2023年10月27日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈060〉西新町に監獄ができるまでの話
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈060〉西新町に監獄ができるまでの話
突然ですが、皆さんは現在福岡の刑務所がどこにあるかご存知ですか?
福岡市内には拘置所はありますが刑務所はなく、福岡刑務所は糟屋郡宇美町にあります。これは九州最大、日本でも3番目の規模の施設なのだそうです(通称は「福刑(ふっけい)」、男性服役囚のみ収監されています)。
この巨大な刑務所は、昭和40(1965)年に現在の宇美町に移るまで西新町の藤崎にあり、その大きさと堅牢さから、かなりの存在感を放っていました。
福岡刑務所の前史① ~罪を償う徒罪場について~
現在、福岡の刑務所は宇美町に、そして拘置所は百道にありますが、その変遷は割と複雑です。
ごくごく簡単に紹介しますと、元々江戸時代には徒罪場(徒罪とは、罪を犯した囚人に強制的に労役を課す刑のこと)が枡木屋町(ますごやのちょう/現在の唐人町2丁目付近)にあり、「枡木屋獄」などと呼ばれていました。
(枡木屋の徒刑場跡は、現在唐人町北公園に案内板が建てられています)
明治4(1871)年、この枡木屋町の徒罪場は廃止され、新たに須崎裏町(現在の博多区須崎町)に徒罪場が置かれますが、明治6(1873)年には廃藩置県を経て、湊町(現在の中央区湊)の旧藩米倉敷地内の倉庫を修繕して懲役場とし、その後名称が「福岡県監獄署」となります(この時の所管は内務省)。これにより須崎裏の徒罪場は廃止、その前にあった枡木屋の跡地は埋葬墓地として県が所管する場所となりました。
その後、組織改編や法改正などを経て、明治16(1883)年3月にはふたたび須崎裏町に新しい監獄が建てられ、そちらに移転しました(名称は明治36〈1903〉年に「福岡監獄」となり、司法大臣の所管となります)。
福岡刑務所の前史② ~拘禁する牢屋について~
一方、福岡藩の牢屋は福岡橋口町(現在の天神4丁目付近)と枡木屋町にありましたが、この2つは枡木屋町に完全に統合されます(時期不明)。その他にも糟屋郡堅粕村や地行浜に「溜所」があり、各郡には「郡牢」、博多の古門戸町と福岡の簀子町にそれぞれ「揚り屋」がありました(これはいずれも未決勾留中や死刑が確定した者などを拘禁する場所である拘置監、いわゆる牢屋と役割の差はありますがほぼ同義です)。
これらは明治5(1872)年に廃止、枡木屋町の牢屋は福岡城内に移転、さらに明治9(1876)年にはそこから天神町の県庁構内に移転(!)します。
県庁構内に牢屋があるというのも、今考えるとなかなか想像しがたいですよね。
最終的にはこの拘置監も明治37(1904)年には須崎裏に統合され、「福岡監獄」として一所に置かれる事になりました。
…と、ここまでが前史。
もう割とワケ分からないですよね。すみません…。
まとめるとだいたいこんな感じです(一部省略してます)。
この辺りのちゃんとしたまとめは、矯正図書館さん(公益財団法人矯正協会)のサイトに詳しいので、ご興味があればこちらをご覧ください。
「福岡監獄」ができるまで
まあそういう事でいろいろあって(雑…)、明治16(1883)年からあった須崎裏町の監獄も設備が古くなり、新しい場所に移転して建て替えようという話が出てくるわけです。これが明治36(1903)年。拘置監が統合する前からすでに移転の話は出ていたんですね。
この時、もちろん建物の老朽化や収容人数の問題で建物が手狭になってきたという問題はあったものの、何よりも天神周辺の開発に伴い、これから福岡市街が発展していく中心となる場所に監獄が存置するのは不適当だという判断があったようです。
そこでさっそく場所の選定がなされるわけですが、その際に選ばれたのが、当時はまだ福岡市外にあった百道松原の一角、室見川の川沿いというわけです。
工事は明治41(1908)年6月に起工し、大正2(1913)年にはおおよその建物は完成します。
そこで西新町の新監獄を正式に福岡監獄とし、須崎裏町の旧館は「須崎出張所」となるのですが、予算の都合で計画年限が伸ばされたり、また女性の服役囚を収容する「女監」、さらには未成年者のための「幼年監」などをつくることが後から決定したため、結局西新町の新監獄は大正5(1916)年にようやくすべての設備が竣工したのでした。
話が少し前後しますが、大正4(1915)年には福岡土手町(現在の中央区大名2丁目付近)に設備を新築し、拘置監の一部を移転させることが決まります。
大正5年に新拘置監が完成した後は、土手町を「土手町出張所」として稼働させ、須崎裏町の監獄(出張所)は廃止となりました。
※この辺も上の略図をご参照ください。
西新に移転した福岡監獄
ところで新しい監獄の場所としてなぜ西新町が選ばれたのでしょうか?
