日本記者クラブ

取材ノート

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討論番組「ドキュメントーク」/タブーに挑み9カ月で消えた(鈴木 勝利)2024年8月

「われわれは投票しない」

これは、1972年12月8日に毎日放送が放送した「ドキュメントーク」のタイトルである。田中角栄ブームの中で、12月10日の総選挙の直前、棄権も民主主義での一つの選択であると主張する「不選の集い」の若者6人と、キャスターの栗原玲児とが討論するという番組であった。放送後、毎日放送局内で棄権を教唆するようなタイトルが問題視され「ドキュメントーク」そのものが、12月末で打ち切られることになった。

毎日放送は、70年安保闘争を前に、68年から「70年への対話」という毎週1時間の、オーソドックスな討論番組の放送を始めた。70年の安保改定がなされた後も、放送は続けられ、討論番組を継続してきた功績で72年には放送業界の特別な賞であるギャラクシー賞を受賞した。

毎日放送の本社は大阪だが、私は東京支社で、69年から番組ディレクターとして5年間、この討論番組に関わってきた。番組スタッフは5人。辻一郎、友野庄平、磯川道夫、兵頭達喜、それに私。企画から始まって、電話での出演交渉、出演者との打ち合わせ、スタジオ確保、録画、編集、放送用のビデオテープの大阪への運搬。この少人数で番組制作が続けられていた。民放ローカル局の東京制作では当時は普通のことだった。テレビ収録には、現在のプレスセンタービルのある内幸町の日比谷スタジオと北の丸公園の科学技術館スタジオを借用していた。

72年「大きな変革の年」に

「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」。これは2003年に評論家の坪内祐三が書いた『一九七二』のサブタイトルである。72年が時代の曲がり角であったことを具体的な出来事を示しながら説明した本である。2月にあさま山荘事件、5月に沖縄が返還され、7月に田中内閣が発足し、9月には日中国交が回復した。社会的には、公害問題、日活ロマンポルノ事件、ウーマンリブの運動などがあり、政治、経済、社会、文化などあらゆる分野で大きな変化が見られた年だった。

こうした時代の変化に対応して、毎日放送は72年4月からタイトルを「対話」から「ドキュメントーク」と変えて、新たに番組をスタートさせた。

毎日放送の制作スタッフは、以前と、ほぼ同じ顔ぶれだったが、新たに外部スタッフを導入した。構成およびキャスターとして、矢崎泰久、ばばこういち、永沢まことが加わったのである。矢崎泰久は「話の特集」編集長、ばばこういちはアナウンサーからジャーナリスト、永沢まことは東映動画出身、イラストレーターである。

予定調和の討論変える

私たちが目指していたのは、タブーへの挑戦。予定調和のこれまでのテレビ討論番組のスタイルを変えることだった。

4月7日の第1回の番組は「チャンネル切るな―テレビ俗悪論争」。ワースト番組と言われる各局の番組プロデューサーたちに参加してもらい、主婦、子ども代表、それに東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクターだった田原総一朗も交えての論争だった。2回目は「言論の自由を守るのは誰か」で、松野頼三、上田哲といった政治家と、水俣で取材を続けていた米写真家のユージン・スミスという顔ぶれだった。

順調なスタートを切った番組は、早くも4月末に予定していた4回目の番組が収録直前に中止とされた。三島由紀夫を支持する学生団体「全国学協」の学生たちと、演出家の武智鉄二の討論が企画されていたのであるが、それが中止に追い込まれたのである。題して、「われわれにとっての天皇」。タブーだった天皇制について、武智鉄二は独自の民族主義論をもって、「全国学協」の学生たちの新右翼を批判し、激論が予想されたこの企画に対して、東京でこの番組を放送していた東京12チャンネルから抗議があったのだ。その抗議を受けて、毎日放送の上層部が中止の判断をしたのだった。

