9.29.2011
山本貴光
第3回 読書について(2)
四ヶ月ぶりの更新、連載第三回です。電車の中では本が読めるけど、家に帰るとまるで本を開く気にならない、という人。机に向かうとなかなかページを繰る手が遅くていらいらするけど、愛用のソファに寝転がるとぐんぐん読める、という人。他人の本の読み方など考えたこともなかった。自分の癖も意識してこなかった。今回は、「本を読むということの広がり」を実感していただきます。
愛読、一読、閲読、音読、回読、会読、解読、看読、玩読、句読、訓読、講読、購読、誤読、再読、雑読、査読、色読、失読、試読、侍読、熟読、誦読、触読、真読、斉読、精読、速読、卒読、素読、体読、代読、多読、耽読、直読、通読、積読、摘読、点読、転読、顛読、難読、拝読、白読、判読、範読、繙読、必読、披読、複読、併読、奉読、捧読、味読、未読、黙読、訳読、濫読、略読、流読、輪読、朗読、和読
いきなりお経のような書き出しになりました。ここに並べてみたのは、すべて読むことにまつわる言葉です。名前を与えられている読書の仕方だけでも、これだけの種類があることに驚きますし、これらを、十把一絡げにして「読書」と言ってしまうのは、なんだか雑駁過ぎて申し訳ないような気さえしてきます。
とはいえ、私たちはそうと自覚しないまでも、日々の暮らしのなかで、そのつど自分の必要や状況に合わせて、さまざまなスタイルで読書をしています。ものを読むということは、生活のなかのさまざまな営みと同じように、人それぞれで、そこにはその人の生き方が現れます。
ただ、多くの場合、読書は一人ですることが多いため、他人と自分の読書のスタイルがどのように違っているのか、どのように似ているのかということは、日ごろなかなか実感しづらいところでもあります。そこで、いくつかの読書を論じた書物を並べてみることで、本を読むということの広がりを眺めてみようとしているところでした。
8.15.2011
更新情報
加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 後編1 歴史は「戦史」から始まった 8/15 UP
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加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 前編1 前編2
加藤陽子「この夏に読んでほしい一冊」 死者の彼岸からの視点で、世界を眺め直してみる
末井昭「自殺」 第1回 第2回 第3回 第4回
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回
吉川浩満「理不尽な進化」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
大澤真幸「時評」
1. 浜岡問題の隠喩的な拡張力
2. 福島第一原発の現場労働者を支援しよう
3. 想定外のリスクをいかにして想定するか
──原発の安全ための最小限の提案
4. 原発問題と四つの倫理学的例題
5. ドクター・ショッピングと原発情報
大澤真幸「社会は絶えず夢を見ている」 あとがき
中川恵一「放射線のひみつ」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
第6回 第7回 第8回 第9回 第10回
山本貴光「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」 第1回 第2回
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加藤陽子「歴史 この不思議な学問に魅せられて」 前編1 前編2
加藤陽子「この夏に読んでほしい一冊」 死者の彼岸からの視点で、世界を眺め直してみる
末井昭「自殺」 第1回 第2回 第3回 第4回
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回
吉川浩満「理不尽な進化」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
大澤真幸「時評」
1. 浜岡問題の隠喩的な拡張力
2. 福島第一原発の現場労働者を支援しよう
3. 想定外のリスクをいかにして想定するか
──原発の安全ための最小限の提案
4. 原発問題と四つの倫理学的例題
5. ドクター・ショッピングと原発情報
大澤真幸「社会は絶えず夢を見ている」 あとがき
中川恵一「放射線のひみつ」 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
第6回 第7回 第8回 第9回 第10回
山本貴光「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」 第1回 第2回
加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 後編1
歴史という言葉が初めて使われたのは、紀元前5世紀のことでした。そしてそこには「戦争」が関わっているのです。紀元前に生きた人たちは、どんなふうに戦争を書きのこしていたのか。今日は終戦記念日ですが、ぐるるっと2500年以上前までさかのぼり、戦争の根本について思いをめぐらせてみたいと思います。(編集部)
歴史は「戦史」から始まった
みなさんが勉強している歴史という学問にも、もちろん“始まり”があります。その起源はどこにあるかというと、戦争にある――「歴史は戦史から始まった」といえるのではないか、こう私は考えています。なぜそういえるのか。紀元前5世紀の古代ギリシアまでさかのぼってお話ししましょう。
ピューリッツァー賞を受賞するような作家がベトナム戦争を描くように、あるいは、その逆で、ベトナム戦争を描いてピューリッツァー賞を受賞するように、アメリカの国家と社会に深刻な亀裂を生んだベトナム戦争は、多くの優れた作家の心を捉えました。感性の優れた人々は、まさに起こっている真っ最中の出来事であっても、何をどのように捉えるべきか、鋭い視覚を提示し、後々に残してくれるものです。
この話からも推測がつくように、紀元前5世紀の人たちも、きちんと同時代の戦争に目を向けていました。
みなさんも古文の授業で、『源氏物語』に接したことがあるでしょう。1001年には成立していたと考えられている、この『源氏物語』を読みますと、「千年以上も前に書かれているのに、なぜ今の自分たちの恋愛感情や季節への感覚と同じなのだろうか」と驚くのではないでしょうか。人間の底にある精神や感情はあまり変わらないということは、古典文学を読むと確認できますね。