もちろん百道松原という広大な土地があったということは大きいでしょう。以前にも少しご紹介しましたが、西新町サイドは町の発展のためにもこの松原を何とか活用したいと考えていました。
また、当時の西新町は福岡市に隣接しているもののまだ福岡市外。天神町の中心部開発のために場所を探していたという事情もあるので、「ちょうどいい」距離感だったのかもしれません。
さらにより現実的な面では、この土地は当時まだほとんどが官有林だったため、これら官有林は司法省の用地に組替えるなど、土地の入手が比較的簡単だったということが大きかったようです。
ただし、県道(現在の明治通り)に面した土地の一部は民有地だったため、その入手には県と手を組み、一つ手を打ったようです。
県としては、天神付近に司法省が所有していた土地が、九州沖縄八県連合共進会(明治43〈1910〉年開催)の敷地として使用したいという思惑がありました。そこで司法省はまず県に、福岡監獄の敷地に欲しい西新町の県道沿いの土地を買ってもらい、その土地と天神に司法省が持っている土地を交換し、それぞれの用地として利用したというわけです。
さらに、これは若干こじつけでもありますが、新築記念に作られた『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、大正5年)の「福岡監獄(本監)ノ沿革」によれば、「玄海ノ浜ニ接シ白砂青松ノ佳境タリシト加フルニ中古元寇襲来ノ古戦場トシテ堡塁ノ跡歴々トシテ墳墓土窟等現存シ当時ヲ偲バシムル状態」であることから、「将来永遠ニ犯罪ヲ懺滅スル所ノ監獄ヲ茲ニ建築スルニ至リタルハ真ニ偶然ナラストセス」と、ここでも「元寇防塁」が象徴的に登場しています。
西新町の土地を決めたのは明治41(1908)年ですから、この時はまだ元寇防塁は発見されておらず、別にこれが理由で土地が選ばれたわけではないのですが、その後大正2(1913)年には監獄のすぐ近くで元寇防塁跡が発見されます。まさに「偶然」なのですが、この当時の元寇防塁ブームの気運とうまくフィットしたのかもしれません。
さらに『記念帖』では受刑者の移管や工事の差配などに当たった職員へのねぎらいとともに、予算や計画変更など、こちらではどうにもならない都合により計画が伸びてしまったことを述べた上で、
「(略)中途財政ノ都合ニヨリ両度ノ繰延ト且ハ予定工事ノ変更増加等ノ為メ明治四拾壹年度以降大正四年度ニ至ル間、即チ八ヶ年度ヲ要シタリト雖モ竣工後ノ今日ヨリ回想スレハ、実ニ其工費額ニ於テ将タ又(はたまた)工程ニ於テ、如何ニ当局職員ノ注意勤労ノ其甚大ナリシカハ、本監獄ノ堅牢ト相待テ永ヘニ紀念ス可キ緊要事項ナリトス」
と、わざわざ最後に言及しています。
これを読むだけでもその切実さが伝わってきて、なかなかの迫力ですね…。
工事を担った囚人たち
ところで西新町の監獄の新築工事には、実際に監獄に収容されていた服役囚も強制労働の一環として工事に借り出されています。
自分が収監される監獄の工事を服役囚が担うというのは、セキュリティ上どうなのかという気もしますが、とにかくそういうわけで、須崎から移された服役囚は、西新の新監獄でまず「監獄をつくる」という強制労働をさせられます。
そんな中、福岡監獄では服役囚の脱獄騒動が起こります。
明治44(1911)年、窃盗罪で懲役6年と8年の刑に服していたM(27歳)と、懲役7年の I(25歳)という2人の服役囚が就業中に逃走したのです。
事の顛末はこうです。
Mと I はかねてより脱獄計画を立てていたようで、1月15日、ついに計画を実行に移します。
Mは他の受刑者93名と炊事場の建築工事に出かけ、5人1組で作業をしており、I は他の104名と共に分房監建築場に行き井戸さらいをしていたところ、Mが持ち場を離れ I を誘い、大工小屋からノコギリ1本を盗み、さも作業中のような態度で看守の眼を盗んで堂々と表門を抜け、積んである木材の間を通り、事もあろうに表門の見張所と看守長官舎の間を通過。外柵の出入口から脱出したというのです。
しかしその様子を看守が見つけ通報、I はとにかく走って逃げて皿山(現在の祖原山付近)の中腹に身を潜めますが、別の看守が追い詰め逮捕されてしまいました。
Mはうまく逃げおおせたものの、欠席のまま裁判にかけられ、さらに懲役2年、I は懲役7ヶ月を言い渡されるに至ったということです。
西新の監獄の完成
