2024年5月22日水曜日
特別展「大灯籠絵」を楽しむために その2 博多の夏祭りの風景といえば?
この秋、福岡市博物館では、特別展「大灯籠絵」を開催します。
展覧会の開催に向けて、「大灯籠絵」にまつわる話題をお届けします。
昭和10(1935)年に発行された『博多年中行事』という本があります。
福岡市とその周辺地域の祭りや行事を収録しています。編者は佐々木滋寛(1899~1976)さん。松源寺(博多区千代)の10代目住職で、福岡の郷土文化、とりわけ習俗や伝承を研究し、貴重な資料を収集していた人物です。
一月から順にさまざまな行事を簡潔に紹介した『博多年中行事』の内容は、博多の民俗研究には欠かせないものです。
試しに、7月・8月のあたりを開いてみると、個別の行事の解説に加え、「夏祭風景」という項目がありました。引用すると……
宵の博多の夏祭景趣をかざるものに大灯籠がある。之は路に交叉して路上に高く吊るされた大きい長方形の灯籠で、その両側には極彩色の武者絵が描かれてゐて、中に火を入れて之を見るのである。その最も代表的なものは八月二十四日の大浜の流灌頂のもので一得斎の大徳寺焼香の図などは傑作である。炎帝の暴威から解放された人々が浴衣がけで美しい大灯籠の絵を見てそゞろ歩くのも南国の夜にふさはしい風情である。……(後略)……
なんと、博多の夏祭りの風景として、一番にあげているのが「大灯籠」なのです!!
そして、滋寛さん絶賛の一得斎高清が描いた「大徳寺焼香之図」も、特別展「大灯籠絵」で展示予定です。縦290cm×横543cmというサイズのこの絵は、展覧会で展示する大灯籠絵のなかで最大です。お楽しみに!!
ちなみに、夏祭りの風景の2番目は「千灯明」、3番目は「造り物」。これらについては、またの機会に……。
ところで、『博多年中行事』は90年近くまえの本なので、出版当時の現物を手に取るのは難しいですが、『新修 福岡市史』民俗編一(平成24年発行)に全文が再録されています。
夏祭風景の記述は524頁にあります。
『新修 福岡市史』は、福岡市総合図書館など市内の図書館でも閲覧できますが、博物館1階のミュージアムショップなどで購入することもできます。
(by おーた)
2024年5月17日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈079〉まっすぐ過ぎる道路 ~百道に残る四角い街区のナゾ~
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回 (「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回 (「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回 (「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回 (「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回 (「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回 (「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」
第41回 (「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回 (「百道海水浴場はどこにある?」)
第45回 (「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」)
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)―」)
第60回 (「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回 (「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)―」)
第62回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉」)
第63回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉」)
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65回 (「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66回 (「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内 ―よかトピアの象のはなし ―」)
第67回 (「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン ―マリゾン(2)―」)
第68回 (「よかトピアはドームつくりがち」)
第69回 (「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70回 (「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)