人間は歴史をどのように記述しはじめたのか、歴史学に大きな影響を与えた2人の鉄人を紹介しながら、彼らが目の前で起きた戦争をどう考え、どのように記述したかを見ていきましょう。
8.03.2011
過去に起きた歴史的事象の意味が、全く異なった、新たな相貌をたたえて、急に自らに迫ってくることがあると、最近、身にしみてわかった。東日本大震災で発生した、東京電力福島第一原子力発電所における原子力災害の深刻さが、ヒロシマ・ナガサキの意味していたものについて、じわりと私に再考を迫るようになってきたのだ。
ヒロシマ・ナガサキを考えるとき、歴史家としての私はこれまで、日本のおこなった不徳義とアメリカのおこなった不徳義について、どうしても貸借対照表のようなかたちで比較する見方から離れられなかった。しかし、それはどうも違うのではないか。
ヒロシマ・ナガサキを考えるとき、歴史家としての私はこれまで、日本のおこなった不徳義とアメリカのおこなった不徳義について、どうしても貸借対照表のようなかたちで比較する見方から離れられなかった。しかし、それはどうも違うのではないか。
7.29.2011
國分功一郎
第9回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
今度は別の哲学者の退屈論を取り上げよう。本章の冒頭で言及したスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』である。この本は世界一五カ国で刊行された話題の本である(日本では邦訳が新書版で二〇〇五年に出版されたが、全く反響はなかった)。スヴェンセンはこの本を専門的にならないように、いわばカジュアルなものとして書いたと言っている。確かに彼の口調は軽い。だが、その内容はほとんど退屈論の百科事典のようなものだ。もし退屈についての参考文献表が欲しいと思えば、この本を読めばよい。参照している文献の量では、本書はスヴェンセンの本にはかなわない。
スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人びとの悩み事となったのはロマン主義のせいだ――これが彼の答えである。
ロマン主義とは一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してしまう。これが彼の答えだ*24。
*24――Lars Fr. H. Svendsen, Petite philosophie de l’ennui, Fayard, 2003, p.83
スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
人生の充実を求めるとは、人生の意味を探すことである。スヴェンセンによれば、前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれたということだ。スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
7.22.2011
國分功一郎
第8回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
人は楽しいことなど求めていない
退屈する人間は興奮できるものなら何でも求める。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていた通り、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かを求める。それにしても、人は快楽など求めてはいないとは、驚くべき事実である。「快楽」という言葉がすこし堅いなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなど求めていない。彼が求めているのは自分を興奮させてくれる事件である。
これは言い換えれば、快楽や楽しさを求めることがいかに困難かということでもあるだろう。楽しいことを積極的に求めるというのは実は難しいことなのだ。
しかも、人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心から求めることができることこそが貴重なのだ。なぜなら退屈する人は楽しさや快楽など求めないからである。
7.15.2011
國分功一郎
第7回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
ラッセルの『幸福論』
ここまで、パスカルの考察をもとにして議論を深めてきた。それによって、〈暇と退屈の倫理学〉の出発点を得られたように思う。人間は部屋でじっとしていられない。だから熱中できる気晴らしをもとめる。熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみを求めることすらある。この認識は二十世紀が経験した恐ろしい政治体制にも通じるものであった。
今度は、この基本的な認識をもとにしてこの後どのように議論を進めていけばよいか、どんな問題に答えるべきか、そうしたことを考えたい。
そのために二人の哲学者に登場してもらおう。
一人目はバートランド・ラッセル[1872~1970]である。ラッセルは二〇世紀を代表するイギリスの大哲学者だ。『ライプニッツの哲学』や『哲学史』などの哲学史研究から、『数学原理』などの数理哲学まで、哲学の中の幅広い分野をカバーする仕事をした。
また、他方、反ベトナム戦争、反核運動などの平和運動でもよく知られており、ノーベル平和賞を受賞した大知識人でもある。人類が誇るべき偉大なる知性だ。
7.13.2011
時評 第5回
ドクター・ショッピングと原発情報
大澤真幸
福島第一原子力発電所の事故以来、原発の安全性についても、放射線リスクについても、専門家のあいだで意見の一致が見られない。報道に接し、解説を読み、資料にあたっても、正解を得る手がかりさえも摑めないような気がしてくる。「正しい情報なんてあるのか」「どれも信用できない!」との思いにとらわれないだろうか。これを「リスク社会における仮説の発散」と見るとどうなるか。インフォームド・コンセント、倫理委員会、セカンド・オピニオンにも共通する、この危機にあって私たち全員を拘束する「条件」が浮上する。(編集部)
