当事者、ヤクザ、ニューハーフ、ゲイ、外国人などに、個人的に聞き取りをお願いすることもしばしばある。さらに、これらの「マイノリティ」と呼ばれる人びとだけでなく、教員や公務員、大企業の社員など、安定した人生というものを手にした人びとにも、その生い立ちの物語を語っていただいている。いずれにせよ、私はこうした個人の生活史を聞き取りながら、社会というものを考えてきた。





調査者としての私は、聞き取りをした人びとと個人的な友人になることもかなり多いし、また逆に、個人的な友人にあらためてインタビューをお願いすることも少なくない。しかし、多くの場合は、私と調査対象の方々との出会いやつながりは、断片的で一時的なものである。さまざまなつてをたどって、見ず知らずの方に、一時間か二時間のインタビューを依頼する。私と人びととのつながりは、この短い時間だけである。この限られた時間のなかで、その人びとの人生の、いくつかの断片的な語りを聞く。インタビューが終わったあとは二度と会わない方も多い。顔も名前もわからない方に、電話でインタビューしたことも何度かある。

こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。

私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない、ということである。社会学者がこの問題にどう向き合うかは、それはそれぞれの社会学者の課題としてある。

投稿者 asahipress_2hen 時刻: 23:42

12.13.2013


暮らしの放射線Q&A
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書評と読者から寄せられた声



 what's new 

→ ある国語科教員の方から書評をいただきました '14 4/4 NEW!

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2011年3月に開始され、1,800余の質問に答えてきた「専門家が答える 暮らしの放射線Q&A」。全回答から80項目を厳選、全面改稿のうえ書籍化し、2013年7月に刊行しました。


日本保健物理学会
「暮らしの放射線Q&A 活動委員会」
暮らしの放射線Q&A
朝日出版社
定価2,940円(本体2,800円+税)
A5判並製・400ページ


毎日のように寄せられる質問から、抱えきれない不安と動揺を受けとりました。本書は、単なる活動の記録としてだけではなく、後世に残る「スタンダード」にもなることを願って刊行しました。放射線に関する「家庭の医学」のように読まれれば理想的です。

本書をお読みになった方からの反響が届いていますので、ご紹介します。


下記の「書評と読者からの声」を、小冊子にまとめています。講演会などで配布していただける機会がございましたら、お送りいたしますので、お知らせいただければ幸いです。(部数は50部を上限とし、送料〔約160円程度〕はご負担いただきます。日本国内限定とさせてください。) 問い合わせ先: info2★asahipress.com (★を@に変えてください)

投稿者 asahipress_2hen 時刻: 18:42

11.08.2013

末井昭
『自殺』 まえがき

元白夜書房の編集者・末井昭さんが、ぐるぐる考えながら書いてきた連載『自殺』が本になりました。これまで連載を読んでくださり、本当にありがとうございました。今回は、書籍版『自殺』のまえがきをお届けします。ぜひ書店店頭で手に取ってみてください(編集部)。


二〇〇九年に朝日新聞のインタビューを受けました。テーマは「自殺防止」でした。僕の母親が自殺していて、そのことを書いたり喋ったりしているので依頼されたのだと思います。そして、二〇〇九年一〇月八日の朝日新聞に次のような記事が載りました。


今年は、自殺者が過去最悪ペースだそうです。見つかっていない人なんかも含めれば、もっと多いはずです。ゆゆしき問題ですよね。
僕の母親は、僕が小学校に上がったばかりのころ、自殺しました。隣の家の10歳下の青年とダイナマイト心中したんです。僕の故郷は、岡山県のバスも通らない田舎の村で、近くに鉱山があって、ダイナマイトは割と身近なものだったのです。

物心ついたころ、母は結核で入院していて、うつるからとお見舞いも行けなかった。だから、退院したときはうれしかったですよ。治る見込みがないから退院したんですけどね。母は優しかったが、不良になってました。貧乏だった僕の家のわずかな家財や畑まで売ってぜいたくを始めた。昼間、父が働きにいってる間、いろんな男の人が家に出入りするようにもなった。毎日、夫婦げんかです。ある日、けんかの後、母はプイッと出て行って、数日後に爆発しました。退院から1年ちょっと。32歳でした(いい加減なもので、僕はこのとき母親の歳を間違えていました。30歳でした)。

