7.29.2011

國分功一郎

第9回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
今度は別の哲学者の退屈論を取り上げよう。本章の冒頭で言及したスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』である。

この本は世界一五カ国で刊行された話題の本である(日本では邦訳が新書版で二〇〇五年に出版されたが、全く反響はなかった)。スヴェンセンはこの本を専門的にならないように、いわばカジュアルなものとして書いたと言っている。確かに彼の口調は軽い。だが、その内容はほとんど退屈論の百科事典のようなものだ。もし退屈についての参考文献表が欲しいと思えば、この本を読めばよい。参照している文献の量では、本書はスヴェンセンの本にはかなわない。

スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人びとの悩み事となったのはロマン主義のせいだ―これが彼の答えである。

ロマン主義とは一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してしまう。これが彼の答えだ*24
*24―Lars Fr. H. Svendsen, Petite philosophie de l’ennui, Fayard, 2003, p.83
スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
人生の充実を求めるとは、人生の意味を探すことである。スヴェンセンによれば、前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれたということだ。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 18:32

7.22.2011

國分功一郎

第8回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

人は楽しいことなど求めていない
退屈する人間は興奮できるものなら何でも求める。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていた通り、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かを求める。

それにしても、人は快楽など求めてはいないとは、驚くべき事実である。「快楽」という言葉がすこし堅いなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなど求めていない。彼が求めているのは自分を興奮させてくれる事件である。

これは言い換えれば、快楽や楽しさを求めることがいかに困難かということでもあるだろう。楽しいことを積極的に求めるというのは実は難しいことなのだ。

しかも、人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心から求めることができることこそが貴重なのだ。なぜなら退屈する人は楽しさや快楽など求めないからである。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 19:56

7.15.2011

國分功一郎

第7回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

ラッセルの『幸福論』
ここまで、パスカルの考察をもとにして議論を深めてきた。それによって、〈暇と退屈の倫理学〉の出発点を得られたように思う。

人間は部屋でじっとしていられない。だから熱中できる気晴らしをもとめる。熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみを求めることすらある。この認識は二十世紀が経験した恐ろしい政治体制にも通じるものであった。

今度は、この基本的な認識をもとにしてこの後どのように議論を進めていけばよいか、どんな問題に答えるべきか、そうしたことを考えたい。

そのために二人の哲学者に登場してもらおう。

一人目はバートランド・ラッセル[1872~1970]である。ラッセルは二〇世紀を代表するイギリスの大哲学者だ。『ライプニッツの哲学』や『哲学史』などの哲学史研究から、『数学原理』などの数理哲学まで、哲学の中の幅広い分野をカバーする仕事をした。

また、他方、反ベトナム戦争、反核運動などの平和運動でもよく知られており、ノーベル平和賞を受賞した大知識人でもある。人類が誇るべき偉大なる知性だ。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 20:43

7.13.2011

時評 第5回

ドクター・ショッピングと原発情報

大澤真幸

福島第一原子力発電所の事故以来、原発の安全性についても、放射線リスクについても、専門家のあいだで意見の一致が見られない。報道に接し、解説を読み、資料にあたっても、正解を得る手がかりさえも摑めないような気がしてくる。「正しい情報なんてあるのか」「どれも信用できない!」との思いにとらわれないだろうか。これを「リスク社会における仮説の発散」と見るとどうなるか。インフォームド・コンセント、倫理委員会、セカンド・オピニオンにも共通する、この危機にあって私たち全員を拘束する「条件」が浮上する。(編集部)


私は、5月に、ここ朝日出版社から『社会は絶えず夢を見ている』(以下『社会・夢』)を出した。これは、講義集で、収録した講義はすべて、3.11の出来事の前に行ったものだが、その内容が、3.11とふしぎなほどに共振しているので、自分でも驚いている。そのことは、このBlogでも読めるようになっている、『社会・夢』の「あとがき」にも記しておいた。『社会・夢』で提起した論点と原発事故(にともなう出来事)との関連について、もう少し論じておこう。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 15:17

7.08.2011

國分功一郎

第6回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

苦しみを求める人間
だいぶパスカルの議論につきあってきた。そろそろ話を別の方面へと広げていこう。

パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。熱中できなければ、自分をだますことができないから気晴らしにならない。