私は、5月に、ここ朝日出版社から『社会は絶えず夢を見ている』(以下『社会・夢』)を出した。これは、講義集で、収録した講義はすべて、3.11の出来事の前に行ったものだが、その内容が、3.11とふしぎなほどに共振しているので、自分でも驚いている。そのことは、このBlogでも読めるようになっている、『社会・夢』の「あとがき」にも記しておいた。『社会・夢』で提起した論点と原発事故(にともなう出来事)との関連について、もう少し論じておこう。
7.08.2011
國分功一郎
第6回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
苦しみを求める人間
だいぶパスカルの議論につきあってきた。そろそろ話を別の方面へと広げていこう。パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。熱中できなければ、自分をだますことができないから気晴らしにならない。
では、更にこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないか? お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕らえることのできる場所でウサギを狩っても、気晴らしの目的は達せられない。
7.05.2011
中川恵一
イラスト 寄藤文平
イラスト 寄藤文平
25 発がんリスクの代表例――甲状腺がんの基礎知識。
チェルノブイリの原発事故では、白血病など、多くのがんが増えるのではないかと危惧(きぐ)されました。しかし、実際に増加が報告されたのは、「小児の甲状腺がん」だけでした。小児甲状腺がんが増加した最大の原因は、旧ソビエト政府が、当初、事故を認めず、初動が遅れた点です。この点、福島第一原発では、まずまず適切な対処がなされてきたと言えます。
放射性ヨウ素(I‐131)は、体に入るとその30%程度が甲状腺に取り込まれます。これは、甲状腺ホルモンを作るための材料がヨウ素で、甲状腺がヨウ素を必要としているからです。
普通のヨウ素も放射性ヨウ素も、人体にとってはまったく区別がつきません。物質の性質は、放射性であろうとなかろうと同じだからです。たとえて言えば「食べ物があったので食べてみたら、毒針がついていました」ということなのです。
7.02.2011
國分功一郎
第5回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
もっともおろかな者
さて、いまわたしたちはパスカルの手を借りながら、人間のおろかさのようなものを取り上げて論じている。まるでそれが人ごとであるかのように。先に〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉とを区別したけれども、これは実に便利な区別であるから、日常生活で応用したいと思う人もいるかもしれない。たぶん、「君は自分の〈欲望の原因〉と〈欲望の対象〉とを取り違えているな」と指摘できる場面は日常生活の中に数多く存在しているだろう。
6.24.2011
國分功一郎
第4回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
原理というのは、すべての議論の出発点となる考えのことである。暇と退屈の原理論と題された本章では、暇と退屈を考えていくための出発点を追求しようと思う。
ではどこにそれを求めようか? どんなテーマについても、たいていそれを論じているひとがいる。そうした先駆者の考えを参考にできれば効率がいい。ここでもそのようなやり方をとることにしよう。
暇と退屈を考察した人物として本書が最初に取り上げたいのは、十七世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカル[1623~1662]の議論である。
6.23.2011
中川恵一
イラスト 寄藤文平
イラスト 寄藤文平
21. 「いつ・どこで・どんなものが・どの期間」に注目する。
福島第一原子力発電所の事故以来、ニュースでは、
――「浄水場の水から、乳児の摂取量の上限となる暫定基準値を上回る量の放射性ヨウ素が検出」
――「海水の放射性物質、基準上回る。ヨウ素131の濃度は、今月2日に基準値の750万倍」
といった表現をひんぱんに目にするようになりました。(ただし安全を見越して、基準値自体が低い値に設定されていますから、「○○倍」という言い方も若干問題かもしれません。)
放射線の人体への影響を考えるには、「いつ・どこで・どんなものが・どの期間」に検出されたのか、を確認することが大事です。
6.17.2011
國分功一郎
第3回
革命は一瞬の出来事(祝祭)のように語られてきた。ロマンチックである。革命の前にも、革命の渦中にも、革命の後にも、生活は続く。いまを犠牲にするものは、永遠の高みにある革命という大義(理想)の前に、常に犠牲を求められることになる。いまを捨てて、未来をとる。その転倒した発想と縁を切れるか。今回は、著者にとって格別の愛着の対象(ウイリアム・モリス)から語りおこされる。(編集部)
序章――「好きなこと」とは何か?(承前)
〈暇と退屈の倫理学〉の試みは決して孤独な試みではない。同じような問いを発した思想家はかつて存在した。時は一九世紀中頃。イギリスの社会主義者、ウイリアム・モリス[1834~1896]がその人だ。
モリスはイギリスに社会主義を導入した最初期の思想家の一人である。当時の社会主義者・共産主義者たちは、どうやって革命を起こそうかと考えていた。いまでは想像もできないかもしれないが、彼らにとって社会主義革命・共産主義革命はまったくもって現実的なことだった。そして実際に二〇世紀初頭にはロシアで革命が起こるのである。
6.13.2011
中川恵一
イラスト 寄藤文平
イラスト 寄藤文平
17. 38億年間、生物は放射線の中で生きてきました。
放射線が生命に影響を与える仕組みの鍵は、遺伝子=DNAです。DNAは、ヒモのような形をしていますが(二重らせん構造)、放射線は、このヒモを切断するのです。
紫外線で日焼けなどの皮膚障害が起こりますが、これは、皮膚表面の細胞のDNAに切断が起こるためです。紫外線は体の奥には達しませんが、放射線は、透過力が強いため、体の深部にある臓器の細胞のDNAにも切断を引き起こします。
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