2023年7月7日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈044〉百道海水浴場はどこにある?
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈044〉百道海水浴場はどこにある?
梅雨明けが待ち遠しい今日この頃、むしむしとした日がつづいていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。梅雨末期の大雨により被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
さて、このようにまだまだ天候も不安定な7月7日ですが、皆さんはこの日が何の日かご存知でしょうか?(七夕とドリカムの日以外でお願いします)
そう、大正7(1918)年7月7日は、西新町の北の浜辺で「百道海水浴場」開場の水神式(神事)が行われた日ですね!
やったー!
実際に海水浴場が開場したのは17日。これは天候不良で本来開場予定だった14日が延期されたからだそうです。
このブログでも幾度となくご紹介してきましたが、百道海水浴場は福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)が最初に開いた海水浴場です。
※ 福岡日日新聞社はその後昭和になるまで福岡県内はもとより、九州・山口、さらには戦前の朝鮮、台湾にいたるまで、各地に数多くの海水浴場を開きました。
このところの本ブログが毎回海水浴場の話でもうウンザリ!という方も多いと存じますが、今週は記念すべき開場日! ということで、今回も海水浴場のお話です。大変恐縮ですが、どうぞお付き合いいただけますと幸いです。
百道にあった都会の海水浴場
さて、「その昔、百道に海水浴場があったらしい」という話は、何となーくご存知の方も多いと思います。
ではその百道海水浴場は、具体的にはどこにあって、どれくらいの規模だったかご存知でしょうか?
福岡市史編集委員会所蔵)
現在あるシーサイドももちの浜辺は、埋め立て後に作られた人工の砂浜です。弓なりの浜辺、白い砂浜、長く連なる松林と、マリゾンを中心にステキなロケーションが広がっています。
海水浴場ではないので、原則泳ぐのは×。
(ただし、東側の一部は時期によって
百道浜が樋井川から室見川まで長い砂浜が続くイメージが強いので、「海水浴場」と聞くとこれと同じくらいの大きさを想像してしまいがちです。もちろん現在の人工海浜は、かつてあった百道の海辺を念頭に作られたものであることは間違いありません。
ところがそのうちの「百道海水浴場」はというと、樋井川からサザエさん通りくらいまでの、わずか400m弱の範囲だけなのです。
拡大してみるとこんな感じ。ちょうど対岸にある西南学院小・中・高校の敷地くらいの広さということが分かります。意外とコンパクトですよね。
ためしに東端から西端まで歩いてみました。スタート地点百道海水浴場の碑が立っていて、ここはまさに当時の百道海水浴場の東端に当たります。
実際に歩いてみると、こんな感じ。
地図上で測るとその長さは386m、歩くと5分もかからないくらいの距離でした。やっぱり思ったよりも狭い感じがしますよね。
西新から百道海水浴場へ向かうには
百道海水浴場は大正時代に開かれてからずっと「アクセスの良い、福岡市に一番近い海水浴場」として、人々の人気を集めていました(開場時、西新町はまだ福岡市ではありませんでした)。
このような評判が定着したのには、現在の明治通りを走っていた市内電車が大きな役割を果たしていました。大正7(1918)年時点での最寄りの停車場は「今川橋」。こんなに近くに電車の停留所があったおかげで、近隣の方々はもちろんのこと、市内各地からも気軽に海水浴に行く事ができたんですね。
百道海水浴場へ向かうにはいくつかのルートがありましたが、よく利用されていたのは次の2つ。
1つはこの電停から一番近い、樋井川沿いの道(①)。これは主に福岡市内(当時)や市外からの海水浴客が利用していたようです。
もう1つはちょうど海水浴場の中央に出る道です(②)。こちらは西新町をはじめとして地元の皆さんがよく使っていた道だそうです。
この2本が比較的古い道です。
もちろん、修猷館高校や西南学院、西新小学校を通る道(現在のサザエさん通り)もありますが、これは大正13(1924)年に西新小学校新築移転に伴い整備されたので、開場当時は現在のような大きな道ではなかったので、これらが先に最初にメーンストリートとなったのでしょう。
2本の道の位置関係はこんな感じ。
せっかくですから、これらの道のりも当時の様子を思い浮かべながら歩いてみたいと思います。
当時の道を歩いてみる
さっそく、当時の海水浴客が歩いた道を辿ってみました。まずは樋井川沿いの道から。
分かりやすいように、川沿いの道に入るところをスタートとしました。狭い道ですが、抜け道として意外と車の往来が多い所なので、歩行には注意が必要です。
この道は比較的古い道の一つですが、昔はそれほど整備されておらず、海水浴場が開いた後、大正13(1924)年に砂に赤土を混ぜるなどの改修工事が行われたそうです。
また、百道海水浴場は都会の海水浴場らしく当初から夜間も数多くの来場者があり、そのため大正11(1922)年からは今川橋の停留所から海水浴場までの道沿いに「広告電灯」が灯されたといいます。
川沿いにずらっと電灯が並ぶ様子はさぞかし美しく、また電車からもよく見えたに違いありません。百道海水浴場の呼び物の一つだったのではないでしょうか。
そんな往時の姿に思いを馳せながら歩いて行くと、あっという間に到着!