では、更にこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないか? お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕らえることのできる場所でウサギを狩っても、気晴らしの目的は達せられない。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 22:14

7.05.2011


中川恵一
イラスト 寄藤文平



25 発がんリスクの代表例――甲状腺がんの基礎知識。

チェルノブイリの原発事故では、白血病など、多くのがんが増えるのではないかと危惧(きぐ)されました。しかし、実際に増加が報告されたのは、「小児の甲状腺がん」だけでした。小児甲状腺がんが増加した最大の原因は、旧ソビエト政府が、当初、事故を認めず、初動が遅れた点です。この点、福島第一原発では、まずまず適切な対処がなされてきたと言えます。

放射性ヨウ素(I‐131)は、体に入るとその30%程度が甲状腺に取り込まれます。これは、甲状腺ホルモンを作るための材料がヨウ素で、甲状腺がヨウ素を必要としているからです。

普通のヨウ素も放射性ヨウ素も、人体にとってはまったく区別がつきません。物質の性質は、放射性であろうとなかろうと同じだからです。たとえて言えば「食べ物があったので食べてみたら、毒針がついていました」ということなのです。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 11:39

7.02.2011

國分功一郎
第5回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

もっともおろかな者
さて、いまわたしたちはパスカルの手を借りながら、人間のおろかさのようなものを取り上げて論じている。まるでそれが人ごとであるかのように。

先に〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉とを区別したけれども、これは実に便利な区別であるから、日常生活で応用したいと思う人もいるかもしれない。たぶん、「君は自分の〈欲望の原因〉と〈欲望の対象〉とを取り違えているな」と指摘できる場面は日常生活の中に数多く存在しているだろう。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 11:05

6.24.2011

國分功一郎
第4回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

原理というのは、すべての議論の出発点となる考えのことである。暇と退屈の原理論と題された本章では、暇と退屈を考えていくための出発点を追求しようと思う。

ではどこにそれを求めようか? どんなテーマについても、たいていそれを論じているひとがいる。そうした先駆者の考えを参考にできれば効率がいい。ここでもそのようなやり方をとることにしよう。

暇と退屈を考察した人物として本書が最初に取り上げたいのは、十七世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカル[1623~1662]の議論である。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 21:24

6.23.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
21. 「いつ・どこで・どんなものが・どの期間」に注目する。

福島第一原子力発電所の事故以来、ニュースでは、
――「浄水場の水から、乳児の摂取量の上限となる暫定基準値を上回る量の放射性ヨウ素が検出」
――「海水の放射性物質、基準上回る。ヨウ素131の濃度は、今月2日に基準値の750万倍」
といった表現をひんぱんに目にするようになりました。(ただし安全を見越して、基準値自体が低い値に設定されていますから、「○○倍」という言い方も若干問題かもしれません。)

放射線の人体への影響を考えるには、「いつ・どこで・どんなものが・どの期間」に検出されたのか、を確認することが大事です。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 13:55

6.17.2011

國分功一郎
第3回

革命は一瞬の出来事(祝祭)のように語られてきた。ロマンチックである。革命の前にも、革命の渦中にも、革命の後にも、生活は続く。いまを犠牲にするものは、永遠の高みにある革命という大義(理想)の前に、常に犠牲を求められることになる。いまを捨てて、未来をとる。その転倒した発想と縁を切れるか。今回は、著者にとって格別の愛着の対象(ウイリアム・モリス)から語りおこされる。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?(承前)

〈暇と退屈の倫理学〉の試みは決して孤独な試みではない。同じような問いを発した思想家はかつて存在した。時は一九世紀中頃。イギリスの社会主義者、ウイリアム・モリス[1834~1896]がその人だ。

モリスはイギリスに社会主義を導入した最初期の思想家の一人である。当時の社会主義者・共産主義者たちは、どうやって革命を起こそうかと考えていた。いまでは想像もできないかもしれないが、彼らにとって社会主義革命・共産主義革命はまったくもって現実的なことだった。そして実際に二〇世紀初頭にはロシアで革命が起こるのである。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 13:40

6.13.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
17. 38億年間、生物は放射線の中で生きてきました。

