コンテンツにスキップ
Wikipedia

ダグラス・フェアバンクス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"ダグラス・フェアバンクス" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2022年7月)
ダグラス・フェアバンクス
Douglas Fairbanks
Douglas Fairbanks
本名 Douglas Elton Thomas Ullman
生年月日 (1883年05月23日) 1883年 5月23日
没年月日 (1939年12月12日) 1939年 12月12日(56歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コロラド州 デンバー
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サンタモニカ
職業 俳優映画監督映画プロデューサー
活動期間 1915年 - 1935年
配偶者 アンナ・ベス・サリー(1907–1919)
メアリー・ピックフォード(1920–1936)
シルヴィア・アシュリー (英語版)(1936–1939)
著名な家族 ダグラス・フェアバンクス・ジュニア(息子)
主な作品
『バグダッドの盗賊』
『ドン・Q』
受賞
アカデミー賞
名誉賞
1939年
その他の賞
テンプレートを表示

ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks、出生時の本名はJulius Ullman1883年 5月23日 - 1939年 12月12日)は、アメリカ合衆国俳優脚本家映画監督映画プロデューサーである。息子のダグラス・フェアバンクスJr.も俳優。元妻に女優のメアリー・ピックフォードがいる。

息子と区別する為、ダグラス・フェアバンクス・シニア(Douglas Fairbanks Sr.)と表記する場合もある。

経歴

[編集 ]
フェアバンクスとメアリー・ピックフォード

1883年5月23日、コロラド州 デンバーに生まれた。父親のヒゼキヤ・チャールズ・ウルマンは、ペンシルベニア州ユダヤ人の家庭に生まれ、後に弁護士になった。

10代の頃からデンバーのアマチュア劇団の舞台に立つようになる。この間、コロラドの鉱山学校に通っていた。1900年代初めにニューヨークに移り、ウォール街でハードウェアストアの店員や証券会社の事務員として働いていた。ハーバード大学にも通っていたが中退し、ヨーロッパへ渡った。その後帰国し、演劇に興味を持ち始め、1902年にブロードウェイでデビュー。その後若手スター俳優として注目された。

1907年に裕福な実業家の娘と結婚し、1909年に息子のダグラス(後のダグラス・フェアバンクスJr.)が生まれる。

1915年にトライアングル・フィルム・コーポレーション傘下でD・W・グリフィスファイン・アーツ社と週給5000ドルで契約し、映画界に入る。同年公開の『快男子』(原題:The Lamb、監督:クリスティ・キャバンヌ、脚本:D・W・グリフィス)で映画デビュー。作品は大ヒットを記録した。翌1916年公開のグリフィス監督の名作『イントレランス』には「古代バビロン篇」に端役で出演した。

UA創立メンバー。左からD・W・グリフィスメアリー・ピックフォードチャールズ・チャップリンフェアバンクス(1919年)

ダグラスは一躍人気俳優となり、1916年に映画製作会社フェアバンクス・ピクチャーズを設立。1919年にはグリフィス、チャールズ・チャップリンメアリー・ピックフォードと共にユナイテッド・アーティスツ社を設立した。その後『奇傑ゾロ』や『ロビン・フッド』などの冒険活劇映画でヒーロー役を演じ、絶大な人気を得た。ほとんどの作品のアクションシーンをスタントなしで務めており、そのアクロバティックなアクションも人気だった。

1916年に女優のメアリー・ピックフォードとあるパーティで出会い、双方に配偶者がいたが交際するようになる。ダグラスは1919年に妻と離婚、翌1920年にピックフォードも離婚し、同年に2人は結婚した。2人は1936年に離婚しており、ダグラスはその後、イギリス出身の女優・モデル・ソーシャライトで、フェアバンクス亡き後にクラーク・ゲーブルらと結婚したシルヴィア・アシュリー (英語版)と再婚した。

1926年(大正15年)発行の書籍『何んでも世界一』に「最も収入の多いキネマスター」として掲載されている[1]

1929年の訪日時

1927年に映画芸術科学アカデミーの初代会長に就任し、名実共にアメリカ映画界のトップに君臨した。1929年には初来日している。1931年には映画監督として『八十日間世界一周』を原作とした『ダグラスの世界一周』(原題:Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks )をヴィクター・フレミングと共に監督[2] 、これの撮影のために再来日している[3]