その距離は地図上で測ると476m、ゆっくり歩いても10分かからないくらいで到着しました。
次に、地元の皆さんがよく使ったという、海水浴場中央に出る道を使って百道海水浴場に向かってみます。
場所は、現在福岡市地下鉄西新駅の7番・8番出口があるところです。ここはかつて移転前の西新小学校校舎があった場所であり、西南学院への道でもありました。
さっそく駐輪場の脇から入っていきます。
西新の近くに長く住んでいたり職場があったりする方も、以外とこの道は通ったことがないかもしれませんね。
右手に西新公民館を見ながら道を進むと、間もなく西南学院の赤レンガ塀が見えてきました。
ここは西南学院が西新に移転してきた際、最初に取得し校舎を建てた場所です。この道を左に進むと当時の正門があり、当時の校舎は現在は西南学院大学博物館となっています。
西南学院の広大な校地を横目に進むと、現在も残る松が見えてきます。これは往時の百道海岸の名残です。
松の木が見えてきたらもうすぐ浜に到着!
ここが、百道海水浴場のちょど中央に当たる場所です。
こちらの道は地図上で測ると518m。先ほどの道よりも少し長いですが、歩いてみるとあまりかわらず、10分弱で到着しました。
この道は、先にもご紹介した通り地元の皆さんがよく利用された道だそうですが、さらに戦前にはこの道を海水浴客のための「1銭バス」が通っていて、これも地元の皆さんにはお馴染みの光景だったそうです。
ところでこの道、実は以前もご紹介したことがあります。第12回「百道地蔵に込められた祈り」という回でご紹介した、かつて存在した百道地蔵への道です。
こうしてみると、百道地蔵は本当に海水浴場のすぐ近くに建立されていたんですね。
※「〈012〉百道地蔵に込められた祈り」はコチラをご覧ください。
http://fcmuseum.blogspot.com/2022/11/012.html
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「百道にあった海水浴場」と聞くと、どうしても現在の浜のサイズを想像してしまいますが、意外とコンパクトだったことが分かりました。
それでも大人気だった百道海水浴場は、全盛期はここに1日数万人が訪れたといいますから、その混雑ぶりは相当なものだったことでしょう。
また、当初は地元以外からは電車での来場客が多かったものの、昭和になると海水浴場まで自動車の乗り入れが可能となったことで歩行客にも便利になました。その後、昭和30年代には大型バスが連日数十台やって来て松林に駐まる光景も見られたほどの一大行楽地にまでなったそうです。
現在では裏道のような存在になってしまったこれらの道ですが、皆さんもぜひ散歩がてら、かつて賑わった百道海水浴場へのメーンストリートを歩いてみてはいかがでしょうか(日焼けと熱中症対策はお忘れなく!)。
【参考文献】
・山崎剛『西新町風土記』(令和元年)
・大正11年7月1日『福岡日日新聞』朝刊7面「愈明二日より 百道海水浴場開く」
・大正13年7月27日『福岡日日新聞』朝刊7面「今川橋から百道へ 道路改修計画」
#シーサイドももち #百道海水浴場 #意外とコンパクト #都会の海水浴場
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
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