第71回 (「百道松原を買った藤金作(その1)― 西新爆上がりの回 ―」)
第72回 (「百道松原を買った藤金作(その2)― 元寇防塁発見の回 ―」)
第73回 (「サザエさん通りの生い立ち ―「プレ・サザエさん通り」と波瀾万丈の元寇防塁 ―」)
第74回 (「最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス」)
第75回 (「百道に計画されていた幻の国際飛行場」)
第76回 (「ガワラッパのネッキ、ミズチと戦う ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その1)―」)
第77回 (「ドラえもんが水のことを教えてくれた日 ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)―」)
第78回 (「修養の殿堂、百道に建つ ~射撃場跡地にできた社会教育会館~」)
〈079〉まっすぐ過ぎる道路 ~百道に残る四角い街区のナゾ~
早良区役所がある藤崎交差点から、シーサイドももち地区がある北側(海側)方面に向かって歩いていくと、百道小学校を過ぎたところで左右に延びる異様にまっすぐな脇道が現れます。
その長さは約840mほど。
地図で見ると、まるで百道エリアと西新エリアにある学校をつないでいるようにも見えます。
実際にこのまっすぐな道を端から端まで歩いてみました。
まずはスタート地点から先ほどの百道小学校の角まで。
大通りを渡って(すぐ近くに信号があります)、さらに東へと進んでみます。
どちらも車がギリギリすれ違えるくらいの、それほど大きな道ではありませんが、本当にまっすぐ東西に延びていました。
この道は、別に百道小学校と西新小学校をつなぐためにつくられた道というわけではなくて、前回のブログでも少しだけ触れましたが、明治時代にあった陸軍(第十二師団)の射撃場の名残りなのだそうです。
いまの風景からは想像もつきませんが、かつてここには軍事施設があったんですね。
資料からたどる西新町の射撃場
近現代(1860年代から1945年前後)の歴史資料をインターネット上で公開しているアジア歴史資料センター(https://www.jacar.go.jp/)では、この西新町の射撃場に関する資料をいくつか見つけることができます。
今回はこれらの資料を基に、西新町に射撃場がやって来て、そして去って行くまでの経緯を追ってみたいと思います。
なお、今回紹介するアジア歴史資料センターの資料は、インターネットでどなたでもご覧になれる資料です(マイクロフィルムに撮影されたものです)。
詳しくは一番最後にまとめていますので、ご興味のある方はぜひ実際にご覧になってみてください。
射撃場をつくりたい〈明治10年〉
陸軍の射撃場は、明治10(1877)年から大正5(1916)年に移転するまで、百道松原の中にありました。
そのころの百道松原にはまだ何もなく、百道海水浴場(大正7〈1918〉年~)はおろか、福岡監獄(大正5〈1916〉年~)すらなかった時代です。
まわりは本当に松原と海だけ。そして松原は広大で、住宅地や大きな道路からある程度の距離が取れますから、百道松原は射撃場としては絶好の立地だったのでしょう。
陸軍が射撃場の場所に百道松原を選んだのには、他にも理由があったようです。
それは江戸時代にさかのぼります。
かつて西新町の北西の浜辺は「後浜」とよばれており、そこには福岡藩の砲術訓練所、「石火矢稽古所」というものがあったのだそうです(「石火矢」とは大砲の一種のこと)。
そのため、明治になって陸軍はこれを射撃場(歩兵射的場)にすることを考えたんですね。
この「後浜」の「石火矢稽古所」は、九州大学附属図書館が所蔵する「福岡城下町・博多・近隣古図」という絵図資料に見ることができます。
さて、こうして西新町に射撃場をつくることにした陸軍は、さっそくこの土地を所管していた内務省に土地の取得を働きかけました。これが明治10(1877)年2月のことです。
内務省はこの申し出を了承し、6月には県の担当者立会いのもと、敷地は無事に内務省から陸軍へと引き渡されました。
このときの資料*① には陸軍が作成した簡単な図面が含まれていて、これを見ると当時の射撃場の範囲がかなり正確に分かります。
それをトレースして作図したものがコチラです。
黒線で囲った灰色の部分が、このとき新たにつくろうとしていた射撃場の敷地です。
南北に50間(約91m)、東西に550間(約1km)。その面積は「27500坪」と書かれています。
そしてその一部、左隅に描かれた斜線の一画が、福岡藩の練兵場だった場所です。図面にはその面積が「5160坪」と書かれていました。
これを現在の地図に重ねると、こんな感じです。
先ほどの図面の、黒い線(と斜線部分)をそのままの縦横比で重ねたものです。
このうち、現在の道と重なる部分がコチラ。赤い点線が現在の道路とかつての射撃場の外枠が重なる部分です。
このままだとちょっと分かりづらいので、かつての射撃場の枠を外してみます。
こうして見ると、かなりの部分が現在の道と重なっているのが分かりますね!