紆余曲折あった監獄工事ですが、大正5(1916)年に無事竣工します。
それだけ時間をかけ、また設備も追加した監獄は立派なもので、西新町の人々も突然あらわれた堅牢な煉瓦の建物にさぞかしおどろいたことでしょう。
…と、せっかく完成したところですが、そろそろお時間となってしまいました。
今度は実際に完成した監獄の内部をご案内する監獄ツアーに皆さまをお連れしたいと思いますので、どうぞお楽しみに!
・『監獄協会雑誌』第24巻第2号(監獄協会、1911年2月20日)
・『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、柴藤活版所、1916年)
・福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 明治大正編』(福岡県警察本部、1978年)
#シーサイドももち #百道海水浴場 #大鯨Onoto #万年筆Onoto #歯のお伽話講演会 #俳句会 #百道アクティビティ #桟橋延長 #テント村開村 #博多にわか #間部組 #花火大会 #また全然紹介できなかった…
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※ 一部画像を修正しました(2023年10月27日)
2023年10月20日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈059〉巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた─よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)─
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈059〉巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた─よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)─
1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)では、シーサイドももちに巨大な鳥かごが現れました。
ただこの鳥かご、博覧会の最初から構想されていたものではありませんでした。
話は少しさかのぼって、博覧会の開催に向け、さまざまな企業にパビリオンの出展を要請していた1986年。
よかトピアを主催するアジア太平洋博覧会協会の事務局長だった草場隆さんの回顧によると、2月に大手の銀行や企業の幹部を招いて説明会を開いたそうです。
そのなかには、芙蓉グループの企業もありました。
芙蓉グループは当時富士銀行を中心とした企業グループです(富士銀行はその後、みずほ銀行になっていますね)。
つづいて9月に芙蓉会(芙蓉グループの社長会)の事務局を訪問して出展を要請したのですが、あまり進展はなかったのだとか。
大きな企業グループが出展してくれるかどうかは博覧会の集客にかかわってきますので、ちょっと心配です…。
その後、11月に芙蓉グループの富士銀行・丸紅・大成建設・安田火災のトップに直接お願いしています。
ところが、こうした博覧会協会からの要請をふまえた芙蓉グループの反応は、出展を依頼された「アジア太平洋ゾーン」のイメージがつかめない、というものでした。
当時、アジア太平洋ゾーンはアニマルパーク、花と緑ゾーン、歴史・民俗ゾーン、東南アジア村、南太平洋ビレッジといったイメージをもとに計画が進められていました。
しかし芙蓉グループの反応をふまえると、早急にこの内容をさらに具体化させる必要がありそうです。
結果、もっとふみこんだ案が練られ、実際おこなわれたよかトピアの姿に一気に近付いていくことになりました。
アニマルパーク
→「バードカントリー」(大きなゲージのなかで鳥とのふれあい)
花と緑ゾーン
→「フラワーパラダイス」(温室で花や緑の鑑賞)
歴史・民俗ゾーンと東南アジア村
→「エスニックワールド」(アジアの自然・歴史・くらしの体験)
南太平洋ビレッジ
→「トロピカルビレッジ」(名称の変更)
これにより、アニマルパークを一歩進めた形で、鳥とのふれあいによって自然と生命の大切さを提唱する「バードカントリー」が新たに構想されました。