放射線が生命に影響を与える仕組みの鍵は、遺伝子=DNAです。DNAは、ヒモのような形をしていますが(二重らせん構造)、放射線は、このヒモを切断するのです。

紫外線で日焼けなどの皮膚障害が起こりますが、これは、皮膚表面の細胞のDNAに切断が起こるためです。紫外線は体の奥には達しませんが、放射線は、透過力が強いため、体の深部にある臓器の細胞のDNAにも切断を引き起こします。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 15:00

6.10.2011

時評 第4回

原発問題と四つの倫理学的例題

大澤真幸

原発事故の収束は見通しが立たず、事故による避難者数は約10万人と推計される。この三ヶ月の間に次々に明らかにされる事故対応の不備、齟齬、無策、隠蔽、糊塗。中部電力浜岡原発は停止に追い込まれ、圧倒的な不信感が日本を覆っているかに見える。ところが、脱原発派は多数ではない。先月、かろうじて「原発消極派は57%」と集計されたにとどまるのだ。青森県知事選でも、原発推進派の現職が三選を果たした。これだけの被害と不信を日ごと募らせても、なお原発と縁を切ろうとしないのはなぜか。経済効果では説明しがたい。そこにどんなメカニズムが働いているのか。(編集部)

昨年、NHK教育テレビの講義で注目を集めた、政治哲学者のマイケル・サンデルは、第一回目の講義で、倫理学者や哲学者の間ではよく知られている、次のような思考実験的な例題に言及している。今、あなたは電車の運転手である。しかも、不幸なことに、あなたの電車は、故障してブレーキが利かなくなっている。さらに不幸なことに、あなたの電車の前方の線路には、5人の作業員が仕事をしていて、あなたの電車が猛スピードで近づきつつあることにまったく気がつかない。このまま走り続けたら、あなたの電車は5人を轢き殺してしまうことになる。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 19:19
國分功一郎
第2回

少しは余裕ができた。明日の糧をどうやって手に入れるか、そのうんざりするような綱渡りから、やっと解放された。差し当たり雨露をしのぎ口にするものは手に入った。そればかりか、休日に何をするか、思い煩うことも増えた。そして時折り胸に兆すある痛覚。「何が楽しいのか分からない」……。問いがくっきり視界に捉えられる。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?(承前)

最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、二〇世紀半ば、一九五八年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、十九世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。*2
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 18:26

6.08.2011

中川恵一
イラスト 寄藤文平
13. 放射線をあびる「範囲」も大事です──局所被ばくと全身被ばく。

放射線をあびる「強さ・勢い」だけでなく、吸収する「範囲」によっても、放射線の人体への影響に、大きな違いが出てきます。

火にあたると、全身が温かくなります。これが行き過ぎると、全身火傷です。空中を飛んでいる放射線を全身にあびるのは、これと同じ状況です。これを「全身被ばく」と言います。
投稿者 asahipress_2hen 時刻: 18:10

6.05.2011

國分功一郎
第1回

パスカルは「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる」と言った。耳が痛い。じっとしていられないのはなぜか。なぜうろうろしてしまうのか。無聊をかこつからに違いない。無聊は「退屈なこと、心が楽しまないこと、気が晴れないこと」。「なんとなく退屈だ」と感じたことのない人はまずいない。空元気を出しても、斜に構えても、この気分から逃れる術はないように感じる。では、退屈を散じるために何があるか、手持ちの材料を点検してみるとまことに頼りないことがわかってくる。「我々の最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい…。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである」。これがハイデガーの言葉であると知って、いささか驚く人も多いだろう。退屈をめぐる哲学と倫理学が、ここに要請される。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?

人類の歴史の中にはさまざまな対立があり、それが数えきれぬほどの悲劇を生み出してきた。だとしても、人類が豊かさを目指して努力してきたこと、豊かさが人類の目標であったこと、それは事実として認めてよいものと思われる。

人々は社会の中にある不正と闘ってきた。なぜなら、社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。

しかし、ここでとても不可解な逆説が見出される。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると人が不幸になってしまうという逆説である。

投稿者 asahipress_2hen 時刻: 11:59
登録: 投稿 (Atom)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /