日本記者クラブ

取材ノート

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「怪物」江川、球宴降板の真相/「引退まで」の約束守る(宮内 正英)2023年7月

1984(昭和59)年の2月、宮崎は沸いていた。球団創設50年を迎えた巨人軍は、前年までの3年間、助監督を務めた王貞治さんが監督に就任。戦力的にも現役大リーガーのウォーレン・クロマティを獲得するなど話題には事欠かなかった。

藤田前監督と鍋を囲んで

詰めかけた報道陣の中に前監督の藤田元司さんの姿があった。監督1年目の81年にV9以来8年ぶりの日本一を奪回し、83年にもリーグ優勝を果たして勇退。NHKの解説者として取材に訪れていた。

「おい宮内君、江南荘においでよ。鍋をごちそうするから」

藤田さんに声をかけられた。

江南荘とは宮崎市大淀川沿いにある旅館で、巨人V9時代の宿舎だった。藤田さんは往時を懐かしみ、宮崎の取材拠点にしていた。

訪れると監督とNHKの記者、アナウンサーが席に着いていた。私も加わり、話題は広岡達朗監督率いる西武ライオンズに敗れた前年の日本シリーズからV9時代へ。よもやま話は尽きず宴もたけなわのころ、藤田さんがこちらを向いて言った。

「宮内君ね、君はいつも好き勝手に与太記事(本当にこう言った!)を書いているんだから、たまにはジャイアンツのために外から見て『こうしたらどうだ』という提案をしてくれないか。中身によっては私からオーナーに伝えるから」

ちょっと驚いたが、間髪入れずこうに切り返した。

「提言なんておこがましいことはありません。ただ、どうしてもおうかがいしたかったことがひとつあります。よろしいですか」

「ほう、なんだい?」

ひと呼吸置いて、言葉を続けた。

「2年前、監督が指揮を執った昭和57年のオールスターです。第1戦に先発した江川は球が走らず初回で降板しましたよね。あれって…」

藤田さんは首を振った。「あれかぁ…わからない。わからないんだよ。今でも…」

球宴初回、18球で3失点

82年、藤田監督率いる巨人は開幕から首位を快走した。原動力は「怪物」と呼ばれたエースの江川卓だった。前年は20勝6敗で投手五冠(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封)を達成。この年も前半戦を終えて13勝7敗と好調を維持してオールスターを迎えた。

7月24日の第1戦、舞台は後楽園球場。巨人の本拠地であることから藤田監督は21日の広島戦で完投勝利をあげた江川を中2日で先発させた。

並みいるパ・リーグの強打者を相手に奪三振ショーが期待されたが、結果は18球で3失点。奪三振はなく最高球速は136キロにとどまり、初回で降板した。このためパの打者からは「真剣にやっていなかったのでは?」との声が上がった。藤田監督は試合後「3回まで投げさせるつもりだったが…」と首をひねり、当の江川は苦笑しながら「すいません」と繰り返すばかり。オールスター後は6勝5敗、通算19勝12敗でシーズンを終えた。

《この年、巨人は中日と激しい優勝争いを繰り広げたが、首位で臨んだ最終戦(対大洋)に江川―西本の両エースをつぎ込むも敗れ、中日に逆転優勝を許した》

ポツリ「CM撮影で肩を」

シーズンを終えたある日、江川と私は都内ホテルのラウンジで向かい合っていた。話がオールスターに及ぶと彼はポツリと言った。

「実はオールスター直前のコマーシャル撮りで肩を痛めたんだよ」

〝空白の一日〟で入団した江川にはこの時もまだダーティーイメージがつきまとっていた。このため球団はイメージアップのためもありCM出演を算段、大手企業2社との契約が決まった。その撮影中に肩を痛めたという。

「監督は知っているの?」

「いや…とにかくこの話は、僕が引退するまで書かないでほしい」

この話が漏れれば、チーム内は大混乱に陥っていたことだろう。

「私が知る限りのことをお話しします。ただし、ここだけの話にしてください」と前置きして、江川から聞いた話を伝えた。

にこやかだった藤田さんの表情が一変した。「なぜ、すぐオレに言わなかった! 知っていればあとの使い方が全然違っていたじゃないか!」

鬼の形相。拳が激しくテーブルを叩いた。

「でも監督に言ったら、球団に怒鳴り込んでいたでしょう?」

「当然だろ。俺の知らないところでコマーシャル撮りをして、肩を痛めたのだから」

自らも肩の酷使で短命に終わった藤田さんだ。球団とは当然、揉めに揉めただろう。しかしそれは江川が望む事態ではない。約束事でもあることから私は胸に秘め、藤田さんにも告げなかった。

しばしの沈黙。重苦しい雰囲気となったが、やがて藤田さんが口を開いた。

「そうか…わかった。これでオレの大きな疑問がひとつ消えたよ」

この日を境に私と藤田さんはそれまで以上に率直に、ざっくばらんに話すようになった。「もう監督と記者の関係に戻ることはない」という思いがあった。藤田さんも同じだったと思う。

「実は…」と前置きしてネタ元を明かしたことも何度かあった。藤田さんも「今だから言うけど」とチームの知られざる内情を教えてくれた。ところが88年秋。思ってもみなかったことが現実になる。藤田さんの監督復帰が決まった。

「しまった!」

ホテルでの就任会見を終えて帰路につく藤田さんの助手席に滑り込んだ。「僕はいろいろ知りすぎちゃいましたかね」と頭をかくと、藤田さんも「まさかこうなるとは思わなかった。君には余計なことを言ったな。忘れてくれ」と苦笑いしていた。

引退報じられ、記事に

87年秋、江川の引退が報じられ、私はCMの一件を記事にした。引退会見でこのことを踏まえた質問が出たが、本人は「それを含めいろいろなことが蓄積しての結果です」と答えるにとどめいていた。

全盛時のオープン戦で、試合中にブルペンからミットの音が聞こえてきた。のぞいてみると江川が捕手を座らせて投げていた。

「お、宮ちゃん、宮ちゃん! こっち来てよ。ちょっとバッターボックスに立ってくれる?」

「お? おう」

それが甘かった。振りかぶったと思うと、次の瞬間には何かが目の前を通り過ぎ、ズドンという大きな音がした。「球が浮きあがってくる」と形容された豪速球。素人相手のお遊びでも身の危険を感じた。

この豪速球が輝きを失いはじめ、のちに100球肩、手抜き投球といった批判を浴びることになる。そうした中、江川はさまざまな治療にトライしながら投げ続けた。その先に彼が描いていたのは、88年の東京ドーム開場。日本初のドーム式球場のこけら落としで先発のマウンドに立ち、記念すべき第一球を投じる自らの姿だった。

しかし、その舞台に立つことはなかった。新球場完成を目前にした87年オフ。後楽園球場の終焉とともに「昭和の怪物」は9年間のプロ野球生活を終えた。

あれから40年。あのアクシデントがなかったら…。江川卓は、巨人軍は、そしてプロ野球界は、どんな軌跡を描いたのだろうか。ふと思うことがある。

みやうち・まさひで▼東京スポーツ新聞社を経て 1988年 スポーツニッポン新聞社入社 東京本社運動部長 編集局長 取締役東京代表 常務取締役編集担当などを歴任 記者時代は巨人軍を中心に一貫してプロ野球を取材 原辰徳結婚(86年) イチロー結婚(99年)などをスクープ 現在 同東京本社特別編集委員

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