鈴木一弘
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| 鈴木一弘 すずき かずひろ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1924年 11月1日 |
| 出生地 | 神奈川県 川崎市 |
| 没年月日 | (2003年07月08日) 2003年 7月8日(78歳没) |
| 死没地 | 千葉県 袖ケ浦市 |
| 出身校 | 横浜高等工業学校(現横浜国立大学工学部)機械工学科 |
| 所属政党 |
(無所属→) (公明政治連盟→) (公明党→) (公明→) 公明党 |
| 配偶者 | 和子 |
| 選挙区 | 全国区 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1962年 7月8日 - 1986年 7月7日 |
| 選挙区 | 川崎市選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1959年 4月23日 - 1962年 6月7日 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1955年4月 - 1959年3月 |
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鈴木 一弘(すずき かずひろ、1924年(大正13年)11月1日 - 2003年(平成15年)7月8日)は、日本の政治家。創価学会文化部長、川崎市議、神奈川県議を経て、1962年7月、参議院議員に当選し4期務める。
経歴
[編集 ]1924年11月1日に、静岡県で淳一郎うめ夫妻の長男として生まれる。
1944年、横浜高等工業学校(現横浜国立大学)機械工学科卒業。
1946年9月、日新工業に勤務。
1954年11月、創価学会男子部第1部隊長を兼務し、初代文化部長となる。
1955年4月、 川崎市議会 議員選挙に、無所属で立候補し、当選する。
1959年4月、神奈川県議会 議員選挙に、無所属で立候補し、当選する。
1962年 7月1日、第6回参議院議員通常選挙に、全国区から無所属で立候補し、初当選する。
1964年、創価学会副理事長に就く。公明党結成に参加し、公明党政策局長に就任する。
1967年2月、公明党政策局長を退任し、公明党参議院議員団長に就任する。
1985年、公明党副委員長に就任(同時に、渡部一郎も公明党副委員長に就任)する。
1986年7月、第14回参議院議員通常選挙に立候補せず、政界を引退する。
1990年2月、第39回衆議院議員総選挙後、公明党副委員長を退任する。
2003年7月8日、死去。享年78。
エピソード
[編集 ]- 池田大作著『人間革命』に登場する「鈴本実」のモデルとなる。1953年(昭和28年)、「水滸会」の席上、選抜された43名の会員の一人だった「鈴本実」は、戸田城聖に、理性と感情の制御、悟りについて質問した後、更に、戸田の本地は何か、と尋ねて、戸田の逆鱗に触れる。[1]
役職歴
[編集 ]- 創価学会
- 男子部第1部隊長
- 文化部長
- 副理事長
- 公明党
- 参議院国会対策委員長
- 中央執行委員
- 政策局長
- 政策審議会長
- 参議院議員団長
- 副書記長
- 副委員長
- アジア民族協会代表理事
著書
[編集 ]- 宗教と労働運動
参考文献
[編集 ]- 池田大作著『人間革命』全12巻
脚注
[編集 ]- ^ 池田大作著『人間革命』第7巻 235〜238頁
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 峯山昭範 |
日本の旗 参議院法務委員長 1980年 - 1983年 |
次代 大川清幸 |
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| 第1回 (定数100) |
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| †:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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