私の手元には、当時の永沢まことの構成案が残っているが、もし制作していたならスリリングなものになっただろうと今でも考えている。

「ドキュメントーク」で、最初にマスコミで大きな反響を呼んだのは、5月末に放送された「青春論ブーム 加藤諦三を斬る」だった。若者の生き方を論じてこの時代の寵児だった社会学者の加藤諦三、評論家の小中陽太郎、映画監督の大島渚に加えて、東大全共闘のメンバーだった演出家の芥正彦が出演。加藤の青春論はまやかしだと批判する芥のペースで討論が進み、加藤が番組の途中で討論を拒否する事態となったのだ。

放送直後に毎日放送だけでなく毎日新聞社にも抗議の電話が殺到した。批判の多くは「いくら自由討論でもルールがあるはず。これでは討論会にならない」というものだった。この番組を扱った新聞のコラムでもこの論調が多かった。

評論家ではなく当事者を

「ドキュメントーク」は、全部で39回、金曜日の夜11時に放送されたが、その反響はこの時間帯には考えられないような視聴率が示している。

この番組企画で特筆すべきことは、扱うテーマだった。これまでのテレビ報道番組では取り上げられることが少なかった女性に関わる様々な問題、見捨てられている差別、弱者の問題を積極的に取り上げたことだった。いわゆる評論家目線でなく、当事者による本音の討論を重視した。結果、番組タイトルにも当事者からのメッセージが込められたものとなっていった。自主規制、批判を恐れて、自由な番組作りが難しい現在のテレビ業界ではこのような番組制作は不可能だと思う。

最高の視聴率は、9月22日に放送した「正しい性知識ってなに? ウーマンリブVSセックスドクター」で、大阪で7%、東京でも2・5%を超えた。医学博士の奈良林祥とウーマンリブ運動家の田中美津、米津知子が出演したものである。

装道学院長の酒井美意子と浦和市議会議員の小沢遼子の「日和見主義こそ女の道」、ゲイを標榜してついには選挙にまで打って出た活動家の東郷健VS運動部学生の討論、「くたばれ! スポーツマン」、作家の堤玲子と評論家の平岡正明の「隠すから見たくなる」、中ピ連(72年に結成されたウーマンリブ運動のひとつ。中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合の略)代表の榎美沙子と一般主婦の「若い母親は堕落している」などは、大阪で視聴率が5%を超えていた。

公害問題を扱った「証言、今わたしは─水俣病患者浜元二徳」、ベ平連(70年代に結成された反戦運動「ベトナムに平和を! 市民連合」の略)の若者と映画監督の鈴木清順が討論した「ベ平連VS鈴木清順暴力論争」、身障者の問題をいち早く取り上げた「一部が違うだけで何故 身障者による討論」、高校生に討論をさせた「自衛隊が来た! 沖縄高校生による討論」、そして在日の問題を取り扱った「我々は切り捨てられない 在日台湾人による討論」。時代の空気を伝える企画が続いていた。

沖縄独立論に地元局抗議

「自衛隊が来た」は、「沖縄復帰」を沖縄の高校生がどう受け止めているのかを問う企画だった。復帰前から人的交流のあった沖縄の地元局のスタジオを借りて、60人近い高校生が自主的に討論を繰り広げた。復帰に賛成という意見からスタートしたが、議論が深まるにつれて、沖縄はこのままで良いのかとか、さらには独立も考えた方が良いのではといった議論、沖縄の次代を担う若者たちの揺れる気持ちが表現されたのである。

沖縄での放送予定はなかったが、収録後に地元局から抗議の声が上がった。独立論は復帰直後の沖縄ではタブー視されていたのだ。最終的にはこの番組の制作には地元局は一切関わりがないということで決着をみた。

ドキュメントークという新しい「カタチ」のテレビ討論番組への模索は、先に述べた12月冒頭の選挙に関わる番組への批判を受けて、9カ月という短期間で打ち切りとなった。

評論家の中島誠と中国文学者の竹内実の「日中国交回復の中で忘れたもの」が12月末の最終回だった。

すずき・かつとし▼1944年生まれ 68年毎日放送入社 69年から東京勤務 官邸 平河 野党 司法クラブなどを経て 東京支社の報道部長 報道局次長 解説委員などを務めた 現在 放送人政治懇話会事務局長

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