その後、一緒に爆発した青年の両親には責められたし、事件を起こした家として白い目でみられた。だけど田舎は大きな家族みたいなものだから、学校の先生や村の人たちがよくしてくれて、それほど心に深い傷を負いませんでした。ただ東京に出てきても長い間、母のことは人に言えなかった。それでもある時、芸術家の篠原勝之さんに話したら、ウケたんです。純粋な笑い話として。純粋っていうのは、同情を込めずに笑ってくれたということで、それは篠原さんの優しさだった気がします。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 19:21

10.28.2013

末井昭
(刊行前のおまけ) 「自殺について」の講演と五人の自殺者 

『自殺』はもうすぐ書店に並びますが、本の刊行前に、末井さんに自殺講演会の依頼がやってきてしまいました。その講演会は11月26日に行われますが、どうせなら派手に(?)やろうと、自殺した人の霊を呼びだすことになったのだそうです。呼び出す予定の5名の霊の方々と末井さんのつながりなど……どうなることやら。(編集部)

朝日出版社第二編集部ブログ「自殺」が本にまとめられ、十一月一日に朝日出版社から発売されることになりました。

このブログを書き始めた発端は、四年ほど前に自殺防止について朝日新聞でインタビューされたことです。自殺未遂もしたことがない僕が、なぜ自殺についてインタビューの依頼をされたかというと、母親が近所の若い男とダイナマイト心中していて、そのことを書いたり喋ったりしていたからです。

その朝日新聞の記事を見た朝日出版社の鈴木久仁子さんから(ちなみに朝日新聞と朝日出版社は何も関係ありません)、自殺について「面白い」本を書いて欲しいという依頼がありました。最初は気乗りしなかったのですが、あの震災のあと自分も何かしないといけないという気持ちになり、ブログで連載というかたちで書くことになったのでした。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 21:17

8.12.2013



ジュンク堂書店池袋本店で、岡ノ谷一夫著『「つながり」の進化生物学』の夏休み連続イベントを行います。第一弾は、『カラスの教科書』(雷鳥社)の松原始さんとの「カラス対ジュウシマツ」という、鳥づくしの楽しいお話でした。

第二弾・8月22日にお招きするのは、『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮社)がさまざまな媒体で話題となっている傳田光洋さんです。(編集部でも2007年、傳田さんの『第三の脳』を刊行していますが、息長く読まれつづけるロングセラーです)。

「さわりあう心」と題して、傳田さんと岡ノ谷さんが、ヒトが「毛」を失い、言葉が生まれるまでのコミュニケーション(皮膚と言葉の起源)について、そして意識・心、コミュニケーションの未来について、対話してゆきます。

傳田さんが8月の対談の前に、「私の皮膚研究遍歴」をお話ししてくださいました。イベント前にお読みください。イベントともども、どうぞよろしくお願いいたします!(編集部)


なんとなくそうなった ――私の皮膚研究遍歴など

いつも風呂場でゴシゴシこすってる垢の元、厚さが0.1ミリもない表皮の中にさえ、外の世界を知るための精密な感覚装置、その情報を処理するメカニズムがあります。そしてその表皮が、わたしたちの心にも影響を及ぼしている証拠がいくつも見つかってきています。あるいは精緻な文法を持つ言語をジュウシマツがしゃべっていたり(いや、さえずっていたり、かな?)、地下で複雑な情報組織社会を営んでるネズミもいるんですね。

そういう「いのち」の様々な営みを見ていると、わたしたちが生きているこの世界は、とても大きく深い知恵で満たされている――科学者の台詞じゃないと叱られるけど、「神秘」という言葉を使いたくなります。日々の生活に疲れたとき、そんな「神秘」に想いをはせると、ちょっと気分が良くなります。自然科学にはそんな効用もありますね。

ところで私は最初から皮膚の研究者を目ざしていたわけじゃないんです。いろいろあって、なしくずし的に「皮膚の研究をしろ」という状況に陥ってしまった。そのうち「皮膚は自分のバリア機能をモニターしながら、バリアがダメージを受けると修復する――そういう知的な臓器なんだ」というサンフランシスコの皮膚科学研究者が発表した論文を読んで、こりゃおもしろい、とその研究者に弟子入りしました。二年ほど猛烈に仕事して、帰国後もさらに研究を続けるうち、皮膚に脳と同じ情報処理システムが見つかったり(「興奮」して荒れた皮膚にトランキライザーを塗ると皮膚も落ち着くんですよ)、色、音、その他、いろんなシグナルを皮膚が感じている可能性も見えてきました。

