2023年6月9日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈040〉映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈040〉映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~
いま、SNSなどで「シーサイドももち」と検索すると、さまざまな「撮影会」の様子がヒットします。
撮影対象は、夕陽や夜景など海辺のステキな風景はもちろんですが、それよりも多いのはモデルさんやコスプレイヤーさん、インスタグラマーさんたち。ももちの砂浜やマリゾン、タワー周辺などを背景にした写真がたくさんアップされています。
今回は、そうした百道と写真とその周辺にまつわるこぼれ話をお届けします。
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アマチュアカメラマンと百道
海辺が格好の撮影場所であるのは今も昔も変わりません。
現在は埋立地として人工海浜となっているももちの海辺ですが、かつては現在の「よかトピア通り」あたりに海岸線があり、一帯は夏になると「百道海水浴場」として、市内外の人々が集まる場所でした。
百道海水浴場は大正7(1918)年から昭和49(1974)年まであった海水浴場ですが、夏になるとさまざまなイベントが開催されており、そのうちの一つに「写真撮影会」がありました。
写真(カメラ)自体は明治時代から日本にもありましたが、より一般の人が趣味として楽しみ始めたのは1920~30年代。大正~昭和一桁の頃でした。この時、2020年に惜しまれつつ廃刊となったカメラ雑誌『アサヒカメラ』が創刊されています(1926〈大正15〉年4月)。
現在のようにデジカメやスマホで手軽に写真が撮れる時代ではありません。もちろんフィルムカメラですし、カメラ本体もフィルムも大変高価なものでした。
どうせ撮るなら「良い場所」で「良い被写体」を撮りたいと思うのが人情。
そこで、百道海水浴場を舞台にしたアマチュアカメラマンのための「撮影会」が開かれるようになりました。
詳細な記録がないので正確なところは分かりませんが、新聞記事に現れる百道の最初の撮影会は、昭和2(1927)年。主催は「写真同好倶楽部」という団体で、百道海水浴場を運営していた福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)が後援となっています。
これは撮影会というよりもアマチュアカメラマンのための講習会で、5日間にわたって行われました。内容は大学の工学部の教授などを数名招いての講義、そして百道での実地撮影、現像や焼き付け、引き伸ばし技術などを学びました。
さらに百道海水浴場裏手の松原内には「完全なる暗室」を設け、撮影して即現像できるようにしたという、大がかりなものでした。講習後には作品の展覧会も行われたそうなので、当時の愛好家にとっては大変貴重な機会となったことでしょう(昭和2年7月31日『福岡日日新聞』朝刊3面「写真技術講習会」より)。
福岡日日新聞社ではほかにも昭和9(1934)年から「新興商業写真懸賞」というコンクールを実施していて、カメラの世界では「新興写真」という凝った構図や二度焼きなどの加工技術を駆使した芸術写真も注目されていました。
このような芸術性を重視した写真を撮るのが、当時のアマチュアカメラマンの中では最先端とされていたんですね。これらの写真はどちらかというと対象(状況)よりも技術がメインだったようです。
モデルたちと百道
戦後の海水浴場では撮影対象としての「モデル」という職業の人たち、そしてそのモデルを生んだ「ミス・コンテスト」が登場します。
いわゆる「美人コンテスト」と呼ばれる審査会の最初は、明治24(1891)年に浅草「凌雲閣」(通称、浅草十二階)で開催されたといわれていて、これは「芸妓百人の写真を審査する」というものだったといいます。
当初、美人コンテストは昭和になるまで主に芸妓さんやカフェーの女給さんを対象としており、しかも写真による審査だったそうです。この時は、ブロマイドのように参加者の写真を写真館で撮影するというものでした。
昭和になると「ミス東京」や「ミス大阪」といった都市の名前を冠したコンテストも増えていき、参加者にも一般の女性が現れ、審査も写真だけでなく実際に参加者を集めて行われるようになりました。
昭和25年に読売新聞社主催で行われた「ミス日本」では、全国12の都市から集められた「ミス」たちから1位を選ぶというもので、この時優勝したのが女優の山本富士子さんであることは有名な話です。
福岡市からも「ミス福岡」が選ばれたようですが、宣伝がうまくいかず40人ほどしか集まらなかったそうです。それだけ「ミスコンテスト」の認知度(人気度)はまだ低かったということかもしれません。
そして昭和28(1953)年、画期が訪れます。
アメリカ、カリフォルニア州のロングビーチ市という海辺のリゾート地で開催されたミス・ユニバース世界大会で、ファッションモデルの伊東絹子さんが第3位に入賞する快挙を果たしました。
伊東絹子さんは160㎝以上と当時の日本人からすると長身で、顔が小さくて背が高い「八頭身」という言葉は当時の流行となったほどでした。
東京ではある映画館の前に彼女の前身の型をくり抜いた立て看板「美人測定器」なるものが登場。八頭身の穴がくぐれるか試すもので、「これをくぐれれば、あなたも八頭身美人!」ということで、映画の招待券がプレゼントされました。
伊東絹子さんの快挙は敗戦後の日本人にとって「日本人でも世界で通用するんだ!」という勇気を与えるものだったのでしょう。
これを機に「ファッションモデル」という職業が一般にも認知されるようになりました。
「モデル」は新しい女性の職業として地方都市にも広まりました。昭和29年7月の新聞には福岡にもモデル事務所ができたという記事が見られ、そこには彼女たちの日々の訓練の様子が書かれていました(事務所の詳細については不明…)。
「(略)海岸に出かけても八頭身維持のためには『アン、ドウ、トロァ』と美容体操ののち、あれこれポーズの研究に骨身をけずる。お膚(はだ)が荒れては大変とうっかり水にも入れない窮屈さだが、苦あれば楽あり、やがてさっそうとフロアに立ち、ご婦人方の熱い視線とタメ息を満身に浴びながら〝おしゃれ地獄〟に追いこみ、涼しげにほおえんでいられようというもの。(略)」
(昭和29年7月17日『西日本新聞』朝刊8面)
さらに記事では「運のよい人なら出くわして目の保養ができる。百道海岸にひろった今年の夏の新風景」と結んでいます(今だとやや問題になりそうな表現ですが)。
ですが彼女らはそんな男性からの好奇の目のためにがんばるのではなく、「ご婦人方の熱い視線とタメ息を満身に」浴びる日を夢見て特訓していたようです。これはいまとあまり変わらない感覚なのかもしれませんね。
その後、「ミスコン」や「モデル」が一般に浸透してきた昭和30年代には、百道でも「海の女王コンテスト」と名付けたミスコンテストが開催されるようになります。この頃には参加者も増えていき、海の女王は百道の夏の風物詩となったのでした。
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いかがだったでしょうか。
百道の浜辺(現在は人口海浜ですが)は今も昔もカメラマンにとってもモデルにとっても、その環境は「映える」ことができる舞台装置として使われていたようです。
【参考文献】
・井上章一『美人コンテスト百年史 芸妓の時代から美少女まで』(新潮社、1992年)
・福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史 特別編 活字メディアの時代―近代福岡の印刷と出版』(福岡市、2017年)
・昭和2年7月31日『福岡日日新聞』朝刊3面「写真技術講習会」
・昭和29年7月17日『西日本新聞』朝刊8面「楽でない八頭身維持 曲線美が生命のファッション・モデル」
#シーサイドももち #百道海水浴場 #カメラマン #写真撮影 #モデル #映える写真が撮りたい!
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※2023年6月9日に公開した記事ですが、一部加筆しました(2023年6月13日)。
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