1976年の日本ハムファイターズ
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| 1976年の日本ハムファイターズ | |
|---|---|
| 成績 | |
|
パシフィック・リーグ5位 年間5位:52勝67敗11分 勝率.437 後期4位:26勝36敗3分 勝率.419 前期4位:26勝31敗8分 勝率.456[1] | |
| 本拠地 | |
| 都市 | 東京都 文京区 |
|
後楽園球場 | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 大社義規 |
| 経営母体 | 日本ハム |
| 監督 | 大沢啓二 |
« 1975 1977 » | |
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1976年の日本ハムファイターズ(1976ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1976年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、大沢啓二監督の1年目のシーズンである。
概要
[編集 ]| 年 | 最終成績 | リ 丨 グ |
試合 | 勝 | 敗 | 分 | 勝 率 |
総 得 点 |
総 失 点 |
打 率 |
本 塁 打 |
盗 塁 |
犠 打 |
四 死 球 |
O P S |
防 御 率 |
完 投 |
失 策 |
監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1976 | リーグ5位 | 5位 | 130 | 52 | 67 | 11 | .437 | . | . | 大沢啓二 | |||||||||
| 1975 | リーグ6位 | 6位 | 130 | 55 | 63 | 12 | .466 | . | . | 中西太 | |||||||||
| 1974 | リーグ6位 | 6位 | 130 | 49 | 75 | 6 | .395 | . | . | 中西太 | |||||||||
| 1973 | リーグ5位 | 5位 | 130 | 55 | 69 | 6 | .444 | . | . | 田宮謙次郎 | |||||||||
| 1972 | リーグ4位 | 4位 | 130 | 63 | 61 | 6 | .508 | . | . | 田宮謙次郎 | |||||||||
| 1971 | リーグ5位 | 5位 | 130 | 44 | 74 | 12 | .373 | . | . | 田宮謙次郎 | |||||||||
| 1970 | リーグ5位 | 5位 | 130 | 54 | 70 | 6 | .435 | 521 | 599 | .253 | 147 | 110 | 67 | 406 | .714 | 4.18 | 32 | 92 | 松木謙治郎 |
| 1969 | リーグ4位 | 4位 | 130 | 57 | 70 | 3 | .449 | 488 | .254 | 116 | 84 | 80 | 370 | .690 | 松木謙治郎 | ||||
| 1968 | リーグ6位 | 6位 | 135 | 51 | 79 | 5 | .392 | 472 | .248 | 118 | 61 | 83 | 382 | .670 | 大下弘 | ||||
| 1967 | リーグ3位 | 3位 | 134 | 65 | 65 | 4 | .500 | 510 | .260 | 97 | 95 | 90 | 415 | .697 | 水原茂 | ||||
| 1966 | リーグ3位 | 3位 | 136 | 70 | 60 | 6 | .538 | 386 | .233 | 81 | 48 | 76 | 369 | .624 | 水原茂 |
東映時代から数えて8年連続Bクラスからの脱却を図るべく、日本ハムの大社オーナーは1972年までロッテの監督だった大沢啓二を新監督に招聘。大沢新監督は、優勝を狙えるチームにするべく主力打者の張本勲を巨人へ放出し、新たに高橋一三と富田勝を獲得。また近鉄から永淵洋三と服部敏和を、阪神から後藤和昭と村上雅則をトレードで獲得するなど東映カラーを一掃した。それ以外では、新外国人のウォルター・ウィリアムスとボビー・ミッチェルが打線の中心となるなど、スタメンのほとんどが前年同様移籍組で占められるようになった。トレードなどで戦力を一新したチームだったが、成績には結びつかず前期は4位、後期は5位でそれぞれ終了した。前年3位だった太平洋の不振もあり、辛うじて最下位を免れたが、借金は再び2ケタに膨らんだ。投手陣は東映時代からのエース・高橋直樹や野村収、そして巨人から移籍の高橋一がローテを守ったものの防御率3.72で5位に終わり、打撃陣は両外国人に加えて前年首位打者を争った小田義人や内田順三、富田の活躍が目立っただけで後の打者が不振にあえいだ。4月29日の近鉄戦でルーキーの行澤久隆が走者を追い越してプロ入り初本塁打をフイにするハプニングもあった。
チーム成績
[編集 ]レギュラーシーズン
[編集 ]| 1 | 遊 | 服部敏和 |
|---|---|---|
| 2 | 左 | 内田順三 |
| 3 | 一 | 小田義人 |
| 4 | 中 | ウイリアムス |
| 5 | 指 | 永淵洋三 |
| 6 | 捕 | 加藤俊夫 |
| 7 | 右 | 岡持和彦 |
| 8 | 三 | 後藤和昭 |
| 9 | 二 | 中原全敏 |
| 投手 | 高橋直樹 | |
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
順位
球団
勝
敗
分
勝率
差
優勝
阪急ブレーブス
79
45
6
.637
--
2位
南海ホークス
71
56
3
.559
9.5
3位
ロッテオリオンズ
63
56
11
.529
13.5
4位
近鉄バファローズ
57
66
7
.463
21.5
5位
日本ハムファイターズ
52
67
11
.437
24.5
6位
太平洋クラブライオンズ
44
76
10
.367
33.0
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝[1]
オールスターゲーム1976
[編集 ]→詳細は「1976年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
| ファン投票 | 選出なし | |
|---|---|---|
| 監督推薦 | 野村収 | 小田義人 |
できごと
[編集 ]- 4月29日 - 近鉄バファローズ戦、行沢久隆がデビュー3打席目にして満塁本塁打を打つが、興奮の余り一塁走者を追い越してアウト。
- 6月17日 - 阪急ブレーブス戦で竹村一義が上垣内誠に死球を与えた事で大沢啓二監督が激怒、マウンドまで襲いかかって竹村を殴り付ける。またウォルター・ウィリアムスも乱闘中、阪急の中田昌宏コーチを殴り付ける。大沢監督とウィリアムスはその場で退場、後日「1週間出場停止」処分となる。
選手・スタッフ
[編集 ]日本ハムファイターズ 1976 | |
|---|---|
| 監督 |
|
| コーチ | |
| 二軍監督・コーチ | |
| 投手 | |
| 捕手 | |
| 内野手 | |
| 外野手 | |
表彰選手
[編集 ]| リーグ・リーダー[1] |
|---|
| 受賞者なし |
| ベストナイン |
|---|
| 選出なし |
| ダイヤモンドグラブ賞 |
| 選出なし |
ドラフト
[編集 ]→詳細は「1976年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
| 順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 1位 | 黒田真二 | 投手 | 崇徳高 | 拒否・日本鋼管福山入社 |
| 2位 | 藤沢公也 | 投手 | 日本鉱業佐賀関 | 拒否 |
| 3位 | 末次秀樹 | 捕手 | 柳川商業高 | 拒否・中央大学進学 |
| 4位 | 大宮龍男 | 捕手 | 駒澤大学 | 入団 |
| 5位 | 柿田登 | 外野手 | 宇部商業高 | 拒否・広島鉄道管理局入社 |
| 6位 | 下田充利 | 投手 | 東岡山工業高 | 入団 |
出典
[編集 ][脚注の使い方]
| セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 優勝 | 読売ジャイアンツ | 2位 | 阪神タイガース | 優勝 | 阪急ブレーブス | 2位 | 南海ホークス |
| 3位 | 広島東洋カープ | 4位 | 中日ドラゴンズ | 3位 | ロッテオリオンズ | 4位 | 近鉄バファローズ |
| 5位 | ヤクルトスワローズ | 6位 | 大洋ホエールズ | 5位 | 日本ハムファイターズ | 6位 | 太平洋クラブライオンズ |
| :日本一 :日本シリーズ出場 | |||||||
| 1940年代 | |
|---|---|
| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
| 1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 | |
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