その頃、依頼をいただいて、皮膚に関わる仮説をあれこれ展開してできたのが『第三の脳』という本です。そして、さらに研究を続け、あるいは他の研究者の成果をみていると「仮説」が次々に事実になってきていて、そのあたりを科学的な背景も丁寧に説明しながら書いたのが『皮膚感覚と人間のこころ』です。『第三の脳』でも触れた進化やこころ、命のあり方についても、できる限り綿密な証拠をあげ、根拠になった実験の詳細まで書きこみました。そのため、「今度の本は難しいね」なんて言われたこともありますが、皮膚という「臓器」の大変な意味、それをいろんな人にしっかり伝えられる本にはなったと思ってます。

そういういきさつなので、「皮膚ってそんなに面白いのかなあ」という人はまず『第三の脳』を手にとって「ほんまかいな?!」と驚いていただき、そこで皮膚のすごさをより詳しく知りたい人は『皮膚感覚と人間のこころ』を読んでください。まだ仮説のままの事もあるので、どっちから読んでいただいても結構です。

今、数学者さんたちとの共同研究で、皮膚の若返りや痒み対策ができないか、なんてことを考えています。『皮膚感覚と人間のこころ』の最終章でそのいきさつを書きました。この研究を進めながら、頭の中の実験室では、人間の皮膚が、現代の文明にどう関わってきたのか、どう関わっているのか、そして、これから人間はどう生きるべきなのか、それに答えるための仮想実験も進めたいと思っています。

傳田光洋(でんだ・みつひろ)

傳田さんが、数学者との共同研究でつくられた動画はこちら
世界は数式でできている|資生堂

投稿者 asahipress_2hen 時刻: 21:04

7.23.2013


ジュンク堂書店池袋本店で、岡ノ谷一夫著『「つながり」の進化生物学』の夏休み連続イベントを行うことになりました。第一弾は7月25日(木)19時半~『カラスの教科書』(雷鳥社)の松原始さんとのお話です。(ご予約はジュンク堂書店池袋本店 03-5956-6111 まで)

岡ノ谷一夫さんは、信濃毎日新聞(13年3月17日)で、「ジュウシマツの本よりも絶対カラスの本のほうが売れる」と嫉妬心をのぞかせつつ、「400ページをさらりと読んでしまうところがカラスである」「勢いに乗せられて読み切ってしまうことで、カラスについていっぱしの専門家になってしまうし、動物行動学や行動生態学の概要も学べてしまうのみならず、カラスに蹴られない方法まで学べるのだ。本書が教科書を名乗るのはもっともである」と、『カラスの教科書』を紹介されていました。

雷鳥社の担当の植木ななせさん(編集担当であると同時に『カラスの教科書』のほとんどの絵を描かれてます。本文組みと装丁も!)と松原始さんに、対談テーマをどうしましょう、と相談していたところ、松原さんから『「つながり」の進化生物学』の感想として、書評をいただいてしまいました。

どこにも載せないのはもったいない……ということで、イベント前にお読みいただければと思います。イベントともども、どうぞよろしくお願いいたします。(編集部)

岡ノ谷先生がご自分の専門領域を、わかりやすーく語る一冊。これを読めば科学、行動学、信号、コミュニケーション、そして哲学まで幅広くわかり、そして考えることができる。

岡ノ谷先生はジュウシマツの歌の研究で有名だが、その内容は歌の構造の解析(言語学的だ)、歌に対する個体の反応(行動学、あるいは行動生態学)、歌を制御する脳機能(神経生理学)、歌を覚えて行く過程(行動学、特に学習に関する部分)、歌う鳥と歌わない鳥(進化)、と優れて横断的である。だから「ナントカ学の専門家」というより「ジュウシマツの歌の専門家」と思ってしまうのである。

ところが岡ノ谷先生はクジラの歌とジュウシマツの歌を比較したかと思えばハダカデバネズミの社会を調べ、今度はまさかのデグーの道具使用まで飛び出し、何がご専門なのかよくわからない。カラスが「スペシャリストではないが一応何でも出来る」ならば岡ノ谷先生は「音声コミュニケーションの進化と発達に関わることなら全て何でも出来て、ついでにとんでもない発見までしちゃう」、マルチタスクなスペシャリストである。F-22かこの人は。

