<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(2017年09月23日)
「サハリンで最初の州都」という経過を持つアレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、"博物館"と名が付くモノについては「1896年に当時の総督令によって開設された博物館を嚆矢とする」と考えられているようです。その古い博物館に関しては、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館に"移転"して伝統が引き継がれていると考えれれているようです。
現在、アレクサンドロフスク・サハリンスキーで「博物館」と言えば<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(Историко‐литературный музей "А.П. Чехов и Сахалин")のことになります。
これは1890年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸した作家のチェーホフが「立寄っている」と伝わる古い建物を修繕した建物での展示、そこに並んでいる流刑地時代の施設を再現した展示施設、更に少し離れた古い住宅の建物を利用した郷土資料館を総合した、正しく「歴史文学博物館」です。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、川がタタール海峡に注ぐような場所の高低差の在る複雑な地形の場所に拓けた坂の多い街です。ソ連時代以来の集合住宅の建物や、地区行政府庁舎や、"ポストソ連"な1990年代に建てられたと見受けられる教会が在る辺りから坂を下りると「チェーホフ通」という住所に至ります。
その「チェーホフ通」には、何やら年季が入った建物が散見するのですが、ここに3ヶ所に分かれている<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の2ヶ所が在ります。
↓チェーホフ通を進み、「通の先も高台のようになっていて、何やら年季の入った建物が在る」と思いながら進んで行くと、こういうモノに出くわします。
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↑板を組み合わせて塀が設えられていて、通用口のような扉が開いていて「何らかの展示施設」と見受けられます。
↓中にはこういうような道標が立っていました。
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↑方角が正しいのか否か、目安になるモノも無いので判りませんが、「サンクトペテルブルグ」、「ウラジオストク」、「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」というような地名が在ります。ロシア革命以前の古いアルファベットによる綴り方が用いられています。その地名の後ろにはヴェルスタ(верста)という、文学作品の翻訳に「露里」と訳出されている場合が在る古い単位が用いられています。アレクサンドロフスク・サハリンスキーにこういう施設が実際に建てられていた19世紀末辺りであれば「1ヴェルスタ=1066.8メートル」だったそうです。地名が出ている各地への距離は、ここに在る数字の感じで正しいと思われます。
実はこういう展示施設がここに在ることを事前には知りませんでした。道標が不思議だと思って眺めていれば、中から係員が出て来ました。有料の展示施設であるということで、中に入って券を求めました。入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルの入場料でした。
↓この施設は「スタンカ」と呼ばれていた、街と街とを結ぶために馬や馬車を交換するようなことをしていた場所を再現したモノのようです。
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施設内には、流刑地時代の様子を示す展示が在りました。当時の港の様子や道路建設の様子を紹介する写真も在り、「正しくティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ向かって来たバスで通った場所!」と感心しながら見ていました。そして、アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエへ引揚げる際は、道路脇の地名表示を視て「あの博物館の資料写真に在った辺りがここだ...」と車窓をじっと視ていました。
↓そこから少し進んだ辺りの古そうな建物の壁に、プレートが掲出されています。
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↑プレートには「流刑地時代の1886年にリンズベルグによって建てられた建物で、1890年の6月から9月に統治に滞在したチェーホフが何度となく立ち寄っている」と在ります。
チェーホフが何事かを想いながら歩き回っていた場所に立つことが出来た訳です。
↓チェーホフが訪れた頃も、こういうような雰囲気だったのかと想像していました。
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この辺りに関しては、「チェーホフの時代」をテーマに"ミュージアムパーク"というような具合に整備をしようとしているように見受けられました。
↓直ぐ傍にサンクトペテルブルグの彫刻家が原型を創ったというチェーホフの立像が据えられていましたが、辺りは工事中でした。広場でも整備するようです。
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↑チェーホフは長身であったらしいですが、この像はかなり背が高い感じでした。
↓チェーホフも立ち寄っているという建物の中も資料館になっていて、色々と貴重なモノが溢れていました。
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入場料ですが、最初の「スタンカ」を再現した場所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。
辿って来た道を引き返し、往路で下った坂を上がり、教会の在る辺りに戻ります。そこから緩やかな下り坂を進み、バスターミナルが在る辺りを過ぎると古い家が在ります。歩いて、概ね15分弱というところだったでしょう。
↓1915年に建てられたという古い住宅です。ここは<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の3ヶ所の中の1ヶ所になっています。
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↑「チェーホフとその時代」に光を当てたチェーホフ通の施設に対して、もう少し「地域の歴史等」に光を当てる展示が在る場所です。
↓博物館に利用されている建物そのものが史跡です。アレクサンドル・ツァプコという人物が住んでいた経過が在ることを示すプレートが掲出されています。
