2023年10月27日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈060〉西新町に監獄ができるまでの話
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈060〉西新町に監獄ができるまでの話
突然ですが、皆さんは現在福岡の刑務所がどこにあるかご存知ですか?
福岡市内には拘置所はありますが刑務所はなく、福岡刑務所は糟屋郡宇美町にあります。これは九州最大、日本でも3番目の規模の施設なのだそうです(通称は「福刑(ふっけい)」、男性服役囚のみ収監されています)。
この巨大な刑務所は、昭和40(1965)年に現在の宇美町に移るまで西新町の藤崎にあり、その大きさと堅牢さから、かなりの存在感を放っていました。
福岡刑務所の前史① ~罪を償う徒罪場について~
現在、福岡の刑務所は宇美町に、そして拘置所は百道にありますが、その変遷は割と複雑です。
ごくごく簡単に紹介しますと、元々江戸時代には徒罪場(徒罪とは、罪を犯した囚人に強制的に労役を課す刑のこと)が枡木屋町(ますごやのちょう/現在の唐人町2丁目付近)にあり、「枡木屋獄」などと呼ばれていました。
(枡木屋の徒刑場跡は、現在唐人町北公園に案内板が建てられています)
明治4(1871)年、この枡木屋町の徒罪場は廃止され、新たに須崎裏町(現在の博多区須崎町)に徒罪場が置かれますが、明治6(1873)年には廃藩置県を経て、湊町(現在の中央区湊)の旧藩米倉敷地内の倉庫を修繕して懲役場とし、その後名称が「福岡県監獄署」となります(この時の所管は内務省)。これにより須崎裏の徒罪場は廃止、その前にあった枡木屋の跡地は埋葬墓地として県が所管する場所となりました。
その後、組織改編や法改正などを経て、明治16(1883)年3月にはふたたび須崎裏町に新しい監獄が建てられ、そちらに移転しました(名称は明治36〈1903〉年に「福岡監獄」となり、司法大臣の所管となります)。
福岡刑務所の前史② ~拘禁する牢屋について~
一方、福岡藩の牢屋は福岡橋口町(現在の天神4丁目付近)と枡木屋町にありましたが、この2つは枡木屋町に完全に統合されます(時期不明)。その他にも糟屋郡堅粕村や地行浜に「溜所」があり、各郡には「郡牢」、博多の古門戸町と福岡の簀子町にそれぞれ「揚り屋」がありました(これはいずれも未決勾留中や死刑が確定した者などを拘禁する場所である拘置監、いわゆる牢屋と役割の差はありますがほぼ同義です)。
これらは明治5(1872)年に廃止、枡木屋町の牢屋は福岡城内に移転、さらに明治9(1876)年にはそこから天神町の県庁構内に移転(!)します。
県庁構内に牢屋があるというのも、今考えるとなかなか想像しがたいですよね。
最終的にはこの拘置監も明治37(1904)年には須崎裏に統合され、「福岡監獄」として一所に置かれる事になりました。
…と、ここまでが前史。
もう割とワケ分からないですよね。すみません…。
まとめるとだいたいこんな感じです(一部省略してます)。
この辺りのちゃんとしたまとめは、矯正図書館さん(公益財団法人矯正協会)のサイトに詳しいので、ご興味があればこちらをご覧ください。
「福岡監獄」ができるまで
まあそういう事でいろいろあって(雑…)、明治16(1883)年からあった須崎裏町の監獄も設備が古くなり、新しい場所に移転して建て替えようという話が出てくるわけです。これが明治36(1903)年。拘置監が統合する前からすでに移転の話は出ていたんですね。
この時、もちろん建物の老朽化や収容人数の問題で建物が手狭になってきたという問題はあったものの、何よりも天神周辺の開発に伴い、これから福岡市街が発展していく中心となる場所に監獄が存置するのは不適当だという判断があったようです。
そこでさっそく場所の選定がなされるわけですが、その際に選ばれたのが、当時はまだ福岡市外にあった百道松原の一角、室見川の川沿いというわけです。
工事は明治41(1908)年6月に起工し、大正2(1913)年にはおおよその建物は完成します。
そこで西新町の新監獄を正式に福岡監獄とし、須崎裏町の旧館は「須崎出張所」となるのですが、予算の都合で計画年限が伸ばされたり、また女性の服役囚を収容する「女監」、さらには未成年者のための「幼年監」などをつくることが後から決定したため、結局西新町の新監獄は大正5(1916)年にようやくすべての設備が竣工したのでした。
話が少し前後しますが、大正4(1915)年には福岡土手町(現在の中央区大名2丁目付近)に設備を新築し、拘置監の一部を移転させることが決まります。
大正5年に新拘置監が完成した後は、土手町を「土手町出張所」として稼働させ、須崎裏町の監獄(出張所)は廃止となりました。
※この辺も上の略図をご参照ください。
西新に移転した福岡監獄
ところで新しい監獄の場所としてなぜ西新町が選ばれたのでしょうか?