しかもプレゼンの上手さでも有名。以前ポスター発表を拝見した時、ポスターの前に立っておられた岡ノ谷先生は「ふう、あんまり喋ると疲れるから30秒で説明します。ジュウシマツのメスの心電図を見てどんな時にドキドキするか調べました。するとメスはオスの歌を聞くとドキドキすることがわかりました。そして複雑な歌を聞くと、もーっとドキドキすることがわかりました。」と図表を指差しながら見事に語り尽くしたのである!参ったなあ、こんな人と対談するのか。そもそも京大の大学院特別講義であちらは講師、こっちはペーペーの学生だったわけなのだが…

この本を読むと高校生向けの講義としてずいぶん練られていることがよくわかる。まず「コミュニケーション」という言葉の定義を共有し、ちょこっと自然科学というものについて確認し(理科は習うが、科学とは何かを学ぶ場はなかなかない。ここを読むだけでも価値はある。)、そこからジュウシマツの歌をめぐるあれこれに呼び込んで行く。さらに様々な動物のエピソードを交え(初めて知ったネタもちょこちょこあった)、進化に眼を向けたところで「行動学の4つの問い」を整理し、発達と学習と進化という「歌」を巡る生物学の真髄へと向かう。そこから広く「コミュニケーションって?」という問いへと向かい、現代の生物学では基本的な(そして誤解されがちな)Selfish=利己的、という概念も飛び出し、信号の進化へと内容は進む。そして、さらに先には哲学との境界領域…「主体とは」「相手を理解するとは」といった、自己と他者の認識という広大無辺なテーマが控えている。この辺りになると聞いている高校生も予想だにしなかった世界だったのではないか。

こんな話を高校の間に一度でも聞いておけば人生が変わるに違いない。そして、これをわずか4回の講義に収めた内容の濃さに驚き、これを聞ききった高校生の体力にも驚いた後、「ちょっと待て、この講義は何分なんだ、準備にどんだけ手間かけてるんだ」という、いささかセコい驚きにも見舞われるのである。


★イベントを行ないます! お席が少なくなってきております。お申し込みはお早めに。




投稿者 asahipress_2hen 時刻: 14:51

7.24.2012

加藤陽子

絵・題字 牧野伊三夫

母校・桜蔭学園での講演記録 後編2
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』著者・加藤陽子さんが母校で話したこと、最終回。
総力戦となったときに動員される論理、「最悪の予想」の立てられ方。なぜ、人々が合理的な行動をとれなかったのか、なぜ、合理的な結末に至らないのか。紀元前のギリシアで初めて「戦史」が書かれた背景から、太平洋戦争まで。「歴史はすべて近代史だ」。(編集部)

歴史の「問い」の始まり

ヘロドトスは「歴史学の父」ですが、古代ギリシアにはもうひとり、歴史学にとって重要な人物がいます。トゥーキュディデース(紀元前460年頃~400年頃)で、ヘロドトスより20歳くらい若い。トゥーキュディデースという名前は、実に発音しにくい。ただ、岩波文庫などでは、この名前を採用しています。トゥーキュディデースは、まさに、今回のお話のテーマとしてドンピシャの題名、『戦史』という本を書きました。こちらは岩波文庫で、500ページ位もある厚さで上・中・下の三巻本の分量があります。やはり読み通すのは大変だと思いますが、こういう本を読んでいる女子高生には誰も話しかけてこないと思いますので、ひとりになりたいときなどにお薦めです(笑)




トゥーキュディデースが誰と同じ世代かといえば、哲学者のソクラテスです。紀元前5~4世紀にかけてのギリシアは文化の隆盛期で、とくに都市国家のアテナイでは数々の演劇がうまれ、パルテノン神殿など、現代にも残る文化や芸術作品、建築物が生み出された時期でした。

9.29.2011

山本貴光

第3回 読書について(2)

四ヶ月ぶりの更新、連載第三回です。電車の中では本が読めるけど、家に帰るとまるで本を開く気にならない、という人。机に向かうとなかなかページを繰る手が遅くていらいらするけど、愛用のソファに寝転がるとぐんぐん読める、という人。他人の本の読み方など考えたこともなかった。自分の癖も意識してこなかった。今回は、「本を読むということの広がり」を実感していただきます。

愛読、一読、閲読、音読、回読、会読、解読、看読、玩読、句読、訓読、講読、購読、誤読、再読、雑読、査読、色読、失読、試読、侍読、熟読、誦読、触読、真読、斉読、精読、速読、卒読、素読、体読、代読、多読、耽読、直読、通読、積読、摘読、点読、転読、顛読、難読、拝読、白読、判読、範読、繙読、必読、披読、複読、併読、奉読、捧読、味読、未読、黙読、訳読、濫読、略読、流読、輪読、朗読、和読

いきなりお経のような書き出しになりました。ここに並べてみたのは、すべて読むことにまつわる言葉です。名前を与えられている読書の仕方だけでも、これだけの種類があることに驚きますし、これらを、十把一絡げにして「読書」と言ってしまうのは、なんだか雑駁過ぎて申し訳ないような気さえしてきます。

とはいえ、私たちはそうと自覚しないまでも、日々の暮らしのなかで、そのつど自分の必要や状況に合わせて、さまざまなスタイルで読書をしています。ものを読むということは、生活のなかのさまざまな営みと同じように、人それぞれで、そこにはその人の生き方が現れます。

ただ、多くの場合、読書は一人ですることが多いため、他人と自分の読書のスタイルがどのように違っているのか、どのように似ているのかということは、日ごろなかなか実感しづらいところでもあります。そこで、いくつかの読書を論じた書物を並べてみることで、本を読むということの広がりを眺めてみようとしているところでした。

8.15.2011

更新情報
加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 後編1 歴史は「戦史」から始まった 8/15 UP

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加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 前編1 前編2
加藤陽子「この夏に読んでほしい一冊」 死者の彼岸からの視点で、世界を眺め直してみる
末井昭「自殺」 第1回 第2回 第3回 第4回
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回
吉川浩満「理不尽な進化」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
大澤真幸「時評」
1. 浜岡問題の隠喩的な拡張力
2. 福島第一原発の現場労働者を支援しよう
3. 想定外のリスクをいかにして想定するか
──原発の安全ための最小限の提案

4. 原発問題と四つの倫理学的例題
5. ドクター・ショッピングと原発情報
大澤真幸「社会は絶えず夢を見ている」 あとがき
中川恵一「放射線のひみつ」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
第6回 第7回 第8回 第9回 第10回
山本貴光「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」 第1回 第2回

投稿者 asahipress_2hen 時刻: 20:18
加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 後編1
歴史という言葉が初めて使われたのは、紀元前5世紀のことでした。そしてそこには「戦争」が関わっているのです。紀元前に生きた人たちは、どんなふうに戦争を書きのこしていたのか。今日は終戦記念日ですが、ぐるるっと2500年以上前までさかのぼり、戦争の根本について思いをめぐらせてみたいと思います。(編集部)

歴史は「戦史」から始まった

みなさんが勉強している歴史という学問にも、もちろん“始まり”があります。その起源はどこにあるかというと、戦争にある――「歴史は戦史から始まった」といえるのではないか、こう私は考えています。なぜそういえるのか。紀元前5世紀の古代ギリシアまでさかのぼってお話ししましょう。

ピューリッツァー賞を受賞するような作家がベトナム戦争を描くように、あるいは、その逆で、ベトナム戦争を描いてピューリッツァー賞を受賞するように、アメリカの国家と社会に深刻な亀裂を生んだベトナム戦争は、多くの優れた作家の心を捉えました。感性の優れた人々は、まさに起こっている真っ最中の出来事であっても、何をどのように捉えるべきか、鋭い視覚を提示し、後々に残してくれるものです。

この話からも推測がつくように、紀元前5世紀の人たちも、きちんと同時代の戦争に目を向けていました。

みなさんも古文の授業で、『源氏物語』に接したことがあるでしょう。1001年には成立していたと考えられている、この『源氏物語』を読みますと、「千年以上も前に書かれているのに、なぜ今の自分たちの恋愛感情や季節への感覚と同じなのだろうか」と驚くのではないでしょうか。人間の底にある精神や感情はあまり変わらないということは、古典文学を読むと確認できますね。

人間は歴史をどのように記述しはじめたのか、歴史学に大きな影響を与えた2人の鉄人を紹介しながら、彼らが目の前で起きた戦争をどう考え、どのように記述したかを見ていきましょう。

8.03.2011


過去に起きた歴史的事象の意味が、全く異なった、新たな相貌をたたえて、急に自らに迫ってくることがあると、最近、身にしみてわかった。東日本大震災で発生した、東京電力福島第一原子力発電所における原子力災害の深刻さが、ヒロシマ・ナガサキの意味していたものについて、じわりと私に再考を迫るようになってきたのだ。