そしてこの資料からは、江戸時代の練兵場の場所もほぼ正確に分かります。
百道小学校のすぐ北側、現在の百道3丁目の辺りです。先ほど通った百道小学校の横ですね。
図面のようにキレイに区画されていたわけではないとは思いますが、江戸時代にはこの辺りを大砲の稽古場所として使っていたようです。
射撃場を拡大したい〈明治35年〉
射撃場が完成して約四半世紀経ったころ、陸軍は射撃場を少しだけ拡張しています。
拡張した場所は後年の資料*⑧ から、おおよそ赤枠の辺りと考えられます。その広さは600坪と書かれていました。
敷地を拡張した理由は、射撃場の射垜(的を設置した部分)の地質が脆い土砂でできているので、大雨の時には崩れて周辺に土が流れ出してしまうから、と書かれていました。単に敷地拡張というよりも、設備補強のためだったのかもしれません。
これらの記述を見ると、どうやら射撃場の的は西側に設置されていたようですね。
東(西新小学校側)から西(室見川側)に向かって射撃を行ったということになります。これならば室見川や海に向かって撃つことになるので、比較的安全だったということでしょうか。
たしかに逆だといくら民家や建物はないといっても危ないですよね。
当時、この土地を所管していたのは内務省ではなく農商務省でしたので、師団はさっそく農商務省に土地の取得を申し入れ、明治35年6月には土地の組替えも完了。
この時点で射撃場の形がほぼ最終形になったようです。
近隣にはこの少し前に中学修猷館(現在の県立修猷館高等学校)が大名町から移転してきており(明治33〈1900〉年)、西新町が徐々に変化しつつあったころでした。
射撃場移転に向け奔走する西新町〈明治44~45年〉
射撃場の敷地を拡張してからさらに10年が経ちました。すでに西新町に射撃場ができてから35年ほどが経過しています。
このころの西新町周辺は、中学修猷館に加えて県道福岡唐津線(現在の明治通り)が拡幅整備され(明治42〈1909〉年)、そこに軌道(路面電車)が開通し(明治43〈1910〉年)、だんだんと人の往来が増え、賑わい始めていた時期でした。
こうした動きを捉え、西新町では町の発展のためにも射撃場の土地を町有財産として譲り受けられないか?と考えていたようです。
実際に町長名で射撃場を所管していた十二師団に対し「提言書」を提出しています。
この提言書には次のようなことが書かれていました。
1,西新町は射撃場の土地を町の共有財産として譲り受けたい
2,射撃場の価格は現状を鑑み4万8千円と算定する
3,現在の射撃場に代わる新施設と交換することとする
4,新射撃場は、師団経理部指定の土地を買収し、必要工事等についてもすべて経理部の仕様に従いその監督の下で完成させる
5,射撃場の土地買収ほか一切の経費は第2項を超えないようにする
6,本提言書が採用されたあかつきには直ちに着手し、速やかに完成させる
つまり、西新町が4万8千円の予算内で新しい土地を買ってそこに新しく射撃場をつくるので、代わりに百道の土地は西新町にください! というのです。
これについて西新町としてはかなり強く師団に要望し、何度も認可の催促をしたようでした。
この提案を受けた師団サイドはというと、それほど悪い反応ではなかったようなのです。
それは、次のような理由からでした。
1,現在の射撃場は海岸に近いので風による障害が大きい
2,射撃場の的の後方には愛宕山があり、愛宕神社には常に登山客・参拝客が多いので危険
3,最近では周辺に小学校や民家が建ち、危険性も増している
4,福岡市においては最近この方面(西の方)に発展しつつあり、付近の人口も増える傾向にある
ほかにも「西新町射撃場改修のための調査中に射撃場裏の小学校校庭に弾が飛んで生徒の下駄を傷つける事件が発生して新聞などでも問題になっている。これまでも危険な事はあったし、これらを完全に回避するのは難しいから、いっそ改修ではなく、別の場所に移転させた方がいいのでは?」ということが書かれており、移転要望に対して積極的な態度だったようなのです。