この「バードカントリー」に興味を持ってくれたのが、ほかならぬ芙蓉グループだったのです。
1987年2月の桑原市長の芙蓉グループ主要企業への直接訪問を経て、博覧会会場の現地視察にまでこぎつけました。
芙蓉グループが「バードカントリー」の出展を公表したのはこの年の5月28日です。
結果的にこれがアジア太平洋ゾーンへの最初の参加表明になりました。
この「バードカントリー」は、よかトピアのなかでもとても個性的なパビリオンになりました。
まずはその形。
上からみると大きな鳥に見えます。
その姿は曲線でつくられていて、やわらかな印象を持たせます。
そしてこれがまるごと大きな鳥かごになっているのです。
(広さ1200㎡・高さ20m)
なかは鳥が広々と自由に飛べるように柱がなく、植物・池などで自然環境がつくられていました。
この大きなゲージにアジア太平洋地域の52種類(218羽)の鳥が放たれました。
せっかくなので、当時のパンフレットから52種類全部書き上げてみます(だいぶん長くなりますがどうかご容赦を…。数字は鳥の数です)。
アカカザリフウチョウ(2)
アカクサインコ(10)
アカツクシガモ(2)
アカハシハジロ(10)
アネハヅル(2)
アマサギ(4)
インドガン(2)
インドクジャク(6)
ウミウ(4)
ウミネコ(4)
オオバタン(4)
オオフラミンゴ(2)
オシドリ(6)
オナガカモ(2)
オナガキジ(2)
カルガモ(4)
カンムリバト(4)
ギンカモメ(10)
キンクロハジロ(4)
キンケイ(2)
ギンケイ(4)
キンバト(10)
クロヅル(2)
コクチョウ(2)
コサギ(3)
コシアカキジ(4)
コフラミンゴ(2)
コブハクチョウ(2)
サンケイ(2)
ショウジョウインコ(10)
シュバシコウ(4)
セイケイ(4)
セイラン(2)
セイロンヤケイ(2)
ソデグロバト(12)
ツクシガモ(4)
トモエガモ(4)
ナナクサインコ(10)
ニジキジ(2)
ニホンキジ(2)
ハイイロガン(2)
ハクオウチョウ(4)
ヒインコ(11)
ヒドリガモ(4)
ヘラサギ(4)
マガモ(4)
マナヅル(2)
ミノバト(4)
ムラサキサギ(2)
モモイロペリカン(2)
リュウキュウガモ(4)
ユリカモメ(2)
書き上げるのも一苦労な数の多さです…。
これらはワシントン条約などを遵守したうえで、すべて動物園から借り受けたもの。
宇部市ときわ公園・熊本市動植物園・久留米市鳥類センターなど国内の動物園のほかにも、シンガポールのジュロンバードパーク(現在のバードパラダイス)から21種(122羽)、韓国のソウルグランドパーク(ソウル大公園)から3種(8羽)、パプアニューギニア政府から1種(2羽)、スリランカ国立動物園から1種(2羽)など、よかトピアのために海外からやってきた鳥たちもいました。
このなかには、南西諸島に生息する国の天然記念物キンバトなど、ふだん福岡の空では見られない鳥たちもたくさんいます。
特にパプアニューギニアのアカカザリフウチョウ(極楽鳥)の色鮮やかさは観客の人気を集めました。
ただ、あくまでここは鳥が主役の空間。
入場者はゲージのふちにそった見学通路から観察し、鳥からは距離をとって、そっと眺めるのがマナーでした。
なので、よかトピアは夏は午後9時まで夜間営業をおこなっていましたが、ここだけは通常通り6時に閉館。
どこまでも鳥ファースト、鳥特区のパビリオンでした。
その分、観覧方法には工夫がほどこされました。
入口から巨大な鳥かごに入場した観客は、まずはインフォメーションコーナーの映像やパネルで、鳥やこのパビリオンの主旨についてよく知ってから見学通路へ入ります。
鳥たちを眺めながら、鳥型ゲージの尾っぽの方に向かって歩くと、「中央展望台」があります。
ここでは双眼鏡のほかに、パビリオンの天井のカメラで地上からは見えない鳥の姿を見ることもできました。
3台のカメラのうち2台は、観客が自分で操作できます。
カメラの方向を変えたり、見たい鳥やゲージの奥にいる鳥にもズームすることができました。
「中央展望台」から通路を鳥型ゲージの右羽部分に向かって歩くと、そこは「水中ウォッチングコーナー」。
ゲージの中には池があるのですが、ここでは池に面した部分が半地下のガラス張りになっていて、地上と水中の両方が見られるようになっていました。
地上から池に飛び込んだり、水中で獲物をとったり、ふだんは見られない鳥の姿を間近で観察できるスペースでした。