ヒロシマ・ナガサキを考えるとき、歴史家としての私はこれまで、日本のおこなった不徳義とアメリカのおこなった不徳義について、どうしても貸借対照表のようなかたちで比較する見方から離れられなかった。しかし、それはどうも違うのではないか。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 11:08

7.29.2011

國分功一郎

第9回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
今度は別の哲学者の退屈論を取り上げよう。本章の冒頭で言及したスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』である。

この本は世界一五カ国で刊行された話題の本である(日本では邦訳が新書版で二〇〇五年に出版されたが、全く反響はなかった)。スヴェンセンはこの本を専門的にならないように、いわばカジュアルなものとして書いたと言っている。確かに彼の口調は軽い。だが、その内容はほとんど退屈論の百科事典のようなものだ。もし退屈についての参考文献表が欲しいと思えば、この本を読めばよい。参照している文献の量では、本書はスヴェンセンの本にはかなわない。

スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人びとの悩み事となったのはロマン主義のせいだ―これが彼の答えである。

ロマン主義とは一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してしまう。これが彼の答えだ*24
*24―Lars Fr. H. Svendsen, Petite philosophie de l’ennui, Fayard, 2003, p.83
スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
人生の充実を求めるとは、人生の意味を探すことである。スヴェンセンによれば、前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれたということだ。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 18:32

7.22.2011

國分功一郎

第8回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

人は楽しいことなど求めていない
退屈する人間は興奮できるものなら何でも求める。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていた通り、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かを求める。

それにしても、人は快楽など求めてはいないとは、驚くべき事実である。「快楽」という言葉がすこし堅いなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなど求めていない。彼が求めているのは自分を興奮させてくれる事件である。

これは言い換えれば、快楽や楽しさを求めることがいかに困難かということでもあるだろう。楽しいことを積極的に求めるというのは実は難しいことなのだ。

しかも、人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心から求めることができることこそが貴重なのだ。なぜなら退屈する人は楽しさや快楽など求めないからである。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 19:56

7.15.2011

國分功一郎

第7回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

ラッセルの『幸福論』
ここまで、パスカルの考察をもとにして議論を深めてきた。それによって、〈暇と退屈の倫理学〉の出発点を得られたように思う。

人間は部屋でじっとしていられない。だから熱中できる気晴らしをもとめる。熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみを求めることすらある。この認識は二十世紀が経験した恐ろしい政治体制にも通じるものであった。

今度は、この基本的な認識をもとにしてこの後どのように議論を進めていけばよいか、どんな問題に答えるべきか、そうしたことを考えたい。

そのために二人の哲学者に登場してもらおう。

一人目はバートランド・ラッセル[1872~1970]である。ラッセルは二〇世紀を代表するイギリスの大哲学者だ。『ライプニッツの哲学』や『哲学史』などの哲学史研究から、『数学原理』などの数理哲学まで、哲学の中の幅広い分野をカバーする仕事をした。

また、他方、反ベトナム戦争、反核運動などの平和運動でもよく知られており、ノーベル平和賞を受賞した大知識人でもある。人類が誇るべき偉大なる知性だ。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 20:43

7.13.2011

時評 第5回

ドクター・ショッピングと原発情報

大澤真幸

福島第一原子力発電所の事故以来、原発の安全性についても、放射線リスクについても、専門家のあいだで意見の一致が見られない。報道に接し、解説を読み、資料にあたっても、正解を得る手がかりさえも摑めないような気がしてくる。「正しい情報なんてあるのか」「どれも信用できない!」との思いにとらわれないだろうか。これを「リスク社会における仮説の発散」と見るとどうなるか。インフォームド・コンセント、倫理委員会、セカンド・オピニオンにも共通する、この危機にあって私たち全員を拘束する「条件」が浮上する。(編集部)


私は、5月に、ここ朝日出版社から『社会は絶えず夢を見ている』(以下『社会・夢』)を出した。これは、講義集で、収録した講義はすべて、3.11の出来事の前に行ったものだが、その内容が、3.11とふしぎなほどに共振しているので、自分でも驚いている。そのことは、このBlogでも読めるようになっている、『社会・夢』の「あとがき」にも記しておいた。『社会・夢』で提起した論点と原発事故(にともなう出来事)との関連について、もう少し論じておこう。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 15:17
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