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アレクサンドル・トロフィーモヴィチ・ツァプコはオデッサで学んだ電信技士で、サハリンのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで電信局を開こうとやって来て、博物館に利用されている建物で活動をしていました。1915年のことで、「サハリン初の電信局」ということになるそうです。
その後、革命の経過が在ってツァプコはサハリンでの革命勢力の代表者に選任され、サハリンを統括する地区の中心が対岸のニコラエフスク・ナ・アムーレということになった時期にもアレクサンドロフスク・サハリンスキーに残っていました。やがて「シベリア出兵」で日本軍がサハリン北部を占領した状況の中、1920年に「日本軍に連れて行かれる」という主旨の短いメッセージを残して消息が分からなくなったそうです。技術者として功績を挙げたことから敬意を払われ、人柄の好い街のリーダーとして愛された人物だったとのことで、消息を絶ってしまったことが惜しまれていたそうです。そんな経過から、建物の在る辺りの住所は後年「ツァプコ通」と名付けられました。
因みに、1915年に建てられたという「ツァプコの家」は、シベリア出兵に伴う占領時代には日本軍関係者が使用した経過も在るということです。
↓この「ツァプコの家」を利用した展示施設は、19世紀までに制作されたと見受けられるイコンのようなモノから、20世紀の生活道具等、そして戦時中のモノが在り、他にサハリン北部で見受けられる鳥獣の剥製が在るコーナーも在ります。
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この「ツァプコの家」を利用した展示施設に関しても、他の2ヶ所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。"共通入場券"とか、「3ヶ所全部の入場券」というようなモノは在りません。一体化したような体裁を取ろうとはしていますが、結局は「別々だった3ヶ所」ということかもしれません。それでも、3ヶ所で全く同じ様式の券が出て来ました。
<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は、3ヶ所各々は然程大きくないものの、3ヶ所を一気に巡るとそこそこのボリュームになります。土曜日に訪ねたのですが、グループでバスを仕立てて見学している何処かの生徒のグループも見受けられました。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの地元や近郊からなのか、サハリンの他地域からなのかは判りませんでしたが、<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は生徒達にとっても、なかなかに好い学習の場になっている様子でした。何処を訪ねても思うのですが、「学校の生徒のグループが見学している様子が見受けられる博物館や資料館」というような場所は"ハズレ"が少ないような気がします。
こういう博物館は、ゆっくりと視ていれば1日中でも時間を費やすことが出来るのかもしれませんが、筆者はアレクサンドロフスク・サハリンスキー到着の直ぐ後から午後の早めな時間までを費やすに留めました。午後は辺りの景勝地を愉しもうとしたのでした。幸いにも眩しい程の好天でもありました。
博物館自体も興味は尽きないものです。が、それ以上に辺りがどんどん拓かれていたようなチェーホフの時代に人々が行き交ったような場所、ツァプコの家のような20世紀の第一四半期というような激動の時代に生きた人々の息吹が感じられるような場所等に「自身で佇んでみた」という感慨が非常に深いもので、「訪ねて善かった」と引揚げてからも振り返っている状況です。
現在、アレクサンドロフスク・サハリンスキーで「博物館」と言えば<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>(Историко‐литературный музей "А.П. Чехов и Сахалин")のことになります。
これは1890年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸した作家のチェーホフが「立寄っている」と伝わる古い建物を修繕した建物での展示、そこに並んでいる流刑地時代の施設を再現した展示施設、更に少し離れた古い住宅の建物を利用した郷土資料館を総合した、正しく「歴史文学博物館」です。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、川がタタール海峡に注ぐような場所の高低差の在る複雑な地形の場所に拓けた坂の多い街です。ソ連時代以来の集合住宅の建物や、地区行政府庁舎や、"ポストソ連"な1990年代に建てられたと見受けられる教会が在る辺りから坂を下りると「チェーホフ通」という住所に至ります。
その「チェーホフ通」には、何やら年季が入った建物が散見するのですが、ここに3ヶ所に分かれている<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の2ヶ所が在ります。
↓チェーホフ通を進み、「通の先も高台のようになっていて、何やら年季の入った建物が在る」と思いながら進んで行くと、こういうモノに出くわします。
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↑板を組み合わせて塀が設えられていて、通用口のような扉が開いていて「何らかの展示施設」と見受けられます。
↓中にはこういうような道標が立っていました。
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↑方角が正しいのか否か、目安になるモノも無いので判りませんが、「サンクトペテルブルグ」、「ウラジオストク」、「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」というような地名が在ります。ロシア革命以前の古いアルファベットによる綴り方が用いられています。その地名の後ろにはヴェルスタ(верста)という、文学作品の翻訳に「露里」と訳出されている場合が在る古い単位が用いられています。アレクサンドロフスク・サハリンスキーにこういう施設が実際に建てられていた19世紀末辺りであれば「1ヴェルスタ=1066.8メートル」だったそうです。地名が出ている各地への距離は、ここに在る数字の感じで正しいと思われます。
実はこういう展示施設がここに在ることを事前には知りませんでした。道標が不思議だと思って眺めていれば、中から係員が出て来ました。有料の展示施設であるということで、中に入って券を求めました。入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルの入場料でした。
↓この施設は「スタンカ」と呼ばれていた、街と街とを結ぶために馬や馬車を交換するようなことをしていた場所を再現したモノのようです。