そして最終的に師団の担当者が考えた土地交換の方法は次のようなものでした。
1,西新町に命じて福岡付近(鴻巣山)に射撃場の敷地を提供させ、これに新しい射撃場を完全につくらせる(図面もできている)
なお、この移転地は師団が踏査選定した場所であり、新設費用は土地代も含めて4万8千円を予算とする
2,前項の予算に過不足がある際には、予定射撃場の東部分を伸縮するものとする
これはかなり西新町の要望を組み込んだ案といえます。
ちなみにこの案が検討されたのはまだ陸軍内部の話で、上記の案も担当者から陸軍大臣へ提出されたものでした。
その中には、さらに踏み込んで次のようなことも書かれています。
・この計画については政党員や投機者が種々の計画をめぐらせ地元民を誘惑するなどし、その間に利を独占しようと企てる者がいるようだ
・西新町においては町会にかけ町債を起こしてその資金を確保し、さらに監督官庁の許可手続きを履行する必要があるものである
・今の(西新町側の)意気込みがあるこの機会を逸せず一気に話を進めることが有利となるため、どうか至急認可していただきたい
・本件については師団長も強く希望している次第である
師団内部、少なくとも担当者レベルでは、射撃場の移転に関してかなり前向きであったことが分かります。
西新町の涙ぐましい金策
町会で検討された予算案は、このようなものでした。
・現在町が所有する原野1万6600坪を1万3280円で売却する
・銀行等から2万4500円を借り入れる
・不足する場合は西新町の戸別割りか基本財産金をかき集める
しかし、結局町会はこれを否決とします。
その理由は「現在の経済状況を考えると銀行から借りるのも難しいだろうし、町有原野を売るにしても買い手が簡単に見つかるか分からないし、また負担を戸数割りにするのも1戸平均2円の負担というのでは、これはちょっと厳しいのでは?」というもの。
た、たしかに…。
結局、西新町が出した結論は「師団にお願いして4万8千円から減額してもらおう」という、なんとも消極的なものでした。
大丈夫か、西新町…?
やや不安も残るのですが、西新町長はこの町会での決定を持って、県の内務部長、早良郡長とともに師団経理部へ赴き、交渉を行いました。
西新町「実は提言書を提出した時からいろいろ状況も変わって…。あのときは長崎県道が開通するということから電気軌道等の会社も土地売却に熱中していたので、この辺の土地も高騰して4万8千円で売れると思ったんだけど、会社の組織も変わったようで、あと経済界も変動して土地売買熱は冷めちゃってて…。それに資金を出してくれるって言ってた投資家が亡くなって事業がうまくいかなくなったりして…。なので提言書にある条件ではちょっと難しいかも…。2万8千円ならなんとか…それも難しいけど…(チラッ)」
師団「2万8千円ならば、っていうけどそれも怪しくない?」
県「計算上は、町の基本財産7千円+町債発行1万円+町有地売却益1万1千円=合計2万8千円というものだけど、現在の経済状況を考えると土地売却の引受人も定かじゃないし、そもそも基本財産と町債もその筋の許可が必要になるので、まあ実際のところ難しいでしょうね」
師団「たしかに経済界など諸々の状況はその通りだろう。情状酌量すべき点は認めるし仕方ないとは思うけど、あれだけ何度も町長と郡長で許可の督促までしておいて、今になって「できません」っていうのはちょっとね~。まあ仕方ないとは思うけど…」
…おおよそそんなやりとりが行われた結果(意訳です)、最終的に師団が出した結論はNO。
「状況から考えてこの時点での移転は難しい」というものでした。
不安的中。西新町、残念…。
西新の将来のために ~濱名寛祐による提言~