なお、この頃ロサンゼルスオリンピック金メダリストの西竹一 男爵(バロン西)とヨーロッパへ向かう船内で親交があり、1932年にロサンゼルスで再会している。

ハリウッド・フォーエバー墓地に眠るフェアバンクスの墓

しかし、その後は人気も低迷し、1934年の『ドン・ファン』を最後に引退。以後は映画プロデューサーとして息子のフェアバンクスJr.主演の作品を製作していたが、1939年、カリフォルニア州 サンタモニカにて心臓発作で死去。その功績をたたえてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、息子のフェアバンクスJr.と共に名前が刻まれている。墓はハリウッド・フォーエバー墓地にある。

フェアバンクスは、1925年にフリーメイソンリーの会員になっている[4]

主な作品

[編集 ]
『奇傑ゾロ』(1920年)
『鉄仮面』(1929年)
  • 『快男子』 The Lamb(1915年)
  • 『ドーグラスの苦心』 His Picture in the Papers(1916年)
  • 『喜びの習慣』 The Habit of Happiness(1916年)
  • 『善良なる悪人』 The Good Bad Man (1916年)
  • 『ドーグラスの奮闘』 Reggie Mixes In(1916年)
  • 『跳ねる魚の謎』 The Mystery of the Leaping Fish (1916年)
  • 『ドーグラスの厭世』 Flirting with Fate(1916年)
  • 『火の森』 The Half-Breed(1916年)
  • イントレランスIntolerance(1916年)
  • 『ドーグラスの好奇』 Manhattan Madness(1916年)
  • 『ドーグラスの飛行』 American Aristocracy(1916年)
  • 『電話結婚』 The Matrimaniac(1916年)
  • 『出たり這入ったり』 In Again,Out Again(1917年)
  • 『ドーグラスの蛮勇』 Wild and Woolly(1917年)
  • 『ドーグラスの荒療治』 Down to Earth(1917年)
  • 『ドーグラスの月の世界』 Reaching for the Moon(1917年)
  • 『ドーグラスの現代銃士』 A Modern Musketeer(1917年)
  • 『南へ南へ』 Headin' South(1918年)
  • 『結びの神』 Mr. Fix-It(1918年)
  • 『おい!君!』 Say! Young Fellow(1918年)
  • 『ドグラスの跳ね廻り』 Bound in Morocco(1918年)
  • 『楽天生活』 He Comes Up Smiling(1918年)
  • 『アリゾナ』 Arizona(1918年)監督も
  • 『ニッカーボッカー』 The Knickerbocker Buckaroo(1919年)
  • 『ダグラス大王』 His Majesty,The American(1919年)
  • 『暗雲晴れて』 When the Clouds Roll by(1919年)脚本・製作も
  • 『臆病男』 The Mollycoddle(1920年)
  • 奇傑ゾロThe Mark of Zorro(1920年)脚本も
  • 『ナット』 The Nut(1921年)
  • 三銃士The Three Musketeers(1921年)
  • ロビン・フッドRobin Hood(1922年)
  • バグダッドの盗賊The Thief of Bagdad(1924年)
  • ドン・QDon Q Son of Zorro(1925年)
  • ベン・ハーBen Hur(1925年)戦車競走シーンの観衆エキストラ(ノンクレジット)
  • ダグラスの海賊The Black Pirate(1926年)
  • ガウチョThe Gaucho(1927年)
  • 鉄仮面The Iron Mask(1929年)
  • じゃじゃ馬馴らしThe Taming of the Shrew(1929年) - ウィリアム・シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の映画化、メアリー・ピックフォード共演
  • 『月世界征服』 Reaching for the Moon(1930年)製作も
  • ダグラスの世界一周Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks (1931年)製作・監督も[2] [3]
  • ロビンソン・クルーソーMr. Robinson Crusoe (1932年)脚本も
  • ドン・ファンThe Private Life of Don Juan(1934年)

ギャラリー

[編集 ]

脚注

[編集 ]

注釈

[編集 ]

出典

[編集 ]
  1. ^ 栗山茂武『趣味と常識 何んでも世界一』大宝社書店、1926年、135-136頁。NDLJP:981797/75
  2. ^ a b "Around the World with Douglas Fairbanks" (英語). IMDb . 2024年8月22日閲覧。
  3. ^ a b "ダグラスの世界一周". MOVIE WALKER PRESS . ムービーウォーカー. 2024年8月22日閲覧。
  4. ^ "The History of our Worshipful Lodge". Beverly Hills Masonic Center Lodge No. 528. 2013年10月21日閲覧。[リンク切れ ]

関連項目

[編集 ]

外部リンク

[編集 ]
ウィキメディア・コモンズには、ダグラス・フェアバンクス に関連するメディアがあります。
1928–1950
1951–1975
1976–2000
2001–現在
アカデミー賞授賞式の司会者
1929–1950
1951–1975
1976–2000
2001–現在

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /