江口見登留
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江口 見登留(えぐち みとる、1905年 11月20日 - 1993年 6月13日)は、日本の官僚。海軍 司政官 [1] 。第62代警視総監。
来歴
[編集 ]実父が早くに亡くなったため、男児のなかった叔父・江口菅太郎の長男として養子となる[1] [2] 。大分県宇佐郡高並村出身。旅順中学校、三高、京都帝国大学法学部卒業後、内務省入省(兵庫県 警部補 [3] )。内務官僚を経て内閣官房副長官、警視総監等を歴任。正四位 勲一等瑞宝章。
防衛省・自衛隊の前身(草創期)に当たる警察予備隊で本部長官(認証官)に次ぐ本部次長を、その後わずか2週間ながら防衛研究所の前身に当たる保安研修所の初代所長を務めた。
略歴
[編集 ]- 内務大臣秘書官
- 1947年
- 1948年7月16日 労働次官(1949年6月1日に労働事務次官と改称)
- 1950年8月
- 1日 退官
- 14日 警察予備隊本部次長
- 1952年
- 8月
- 1日 保安研修所長
- 13日 内閣官房副長官(事務担当)
- 10月30日 内閣官房副長官(事務担当、再任)
- 8月
- 1953年5月21日 内閣官房副長官(事務担当、再任)
- 1954年
- 6月30日 退任
- 7月1日 警視総監
- 1957年1月11日 退任
- 1957年-1963年 近江絹糸(後のオーミケンシ)専務
- 1964年9月22日 原子燃料公社監事
- 1966年9月22日 原子燃料公社監事(再任)
- 1967年9月14日 動力炉・核燃料開発事業団監事
- 1968年7月30日 日本原子力研究所理事
- 1976年2月 財団法人 国民政治協会会長(1980年2月 退任)
- 1981年4月29日 勲一等瑞宝章
- 1993年6月13日 死去(叙・正四位)
家族
[編集 ]- 実父・江口倉吉 ‐ 大分県 宇佐郡 高並村・江口勘蔵の四男。早世。[2]
- 養父・江口菅太郎(1877-) ‐ 獣医・実業家。倉吉の弟(五男)。大分県立農学校獣医科卒業後、陸軍獣医を経て、1901年に台湾総督府に入るも日露戦争勃発で出征し大陸に渡る。戦後も満州に留まり、鉄嶺の知県衙門(役所)の嘱託獣医を経て、1907年に鉄嶺牧場を開き、1915年には開原牛馬種畜市場を開いて牛馬売買を始め、さらに満州柳行李製造株式会社を興して社長を務めたほか、日支合弁の大隆銀行の取締役、居留民会長、在郷軍人会長などを務めた。[4] [2]
- 妻・昭乃(1910-) ‐ 京都府 北桑田郡 山国村・今木清一郎(造林業、山国銀行頭取)の娘。京都府立第一高女出身。[2]
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
参考文献
[編集 ]- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1230025 。
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