・現在の射撃場を完全に修繕して周囲に危害を及ぼさないようにすることが必要だが、これは地形条件等を考えると実現は難しい
・また住民の安心できるような形に修繕するには費用が膨大になるので、いっそ適当な場所に新設する方が将来のためになる
・移設費用については国庫から出すことになるが、そのために現在の射撃場を売却して国庫収入とすればよい
・たとえば西新町にいくらか出させてこれに国費を加えて射撃場を新設、現在の射撃場は西新町の所有にしてあげるのもいいが、結局先の二案と比較すると国庫的には不利
・いずれにしても移設させず現在の射撃場修繕だけでは軍隊の射撃に困難を来す
・すでに住民に射撃場の危険性が物議を醸しているのでこれが再燃する恐れがある
・現に射撃場後方の愛宕山や姪浜の住民は射撃場を移転させると聞き及んでいるようなので、これが移転しないとなったらまた再炎上する状況が予測される
普通はなかなかここまで言えないと思いますが、かなり踏み込んだ意見ですよね。
結局この時は移転は実現しませんでしたが、この時に作成された鴻巣山の射撃場案は、この数年後に実現することになります。
射撃場移転後の土地処分〈大正6~10年〉
大正5(1916)年10月、新しい射撃場がついに完成します。
その場所は、かつては一度計画された鴻巣山です。
詳しい建設費用などはこの資料からは分かりませんでしたが、どうやら国庫でまかなったため、西新町の手出しはなかったようです。
まあその分、残された百道の跡地は当然西新町の町有財産とはならず、官有地のままとなったわけですが…。
射撃場が移転した後、射撃場跡地は売却のため一度内務省に還付されています(うち後で追加した600坪は元の持ち主である農商務省に還付)。
最終的に射撃場跡地は、主に次のようは形で処分されました。
・総面積2万9130坪のうち600坪は農商務省へ還付のため6月8日福岡小林区署へ引き渡し(うち75坪3合は通路のため除く)→ 合計:2万8454坪7合を処分
・残り2万8530坪(国有林600坪除く)の坪単価は6円とし、その売却総額17万1180円は歳入財源とするため、土地は内務省へ還付する
・石垣、樹木(257本)、的及び看的所(1ヶ所)は、 内務省へ還付のため9月8日に福岡署へ引き渡し
・的などの地上にあるものはそのままでよい
これが大正10(1921)年のことです。
この時点で「的などはそのままでよい」ということですから、大正5(1916)年に新しい射撃場ができて百道からなくなっても、射撃場自体はしばらくは手つかずのままで残っていたのでしょう。
ところで、この時売却を見越して陸軍が試算した土地の単価は1坪6円。
同時期、西南学院が藤金作から百道の土地を坪9円強ほどで買っていますので、試算としてはやや低めに設定されていたようですね(一般的に公的な試算の方が低いのは今も昔も変わらないようで…)。
その後、この一帯の多くは官有地として国以外にも市や県が所有したことで、敷地内や周辺には前回紹介した県立社会教育会館や県営住宅、県の職員住宅、そして市立の小学校などが集まった場所になった、というわけでした。
まっすぐな道の両端に小学校があるのも、たまたまといえばたまたま、必然といえば必然だったということですね。
#シーサイドももち #西新町の歴史 #陸軍射撃場 #福岡藩練兵場 #アジア歴史資料センター #まっすぐな道 #射撃場跡を往復すると結構な運動量 #熱中症にはご注意を!
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
2024年5月16日木曜日
特別展「大灯籠絵」を楽しむために その1「大灯籠絵」とは?
この秋、福岡市博物館では、特別展「大灯籠絵(おおとうろうえ)」を開催します。
展覧会の開催に向けて、「大灯籠絵」にまつわる話題をお届けします。
ところで、まずは「大灯籠絵」って、何でしょう?