こうして空を飛ぶ鳥と水中を泳ぐ鳥を同時に見られる展示の仕方は、当時世界的にも珍しかったのだそうです。
ちなみに鳥たちの食事は1日3回。
10時・13時・15時のこの時間が人気の観察タイムになっていました。
その後、観客は「Q&Aコーナー」を通ってパビリオンの外に出る導線。
なので、パビリオンのほとんどの空間は鳥たちのものでした。
この鳥たちの世話には、福岡市動植物園のスタッフや借入先のジュロンバードパークから来日した方々が細心の注意をはらいながらあたっていました。
当時、「バードカントリー」のスタッフさん(20歳)が『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89』のインタビューにこたえられています。
それによると、会期中の朝は毎日鳥の食事の準備から始まったそうです。
えさは穀類・青菜が中心。
ただ鳥の種類にあわせて、それぞれ用意しなければならないので大変なのだとか。
そのために使う家庭用より大きな包丁にも、ようやく慣れたと話されています。
このインタビューは5月におこなわれたようですが、「今は発情期でなわばり争いが起こりやすく目が離せない時期」「生き物の世話をすることの大変さをここで感じています」という言葉が印象的でした。
『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89』のインタビューでは、博覧会終了直後に別の飼育スタッフさんにもインタビューしています。
飼育員の「ドン」と呼ばれているその方(おそらくベテランの方なのでしょうね)は、「好評のうち事故もなく終える事をうれしく思います」と話されているのですが、動物の命をあずかるパビリオンだっただけに、会期中のスタッフさんの責任の重さと緊張感は想像を超えるものだったのではないかと思います。
「バードカントリー」の主旨である自然と命の大切さを、スタッフさんも改めて感じた期間だったようです。
「バードカントリー」では鳥をめぐるイベントもおこないました。
西日本新聞社が主催した「鳥の絵コンクール」に協賛したのですが、九州全域の園児・児童からの応募があって、その数はなんと4万点。
開幕してすぐの3月21日に会場で受賞式が開かれ、開幕をひときわにぎやかに盛りあげました(このブログを読まれている方でお知り合いにこのときの受賞者さんはいらっしゃらないでしょうか?)。
さらに会期中には、パプアニューギニアからやってきたアカカザリフウチョウ(極楽鳥)を同国政府が福岡市動植物園に寄贈することが決まりました。
1989年8月14日に贈呈式が開かれ、その目録がパプアニューギニアのウァム環境大臣から桑原市長に手渡されています。
この極楽鳥だけでなく、「バードカントリー」の鳥たちのうち47種(186羽)が、博覧会終了後には借入先から福岡市動植物園に寄贈されました。
はからずも鳥たちが、よかトピアでのさまざまなであいを今後も伝えていくことになりました。
この人が鳥かごに入る、ちょっと変わったパビリオン「バードカントリー」は、当初100万人の来場を目指していましたが、その展示のユニークさと珍しい鳥たちによって、予想を大幅に超える150万人の入場者を記録しています。
実はこの「バードカントリー」、会期中には鳥のサーカスが人気になったり、福岡市博物館にかわいい記念品が残されていたりと、まだまだお話ししたいことがたくさんあります。
どうかまた今度話を聞いてください。
・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)
・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)
・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)
#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #芙蓉会 #みずほ銀行 #野鳥 #バードウォッチング #シンガポール #バードパラダイス #ソウル大公園 #ときわ公園 #熊本市動植物園 #久留米市鳥類センター #福岡市動植物園
[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]