もちろん百道松原という広大な土地があったということは大きいでしょう。以前にも少しご紹介しましたが、西新町サイドは町の発展のためにもこの松原を何とか活用したいと考えていました。
また、当時の西新町は福岡市に隣接しているもののまだ福岡市外。天神町の中心部開発のために場所を探していたという事情もあるので、「ちょうどいい」距離感だったのかもしれません。
さらにより現実的な面では、この土地は当時まだほとんどが官有林だったため、これら官有林は司法省の用地に組替えるなど、土地の入手が比較的簡単だったということが大きかったようです。
ただし、県道(現在の明治通り)に面した土地の一部は民有地だったため、その入手には県と手を組み、一つ手を打ったようです。
県としては、天神付近に司法省が所有していた土地が、九州沖縄八県連合共進会(明治43〈1910〉年開催)の敷地として使用したいという思惑がありました。そこで司法省はまず県に、福岡監獄の敷地に欲しい西新町の県道沿いの土地を買ってもらい、その土地と天神に司法省が持っている土地を交換し、それぞれの用地として利用したというわけです。
さらに、これは若干こじつけでもありますが、新築記念に作られた『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、大正5年)の「福岡監獄(本監)ノ沿革」によれば、「玄海ノ浜ニ接シ白砂青松ノ佳境タリシト加フルニ中古元寇襲来ノ古戦場トシテ堡塁ノ跡歴々トシテ墳墓土窟等現存シ当時ヲ偲バシムル状態」であることから、「将来永遠ニ犯罪ヲ懺滅スル所ノ監獄ヲ茲ニ建築スルニ至リタルハ真ニ偶然ナラストセス」と、ここでも「元寇防塁」が象徴的に登場しています。
西新町の土地を決めたのは明治41(1908)年ですから、この時はまだ元寇防塁は発見されておらず、別にこれが理由で土地が選ばれたわけではないのですが、その後大正2(1913)年には監獄のすぐ近くで元寇防塁跡が発見されます。まさに「偶然」なのですが、この当時の元寇防塁ブームの気運とうまくフィットしたのかもしれません。
さらに『記念帖』では受刑者の移管や工事の差配などに当たった職員へのねぎらいとともに、予算や計画変更など、こちらではどうにもならない都合により計画が伸びてしまったことを述べた上で、
「(略)中途財政ノ都合ニヨリ両度ノ繰延ト且ハ予定工事ノ変更増加等ノ為メ明治四拾壹年度以降大正四年度ニ至ル間、即チ八ヶ年度ヲ要シタリト雖モ竣工後ノ今日ヨリ回想スレハ、実ニ其工費額ニ於テ将タ又(はたまた)工程ニ於テ、如何ニ当局職員ノ注意勤労ノ其甚大ナリシカハ、本監獄ノ堅牢ト相待テ永ヘニ紀念ス可キ緊要事項ナリトス」
と、わざわざ最後に言及しています。
これを読むだけでもその切実さが伝わってきて、なかなかの迫力ですね…。
工事を担った囚人たち
ところで西新町の監獄の新築工事には、実際に監獄に収容されていた服役囚も強制労働の一環として工事に借り出されています。
自分が収監される監獄の工事を服役囚が担うというのは、セキュリティ上どうなのかという気もしますが、とにかくそういうわけで、須崎から移された服役囚は、西新の新監獄でまず「監獄をつくる」という強制労働をさせられます。
そんな中、福岡監獄では服役囚の脱獄騒動が起こります。
明治44(1911)年、窃盗罪で懲役6年と8年の刑に服していたM(27歳)と、懲役7年の I(25歳)という2人の服役囚が就業中に逃走したのです。
事の顛末はこうです。
Mと I はかねてより脱獄計画を立てていたようで、1月15日、ついに計画を実行に移します。
Mは他の受刑者93名と炊事場の建築工事に出かけ、5人1組で作業をしており、I は他の104名と共に分房監建築場に行き井戸さらいをしていたところ、Mが持ち場を離れ I を誘い、大工小屋からノコギリ1本を盗み、さも作業中のような態度で看守の眼を盗んで堂々と表門を抜け、積んである木材の間を通り、事もあろうに表門の見張所と看守長官舎の間を通過。外柵の出入口から脱出したというのです。
しかしその様子を看守が見つけ通報、I はとにかく走って逃げて皿山(現在の祖原山付近)の中腹に身を潜めますが、別の看守が追い詰め逮捕されてしまいました。
Mはうまく逃げおおせたものの、欠席のまま裁判にかけられ、さらに懲役2年、I は懲役7ヶ月を言い渡されるに至ったということです。
西新の監獄の完成
紆余曲折あった監獄工事ですが、大正5(1916)年に無事竣工します。
それだけ時間をかけ、また設備も追加した監獄は立派なもので、西新町の人々も突然あらわれた堅牢な煉瓦の建物にさぞかしおどろいたことでしょう。
…と、せっかく完成したところですが、そろそろお時間となってしまいました。
今度は実際に完成した監獄の内部をご案内する監獄ツアーに皆さまをお連れしたいと思いますので、どうぞお楽しみに!
・『監獄協会雑誌』第24巻第2号(監獄協会、1911年2月20日)
・『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、柴藤活版所、1916年)
・福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 明治大正編』(福岡県警察本部、1978年)
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[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※ 一部画像を修正しました(2023年10月27日)
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