恥ずかしながら、博物館の職員ではありますが、わたしも良く分かりません。
博物館2階の常設展示室に、実物大の模型があることを思い出し、改めて、常設展示室に行ってみました。
常設展示室を順路にしたがってまわっていくと、山笠コーナーの手前に、さまざまなお盆の行事を紹介しているコーナーがあります。
そこで顔をあげると、「天下分目(てんかわけめ) 関ヶ原合戦(せきがはらかっせん)」の武者絵が目に飛び込みます。
※いずれも、天候など諸般の事情で、行事が中止になったり、大灯籠が飾られない場合もあります
※今年は特別展「大灯籠絵」に万全のコンディションで出品するために大灯籠は飾らない予定だそうです
2024年5月12日日曜日
【別冊シーサイドももち】〈078〉修養の殿堂、百道に建つ ~射撃場跡地にできた社会教育会館~
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回 (「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回 (「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回 (「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回 (「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回 (「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回 (「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」
第41回 (「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回 (「百道海水浴場はどこにある?」)
第45回 (「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」)
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)―」)
第60回 (「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回 (「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)―」)
第62回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉」)
第63回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉」)
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65回 (「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66回 (「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内 ―よかトピアの象のはなし ―」)
第67回 (「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン ―マリゾン(2)―」)
第68回 (「よかトピアはドームつくりがち」)
第69回 (「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70回 (「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)
第71回 (「百道松原を買った藤金作(その1)― 西新爆上がりの回 ―」)
第72回 (「百道松原を買った藤金作(その2)― 元寇防塁発見の回 ―」)
第73回 (「サザエさん通りの生い立ち ―「プレ・サザエさん通り」と波瀾万丈の元寇防塁 ―」)
第74回 (「最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス」)
第75回 (「百道に計画されていた幻の国際飛行場」)
第76回 (「ガワラッパのネッキ、ミズチと戦う ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その1)―」)
第77回 (「ドラえもんが水のことを教えてくれた日 ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)―」)
〈078〉修養の殿堂、百道に建つ ~射撃場跡地にできた社会教育会館~
シーサイドももちの歴史を振り返る手がかりとして、どうしても話の中心になるのは百道海水浴場です。
大正7(1918)年に開場した百道海水浴場は、それから昭和50(1975)年に事実上の閉鎖となるまで、多くの人で賑わいました。
百道海水浴場は、シーサイドももち地区ができる以前の百道地区を代表する場所ではありましたが、それはこのエリアのほんの一部。面積的にはかなり限られた場所での出来事でした。
では、それ以外の地区には一体何があったのでしょうか…?
というわけで、今回はもっと西側のエリアに目を向けてみたいと思います。
* * * * * * *
大正~昭和初期の百道松原開発
百道海水浴場ができた大正時代~昭和初期、路面電車が走っていた道(現在の明治通り)から北側にはまだまだ松が生い茂り、開発もほとんどされていない状態でした。
海水浴場が開かれる少し前には福岡監獄ができましたが(大正5〈1916〉年)、周辺の松林や近隣にあった墓地の影響もあり、東側とはうってかわって鬱蒼として薄暗く、何となく近寄りがたいような場所だったようです。
福岡監獄については、以前も何度かご紹介してきました。
西新町の人々は、そんな広大な〝空き地〟である百道の松原にさまざまなものを誘致しようと奮闘しますが、残念ながらいずれも実現はしませんでした…。
西側にあった射撃場のその後の活用
大正時代~昭和初期のこの一帯は、私有地ももちろんありましたが、そのほとんどが国有地か県有地。
なぜならその理由は、この場所にかつて軍の射撃演習場があったから。
この射撃演習場は、明治から大正にかけて百道に存在したのですが、大正5(1916)年には鴻巣山に新しい射撃場ができたため移転、その後大正10(1921)年頃には設備を撤収し、また〝空き地〟に戻っていました。
元射撃場は軍用地だったので、一部は国から県や市へと所有権が変わっていても、そのほとんどは官有地のままだったんですね。
一例としては、昭和2(1927)年には射撃場跡地の一部に西新小学校が新築・移転しています。
さて、この残された県有地をどうするか?となった時、県はそこに地方の青少会や処女会のための教育の場として、社会教育会館を建てることを考えました。
社会教育会館は昭和末期までこの場所にあったので、もしかしたらご記憶の方もおられるかもしれません。
ここでちょっとお詫び…。
本来は「社会教育会館」なのですが、「教育会館」となっていて、これは誤りですので、この場を借りてお詫びして訂正いたします…。
※ 書籍『シーサイドももち』の正誤表はコチラ をクリックするとご覧いただけます。
さて、この場所に社会教育会館があったことは、昭和初期の地図を見ても分かります。
このように地図にもちゃんと載っている社会教育会館なのですが、その実態はいまいちよく分からず…。
ですが「宿泊もできるような研修施設」ということなので、漠然と堅牢な学校のような、あるいは宿泊施設のような建物があったんだろうなーと想像していました。
そんなある日、昭和初期の新聞記事を調べていると、衝撃の写真が目に飛び込んできました。
それがコチラ。
ええええーーーーΣ(゚Д゚)!!!!