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施設内には、流刑地時代の様子を示す展示が在りました。当時の港の様子や道路建設の様子を紹介する写真も在り、「正しくティモフスコエからアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ向かって来たバスで通った場所!」と感心しながら見ていました。そして、アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエへ引揚げる際は、道路脇の地名表示を視て「あの博物館の資料写真に在った辺りがここだ...」と車窓をじっと視ていました。
↓そこから少し進んだ辺りの古そうな建物の壁に、プレートが掲出されています。
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↑プレートには「流刑地時代の1886年にリンズベルグによって建てられた建物で、1890年の6月から9月に統治に滞在したチェーホフが何度となく立ち寄っている」と在ります。
チェーホフが何事かを想いながら歩き回っていた場所に立つことが出来た訳です。
↓チェーホフが訪れた頃も、こういうような雰囲気だったのかと想像していました。
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この辺りに関しては、「チェーホフの時代」をテーマに"ミュージアムパーク"というような具合に整備をしようとしているように見受けられました。
↓直ぐ傍にサンクトペテルブルグの彫刻家が原型を創ったというチェーホフの立像が据えられていましたが、辺りは工事中でした。広場でも整備するようです。
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↑チェーホフは長身であったらしいですが、この像はかなり背が高い感じでした。
↓チェーホフも立ち寄っているという建物の中も資料館になっていて、色々と貴重なモノが溢れていました。
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入場料ですが、最初の「スタンカ」を再現した場所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。
辿って来た道を引き返し、往路で下った坂を上がり、教会の在る辺りに戻ります。そこから緩やかな下り坂を進み、バスターミナルが在る辺りを過ぎると古い家が在ります。歩いて、概ね15分弱というところだったでしょう。
↓1915年に建てられたという古い住宅です。ここは<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の3ヶ所の中の1ヶ所になっています。
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↑「チェーホフとその時代」に光を当てたチェーホフ通の施設に対して、もう少し「地域の歴史等」に光を当てる展示が在る場所です。
↓博物館に利用されている建物そのものが史跡です。アレクサンドル・ツァプコという人物が住んでいた経過が在ることを示すプレートが掲出されています。
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アレクサンドル・トロフィーモヴィチ・ツァプコはオデッサで学んだ電信技士で、サハリンのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで電信局を開こうとやって来て、博物館に利用されている建物で活動をしていました。1915年のことで、「サハリン初の電信局」ということになるそうです。
その後、革命の経過が在ってツァプコはサハリンでの革命勢力の代表者に選任され、サハリンを統括する地区の中心が対岸のニコラエフスク・ナ・アムーレということになった時期にもアレクサンドロフスク・サハリンスキーに残っていました。やがて「シベリア出兵」で日本軍がサハリン北部を占領した状況の中、1920年に「日本軍に連れて行かれる」という主旨の短いメッセージを残して消息が分からなくなったそうです。技術者として功績を挙げたことから敬意を払われ、人柄の好い街のリーダーとして愛された人物だったとのことで、消息を絶ってしまったことが惜しまれていたそうです。そんな経過から、建物の在る辺りの住所は後年「ツァプコ通」と名付けられました。
因みに、1915年に建てられたという「ツァプコの家」は、シベリア出兵に伴う占領時代には日本軍関係者が使用した経過も在るということです。
↓この「ツァプコの家」を利用した展示施設は、19世紀までに制作されたと見受けられるイコンのようなモノから、20世紀の生活道具等、そして戦時中のモノが在り、他にサハリン北部で見受けられる鳥獣の剥製が在るコーナーも在ります。
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この「ツァプコの家」を利用した展示施設に関しても、他の2ヶ所とは別に入場料は50ルーブルで、写真撮影を希望する場合は更に150ルーブルで、合計で200ルーブルが必要です。"共通入場券"とか、「3ヶ所全部の入場券」というようなモノは在りません。一体化したような体裁を取ろうとはしていますが、結局は「別々だった3ヶ所」ということかもしれません。それでも、3ヶ所で全く同じ様式の券が出て来ました。
<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は、3ヶ所各々は然程大きくないものの、3ヶ所を一気に巡るとそこそこのボリュームになります。土曜日に訪ねたのですが、グループでバスを仕立てて見学している何処かの生徒のグループも見受けられました。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの地元や近郊からなのか、サハリンの他地域からなのかは判りませんでしたが、<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>は生徒達にとっても、なかなかに好い学習の場になっている様子でした。何処を訪ねても思うのですが、「学校の生徒のグループが見学している様子が見受けられる博物館や資料館」というような場所は"ハズレ"が少ないような気がします。
こういう博物館は、ゆっくりと視ていれば1日中でも時間を費やすことが出来るのかもしれませんが、筆者はアレクサンドロフスク・サハリンスキー到着の直ぐ後から午後の早めな時間までを費やすに留めました。午後は辺りの景勝地を愉しもうとしたのでした。幸いにも眩しい程の好天でもありました。
博物館自体も興味は尽きないものです。が、それ以上に辺りがどんどん拓かれていたようなチェーホフの時代に人々が行き交ったような場所、ツァプコの家のような20世紀の第一四半期というような激動の時代に生きた人々の息吹が感じられるような場所等に「自身で佇んでみた」という感慨が非常に深いもので、「訪ねて善かった」と引揚げてからも振り返っている状況です。
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