渡辺徹 (政治家)
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| 渡辺徹 わたなべ とおる | |
|---|---|
| 生年月日 | 1841年 9月15日 |
| 出生地 |
日本の旗 日本 越前国 南条郡 武生 (現・福井県 越前市) |
| 没年月日 | (1913年10月19日) 1913年 10月19日(72歳没) |
| 所属政党 | 近畿倶楽部 |
| 選挙区 | 兵庫県第2選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1892年 - 1892年12月1日 |
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渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年 9月15日(天保12年8月1日)[1] [注釈 1] - 1913年(大正2年)10月19日 [2] )は、幕末の勤王家、明治期の内務 官僚、政治家、実業家。茨城県 参事、御影 町長、衆議院議員。幼名・政吉、後左衛門、又衛[3] 。
経歴
[編集 ]越前国 南条郡 武生で、福井藩 越前府中領主本多家家臣・渡辺良右衛門の三男として生まれ、のち大坂の国学者・渡辺資政の養子となる。剣鎗銃砲の術を修めた。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、七卿落ちの際にも随行し、錦小路死去後に東久世通禧に仕えた[4] [5] 。
明治維新後、神奈川府巡察補に就任。以後、同巡察、神奈川県少参事、五條県 大参事、甲府県権大参事、租税寮七等出仕、秋田県参事などを歴任[2] 。
明治5年8月25日(1872年9月27日)茨城県参事に就任。県庁租税課に開産係を設置し農政を所管させ、水戸藩士族に開墾を、水戸の富商に会社設立などを勧め、また、水戸に種痘局を置いた。1873年2月22日に依願免本官となる。また同時に理由は不明であるが位記返上を命ぜられた。一年半を経て長崎県参事として復帰し、1877年1月に退官した[4] 。その後、兵庫県 武庫 郡長兼菟原郡長、飾東郡長兼飾西郡長、明石郡長、御影町長などを歴任[2] 。
さらに醸造業を起こし、灘酒家銀行頭取、全国酒造業者組合連合会長、神戸貯蓄銀行頭取、日本酒造火災保険 (株) 社長などを務めた[2] 。
1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第二区から出馬し当選したが、同年12月1日に議員を辞職した[2] [6] 。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
注釈
[編集 ]- ^ 『人事興信録 3版』(人事興信所、1911年)わ45頁では2月10日。
出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 森田美比『茨城県政と歴代知事 : 戦前45名の人物像』暁印書館、1991年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 「渡辺徹特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090167100