超和風ーーーーー!!!
まるで神社かお寺の本堂のような立派な和風建築…。
まさかこのような建物だったとは想像もしなかったので、とても驚きました。
ちなみに現在の県立社会教育総合センターは篠栗町にあるのですが、そちらの全体図はこんな感じです。
百道に建てられた社会教育会館は昭和一桁のころの話ですから、さすがにここまでハイカラでないことはわたしでも分かりますが、それにしても想像以上の和風建築。
ちょっと衝撃でした。
現在の社会教育総合センターについてはコチラをご覧ください。
そして先日ついに、この社会教育会館の様子が分かる資料を見つけました。
開館記念につくられた絵はがきです。
ご覧のとおり、絵はがきの表紙(袋)には堂々と「修養の殿堂」という文字が。
たしかにその名に恥じぬ立派な、というか立派すぎる建物です。
社会教育会館建設へ
調べてみたところ、この社会教育会館の建設については、昭和2(1927)年の県議会で実際に議論されていました。
その内容をちょっと引用してみます。
(『詳説福岡県議会史』古川静夫参与員の回答より)
なるほど、青少年に対する社会教育の重要性と、それを実施する場所の必要性がよく分かりますし、その切実さも伝わってきます。
また、「これまではやむを得ずお寺などを利用していた」ということから考えると、なんとなくこういった本堂のような建物になるのも分かるような分からないような…。
このような議論を経て、社会教育会館建設は了承されました。
古川参与員が訴えた設置目的については、最終的には次のようにまとめられています。
(『詳説福岡県議会史』より)
ここでも「殿堂」という言葉が使われています。
建設にかかった費用は、計画が議決された昭和2(1927)年の時点で4万9928円、さらに翌年には補助金として1万円の予算が認められています。
そのうち、講堂部分は新築として約2万円の予算を使い建てられました。
数奇な運命をたどった宿舎棟
さらにこちらの社会教育会館には、大人数での講演や研修の場である講堂と別に、食事や宿泊、あるいは少人数での研修にも使える講義室を備えた宿舎棟がつくられました。
平面図の左側に描かれているのがそれです。
ちなみにこれは2棟あるわけではなくて、講堂と廊下でつながった1棟があり、そこが2階建てになっている構造です。
『県議会史』に書かれた建築の内訳を見ると、講堂は新築として建てられましたが、この寄宿棟はちょっと違っていて、別の場所で使われていた建物を移築してきたものだったようなのです。
それはなんと、西新町の中学修猷館にあった寄宿舎「報国寮」!
中学修猷館は、明治33(1900)年に大名町堀端(現在の中央区赤坂)から西新町に移転して来たのですが、その2年後の明治35(1902)年に寄宿舎が完成しました。
『修猷館二百年史』によれば、この寄宿舎(のちに「報国館」と命名)は「大名町から西新町に移転して二十五年、歴代の名舎監(※寄宿舎を監督する人)を擁し、独自の舎風を築き上げた寄宿舎」だったといいますが、大正11(1922)年ごろから「中学の増設と通学区域の縮小、交通事情の好転」などを理由に、県は廃止の方針を出していたそうです。
結局、大正15(1926)年の3月末をもって廃止されてしまったのですが、この思い出の寄宿舎はその後解体され、県の社会教育会館の宿舎として生まれ変わり、第二の人生を歩み始めたのでした。
ちょっと感動的…!
…ところが、です。
一度は命拾い(?)した修猷館の寄宿舎でしたが、それからわずか1年後、昭和5(1930)年に思わぬ試練が待っていました。
この年の7月18日、九州を大型台風が襲いました(イヤな予感…)。
この台風によって九州・山口の各地では列車は脱線、建物の倒壊、街路樹は倒れ、桟橋は真っ二つ…と、大きな被害を受けたそうです。
そしてそれは百道も例外ではなく、やはりこの未曾有の暴風雨に襲われて、なんと社会教育会館の寄宿舎は完全に倒壊してしまったというのです…嗚呼、なんということでしょう…。
これを報じた新聞記事にはその様子が次のように書かれていました。
これはヒドイ…というか記事のタイトルからしてヒドイ…。
本館も銅板葺きの屋根が飛ばされるなどの被害を受けたものの、寄宿舎の惨憺たる有様にくらべれば…。
その後、どのように修築されたかは分かりませんでしたが、昭和14(1939)年の空中写真を見ると建物は残っているので、会館自体は存在していたと思われます。
しかし、昭和20(1945)年6月の福岡大空襲によって全焼したのだそうです。
戦後に復活した社会教育会館
戦災からしばらく経った昭和28(1953)年、社会教育会館は同じ場所に再建され、1月28日に落成式を迎えました。
落成式では知事をはじめ関係者約100名あまりが参加し、華々しい再スタートを切ったということです。
この建設には前年の昭和27(1952)年1月に発行された「教育施設宝くじ」の収益金が充てられました。
建設費は500万円。かつての純和風建築とはうってかわって、木造二階建て、モルタル赤瓦の近代建築として生まれ変わりました。
それから昭和59(1984)年に現在の社会教育総合センター(篠栗町)ができるまでの約30年間、この場所は引き続き「社会教育の殿堂」としてさまざまな人々に利用されたということです。
めでたし、めでたし。
現在のその場所は?
かつては海のすぐそばに建っていた社会教育会館ですが、その後はご存知のとおり北側が埋め立てられ、その場所は完全に内陸地となりました。
社会教育会館が移転したあとは県有地ではなくなっており、現在では大きなマンションが建っています。
これではかつての姿は想像もできません(当たり前ですが…)。
ところで、初代の和風建築の全景写真と同じ角度で写真が撮れないかなと思ったのですが、平面図などには方位が書かれておらず、元々がどの向きに建てられたのか分からず…。
絵葉書の全体像を見ると手前に松があり、また建物と建物の間にも松?が見えます。
しかしこれだけではあまりヒントにはならず…。
利便性から考えると、手前の正門が西新町の中心部に近い方がいいような気がするのですが、結局断定はできませんでした。
ただ一つ気になったのは、写真の手前側が少し下っているように見えますよね。
かつて会館があった周辺を見てみると、南側の一部が同じようにちょっとだけ下っているところがありました。
これだけではなんとも言えませんが、今のところの結論としては、このような構図だったのかなーと思っています。
* * * * * * *
今回は、射撃場がなくなった後につくられた県の社会教育会館について調べてみました。
調べて見ると建物自体にも思わぬドラマがあって、意外なつながりを見つけることができました。
…さて、これまでも当たり前のように登場していましたが、百道の西側にあったという「射撃場」。
これは一体どのようなものだったのでしょう…?
次回はこの射撃場自体にスポットを当ててみたいと思います。
#シーサイドももち #西新町の歴史 #社会教育会館 #修猷館 #意外な来歴
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]